【無料試し読み】結城光流『いまひとたびと、なく鵺に 陰陽師・安倍晴明』

KADOKAWA文芸

第一章_1



 ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。





 ないている。

 あれは。





 あれは、ぬえの声。





 いまひとたびと、なく、鵺の。






    一





 おそろしい。





 おそろしい。





 鵺の鳴く夜はおそろしい。





 おそろしい。鵺の鳴く、夜は。





  ◇ ◇ ◇





 ひょう。ひょう。

「……っ…、……っ!」

 なまりのように重い足がもつれる。

 でも、げなければ。走らなければ。

 ひょう。ひょう。ひょう。

 追ってくる。おそろしいばけものが。

 鵺が、追ってくる。

 どこかさびしげに、夜をくような鵺の鳴き声が、追ってくる。

 ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。

「……っ!」

 少年は、たまらなくなって両手で耳をふさいだ。

 さけび出したい。だが、どう叫んでいいのかわからない。どうしたらいいのかわからない。

 だから逃げるのだ。

 ──都に、すさまじい力を持ったおんみようがいる

 のうをよぎる声は、低くおだやかで、とてもやさしいこわ

 ──ほかのどんな者よりも、その力は強いそうだ

 ひょう。ひょう。ひょう。

 鵺の鳴き声が、恐ろしいあの声が、ごく近くにせまってくる。

 ──しようの血を引く、半人はんようの陰陽師。その名は確か……

 足がからまって転げ、落ち葉とどろにまみれながら、少年はうめいた。

「……べのせいめい…!」







 ああ、鵺が。鵺が、鳴いている───。





  ◆ ◆ ◆





 門前に、ぼろぼろの少年がひとり、たおれていた。

「─────」

 晴明は内心でつぶやいた。今日は、やくか。

「………」

 できることなら見なかったことにしたい。目をはなしたすきに、消えてくれないだろうか。

「おお? これは、行きだおれか!?」

 血相を変えたのは、大した用もないはずなのについてきた、おんみようりようどうりようであるえのきのりゆうさいだった。

「私が知るか」

 冷たく返し、晴明は目をすがめた。

 安倍晴明は本日、神経をさかですることに、立てつづけにわれている。

 はじまりは未明。とある貴族のらいれいを作成しようとしていたところ、庭に入り込んだあやかしが少々暴れてじやをした。

 あれを片づけろと命じた式神は、なぜ俺がとまゆり上げてはんこうし、あるじの命がきけないのかとすごんで見せたら舌打ちを残して消えてしまった。

 この時点で、相当げんが悪くなったのだが、妖をほうっておくとやつかいなので仕方なく自分で調ちようぶくした。

 妖のせいで時間が無くなり、急いで霊符を書いてだいだいに出仕したらしたで、ほかの者にたのんだからもう必要なくなったと、かの貴族にへらへらと笑われ、退出の時刻までずっと、ぶつけられないいきどおりといらちを持て余した。

 退出時には、につこうとしている自分をざとく見つけた殿てんじようびとに、池のほとりでげこげこ鳴いているあのかえるを術でつぶしてみせてくれと興味本位で持ちかけられ、頭に来たのでその殿上人の顔めがけて蛙をき飛ばした。

 そして、ぎゃっと叫んでそつとうした殿上人を打ち捨てて大内裏をあとにしたのだが、明日になったらあることないことうわさになっているにちがいない。いまから頭が痛くなりそうだ。

 極めつきは。

「どうする、晴明。あれを助けていいと思うか? いやしかし、あれの正体が実はばけものか何かでお前の命をねらって小しばをしているという可能性もあるな」

 何しろ、陰陽師安倍晴明は、ばけものたちにとっては大変きような存在なのだ。

 岦斎はぐぐっと右手をにぎめ、けんにしわを寄せた。

やつらはひと様の良心につけこむんだ。け寄ってかいほうしようとしたたんほんしようを現す。まったく、ざかしいったら」

「……で、まんまとその手に引っかかって、その後お前はどうしたんだ」

 ろんげなまなしを向ける晴明に、岦斎は勢いよくり返った。

「そうなんだよ晴明! ひどいと思わないか晴明! これは大変だと親切に助けようとした俺に、いきなりきばいて飛びかかってきたんだぞ!?」

 かんいつぱつで飛びのいて、首をみ千切られずにすんだものの、せいになってずたずたにされてしまった、と岦斎はくやしがる。

「烏帽子がなければ出仕もできん。かくして俺は、しように泣きついて新しい烏帽子をもらうまで、したくもないものいみで家にずっともらなきゃならなくなったんだ!」

 ちなみに、岦斎のいう師匠とは、おんみようどうを志す者ならば知らぬ者のない陰陽師、ものただゆきのことだ。忠行は晴明にとっても師にあたる。

「おかげで数日ぶりに出仕したら、寮の連中の目が冷たいこと冷たいこと。陰陽師でありながらあやかしおくれを取るなど未熟者めと、奴らの目が俺を見下すんだぞ! 俺だってなぁ、あんなところではぐれ妖におそわれるなんて知ってたら、ちゃんと構えて返りちにしてやったわ! お前たちだって一度襲われてみろ、そうすれば俺の気持ちがわかるはず!」

 何やら生き生きと口上を述べる岦斎を、晴明は半眼でながめやる。

「……岦斎。お前、よくそこまで口が回るな…」

「何度も何度も何度も何度も心の中で叫んでたからな」

 得意げに胸を張り、岦斎はまばたきをした。

「それより晴明、あれ、どうする」

 あれ、とは、倒れている少年のことだ。

 晴明はいまいましそうに舌打ちした。

「…ちっ、まだいたか」

「そりゃいるだろう、倒れてるんだから」

「消えろ消えろと念じていたんだが、足りなかったらしい」

 倒れた少年と晴明をこうに見た岦斎は、思った。

 あ、こいつ本気で言っている。

 しかし、無理もない。安倍晴明という男は、ひととのかかわりをきらっているからだ。

 もっとも、晴明が、ひととのかかわりを嫌っているのか。ひとが、晴明とのかかわりを嫌っているのか。それは明言をけたい岦斎だ。そこをはっきりとさせてもあまり意味がない。

 安倍晴明は陰陽師だ。陰陽師とは、ひとにたよりとされ、ひとを救うことが多い。しかし、まったく逆の面もある。

 陰陽師はひとをのろい、ひとをおとしいれ、ほろぼすこともできる。

 陰陽師の行動を決めるのは、正義と悪ではない。

 この世のことわりに反しているかいなかだ。

 そして岦斎は、行き倒れているらしい子供を救うのは、晴明にとってどちらになるのだろうと考えた。

 ひとを救うことは、生易しい気持ちでできるものではない。

 おんみようはときに、必要とあらば自らの手でとどめをかくを持たなければ、ひとを救うことをしない。

 その代わり、かかわると決めたら、どこまでも責任を持つ覚悟をする。

 万が一その者が人々に害をなし、のちの世にこんを残すと思われたら、そうなる前にとどめを刺してわざわいの芽をむのだ。

 そのいはときに、情をもってあわれむことしかしない者たちには、非情、非道に映るだろう。

 門前に倒れた少年を、ふたりの青年はだまって見つめた。

「……いっそその辺のざつどもに適当なところに運ばせるか」

 思案顔で口に指を当てた晴明が、半ば本気で呟いたとき、投げ出されていた少年の指先がかすかに動いた。

「……せ…め………た……け……」

 ごく小さなうめきは、晴明と岦斎の耳に届いた。

 晴明は、けんのんに目を細めてのどの奥で低くうなった。

 意識のない様子の子供は、いま確かに助けをうていた。

 安倍晴明に。

「……どうする、晴明」

 念のため確かめる岦斎を横目でにらみ、晴明はこの上もなくげんな顔になる。

 そんな彼らのかたわらに、ひとつの神気が降り立った。

「お前たち、何をっ立っているのだ」

 ひびいたのは、重々しい響きを持ったかんだかい子供の声だった。

 彼らの傍らに出現したのは、身のたけおよそ四尺強の、十に満たない程度のわらべだ。しつこくの短いかみと同じ色をしたそうぼうが、彼らをまっすぐ見上げてくる。

「あれはただの非力な人間だ。よう欠片かけらも感じられん。陰陽師ともあろうものが、そんなこともわからないとはなんという為体ていたらくだ。一刻も早く介抱すべきだと我は考える」

 明らかに非難する語調の子供に、晴明は険しい顔つきでうでみをした。

「十二神将げん。お前の主はだれだ」

「もちろんお前だ、安倍晴明」

 十二神将とは、陰陽師安倍晴明が従えている式だ。

 式とは陰陽師が使えきするものだ。たいがいは動物や植物、紙や木で作ったものが式となるのだが、ごくまれに神を式とすることがある。

 式として使役される神は、式神と呼ばれる。

 十二神将は、陰陽師がちよくせんに使うりくじんちよくばんにその名を刻まれた存在で、神の末席に連なる者たちだ。それを安倍晴明は、式神としている。

 主の冷たい視線を受けた玄武は、たんたんと答えてこしに両手を当てた。

「だが、あるじであろうとなかろうと、助けを乞うている子供を打ち捨てるのは感心せん。せめて話を聞くくらいはしてやってもいいのではないか」

 晴明のもとに険しさが増す。対する玄武も一歩も引かない。

 ふたりの間にはさまれる形となった岦斎が、仕方なくちゆうさいに入った。

「まあまあ。晴明も玄武も、ここはひとつおん便びんに」

「黙っていろ岦斎」

「お前の出る幕ではないぞ、口を出すな」

 そうほうから同時に責められて、岦斎は天をあおいだ。

 どうして俺がここで責められるんだろう。神よ、何かものすごくじんなんですけど。

 じゆうめんになった岦斎の背後に、別の神気が降り立った。

 かたしに振り返った岦斎は、自分よりはるかに長身の男を見上げた。

りくごう

 十二神将六合である。

 晴明や岦斎より頭ひとつ長身のもくな男は、短くこう言った。

「じきにここをぎつしやがとおる」

 晴明のけんに新たなしわが刻まれた。

 どこかの貴族が夜歩きに出ているのか。やしきの前を通れば、たおれた子供をもくげきされる。

 そうなったら、あらぬうわさがまたもや広がるだろう。むしろ、積極的に広げられるにちがいない。

 晴明は、いらいらしながら噂を聞き流す数日と、行きだおれている少年をとりあえずていないに運び込むのと、どちらがましかを考えた。

「───六合、あれを中へ運んでくれ」

 にがむしを嚙みつぶしてじっくり味わったような顔で命じる晴明に、六合はもくぜんと従った。



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