第一章_2
東西に二十丈、南北に十五丈の広さを持ち、
ひとりで、とはいうものの、人間はひとり、という意味であって、人外の者は数えていない。
実は、好き勝手に邸に入り込む雑鬼たちが、なぜか大いばりでそこかしこにいるのだ。
晴明が追い
特に害はないので、
うつ
その様子に気づいた岦斎が声をかける。
「六合、どうした?」
十二神将は岦斎を
「何か、
「なに?」
岦斎が少年に
一方の晴明は、まだ
険しい顔の晴明の様子からそれを読んだのか、
目をすがめて玄武を見下ろした晴明は、ちらちらと
先ほど六合が言っていた牛車だ。橙色の光は、牛車につき従う牛飼い
「六合、急いで……」
ふいに、晴明は息を
ひょう。ひょう。ひょう。
物悲しげな、耳に突き刺さるように
しばらく耳を
「……
晴明の言葉に、玄武が瞬きをした。
「ぬえ?」
耳を
「
「だろうな」
牛車が
六合が少年を抱え上げる。その際に、子供の投げ出されていたのとは別の手が、細長い布の包みをしっかりと抱えているのを、晴明は横目に見た。
ひょう、ひょう、ひょう、ひょう。
「晴明、これはなんなのだ?」
姿の見えない何かの声に、玄武が首を傾ける。
晴明はひとつ瞬きをした。
「知らないのか」
玄武は表情を動かさずに応じた。
「知らん。我らは異界で生まれた。あの世界にいないものは
「そういうものか」
「そういうものだ。しかし、我らは人間であるお前の使役となった。ならば、人界のことも知っていかねばならない」
晴明は、胸の中で呟いた。
知らないのか、神の末席に連なっているくせに。
すると、何かを感じたのか、玄武は晴明を見上げて
「言っておくが、神とは決して
「それくらい知っている」
不機嫌そうに言い返し、晴明は
「あれは鳥だ。
その言葉に、玄武は
「さっき鵺と言っていたではないか」
ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。
物悲しい鳴き声に、牛車のたてるがらがらという輪の音が重なっていく。
輪の音の大きさで牛車との
「夜に鳴く鳥だから、鵺ともいう」
「なぜ虎鶫を鵺と呼ぶのだ?」
ただの鳥なのだろうと、
「この物悲しい鋭い
我ながら実に親切だなと、晴明は
「なるほど」
得心のいった
晴明はやれやれと、言いたげな顔で息をつく。
その間にも、鵺の声と牛車の音がまざり合って、不気味に響く。
虎鶫を鵺という。しかし、鵺と呼ばれるものは実はほかにもいる。晴明はそれを見たことがないので、実在しているかは知らない。
それに、もし実在していたとしても、晴明が
もうひとつの鵺とは、
言葉は
「鵺は森や山にいるものなんだがな……」
呟きながら何気なく向けた視線の先で、六合の抱えた少年の
包みの中から、黒く細長いものが
重い金属の落下音が響いた。
六合の
晴明は岦斎の視線を追う。
よく目を
細い棒のようなものは、一度
同時に、ごく近くに迫ってきた牛車を引く牛の歩みが、ぴたりと止まった。
どうした、進めと、
松明の光に照らされて、
ひょう、ひょう、ひょう、ひょう、ひょう。
鵺が、鳴いている。
「─────」
晴明は、胸を冷たいものが駆けおりるのを感じた。ざっと
玄武が一歩前に出た。先ほどまでとは打って変わった
重く鋭い鳴き声が響くたびに、
肌をぴりぴりと
ばけものや妖の放つ、
止まったまま動かない牛が、がたがたと
晴明は彼らのところに移動しようとして、ふと思い出した。
「おい、どうしたのだ……」
動かない牛車の中から、怯えた声がした。
からんと音を立てて転がった松明の炎が、
同時に、ざわっと空気の震える音がして、数えきれない何かが蠢く気配がはっきりと伝わってきた。
晴明は懐から霊符を引き
「
彼らの頭上にごく小さな炎が
「な…っ!?」
うめいたのは岦斎だった。いつの間にか、彼らを取り囲むように、数えきれない
「ひいっ!」
牛飼い
牛飼い童につづいて、
蛇の群れは、
六合の全身から神気が立ち昇った。
「六合」
表情のない六合の眉がぴくりと動いた。青年の姿をした神将の目が、霊符を掲げた主に向けられる。
「それらを連れて中へ」
晴明が示すのは、六合の後ろにいる岦斎と、彼が
「俺か!?」
思わず声を上げた岦斎は、身を翻した六合にむんずと
「うぉっ!」
大人と子供ひとりずつを軽々と担ぎ上げた六合は、体重を感じさせない動作で
「晴明、どうするのだ」
晴明は
目印のように炎が上がっていると、気づいた者たちが何事かと集まってきて野次馬が増える。
暗視の術は、昼日中のように夜を見通せるものだ。
おびただしい妖気を放っているこの蛇の群れは、まるで何かに
牛車が蛇に囲まれている。牛飼い童や牛が座り込んだまま
「玄武、あの牛車を守る結界を」
「救うのか」
「見て見ぬ振りができると思うのか」
「確かに」
しかつめらしい顔で応じ、玄武はとんと地を
牛車の屋形に
玄武の体から
「
輪や車体に這い上がった蛇が、
その間に晴明は、少年の手から落ちた細長い棒を拾い上げる。
それは、黒々と
「なぜこんなものを……」
音を立てて転がる大刀に、蛇が押し寄せてくる。
晴明は険しい目で大刀を
蛇の放つ妖気は、この大刀から生じる波動と
そして、蛇はこの大刀に向かってきているように見える。
晴明は蛇と大刀の間に立つと、横一文字を描いた。
「禁!」
持っていた霊符を柄に巻き、
あまり長時間は持ちたくないと晴明は思った。
晴明は、明らかに敵意をはらんだ何百対もの蛇の
「
霊力の
牛車の屋形に立った玄武が片手をあげた。神気の渦が
十二いる神将たちの特性は様々だ。
水将玄武は戦う力を持っていない。その代わり、彼は
息をついた晴明は、気がついて瞬きをした。
いやに気にかかって、口を開きかけたとき、
「おおい、晴明」
顔を出したのは岦斎だった。
晴明はつっけんどんに応じる。
「なんだ」
「あの子供、うなされているんだが……」
「だからどうした」
「あいている部屋に
「……岦斎」
「うん」
晴明はしばらく岦斎を
「それは、事後
岦斎はひとつ瞬きをして、あはははははと
牛車から飛び降りた玄武が
「岦斎。この場合、あいている部屋に寝かせたが構わないかと
すると玄武は、ここはお前の
門をくぐろうとして、晴明は足を止めた。
「……しまった」
前を進んでいた玄武が振り返る。
「どうしたのだ、晴明」
晴明は無言で額に手を当てた。
あの子供、助けるつもりはなかったのに、なし
それに、この大刀だ。
手にした得物を睨む晴明の
異様な
霊符越しに
晴明は
「……」
ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。
消えたはずの鵺の声が、かすかに聞こえた気がする。
足を止めた晴明に気づかず、岦斎と玄武は進んでいく。
「とりあえず、お前が
右手の人差し指を立て、流れるように言葉を並べる岦斎に、玄武が半眼になる。
「それらを勝手に持ち出して使ったということか。岦斎よ、ここはお前の邸ではないぞ」
「ええっ、俺たちの仲じゃないか。そんな冷たいことを言うなよ」
「どんな仲だ。誤解を招くような言い方は
「なんだと! 晴明の親友であるこの俺に、なんて冷たいっ」
子供の形をした十二神将は、
「晴明よ、ここまで好き勝手に言わせるのはいかがなものかと……晴明?」
玄武は
半分開いた門を背に、晴明が立っている。大刀を見ている青年の顔色が、青を通り
気づいた岦斎が目を
「晴明!?」
晴明の手から大刀が
「晴明!」
ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。
主に
◇ ◇ ◇
ないている。
安倍家はそれほど高くない身分にもかかわらず、邸の
庭には池もあり、ひつじ草が
ふと、気がついた。
ああ、いつもうるさいほど鳴いている
不思議に思って辺りを見回した。すると、向かいの
月も星もない夜なのに、その姿ははっきりと見えた。
父は、
しばらく見つめていると、森の奥からあの鳴き声が響いてきた。
ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。
父が視線をめぐらせ、少し
「どうした、童子」
父は簀子を下りて庭伝いにやってくると、
「
「いえ…」
首を振る。と、またあの声がした。
森の奥から、何かを訴えるような悲しい声。
声のするほうに目をやった父は、得心のいった顔をした。
「ああ、あれは鵺だ」
「ぬえ?」
「
確かに、
父は、ひょうひょうという声に耳を
「あれはひとを招いて食い殺すばけものの声だと、言う者もある。なるほど、声だけを聞けば、そのように感じることもあるだろう」
ひょう、ひょう、と。物悲しい声が
「本来は山や森にいる鳥だから、都でこれを聞くのは
父は、ふっと息を
「
「どうしてですか」
確かに異様にも思える声だが、正体がただの鳥ならば、
すると父は、様々な感情がない交ぜになった顔で、少しだけ笑った。
「鵺の鳴く夜は、大切なものが消えるからだよ、童子…」
鳴いている。
ふいに、彼の耳に、その声に別の響きが重なって聴こえた。
──そうだよ。消えたのはお前の母だ。お前を、お前たちを、残して消えた……
「父上…」
「ん?」
思わず口を開いたが、その先がどうしても出てこなかった。
「もう
やんわりと
ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。
鳴いている。鵺が、鳴いている。
ああ。ああ。ああ。ああ。
泣いている。子供が、泣いている。
これは、
──どうしてあのとき、
訊くことができていたら、こんなに悲しい思いをせずにすんだのに。
訊くことができていたら、こんなに
訊かなかったから、訊けなかったから。
あんなことが起こってしまった。
ああ、鵺が鳴いている。
鵺が追ってくる。
鵺が、鵺が、鵺が。
──こんなことに、なるなんて……
うめく声が、物悲しい声に重なって、いつまでもいつまでも響いている───。
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