統合失調症患者が夢みる悪夢の小説

奈良哲郎

 敵がいる。私しか知らない敵が。誰も知らない、私にしか知られていない敵が。今日も彼らは、部屋の中を影のように揺らぎ、あるいは音のように跳ねまわり、公営住宅の一室に閉じこもっている、私を監視している。

 監視だけなら、まだいい方だ。彼らは夢魔のように私の頭の中をのぞいてくる。つまり、私の思考を読み取るのだ。どのようにすれば、このような非情な業ができるのか、私は知らないが、人間は視線の方角や距離、あるいは殺意といったものを、おおむね察知できると聞いたことがある。人間にもまだ野生が残っている証拠である。ならば、逆流した電流を検知するように、漏れ出た私の思考が彼らに読み取られていたとしても、何らおかしくない話である。この世界の真理というものは、案外シンプルなつくりをしているのかもしれない。

 しかし、なぜ私が? 市井の一市民に過ぎない私が、なぜ監視されなければならないのだ? 確かに私は今現在、無職の身の上である。この公営住宅に不穏な空気をもたらしているのは、私のせいかもしれない。けれども、私だってあなた方のことをよく知らないのだ。現代社会にありがちな希薄な近所付き合いの結果である。それに、あなた方こそが、私の敵である可能性だって、十分に考えられる話ではないか。

 小鳥の鳴き声が笑い声のように響く。くだらない自問自答をしている私のことが気に入らないのだろう。それなら、私だけが知っている特別の情報を教えてやろう。公営住宅の斜向かいに自治会長の家があるだろう。呼鈴を鳴らすことなく、玄関のドアをノックすることもなく、まるで透明人間にでもなったように、玄関をくぐり抜けて廊下を進めば、奥に自治会長の私室がある。その私室の片隅に、図体がでかいだけの安物の金庫が置いてあるのが見えるだろう。彼はその中に、自治会費の一部を横領して貯えているのだ。口ではこの町の保安を説きながら、陰では愚かな行いをしているのだ。

 このように、彼らが私の見ているものを見るように、あるいは聞いているものを聞くように、私も自治会長の眼を通して、彼の家の内部をつぶさに知ることができる。あたかも、彼の家に忍び込んだ盗人のように。これは私の犯罪ではない。あなた方が私に授けてくれた人間本来の能力である。

 なにやら外が騒がしい。二階へ上がり、公営住宅へと続く坂道を眺める。来た、ついに来た! 私の敵だ! 屈強な体つきの警官が乗ったパトカーが一台に、青パトも一台。それらを先導して、とぼとぼと坂道を上ってくるのは、自治会費を横領している、我らが自治会長様ではないか! ついに彼ら――つまり私の敵は――眼前に姿を現したのだ。私の正義の告発が彼らに届いたのである。

 私は脱兎のごとく階段を駆け下り、ダガーナイフを手に取って玄関のドアの前で息をひそめる。まるでヘミングウェイの小説みたいだ。ベルレンド中尉を待っていたロバート・ジョーダンは、こうやって敵を待ち続けていたに違いない! しかし、彼らは本当に私の敵なのだろうか? 敵とは、一体、何者なのだ? 呼鈴の音と、私を呼ぶ声が聞こえる。額には脂汗がびっしりとふき出している。いやいや、この期に及んで何を迷っているのだ? 彼らが本当に私の敵かどうか、そんなことは最早どうでもいいことではないか。誰もが繋がり、誰からも逃げられないこの世界で、今この私という異常者の告白に耳を傾けてくれる、あなただけが私の味方なのだから。

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