15cmの不可侵領域

相桐 朱夏

第1話

『星空が見える日に、それも日付が変わる瞬間に、空に大きな声で願いを唱えると神様が叶えてくれる』

 休み時間か放課後にクラスの女子がそんな話をしていた。よくありそうなうわさ話。ごく普通で平和な日々にそんなフィクションなんて起きない。たった十六年しか生きてないけど、それぐらいわかる。小さい頃の夢も大きくなれば現実を嫌でも知っていく。まるで宝石みたいに輝いていた日々は、大人に近づくたび色褪せていく。もし、その宝石が見えていても周りから修正という名の否定を受ける。悲しいけど、僕もやがてそんな大人になっていく。

 しかし、そんなことを言っても、今の僕はまだ子供らしい。なぜなら、唐突にうわさ話を思い出し、それを実行しようと謎の行動力を発揮して、夜中に家を飛び出したのだから。


 涼しい空気が肌を撫でる。星が広がる真っ暗な天井の下で携帯電話を何度も確認する。あと三分。

「はあ、ほんと何しているんだろ……」

 たまたま見つけたこの場所で、あの信憑性のカケラもないうわさ話を今ここで試そうとしている。今更になって恥ずかしくなってくる。やってしまえば、取り返しのつかない、黒歴史になってしまう。

 周りを見渡す。暗くて遠くまでは見えないが、たぶん人はいない。残り二分で、今日が終わる。

「普通に話しかけられたらな……」

 これからお願いすることはわざわざこんなことをしなくても実現可能なこと。けど、誰もがそうできるものではない。少なくとも僕は、正確には僕が抱いた感情のせいで出来なくなっている。決心が揺らいでいると、既に一分を切っていた。

「それができないからこんなうわさ話でもすがりたくなるんだよな」

 鼓動が速くなり、呼吸が乱れてきた。深呼吸して気分を落ち着かせ、もう一度願い事を確認する。もうここまで来たならやるしかない。

「すーはー、すーはー……よしっ」

 十二時ぴったりにタイマーが鳴るのと同時に。

「氷堂と仲良くなれるきっかけをください!」

 応援団(未経験)のように大声で叫んだ。この想いがどっかの神様へ届きますように。願い事がくだらない? そんなのどうでもいい。自分が叶えたいことなら何でもいいじゃないか。

 僕はとても恥ずかしいことをしたけど、後悔はない。叶えばいいなというぐらいの希望であり、そしてこれは自分に対する宣言なのだから。



「ああ、最悪。誰にも見られていないよな」

 昨日もとい今日の出来事をひどく後悔していた。あれが深夜テンションなのだろうか。

 星空の下でした宣言のあと、すぐに帰って寝床に就いた。就寝時間は遅かったが、いつもより早く起きたので三十分早く家を出た。登校している間に脳内反省会を開催していた。

「確かに仲良くなれたら、いいなとは思うけど」

 あんな方法を使わないと話しかけることさえできない自分が情けなくなる。けど、そう思っているのはクラスのいや、もしかたら学校全員がそう思っているかも知れない。なんせ彼女は普通ではない。いうなれば高嶺の花。誰でもたやすく近づける存在じゃない。

「別に好きなわけではないけど、ただあんなの見たらな……」

 彼女のことを考えると、あの日の放課後を思い出す。あの時、氷堂は何を思っていたのだろうか。不意にそれを知りたいと思ってしまった。

「つまり、ただの好奇心ってわけで」

 そう自分に言い聞かせる。他の奴らのように容姿で惹かれたりしない。そういうのは内面が大事だと思う。

「だから、ただ気になっただけで」

 この思考を切り替えようとしても、結局繰り返してしまう。誰かと話をすれば気を反らせられるけど、あいにく一緒に通学するような仲はいない。近くに仲のいい奴がいないだけで決してぼっちではない。一緒に弁当を食う奴もいることにいる。ただ、他の奴と比べて友達が少ないだけで……

「やめよう。悲しくなってくる」

 この通学路を一人で通うのも慣れてきた。おかげでたまにこうして独り言を言っていることもあるけど、決して寂しいわけではない。ただ歩いて三十分かかる通学路を一人はあまりにも退屈だ。だから、この時間は何かしらについて考えるようになった。言ってもどれもつまらない事ばかりだし、人には恥ずかしくて話せるものはない。最近は氷堂のことばかりで。

「あ、結局戻った」

 少なくとも昨日の自分は気が狂っていたが、きっと本心なのだろう。罰ゲームでやったわけでなく、少なくとも自分の意思で実行したこと。もし、時間を戻せるならあの時の自分を殴り飛ばしてでも止めたいが。

「とにかく宣言したからには、やってみるか……」

 あんな恥ずかしいことをしたんだから、少しぐらい効力があってもいいと思う。そう自分に言い聞かせている。曲がり角を通りかかったときに、突然の衝撃。気づけば体は宙に浮き、地面に打ち付けられた。

「――っ」

 痛みより衝撃が強く、肺の中の空気が吐き出される。せめてその正体を確認しようと凝視する。驚くことに車だと思っていた。黒のローファー、白い靴下、膝の丈まであるスカート。学校指定の制服に長い黒髪。そしてその人物はさっきまで思考の核にいた人で。

「ごめ……さい……」

 彼女は頭をぺこりと下げ、学校へと走り出した。考えを整理したかったが、どうにも頭が働かない。

「声、綺麗だったな……」

 どうでもいいことを思いながら、意識は途切れていった。


「どうしたんだ、杉並。遅刻寸前にボロボロで」

「色々あったんだよ。それは置いといて、どうして藤崎は僕のは席に座っているんだよ」

 数十分後に目覚めて全身が痛みながらも急いで走ってきた。そのおかげでなんとか始業時間には間に合った。それで席に着こうとしたら、なぜか占領されていた。

「黒板が遠かったから、お前の席と交換した。それだけだが?」

 いかにも悪気がないように振る舞う藤崎要。少ない友達の一人だが、何を考えているかわからない奴で少し変わっている。

「なんでまた……それに急に変えたら先生に」

「安心しろ。それは既に連絡済みだ。それより、早く席に着け」

 言い返そうと思ったら、チャイムが鳴る。仕方なくもう片方の一番後ろの窓側の席に座る。ちなみに元の席は一番前の席だ。前の席がいいなんて自分にはいまいちわからない。まあ、おかげで後ろの席と交換できたからよかった。ふと隣を見たら

「そうだった……」

 真っ直ぐ黒板を見つめる横顔は氷堂だった。一瞬こちらに視線が動いた気がしたが、気にしすぎだろうか。こうやって遅刻寸前になりそうになったのも……あれ? つまり僕は氷堂に突き飛ばされたってことなるのか。いや、現実的に考えてもなんだか無理がある。果たして

 いまいちその実感を得られないまま、朝のホームルームが始まる。


「そうはいってもな……」

 一時間目の授業の内容より、どうやって氷堂に話しかけるかを考えていた。この高校で有名な彼女だが、素性は全くわからない。二年になって初めて同じクラスになったものの分かったことは文武両道で孤高の存在。誰かと仲良くしている姿は見たことない。

 簡単な話、会話をするための話題が見つからない。共通点なんてあるには思えないし、朝の出来事を話すのもいまいち気が進まない。藤崎の話を出すことも考えたが、二人が話している姿も見たことがない。

 先生の雑談で授業が進まない中、氷堂はノートにペンを走らせていた。わざわざ無駄話まで写す必要はない。少しの興味とそれが話すきっかけになるかもしれない甘い期待をしながら、ばれないように

「…………」

「あっ……」

 氷堂と目が合った。ほんの一瞬だけ。時間の進みがゆくっりになったかのように。彼女の瞳に吸い込まれそうで。全てが見透かされそうで。胸が苦しくなり、喉が渇いた。

 視線を外したのは、自分から反射的に不自然で怪しまれそうな視線の移動。前を向くならまだしも反対の窓を眺めた。外の景色ではなく、窓を。焦点が合わず、ろくに外なんて見れなかった。

 ぼんやりとした意識を戻したのは鐘の音。

「今日はここまで」

「起立、礼」

 立った時に氷堂のノートを閉じる際、少しだけその中身が視界に入った。この目に映った光景に息を飲む。さっき書いていたところに『杉並』と書いてあった。その後にも何か書いてあった気がしたけど、その二文字が印象に残りすぎて覚えてない。特に授業の中で使われたわけではない。つまり、自分のことだろうか。

「「「ありがとうございました」」」

 そしてクラスでは複数の声が混じり始めた。

「あのさ、氷堂――――」

 話しかけた途端、まるで氷河期が来たかのように冷たい空気に包まれる。原因は三つ。

まずは、氷堂の「なにかしら」と言わんばかりの視線。ここで変なこと言ったらと心の中で不安が渦巻く。

次に自分が何を言っているのかということ。おそらくノートの一件が気になって、つい好奇心が働いた結果だろう。自分がとんでもないことをしでかしているのに肝を冷やすが、話しかけることに成功したからこのまま行ければよかったのだが。

最後の問題、これが一番の要因。クラスが静かになったこと。男子からは殺意が込められた視線が、女子からは好奇の目を向けられている。どう転んでも変なうわさを立てられそうだし、後々面倒なことになりそうで怖い。

 とにかくノートに書かれていたことを聞くにしてもこの中で会話はできない。こんな状況で話せる勇気をあいにく持ち合わせていない。

「氷堂さん、その、なんでもない、です……」

 大人しく席に座るといつも通りのクラスに戻った。怖いな、集団心理。一個人が抗えるものじゃない。話しかけるのは次の機会を狙おう。クラスの中では少なくとも無理だと分かった。

 それから藤崎が近づいてくるのに気づき、廊下に連れ出す。

「杉並。お前、氷堂狙いだったのか?」

「ち、違う。ただ気になったことがあっただけで」

 あまりにも直球すぎる。藤崎の視線はスマートフォンに移る。

「すまんな、メールの返信をしないといけなくてな。けど、まさかお前もそういう気があるとは」

「だから違うって。話聞けよ」

「お前にその気があったのに気づかなかった俺が悪かった」

「何度言ったら……いやいや待て待て。なんだ、どういう意味――」

 聞こうとした途端にチャイムが鳴り始めた。まるで見計らったような間の悪さ。

「先生が来る前に早く入るぞ」

 そう言い残し教室へ入っていった。気になることが増えていくけど、とりあえず教室に戻った。



 全く一体将来どこでこんな公式や計算を使うのだろうか? そういう疑問を持たずにいられない数学の時間。いつもそう思っているせいで退屈な時間が過ぎていくが今日は違う。何せ隣の席に座る彼女について考える。解くべき問は三つ。

 一つ目は話しかける場所。教室など他の奴の目があると話せない。というか自分の身に何か起こりそうで怖い。そういうことで何処かで話せそうな場所が……今は飛ばそう。

 二つ目に話しかける内容。思いつくのはノートの件だけで、さっきから気になって仕方ない。ただ、率直に聞いても答えてくれるか分からない。できれば他の話題があればいいんだけど。

 三つ目は時間。あのまじないを信じるなら期限は今日までだ。今日のうちにチャンスを見つけないといけない。ただ、そのタイミングを見つけられないでいる。

 ふと隣を見る。一時間目と変わらず姿勢正しく真面目にノートを取っていると、彼女の腕が机の上の定規を押し出した。新たなきっかけが発生した。落とした定規を拾えば少しは近づけるかもしれない。とても安直な考えだが、千里の道も一歩からと言う。落ちた定規を拾って、

「氷堂、さん」

 ぎこちない後づけをしながら小声で呼びかける。いきなり声をかけたせいで一瞬驚いたように体が跳ねたように見えた。けど、氷堂に限ってこの程度で驚かないだろうから見間違いだろう。いつもの表情だけど、少しだけ瞳が大きく広がったように見えた。

「定規落としたよ」

「…………」

 ここでさりげなく渡してして終わるはずだった。

「…………」

 視線はこちらに向いてはいる。だが、それ以上の言動も変化もない。現場が凍りつくように動かなくなった。これはもしかして俺に拾われたのが嫌だったということなのだろうか。もしそうなら素直に泣きそうだが実際に泣くわけにもいかず、このままではいけないと定規を氷堂の机の上に乗せようとする。

「――――っ」

 氷堂に避けられた。まるで汚いものに少しでも近づきたくない、そんな反応。それがどれほど辛いものか予想も体験もしたくなかった。

 その後は特にそれ以上の何か起こることはなく、外の景色を眺めることしかできなかった。


 休憩時間に入った途端、今度は藤崎に捕まり廊下まで連行された。

「氷堂と何かあったのか」

「……そんなにわかりやすい?」

「まあ、そんなに落ち込んでいればな」

 藤崎にも気づかれるほど精神に来たようだ。

「そういえば、どうして今日に限って席交換をしたんだ?」

 席替えをして半月は経っている中途半端な時期。明らかに怪しい。

「……まあ、今日の気分的に」

「なんだ今の間は」

 なんだか藤崎の様子もおかしい。そして、ある1つの仮説が浮かぶ。

「藤崎、昨日の夜中何してた?」

「寝ているな。普段から十時に寝ているからな」

「良い子かよ」

 少なくとも嘘をついているようには見えなかった。そもそもこいつがあの場所に行く理由も思いつかない。けど、どうにも腑に落ちない。

「本当に何も知らないんだな?」

「だから、一体なんのことだ?」

 どうにも本当に知らない感じだ。ひとまず、一安心した。もし見られたらなら、恥ずかしくて生きていけない。

「とにかく、氷堂と仲良くなれるように頑張れ」

「他人事のように言いやがって」

「……そうでもないんだよな」

 何かを言ったようだが、上手く聞き取れなかった。藤崎は教室へ帰っていった。今日はなんだか精神的に疲れる。まるであのうわさ話が効いているみたいだ。


 いまいち考えがまとまらないまま、 三時間目の英語に突入した。今は先生がプリントを取ってくる間に教科書の読みあいをするように言われた。けど、まともにやっている人はいない。

「…………」

「…………」

 自習をするような意識高い生徒はいるにはいるが、ほとんどは世間話をしている。

「…………」

「…………」

 さっきのこともあって、話しかけることができなくなっている。氷堂にこれ以上、反感を買われたくない。そう思いながらも彼女の姿に目が行く。

 そういえば、氷堂はいつもこんな感じだった気がする。必要最低限のこと以外では誰とも話さず接しない。そんな彼女がどこか悲しく見えた。

 ああ、そうだ。俺は別に氷堂と仲良くなりたいわけではないんだ。あの時、何を思ってあの表情をしたのか。ただそれだけが気になって仕方ないだけ。だから、これぐらいで諦めたりしない。今日はあのおまじないが効いているみたいだし、それを利用して何が何でも聞いてやろう。そう、誓ったところで先生が戻ってきて授業は再開した。


「ということで、どうすればいい」

「いきなりそう言われても困るんだが」

 休み時間に入り次第、藤崎を屋上に連れ出す。四時間目はサボるつもりでここを選んだ。時間は限られている。氷堂に聞くとしてもどうすればいいのか検討がつかない。だから、藤崎に助言を求める。何かこいつは今回の件に繋がっている気がするから。

「つまり、氷堂に尋ねたいことが、それもある程度心を開いていないと答えてくれなさそうなことで、仲良くもなってないお前が、それを聞くための方法を考えろと」

「その通り」

「何も思いつかんが」

「そこをどうにか。せめて、二人きりになれれば」

 周りに誰もいなかった、あの時だったら話せる気がする。ただ、あの日は偶然だったわけでそれ以降は同じ場面には遭遇しなかった。

「なら、昼休みがいいだろうな。いつも一人で中庭で弁当食べているからな」

 いつも一人なのはなんだか納得はいく。逆に誰かと一緒に食べていると言われた方が違和感があるぐらい。

「てか、よく知っているな。まさか、お前」

「まあ、そんなことは置いといてお前は昼休みにでも話しかけろ」

 氷堂のことが好きなのか気になるけど、聞いても答えてくれなさそう。

「わかった。情報提供、感謝する」

 思ってたより早く決まってしまった。始業のチャイムはまだ鳴っていないから、授業にはまだ間に合う。

「俺はここで読書するから、杉並は戻ってもいいぞ」

「えっ?」

 またもや予想外すぎて間抜けな声を出してしまったが、少なくともこいつは授業をサボるほど不良ではない。

「お前は元々授業を受けないつもりでここに連れてきたんだろ」

 どうやら思惑はばれてたようだ。まあ、考えたらすぐに浮かびそうなことだけども。

「折角、本を持ってきたんだ。それに今日は天気がいい。たまには晴天の下で読むのもいいだろう」

「それじゃ、僕は英気を養うために昼寝でもするよ。昼休み前には起こして」

 そのままコンクリートに寝転ぶ。充分に熱せられた地面は当たり前のように熱く、物陰が出来ているところに改めて横になる。始業のチャイムが鳴り響く中、俺は寝不足もあってすぐに眠りについた。



 ほんの少し前の出来事を夢に見た。あれは、一週間前ぐらいの前の放課後。帰宅部の俺は学校が終わり次第、帰路についていた。学校を出て十分立ったとき、宿題を引き出しの中に入れていたことを思い出した。それも明日が締め切りの課題で、提出しないと倍になって返ってくる。そっちの方が面倒なので、仕方なく学校に戻った。着いたときには、殆んどの生徒が部活で青春を過ごしていた。けど、そこには俺の居場所はない。あの中に自分から入ろうとしなかった俺が悪いのだから、悔やんでも仕方ない。別に趣味も得意なこともないし、勉強も好きじゃない。ただ、面倒なことを避け、何事もない平和な日々を過ごせれば満足だった。

 そう、あの時帰る前にもっと早くに気づいておけば、あるいは諦めてそのまま帰ったりすれば、こうやって心をかき乱されることはなかったのだろう。

「…………」

 教室には一人、俺と同じように外れたものがいた。けど、そいつは自分と比べるにはあまりにも格が違いすぎて、一人で自己完結している存在。氷堂華凛は窓の外にいる部活動生、あるいは友達と一緒に帰っている同級生を見ていたのだろうか。彼らはとても眩しくて手が届かない。だから、こうやって光がこない影に身を潜めている。それは少なくとも自分のことであって、目の前にいる彼女は違う。一人で堂々と陽の当たるところでも歩いていける、他が羨んでもなることが出来ない絶対的な存在なのに。

「どうして……」

 そんなに悲しそうな顔をするんだ。こっちまで胸が痛くなるじゃないか。君は他など気にせず、自分の道を行く選ばれたものではないのか。どうして、どうして君が。

「…………」

 さっきの声が漏れたのか、彼女に気づかれてしまった。何事もないように鞄を持って、自分なんていなかったかのように横を通って帰っていった。その堂々とした姿が氷堂華凛なのに、さっきの表情を見たせいで胸がかき乱される。入ってはいけない底なし沼に片足を突っ込んだような、そんな気分にされた。

 チャイムが鳴り、他の部活動生と合わないように急いで靴箱に戻り、帰路に着いた。宿題を回収し忘れたのは家に帰り着いた頃に思い出したのだった。


「さてと、教えてもらったのはここら辺だが」

 授業が終わる前に購買部に行ったことですんなりと昼食を確保することができた。そのまま中庭に足を運んだのだが、少し早かっただろうか。適当に空いているベンチに座って氷堂を待った。

 少ししてから、校舎から氷堂が出てくる姿が見えた。覚悟を決めて、声をかけようとベンチを立ったとき、氷堂が男子に話しかけられていた。あれは、確か隣のクラスで見たことあるが、名前も知らないし多分自分の苦手な部類だろう。咄嗟に隠れてしまった。こっそりと様子をうかがう。たまに声が聞こえるぐらいしか聞こえない。

 どうやらお昼に誘っているようだが、氷堂に取りつく島もない。

「今日は先客がいるので」

 これは氷堂の声だが、はっきりとした口調で断っていた。というか、先客いるの? つまり、作戦は実行する前に失敗していたということか。今日は本当にタイミングが悪い。

 けれど相手は諦めが悪く、無理やり連れて行こうとしている。氷堂は後ずさるけど、後ろにはあいつの仲間らしい二人が逃げ道を塞いでいる。何か話した後、氷堂を途中で逃げないように囲みながら移動し始めた。流石に男三人を相手にはどうすることもできない。帰宅部の自分でもどうにもならない。けど、一つ気づいてしまったことがある。

「氷堂は震えていた。そんなの見たら、助けるしかないじゃないか」

 氷堂を助けるべく、彼らの後を追った。何も策はないけどそれでも動かずにはいられなかった。


 体育館裏に着いた。とりあえず、角に隠れて会話を拾う。

「ついてくるとか、馬鹿だな。助けでも呼べば誰かきてくれたんじゃないか? まあ、無駄だろうけど」

 あのチャラ男の声しか聞こえないが、まだ何もされていない感じだ。助け出す策は、追跡する合間に考えた。かなりありきたりだけど、それしかない。勇気を振り絞って、光が照る場所に立つ。

「ああ、氷堂さん。こんなところにいたんだ」

 わざと大声を上げて、注意を引く。こっからは、力押しだ。なんと言われても彼女を連れ出す。

「なんだ、てめぇ」

「おい、聞いてるのか」

 名乗る名前もないし、聞く理由もない。彼らの輪に入りると、氷堂さんの姿が見えた。

 氷堂の驚いている顔はなかなか珍しい。それが見れただけでもこの作戦を実行した甲斐がある。

「杉並、君? どうしてここに?」

「先生が探していたから、呼びに来たんだ」

 呆気にとられている彼女の手を取り、この場から離脱しようと。

「おい、待てよ」

「連れていかれると困るんですけど?」

 行く道を塞がれた。まあ、そうなるよな。この策は不十分だ。だって、無事に連れ帰る方法は何も思いついていない。

「いやいや、先生が呼んでるんだし」

「はあ、ふざけてんのかよ」

「先生、先生って小学生かよ」

 まあ、確かにふざけているけど。正直、心臓が破裂しそうなぐらい脈拍が早い。けど、その原因は彼らではなく、彼女の手を握っているからかもしれないけど。

「何かと緊急らしいので、今回は」

「だからって、行かせるわけねえよ!」

 これだから、不良どもは。一生分かり合える気がしない。だから、人類は戦争を繰り返すのだろう。たまにこうやってふざけないと気が保てない。肝心の彼女は、なにやら放心状態だし、緊張の糸でも切れただろうか。ここはもう少し頑張らないといけないな。

「あ、先生!」

 一斉に後ろを向いた。その隙に氷堂の手を引きながら走り出す。

「って、そんなのに騙されるかよ!」

 背中を蹴られたのか、そのまま地面に倒れこんだ。咄嗟だったけど手を離せたから氷堂を巻き込むことはなかったけど、当たりどころが悪かったのか意識がぐらつく。こんなところで、意識を失うわけにはいかないのにな。すごくかっこ悪い。氷堂がそのまま逃げて無事だといいな。

 薄れていく意識の中で、何か悲鳴が聞こえたけどそれが誰の悲鳴か判断できる思考はなかった。



 気づいた時には、白い天井が見えた。

「どこだ、ここ?」

 どうやら、ベットの上のようだ。あまりにもいつもの日々とは違って慌ただしいものだった気がする。起き上がって、周りを仕切っているカーテンが勝手に開いた。

「杉並、やっと起きたか」

「藤崎、ここは一体」

「保健室だ。昼休みから午後の授業もさぼりやがって」

 昼休みといえば、氷堂が絡まれていたから助けようとして、そこから先の記憶はない。

「そういえば、氷堂は! 大丈夫なのか、怪我とかは?」

「氷堂なら、大丈夫だ……心配するならあいつらの方をしてやってくれ」

 氷土堂が無事ならいいんだけど。あいつらがどうとか、正直よくわからない。

「元気なら、さっさと教室に戻って帰る準備してこい」

「……こういう時って、準備してくれて持ってくれるんじゃ?」

「いいから、行ってこい!」

 藤崎に追い払われるように保健室から出された。眠すぎていまいち頭が働かないまま教室に向かった。


「確か、あの時もこんな天気だったな」

 夕日が差し込む廊下を渡りながら、一週間前のことを思い出す。外からは部活動生の元気な声が聞こえる。どうにも既視感を覚える。教室には彼女がいそうな気がして、胸が苦しくなる。あんなかっこ悪い姿を晒した後に会うのはどうにも気が進まない。

 教室の前まで来てしまった。深呼吸をして、扉を開ける。そこには、予想どうり氷堂がいた。あの時と同じように外を見ている。夢じゃないのかなと思ってしまうほどにあの時を再現している。

「おはよう、杉並君」

 けど、あの時と違うところは氷堂が話しかけてくれていることだ。

「ごめんなさい。あなたを巻き込んでしまって」

 あの時と同じように悲しそうな表情をする。あの時と違って、氷堂はこっちを向いている。

「それじゃ、さようなら」

 あの時と同様に鞄を持って、こちらに向かってくる。そして、横を通り過ぎようとする。けど、あの時と変わり、その辛そうな表情をしたままで。

「氷堂!」

 あの時と同じように立っていた。けど、今回は彼女を掴み、引き止めた。

「きゃ」

 けど、ここからはあの時と打って変わる。氷堂の可愛らしい悲鳴とともに地面から足が離れ、体が宙に浮く。何が起こっているのかわからなかったが、それでも唯一わかることは再び痛い目に遭うということ。そう思った途端に背中を強打した。肺の中の空気が全部吐き出されるぐらいの衝撃とそれに伴う痛みはあったが、今回は意識は保つことができた。

「ご、ごめん! 杉並君、大丈夫?」

「大丈夫に見えるか……」

 これを機に昼休みの一件の全貌がわかった気がした。


「つまり、氷堂さんがあの三人を撃退したと」

「うう、ごめんなさい」

 これまでのイメージは崩壊し、悪いことをして反省している子供のようになっている。

「別に怒っているわけじゃないんだけど」

「ごめんなさいごめんなさい」

 簡単に事柄を話してもらった。俺が気絶した後、氷堂があの三人をやっつけた。その後に藤崎に来てもらい、保健室まで運んでもらったけどということらしい。信じられない話だが、さっきその実力を知った身とすればあり得るといいざる得ない。

「というか、藤崎と仲よかったんだな」

「ええと、幼馴染だから」

 あいつ一言もそんなこと言ってなかったじゃないか。

「彼を責めないで。私が頼んだことだから」

「……どういうこと?」

「あ、ええと……」

 氷堂がうろたえている。なんだか、今日はいろんな表情を見れて嬉しい気持ちになる。こんなにも表情豊かなんて思わなかった。

「さっき、僕のことを投げておいてそれはあんまりだな」

「うう、ずるいよ。それ」

 そうでもしないとこのモヤモヤが晴れない。どうにも引っかかるところがある。

「ええと、杉並君も恥ずかしい目に合うけどいい?」

「僕も?」

 全く心当たりがないんだが。逆に気になって仕方ない。

「いいよ。気になるし」

「それじゃあ、順を追って話すよ。昨日の夜というか、今日の夜中かな」

 あれ? これって、嫌な予感しかしないぞ。どうにもその時間は心当たりしかない。

「眠れなくてたまたま近くを散歩してたら、杉並君の姿を見かけたから、ついて行ったら。その、いきなり大声で……」

 氷堂が頬を赤らめる。その姿はすごく可愛いけど、今は恥ずかしさで悶絶しそうだ。よりにもよって本人に聞かれていたなんて。

「だから、その。私も杉並君と仲良くなりたくて、それで、藤崎に頼んで、それで」

 何かまだ話は続いているようだが、全く耳に入ってこなかった。氷堂の声は段々と小さくなって、やがて口を閉じて顔を隠していた。


 その後、お互いの熱が冷めるまで沈黙が続いた。それを破ったのは下校時間を告げるチャイムの音。

「ああ、もう帰る時間か」

 あからさまに棒読み感が酷かったが、このままここにいても仕方ない。

「それじゃ、今日はもうーー」

「あの! 杉並君」

 突然、大きな声を上げた氷堂に驚いた。

「あ、あのこれを」

 氷堂の手には十五センチの定規。それの端っこを摘んで、こっちに向ける。

「こ、これは?」

「あの、もしよかったら、握手がわりに端っこを掴んでくれませんか?」

 定規が振動している。多分、発生源は彼女だろう。別に断る理由もないので掴む。掴むことで振動は止まった。

「わ、私は、訳があって、人に触れられるとさっきみたいに危害を加えてしまいます。その範囲が丁度この定規分、十五センチなんです」

 不思議な話だが、これまでのことから信じるしかない。

「だから、いつも人に関わらないようにしていて、それで、男の人だけでなく同年代の女子ともどうやって仲良くなればいいかわからなくなって。これのせいで前に人を怪我させて、みんなから距離を置かれるようになってそれで、一人でいることが当たり前になって。けど、友達と楽しく話したり遊んだりするのがすごく羨ましくて。けど、私はこんなだから、そんなの叶わなくて。だけど、こんな自分を変えたくて」

 彼女の瞳から涙が一滴また一滴と落ちる。それを誰かに拭いてもらえることは出来ない。だから、自分一人で拭くしかない。

 彼女は思っていたより、強いけど臆病で、優しいけど歩み寄れなくて、少し寂しがり屋な普通の女の子。同じじゃないけど、似ている。僕と氷堂は似た者同士だったんだ。

「だ、だから、その、わ、私と」

「氷堂さん、僕と友達になってください」

 彼女が言いたかったことを先に言ってしまった。ずるいと思うけど、自分も同じ気持ちだったから。

 言うことを言われ戸惑っていたが、その後今まで見てきた氷堂の一番いい表情を見れた。

「はい、こちらこそお願いします。杉並君」

 例え、人を拒む見えない十五センチの壁が合っても、言葉は交わせることができる。話すことで心の距離も縮まる。そしていつか直接触れ合える日が来るまで気長に付き合っていこう。新たにそう自分に誓ったのだった。


 通学路も同じで氷堂一緒に帰っている。彼女とは二歩後ろと距離がある。会話は途切れ途切れだが、正直悪くない。こうして、友達と、氷堂と帰れているんだから。

「そういえば、体育館裏の時はなんで僕は投げられなかったんだ?」

「そ、それは、その、あまりにも驚いてしまって」

 確かにあの時の氷堂は驚いていた。けど、なんだか正解ではない気がする。

「なあ、それじゃ放課後のときは、驚かなかったのか?」

「あれも、もちろん驚きましたけど……」

 どうにもわからない。なんの違いがあるんだろうか。すると、後ろからの足音が止まった。

「私はこっちなので、お別れですね」

「そうなのか。それじゃ、また明日。氷堂さん」

「はい、また明日。杉並君」

氷堂と友達になれたけど、まだ心の距離とそれに想定もしていなかった物理的な距離がある。

それをこれから少しずつ縮めていけるのなら。いつかはこの道を肩を並べて歩けるのなら。また今日みたいに手を繋ぐことができるのなら。放課後で見た君の笑顔を近くで見れるのなら。

今度は僕自身できっかけを作ろう。氷堂が楽しく充実した学校生活を送れるように。今日も星が綺麗に見えそうだ。

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15cmの不可侵領域 相桐 朱夏 @Aigiri

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