傍観者

小野寺こゆみ

    

 久方ぶりに遠方から友人が訪ねてくるというので、友人がいつも泊まるコテージに遊びに行った。リビングに入ると、そこには友人はおらず、オープンキッチンで幼馴染がだらだらと汗を流しながら、ビーフシチューを作っていた。エアコンが効いた部屋の中とはいえ、真夏の暑いさなかによくやる、と思ったが、友人はビーフシチューが大好きだからと、いつもこいつはこうして作ってやっていたな、と思い出す。木べらで鍋をかき回す背中に、あえて声をかけなかった。どうせ、幼馴染は集中していると、人の話を聞かないのだ。

「来たのか」

 だから、先に声をかけられて、少々面食らった。久々に会った彼は、相変わらず無愛想で、本当に客商売がやれているのかどうか心配になるが、彼が継いだ食堂兼居酒屋は、彼の料理の腕と、なかなかに男前な顔のおかげか、先代のときよりも盛況だと聞く。

「ああ。充はまだ来てないのか」

「外だ」

「台風来てるのにか? 車もないだろ?」

「いや、あるぞ。あいつ、車の免許ついに取ったらしくて、今年は車で来た。大学でできたってカノジョと一緒に」

「カノジョ! 充にカノジョか! ちくしょう羨ましい、絶対美人なんだろうな! あいつ上手くやりやがって……」

 俺はもう、この時点で心臓がばくばくしていた。充にカノジョができた――、これはもう、地雷原を歩くときぐらいの緊張感を持って、会話をせねばならないと、俺は行ったこともない地雷原を想像する。地雷除去用の装置も無しに、俺は今、そこに放り込まれたのだ。


 俺の幼馴染である康治は、このコテージの管理人の息子である。そして、毎年夏になると、ここには一人の少年が遊びに来る。それが、充である。彼は十歳のときに、このド田舎に訪れて以来、何故かここを気に入って、毎年電車で遊びに来ていた。いわゆる金持ちのボンボンである彼は、中学生になってからは、4人家族が泊まることを想定して造られたここを、一人で夏休み中貸し切って、俺たちを招いてくれた。俺の両親も、康治の両親もそれは歓迎していて、俺たちは毎日徹夜でゲームをしたり、食事をスナック菓子で済ませたり、とにかく好き勝手に過ごし、夏休みの終わりが近くなるころには三人で宿題に苦しんだ。

高校生になったときに、なんであんなに寛容だったのか、聞く機会があった。俺の両親は元から放任主義だったが、康治の父は、息子に暇があるとわかればすぐに仕事を手伝わせるような厳しい人だったからだ。どうやら、柔道の心得がある康治を、警備員とお手伝いさんを兼ねて、お得意様の充の元に置いているつもりだったらしい。。そのとき、あまり頭の良くなかった俺は、康治の態度に、大変納得してしまったのだった。

充は顔立ちが非常に整った少年で、近所のばあちゃんたちは、彼を天使のようだとよく褒めていた。しかし彼は、その反動か、異様に悪魔めいた一面を覗かせることがあった。その生贄は、何故か常に康治だったのである。責め苦を受ける康治は、弱音の一言も吐かず、常に充の傍にいた。

例えば、この責め苦は毎年恒例だった。ここから近所の店までは、歩くと片道20分はかかる。充はいつも、康治に店までミネラルウォーターを買いに行くように言いつけた。この土地は山のふもとにある水源地で、水道水はそこらのミネラルウォーターより良い味をしている。だからわざわざ、水を買って飲む必要はない。それなのに充は、康治によく冷えたミネラルウォーターを買ってくるように命じていた。康治は太陽の照り付ける中、走ってミネラルウォーターを買いに行く。帰ってきて、汗だくでボトルを差し出す康治に、充はいつもこう告げる――「やっぱりいらない。それ捨てといて」。康治は言われた通り、中身を処分したあと、ゴミをきっちり分別してから捨てるのだ。

 こういう行為は、本当に気まぐれに行われた。充は康治だけを虐め、康治は充だけに虐められた。俺はそれを傍でただずっと見ていた。それを止めることも、エスカレートさせることもなかった。ただただ、見るだけだった。

 大学生になって、県外の大学へ行って、高校生のときに何故納得してしまったのか心底不思議に思った。同時に、見るだけだった己の異常さにも気づいて、事の真相を確かめるために、初めて充を訪ねたのは大学に入ってすぐのことだった。

 都内の大学に入った充は、もう眩いばかりの美青年になっていた。少年ほどではないけれど、華奢な体つきをして、おまけに顔つきが幼いものだから、充より背が高い俺は、彼に上目遣いをされる度に、少女めいた目元にくらくらとした。

 適当に入ったカフェで、カプチーノを飲みながら、彼ははっきりと言った。

「あれはね、遊びなんだよ」

「遊び? プレイってやつか?」

「SMを思い浮かべてるなら、正直やめてほしい。僕はどうやら、精神構造が人間よりも猫なんかに近いらしくて……猫がさ、獲物を甚振るときの顔、見たことあるか」

 突然、猫という単語を聞かされて、一瞬混乱する。彼らの関係に近いものをネットで調べていたら、うっかりとそういう、ゲイ向けのサイトで、その単語を見かけてしまった俺は、変にどぎまぎしてしまう。しかしどうやら、充が言っているのは、普通の、動物のことらしかった。俺は動揺を気取られないように、努めて冷静に返そうとしたが、どうしてもコーヒーをかき混ぜるスプーンを止めることができなかった。

「いいや、見たことない。猫、そんな好きでもないし」

「僕もだ。あれは、同族嫌悪ってやつだね。猫が獲物を甚振るときの顔ってさ、どう見たってワクワクしてるんだよ。あれはね、いつどこで反撃が来るんだろう……って期待してる顔なんだ。虐めてるくせに、一番期待してるのはそのしっぺ返しで自分が痛い目見ることなのさ。僕は猫のそういうところがどうも嫌いなんだけど、どうやら期待してることは僕も同じらしい。僕は康治がしっぺ返ししてくるまで、ああいうくだらないことをやり続けるんだと思う」

「くだらないってわかってるのか」

「わからないような頭で入れる大学じゃないぜ、僕の通ってるとこは……」

「知ってる」

 彼はカプチーノを飲み干すと、恐ろしいほど美しく笑った。

「まあ、そろそろ康治も飽きたから、新しい玩具を探すよ。そうだな……次は、女にしようか」

「おいおい……いつか刺されるぞ」

「それが本望なんだよ。僕みたいな人間もどきは早いところ死んだ方がいい」

「人間の皮を被った猫ってか? きつい冗談だな」

「いいや、違う。僕は天使ってやつさ、多分」

俺は「天使」という言葉にぞくりときた。彼は本当に、恨まれて殺されることを望んでいると、その一言だけで察せた。俺が飼っていたカブトムシ、ご近所さんの飼い犬、公園の池の鯉、それらが死んだとき、彼は必ず「天使になったんだね」と、呟いていた。あのときの「天使」と、今の「天使」の響きは、完全に同じだった。

「充、お前、死ぬなよ」

「ん? うん、大丈夫大丈夫」

 充は、大変に軽い調子で自らの死を否定して、何事もなかったかのようにスマートに会計を済ませていたが、俺はこのとき、こいつは本当に友人だっただろうか? と疑ってしまった。それぐらい、そのときのこいつは異質だった。

 そんなんだから、康治の告白は、大変に軽く受け流せてしまった。

「俺さ、今度充が来たとき、告白しようと思ってる」

 それは充と会ってから、しばらく経ったときのことだった。ゴールデンウィークにさっそく里帰りした俺は、少しは友人の懐の助けになってやろうと、彼の店で、手料理に舌鼓を打っていた。酒はまだ飲めないから、飯をとにかく盛ってくれ、と頼むと、彼はいつもの仏頂面で言う通りにしてくれた。

 からりと揚がったアジフライの味に、もしかしたら俺が助けるまでもなく、こいつの懐は潤っているのかもしれないと瞠目していると、康治は「飯のお代わりいるか?」と聞くかのような気軽さで、告白する旨を告白したのだった。

「ああ……? 充に告白?」

「愛していると」

「はあ、そうか。がんばれよ」

 彼は冗談を言わない男だし、そうと決めたらかなり頑固である。ただ、そのせいでたまに変な方向へ突っ走っていく。この告白はまさしくそれなのだが、どうにかしようと思ってもどうにかならないのがこの男だから、放置しておくことにした。

「飯のお代わりは?」

「いや……いいや」

 胸焼けがしそうだとは言えず、俺は御新香をかじった。旨かった。


 そして、迎えた夏休み1日目でこれである。まさかこんなに早く、充が康治を捨てるとは思わなかった。というか、車の免許って夏休み前に取れるもんなのか。カノジョって、夏休み前にできるもんなのか。疑問は尽きないが、まずは充を待とう。

 キッチンカウンターに腰掛けると、すかさず康治が飲み物とスナック菓子を出してくる。スナック菓子なんて、袋のまま出せばいいのに、わざわざ菓子鉢に盛るところを見ると、案外こいつは客商売が向いていたのかもしれないと今更ながら思う。

「あれ、飲み物、水道水か? ぬるいからなんか冷えたやつにしてくれよ」

「すまん。お前達が来る前に冷蔵庫の点検をしてたんだが、開けたら酷い異臭がしてな。洗ったんだがさっぱり取れないから、買い換えることにしたんだ。でも電気屋がエアコン工事で忙しいとかで、届くのは早くて明日って言われちまってさ……本当にすまん。冷たいものが欲しければ、店から取ってくるが」

「ああ、ならだいじょぶ。そこまでする必要ねえよ。しかし災難だな、その冷蔵庫買い換えるってなると、結構な値段になるだろ?」

 このコテージの冷蔵庫は、レストランの厨房にあるような、どでかい業務用の冷蔵庫だ。バーベキューには使うような塊肉や、スイカをまるごと入れるのには確かにうってつけで、重宝したのだが。

「この機会に、普通の冷蔵庫に買い替えようと思ってる。最近は、バーベキューする客は減ったしな。炭を起こすことすらまともにできないのが増えてる」

「へえ……なんか淋しいな」

「それに、このコテージではバーベキューをあんまり行ってほしくないんだ。向日葵に悪影響があると困る」

「そういやそうか。充が造らせた向日葵畑、今年はどうだ?」

「畑というより向日葵でできた生垣と言った方が正しいけどな。かなり綺麗に花が咲いたよ、この雨で散らないといいが。充はあれが大好きだし」

 甘い香りが部屋に立ち込める。飴色玉ねぎの香りだ。康治が料理に凝りだした頃を思い出す。高校2年生の夏、俺と充は大学進学に頭を悩ませていたが、康治は店を継ぐことに頭を悩ませていた。このまま店を継いでも、過疎化が進んでいる上に辺鄙なこの場所では、コテージ経営はまだ保てるとしても、飲食店の経営は難しいかもしれない。そんな彼に充は、「だったら皆が食べにくるような美味しいモン作ればいいじゃん。お前の父さんの料理は、刺身の新鮮さ以外には特に売りがないんだから」と言い放った。康治は父の腕前をけなされたことを怒るでもなく、その日から毎食、料理本片手に料理を作り始めた。彼は味だけではなく、見た目も本に載った写真と全く同じになるようにした。「近所の人間しか来ないなら、食べなれてる家庭料理が出てきたってなんも嬉しくないでしょ。見た目だけでも綺麗で洒落てないと意味ないってわかんないの?」と充がさらにのたまったからである。

 その結果、高3の夏に、康治は和洋中の一通りの料理をマスターした。あまり量を食べない充が、大皿三杯おかわりしたビーフシチューは、今では店のランチメニューの一番人気らしい。アジフライの味に感動してから、康治の店の評判をネットで調べてみると、まあ出るわ出るわ。件のシチューに、手作りの焼き立てパンととれたて野菜のサラダ、デザートとドリンクがついて、700円のランチは店の看板になった。海も山も近いので、レジャーのついでに立ち寄れる隠れ家食堂、夜は飲み屋として、口コミとSNSで人気がじわじわ上がっている。

 こうして考えると、充は康治に対して、辛く当たりつつも、本当に彼が苦しむことだけは言わなかった気がする。買い物に行かせるのだって、田舎に慣れ切った奴なら、1日に2、3回なら、きついが耐えきれないわけじゃない。他の命令だって、康治の身に危険が及ぶことや、本当に無理なことは絶対に言わなかった。彼を完全には傷つけずに、耐えられるかどうかのところを突いた命令は、芸術的とさえ言えそうだ。

 それで、ぎりぎりの遊びを続けた結果、康治は全部耐えきってしまった。結果、充は退屈し、外から新しい玩具を持ってきた。康治に対する決定打になるかもしれないと思っていたかどうかはわからないし、康治がそれに耐えきれなかったかどうかもわからないし、カノジョが玩具かどうかもわからない。何もわからないが、それでいい気もする。俺は元より、傍観者だ。

 しばらく、お互い無言の時間が続いた。炒め玉ねぎをねっとりとしたペーストに練り上げるのは結構大変と言っていたから、康治は相当に集中しているのだろう。外からは、絶え間なく激しい雨の音が聞こえてくる。台風ではなくゲリラ豪雨だと気象予報は伝えていたが、それにしては止みそうにはなかった。充はこんな雨の中、どこへ行ったんだろう。まさか、カノジョと……それ以上は考えない方が、俺の為か。

「あー、酒でも飲みてえわ……」

 未成年らしからぬボヤキを康治は珍しく拾って、「ビールか」と冷蔵庫に手を伸ばしかけ、やめた。「お前は未成年じゃないか」と冗談っぽく怒りながら、また水を汲んでくれた。今日の彼はなんだか彼らしくない。集中力がいまいちすぎる。充にカノジョができたのが、顔にあまり出てないだけで、かなりのショックだったんだろうか。

 ――ふと、妙なことに気が付いた。彼が手を伸ばしかけた冷蔵庫、その扉の隙間が、全て目張りされている。半透明のビニールテープで、厳重に、上の扉だけが封じられて、下の野菜室や冷凍室は何もされていない。

「なあ、康治、その冷蔵庫……」

 何気なく聞くと、康治はばっと振り向き、半ば怒鳴りつけるように「開けるなよ!」と言った。目がぎらりと光って、思わずひゅっと喉を鳴らした。わかった、開けないと返すと、彼は落ち着きを取り戻したのか、「すまない、取り乱した。とにかく、開けないでくれ」と、もぞもぞ言った。

 また沈黙が降りる。雨戸を締め切った部屋の中はどことなく薄暗く、湿っぽい。扉の近くについている、エアコンの操作パネルを確認する。除湿に設定されていたが、それにしては息苦しくて、一旦トイレに行って、気分転換をすることにした。廊下に出ると、むわっと湿気と暑さが襲ってくるが、何故かキッチンの前でああして康治を眺めているよりも、すっきりと呼吸することができた。

 トイレに立って、出すものを出すと、さっきの康治の態度がやけに気にかかった。康治は、あまり感情を表に出さない。中学高校と、鉄仮面という渾名を頂戴していたほどだ。その康治が、あんな。

 ……冷蔵庫の中には何が入っているんだろう……。

 開けるなと言われると、開けたくなる。ただ、開ける前に何が入っているかを予想すると、それがどんどん嫌な予感に変わってしまうのだ。現れない充。充のカノジョも見ていない。外は大雨なのに、充は出かけたらしい。どこに? 買い物なら康治に任せればいいのに? どでかい業務用の冷蔵庫。塊肉ぐらいなら余裕で入る。華奢な充と、女の子。康治の持っている包丁はとても良く切れる。コテージの修繕をする彼は、のこぎりなんかの工具の扱いにも慣れている。康治は暴走したら誰にも止められない。充にも。

 冷蔵庫の中身を、聞けばいいじゃないか。彼は、嘘のつけない男なんだから。どうせこんなのは妄想だと、一刀両断してくれるだろう。

 リビングは、旨そうな肉の焼ける匂いが充満していた。ドミグラスソースに、表面を軽く焼くことで旨みをしっかり閉じ込めた肉を入れ、味がしっかりと染みるまでことこと煮ていくのが彼のレシピだ。何気なくキッチンを覗きこむと、康治とばっちり目が合った。

「……なあ」

「なんだ」

「冷蔵庫の中、何が入ってんの」

「…………」

たっぷり十秒ほど沈黙して、康治はまた口を開いた。

「秘密だ」

 背筋がすっと冷えた。康治は、冷蔵庫の中に何かを隠している。旨そうな肉の匂い。まさか、その肉は。俺が食うのはビーフシチューで間違いないのか? などと聞いて、いいや違うぞ、なんて答えられたら、どうする。俺はフライパンの中の肉を見る。これは、きっと、牛肉だ。この土地名産の和牛。赤身が多くて、しっかりした肉質で、旨みが強い、俺たちの大好きな。

 ……開けてしまえばいい。そこに何があるのか、確認すればいいだけの話だ。でも、どうやって開ける? 康治をどうやってここから離す? くるりと脳味噌が一回転するような感覚。アイデアがぽんと浮かんで、俺の口から飛び出る。

「康治。冷えた飲み物が飲みたいから、店から取ってきてくれないか」

「ん、ちょっと待っててくれ。まだもう少し肉焼くから。そうだ、鍵渡すから好きなもの持ってきていいぞ。どこから入ればいいのかはわかるだろ?」

「おう……」

 差し出された鍵を受け取りながら、内心マズったな、と舌打ちをする。相手が充なら絶対に取りにいかせないが、幼馴染の俺に対しては、遠慮も気遣いも一段階下がる。このままうだうだとここにいたら、怪しまれないだろうか。

 康治は焼いていた肉をフライパンから取り出すと、また新たな肉を焼こうと火加減を調節する。と、丁度そのとき、インターホンが鳴った。そのあとスピーカーから、「すいませーん」と間延びした女性の声が聞こえてくる。

「ちょっと出てくる」

 康治はコンロのスイッチを切って、玄関へ向かった。

 ……ちょっと出来過ぎた展開で、よくわからなくなる。ひとまず、冷蔵庫の前に、そろりと移動する。リビングと玄関を繋ぐ廊下は、ドアで隔てられているから見えてはいないだろう。ぺりぺりと、慎重にテープをはがしていく。

 インターホンからは、マイクを切り忘れたのか、玄関での会話が流れている。どうやら訪ねてきた女性は、例のカノジョらしくて、康治に楽し気に話しかけている。康治も普通に受け答えしている。俺は胸をなでおろし、一旦テープを剥すのをやめる。

『充は? さっきからLINEしても既読つかなくて』

『ああ、今は出られないな』

 ――どういうことだ。充は外にいるんじゃなかったのか? なんで出られないとわかる? 康治は……嘘をついている? だからあんなに様子がおかしかったのか?

 俺は、おそるおそる手の中の剥したテープを見つめる。これは、何を封じているんだ。

 そのとき、冷蔵庫の中から、とん、と音がした。

「ッ……」

 悲鳴を上げそうになって、耐える。充のカノジョが話好きのようで助かった。康治は女性の長話を切り上げられるほど器用な男ではないから、きっとしばらくは戻ってこないだろう。俺は、あまり音を立てないようにテープを剥す。とん、とん、と音がはっきりと聞き取れるようになる。

「充、そこにいるのか?」

 返事はなく、ただ、とん、とん、と中から壁を叩く音が聞こえるだけだ。俺はテープを慎重に剥し、ついに、最後のテープを剥し終えた。おそるおそる、扉を開ける。生臭く、アンモニアの混じった匂いがした。中を覗こうとしたその瞬間、「やめろ開けるな!」と康治が怒鳴った。いつの間にか、こっちに戻ってきていたようだ。油断していた。動揺して、思わず思い切り扉を開いてしまった。

「うわっ……!」

 中から物凄い勢いで何かが飛び出してきた。何匹かのねずみだ。部屋中に散ったねずみを、康治は掃除用具入れから取り出した箒で部屋の隅へ追い立てている。

「おい、水入れたバケツとタオル取ってくれ」

「わかった!」

 勝手知ったるコテージで、ねずみ狩りが始まった。ねずみをちりとりで掬って、バケツに入れて、表面に浮いてくる前にタオルでぴっちり蓋をする。計6匹の小さなねずみは、30分ほどでバケツに浮いた。

「全く……間違って開けないように、テープで封までしたのに逆効果なんてな」

「まさかねずみが住んでるなんて思わなくて」

「扉についてるゴムパッキンの部分を食いちぎられてな。コテージの管理もできないなんて思われたらと思うと、情けなくて言い出せなくて……部屋も少し齧られたが、それは修繕が終わってるから安心してくれ」

「しっかし、見つけたときにそのまま殺せばよかったのに」

「まずは家族全員集めてから殺るのがセオリーだ。わざと放置しておいて、親ねずみの行き場が餌場のみになったら、もう他に子供はいないってことだ。そこで封じて殺す。これが大変でな、1匹でも逃せばまた増えるし。本当は明日、外で冷蔵庫を開けて殺す予定だったんだ」

 さすがド田舎で飲食店を営んでいるだけあって、害獣の処理についても結構学んでいるようだった。俺は感心ついでに、冷蔵庫に充を監禁していると疑っていたことを心の中で詫びる。

「そういや、あのカノジョ、何の用だって? 充、LINEに反応しないってことは、車でどっか行ってんだろ? カノジョ怒ってなかったか?」

 聞くと、康治は平然と答える。

「いや、充は車使ってないぞ。彼女に観光用に車を貸して、それからずっとここにいた」

 脳味噌をトンカチで殴られた気分だ。さっきまでのひと心地ついた気分はなんだったのかと思うほど、俺はまた気分が悪くなってきていた。充は外にいて、LINEに反応できなくて、ここにいる。それは結局、どういうことか。

「そうか、さっきは雨が酷かったからな。まだ会えてなかったのか。今、雨止んだから窓開けるな」

 康治はエアコンを切ると、庭に面するガラス戸を開け、雨戸も開ける。

 そこには、午後の日差しを浴びて、水滴を反射させながらきらきら咲き誇る向日葵と、背の高く伸ばしたその姿を真似るかのように、地面から突き出た白い腕があった。

「あれ、さっきまでは綺麗に埋まってたんだけどな。お前が来たのがわかったのかな」

 康治は外履きを履いて、庭に出る。ぐじゅ、と外履きから水が染み出る音が、やけに大きく聞こえる。康治は突き出た腕についた泥を丁寧に拭うと、華奢な手を取る。ぴんと伸びていた手は、そうなることが当然だったかのように、康治の無骨な手に収まった。

「雨で向日葵が散るかと思ったが、そうでもなくてよかった。君はふてくされると長いから。ああ、すまない、埋める穴が浅すぎたのは謝る。もう一度綺麗に埋め直すから、ちょっと待っててくれるか。今、君の好物のビーフシチューを作っているんだ。明日になって、味が落ち着いたら、パンとサラダと一緒に供えよう。それで機嫌を直してくれ。そうだ、野菜が嫌だと言ってもダメだぞ。これから君は野菜になり、果物になり、俺の口に入るんだから」

 俺はその光景を、ぼんやり見ていた。ペトリコールに包まれた庭の中、幼馴染が友人の手に嬉々として語りかけ続ける光景は、もう俺の脳味噌の許容量を超えていた。彼がそわそわとしていたのは、この犯罪が俺に露見することを恐れていたのではなくて、向日葵が散って充がふてくされないかどうかをずっと気にしていたんだ。むしろ、彼はこれを犯罪だと思っていない。充も、これを犯罪だと思っていないかもしれない。これは彼らの遊びで、まだそれは終わっていない。康治が充を忘れるまで、その遊びは終わることはない。

「康治」

「なんだ」

「お前、どうして充のカノジョをそうしなかったんだ? カノジョをそうした方が、充はまた命令をするし、カノジョは二度と現れないしで、最高だっただろうに」

 康治は充の手をうっとりと握ったまま、答えた。

「あれに触りたくなかったからだ」

「へー」

 ああやはり俺は傍観者でしかないんだな、だってこいつらの世界1ミリだってわっかんねえもん。と実感して、俺はリビングの窓を全部網戸にして回った。爽やかな雨上がりの風が部屋の中に通って、妙にすっきりした。

「康治、早くシチュー作ってくれ」

「ああ、そうだな」

 手に口づけを一つ落として、康治はキッチンに戻ろうとしたので、俺は足を拭く用のタオルを渡す。康治は礼を言って、受け取ったそれで足を拭いた。

 また今年も、三人で過ごす夏だ。

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傍観者 小野寺こゆみ @koyu

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