脚は要らずも翼は要りて

木野目理兵衛

:)

 貴方々は知っている――王都に対する『遠き入江』、地方都市ファーインレットの昔ながらのその紋章が、街の名産、養殖されし白竜の幼体を、意匠化したものという事実を。

 貴方々は知っている、けれど、かつての人々は何も知らず、無邪気に信じていたものだ――もう一つの名産、柑橘ワインの甘酸っぱさに酔い痴れた成竜から、ほんの少量拝借した稚竜を、大森林と汽水湖、自然の力で育て上げ糧とする、そんな偉大な産業が、街の興りより続く、由緒正しき生業だという、誤りを……だ。

 例外が居るとすれば一人だけ、たった一人の御老人だけが、それが甚だしい勘違いであるという事を知っていた――偏屈が故に孤独なマーティン。ファーインレットの市中に住まず、都市が都市と成る前の名残、見窄らしい集落にて頑張る彼は、逢う者、逢う者に対して、こんな事を言って憚らない――四肢を持たず、長き尾を伸ばしてとぐろを巻いて、背より生やした翼も誇らしげに、輝ける黄金の王冠の元、柔らかな笑みを浮かべ続けるその生き物が、竜なんて下賤な存在の筈が無い、そうと信じる奴と言ったら物を知らない餓鬼位だ――等などと。それでは一体、何なのかと、そう聞き返した所で応えは返らず、ただむっつりと押し黙り、身振り手振りで聴衆をまぁ追い返していたものである。

 偏屈が故に孤独なマーティン――周囲が邪険に思うのも無理は無く、しかして付き合う聞き手が絶えないのは、彼が秘匿する家宝の事を知っている為だ。

 それこそは正しく、先祖代々受け継がれて来た、壺一杯の得も言われぬソース――“彼の生き物”の肉と脂、そして歳月が熟成させたその味わいは、人の命よりも価値があるとして、如何なる事柄からもずっと守り通されて来たという――ファーインレットとその周辺(の呑み処)では、とてもとても、有名な話だ。

 紋章の真偽なんてどうでも良い、ただ、美味なる噂が風に撒かれれば、寄って来るのが人々というものである。その都度、手荒に追い返され、無理強いをしようものなら『人の命よりも価値がある』そんな事実を身を以て味わう事となる――“彼の生き物”専門の料理人が末裔と嘯くマーティンの肉捌きは、実際大したものであった――が、それ故に、漏れ出るソースの流言は留まる事を知らずに国中に伝わり、訪れる人々を前にして、彼は孤独の何たるかを知らされたものだ。

 それはもう、徹底的に――

 マーティン、マーティン、哀れなマーティン――貴方々が知っての通り、彼の言葉は正しかったのに、誰もそれを信じない侭、ソースだけが求められた――今や考古学者達の手に拠って、上代には竜なんて何処にも居らず、“彼の生き物”とは蛇と言う生き物と、証拠を以って判明したのに、生物学者達がその成果を引き継ぎ、余分な手足を竜から抜き去って(翼は敢えてそのままとされた。蛇なるには無くとも紋章の再現で、手羽先の旨味こそは知っての通りだ)、蛇の復元に成功したのに、その時にはもう、御老人は息絶えていたのだ。

 貴方々も知っていよう――小屋どころか集落を根刮ぎした、あの大火の凄まじさたるや。元が御老人の寝煙草とは言え、しこたま呑んだくれたワインの量とは言え、夜分遅くの事とは言え――爆ぜ飛んだ材木に喉を切り裂かれ、助けを呼ぶ声も出せぬ侭(出せても誰も来られまいが)、焔に炙られ死を迎える。もしも意識があったならば、それはそれは、死ぬ程苦しい事だったに違いない。

 哀れなマーティンに、神のお恵みが在らん事を。

 しかして、そんな哀しい出来事の中にも、不幸中の幸いというものはある――頑迷な守り手が絶えた事で、壺の中身が開かれたのだ!

 炭と化した床の上、蹲る男の死体の内で、最後の最後に至るまで、厳重に守り通された(哀れな彼と、そして忘れる所だった、集落に遺っていた者達へ、神のお恵みが在らん事を)味わいについては、貴方々すら知ってはいまい。

 だが、直ぐにそれと知る事になるだろう――命を懸けるに値する、と。

 匂いだけなら煙に乗って、此処までうっそり流れて来る。

 賞味の際にはもう一つの名産、柑橘ワインも、どうかお忘れなく。

 蘊蓄はこの辺りで十分だろう。

 それではどうぞ――召し上がれボナペティ

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脚は要らずも翼は要りて 木野目理兵衛 @avalon5121

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