第9話死地を馳せる

 それは、まさに青天の霹靂であった。

 ブリアス城市の東南にあった大親征軍の大陣営は、夜明けから僅か半刻ほどで大帝の後陣と南領公家の本陣が、僅か二千の緑獅軍の奇襲によって、取り返しのつかぬほどの大打撃を受けていた。

 もちろん、周囲の諸侯等もそれを黙って眺めていた訳ではない。

 しかし、それぞれの家には、それぞれが抱える事情と言うものがあった。

 まず、いち早く後陣の異変に気付いたのは南海王家である。

 すぐに兵を叩き起こして軍装を整えさせるも、そこで信じがたい命を下した。

 まさかの『全軍撤収』である……。

 本陣に駆けつけてきた諸将は、思わず耳を疑った。

 困惑する彼らに南海王マクシム・ラバンディエは、こう説明した。

「……後陣にはろくな備えもなく、あるのは商人の作った町と娼館だけ。いざ救援に向かったところで、どうせ手遅れに決まっているわ!」

 南海王マクシムにしてみれば、いっそ大帝レイモン・ラバンディエがここで討ち死にでもしてくれれば、次の御鉢が回ってくる可能性だってある。

 仮に、摂政家が勝利したとて、今回の戦いで受けた傷は決して小さくはない。

 ここは戦力温存を図り、大帝直領や麾下の諸侯等の懐柔を図って来るべき摂政家との大戦に備えるのだと諸侯等に言い含めると、陣屋を畳んで、さっさと退却してしまった。

 その様子を見た大帝麾下の諸侯にも同調する者が現れ、それが次々に他の諸侯軍に伝播していく。

 すでに、何の実権も持たぬ名ばかりの大帝などに、命を懸けて忠節を尽くそうという者など、ほとんど残っていなかったのである。

 また、それとは少し違う対応を見せたのが東藩王家であった。

 東藩王の末弟レイナード・フェリアス卿は、先の御前会議で裁決された摂政家の降伏受け入れに不信感を抱き、密かにアルノー公や大宰相ベランジュ侯の身辺を密偵に探らせていたのである。

 次に、どこからともなく現れた摂政家の使者の登場に、アルノー公は裏で摂政家と通じていると確信し、密かに自陣を安全な位置に移す様、東藩王に進言する。

 東藩王ライムンド・ファリアスは直ちに諸将に陣替えの通達を命じると、夜半の内に後陣を離れ、見晴らしの利く街道沿いの高台に陣取った。

 レイナードの予見通り、後陣に不測の事態が発生するのを見るや、即座に麾下の諸侯等に伝令を送り、安全な東藩王の陣へと退避させ、そこで守りを固めさせた。

 これにより、東藩王麾下の諸侯軍には、ほぼ無傷のまま、摂政軍に相対する構えを見せることが出来たのである。

 一方で、その混乱に輪をかけてしまった諸侯もいた。

 それは大帝のいる後陣付きとされた東南諸侯軍、北東諸侯軍である。

 彼らの多くは緑獅軍の襲撃に気付くのが遅れ、急いで兵に軍装を整えさせたものの、情報の錯綜により敵味方の判別が付かず、不意に動いた部隊に向かって攻撃を始めてしまった。

 無論、それは同士討ちであり、それが余計に本陣の混乱を助長することになってしまったのである。

 そこに、アルノー公の空陣に潜んでいた摂政軍の残り八千が一気に雪崩れ込むと本陣、後陣共に、完全に収拾がつかなくなってしまった。

 そんな大混乱の最中、東南諸侯軍の中で唯一、冷静だったのはトラヴィスの父、ダルヴィス・オルトナーグであった。

 歴戦の勇である彼は、誤って自軍に向かってきた本家のロイク・ハルトナーグ侯を一喝し、東藩王の構える陣へと追いやる。

 そして、嫡子のトラヴィスに本隊を任せると、自身は殿しんがりとなって、その退却を助けたのであった。

 残念なことに、他の諸侯家では同士討ちどころか、遂には本当の裏切り者まで出てしまっていた。

 それは、本陣麾下のダリオ・ベルターニ侯を始めとする一派である。

 彼らは元々摂政家と親密な関係にあり、此度の連合参加も様子見のつもりで参陣していた。

 戦況によっては、摂政側に鞍替え出来る様、入念な準備もして……。

 そこに、まさかの摂政家の奇襲である。

 後背から現れた青獅軍、紫獅軍の矛先が自分達に向いていると知った途端、用意していた摂政軍の旗印を掲げたのだった。


 ここで、その時点での大親征軍の被害状況を整理すると、次の様になる。


 大帝レイモン・ラバンディエ       … 緑獅軍ガレイ隊により捕縛。

 衛将フェンディス・ロイ・マウェストン卿 … 緑獅軍ガレイとの一騎打ちの末、戦死。

 大宰相ベランジュ・オードラン侯     … 大帝捕縛の報を受けて、降伏。

 アラン・ルヴァリエ侯          … 緑獅軍ドナン隊との交戦により戦死。


 ダリオ・ベルターニ伯          … 敵に寝返る。

 カッファロ・バトーニ          … ベルターニ家の家宰。敵に寝返る。

 サヴァーノ・カラージ          … ベルターニ家麾下の領主。敵に寝返る。

 アンティオ・ブロディ          … ベルターニ家麾下の領主。敵に寝返る。


 アルノー・マールブランシュ公      … 敵に内通、そして撤退。

 ロイク・ハルトナーグ侯         … 同士討ちから逃れ、撤退中。

 ダルヴィス・オルトナーグ卿       … ロイク侯の殿しんがりを守って撤退中。

 アロイ・オルトネーラ卿         … 同士討ちにより、被害発生。


 トリンダール・アルボス公        … 同士討ちにより、被害発生。

 ティオバルト・バラハス侯        … 同士討ちにより、被害発生。


 レアンドル・ブリアス南領公       … 緑獅軍ドナン隊により捕縛後、処断。

 宰相ロズナー・トゥアルグ伯       … 緑獅軍ドナン隊に追い詰められて、自害。

 書記官ユーグ・ベルトラン卿       … 行方不明(黒獅軍により捕縛)

 ガストーネ・レイアン伯         … 現在、敵奇襲部隊と交戦中。

 ガロス・アルトナー伯          … 現在、敵奇襲部隊と交戦中。


 この他、南海王軍は全軍撤退中であり、まともな戦力を維持しているのは、東藩王軍のみ。

 南領公家本陣で未だ健在なのは、アルトナー伯とレイアン伯の二家だけであり、混乱の中、彼らは緑獅軍を相手に良く持ちこたえていた。

 しかし、そこに新手の青獅軍が到着すると戦線を支えられず、撤退せざるを得なくなってしまったのである。

 東藩王軍は大帝の奪還を試みるも行く手を、新たに出現した紫獅軍に阻まれてしまい、どうにか離脱してきた東南諸侯軍を迎え入れるのが精一杯。

 結局、夕暮れを迎える前には、ほとんどの戦線で決着が付いてしまったのである。

 破竹の勢いで次々と敵陣を蹂躙していった摂政軍も、流石に夜の追撃は一旦避けることとし、敵陣に残された物資、および捕虜の収拾に努め、戦い続けた兵達に休息を与えることにした。

 ちなみに襲撃を行った摂政軍の死傷者は、全部で一千にも満たなかったという。

 一方で、六万以上の兵がいた南北領公家の本陣、および大帝の後陣はたった一万の摂政軍により壊滅的な打撃を受け、その死傷者は一万人近くにも及んだ。

 それだけでも、この戦いは摂政軍の圧勝と言える。

 だがこの時、この戦いとはまた別の場所で、より熾烈な戦いが行われていた。

 ブリアス城市南西のエイル砦を守備する両帥将と、摂政ダルヴァ率いる本隊との戦いである。


 ここで一旦、少しだけ時間を遡る……。

 それはエイル砦でも朝餉を終え、すっかり日も高くなってきた頃のこと。

 いち早く、本陣の急変を知ったのは、南領家帥将ヴァーゼルであった。

「一大事に御座います! 南北公家本陣および、後陣に敵軍が夜明けと共に急襲、大親征軍は大混乱に陥っております!」

 闇士ハーレンとその部下達が、次々に急報を知らせてくる。

「我が主君は? 陛下はどうなされた!?」

「残念ながら、御二方の消息までは。しかし、状況を鑑みるに手遅れかと……」

 闇士ハーレンは、摂政家の放った影士や密偵隊と激しく切り結んでおり、二人の闇士と三頭の軍狼を失っていた。

 自身や豺狼ガルムも、浅い傷をいくつも受けている。

 更に、闇士ハーレンより、先に行われた御前会議の決議の内容を知らされると、思わず机に右の拳を叩きつけた。

「何たること……何故、決議の結果すらも、我等には知らされなかったのだ!」

 参謀のアイゼルは、それを聞いて思わず天を仰いだ。

「遂に、我等に天運は味方しなかった。いや、こうなったのも、全ては主君からの信を得られなかった我等のせいでもあるか……」

 二人は今更ながら、ガイゼル卿の無念をその身に思い知らされた気がした。

 しかし、それでも自分達にはまだ命が残っている。そして自分達を信じて付いてきた多くの兵達もいる。

 ここで全てを投げ出し、諦める訳にはいかないのだ。

 ヴァーゼルは、直ちに非常事態を知らせる書簡を用意すると、緊急連絡に使っている豺をエイル砦本陣の北領家帥将ドルフの下に走らせた。

 最早、両将が顔を突き合わせて軍議を開いている時間はない。互いに、それぞれの判断でこの窮地の逃れる他ないのだ。

 その様子を、対面する高台の陣屋からじっと窺っているのは、摂政ダルヴァその人であった。

「どうやら、ヴァーゼルの方が、先に本陣の異変に気付いた様ですな」

 エイル砦の両陣を遠眼鏡で探っていた謀将イヴァンが、そうつぶやく。

「ほう? 流石、我が師自慢の影士隊に匹敵する豺狼軍を抱えるヴァーゼルだな。だが、もう遅い。全ては、彼奴らの知らぬところで決していたのだからな」

 摂政ダルヴァは、先の戦で受けた左腕の傷を右手でさすりながら、不敵な笑みを浮かべる。

「あの時、負わされたこの屈辱、今こそ晴らしてくれようぞ……」

 ダルヴァの背後には四人の将軍が跪き、その命を待っていた。

 四人の将軍達もまた、先の戦いの借りを返そうと密かに闘志を燃やしている。

「皆の者、分かっているだろうが相手は、あのドルフとヴァーゼルである。後背を突いたとしても、決して油断するでないぞ」

 僧帥イヴァンが念押しにそう付け加えると、一同勇ましく「おうっ」と応じた。

「では、行くがいい。我が誇り高き銀と赤の獅子達よ。お前達の真の恐ろしさ、とくと見せつけてやれっ!!」

「ははっ!!」

 四人の将軍は拝礼を終えると、直ちに踵を返して颯爽と馬で駆けていく。

「さあ、早く出てこい。出てきた時が、貴様らの最後の時だ……」

 摂政ダルヴァは、舌なめずりする蛇の様に、その瞬間を静かに待った。


 その頃、ブリアス城市でも城外からの急報が、矢継ぎ早に飛び込んできていた。

「せ、成功です! 緑獅軍が敵の本陣、および後陣の奇襲に成功しました!!」

 物見に出していた密偵からの朗報に本城内中が湧いていた。

「兄上、いよいよ我等の出番ですな」

「ああ、遂にこの時が訪れた。いかにして、我が金獅軍が結成されてから僅か二年で、ボーグタス家最強と呼ばれる様になったのか……今一度、奴らに思い出させてくれようぞ!!」

 出撃の時を待ち詫びていた金獅軍、全ての将兵がバルデスのその言葉に雄叫びを上げて応える。

 思えば三年前、大藩国で巻き起こった後継者争いにて主君を討たれたバランディーン一族を温かく迎えてくれたのは、当時、銀獅軍大将であった太子ダルヴァであった。

 太子ダルヴァはバランディーン兄弟の武勇やその忠烈なる志に惚れ込むと、自身の姉をバルデスに娶らせて摂政家一族衆とした。

 更にはバランディーン一族を中心とした新たな軍団、金獅軍を編成し、バルデスをその大将として託してくれたのである。

 その時の感激は、バルデス等にとって生涯忘れられないものであり、その大恩に報いんと、自らこの占領地であり、最前線でもあるブリアス城市の守将に志願したのだった。

 金獅軍の士気の高さは、バルデスが掲げる摂政ダルヴァへの忠義の証でもある。

 バルデスは、城外から一際大きな歓声が上がった瞬間、出撃の命を下した。

「金獅軍、出撃だっ!!」

 バルデスは僅かな守りだけを残すと、自ら金獅軍五千を率いて城外へ飛び出した。

 目指すは、北領公家本陣。

 現在、ブリアス城市南東の陣屋で唯一、摂政軍からの襲撃を受けてない陣でもある。その陣容はこうであった。


 大総督クレマン・ブラントーム北領公(兵一万)

 ラドミール・バラーシュ卿(兵一千・北領侯本陣前守備隊)

 マリウス・ゲルストナー卿(兵一千・サムス砦守備隊)

 アーベル・ファーナー卿(兵一千五百・ブリアス城市北部包囲隊)

 カール・グリント卿(兵一千・デニス砦守備隊)

 ノンベルト・ブランケ卿(兵一千・ブリアス城市北部包囲隊)

 フリッツ・アイスナー卿(兵一千・ブリアス城市北部包囲隊)


 ※エドガル・ブラントーム侯(兵三千・カラマン城砦守備隊・副官が城代)


 点在する包囲軍は動かせないとしても、クレマン公の本陣だけでも金獅軍の倍の兵数を有しており、南領公家の本陣に救援を出そうと思えばいくらでも出せたはずである。

 それなのにクレマン公は、何故か兵を動かそうとはしなかった。

 いや……実のところ、それどころではなかったのである。

「て、敵襲ーーーっ!!」

 怒涛の勢いで押し寄せる金獅軍の旗印を見た北領公家の物見が、あらん限りの声で絶叫する。

 すでに、南領公家の本陣の異変は伝わっており、陣内は騒然としていた。

「閣下は何をなされているっ! 何故、我等に指示を寄越さぬのだっ!?」

 北領公からの指示は、いくら待っても届かない。

 物見櫓から、敵襲の鐘が早打ちされると、本陣の将兵等は慌てて配置に付く。

 しかし、緩みきっていた彼らの士気は低く、それに加えて他の陣は、敵の奇襲を受けて大混乱と聞き、戦う前から腰が引けていた。

 そんなところに、あの精強で名高い金獅軍の突撃である。

「うぉおおおおーーーっ!!」

 先頭をきって疾走する黄金の獅子が一吠えすると、その剛腕が振るう大槍から、大地を切り裂く様な剣風が打ちだされた。

 その剣風は柵を貫き、後方にあった物見櫓までもなぎ倒すと、そこにぽっかりと大きな入口が出現する。

「だ……駄目だ、もう駄目だっ!」

 誰かが、そう叫んで持ち場を離れた。

 それを聞いた兵士達もまた、弓に手を掛ける前に一斉に逃げ始める。

「我に恐れをなしたかっ! 臆病者共め、どこまでも追ってやるぞ!!」

 バルデスは、神気を漲らせた大槍でバシバシと柵や櫓を切り裂いていく。

 それに続けとばかりに、麾下の騎馬隊も次々敵陣へと突入する。

「おのれバルデスっ! 貴様などにこのラドミール、断じてやらせはせぬぞっ!」

 威勢のいい啖呵をきって飛び出してきたのは、剣聖リックハルドと同門であり、剣豪としても名高いラドミール・バラーシュ卿。

 その左右には、彼の甥の子である若武者イクセルとハンネルの姿も見えた。

「君達二人は、この私がお相手しましょう」

 すっと、バルデスの背後から現れたのは、銀の鎧甲をまとったシルヴィス・バランディーン。

「兄者。あいつ、かなりやるぞ」

「わかっている。ぬかるなよっ!」

 二人の若武者が、シルヴィスの馬を左右から挟み込む様に迫るも、シルヴィスはふっと、イクセルに吸い付く様に馬を寄せていく。

「何っ!?」

 虚を付かれたイクセルは、槍を繰り出すが、シルヴィスは逆手に持った太刀でそれを軽く受け流すと、間髪入れずにそれをイクセルに叩き込んできた。

 辛うじて体を捻り、その一撃を交わしたイクセルだが、態勢を大きく崩して馬から放りだされる。

「兄者っ!!」

 ハンネルが兄の窮地を救おうと、シルヴィスの馬を狙うが、その槍は虚しく空を斬っていた。

「な、なんだこいつはっ!?」

 まるで、馬自身がハンネルの突進を読んでいたかの様に、その身を加速させた。

 人馬一体どころではない。馬自身がその身に神気を宿していたのである。

「はははっ、私のシルヴィアにそんな槍は届かないさっ!」

 軽やかな笑いが、顔まで隠した銀兜の奥から響いてくる。

「ハンネル! 無理をするな!!」

 辛うじて受け身を取ったイクセルは、口笛で離れてしまった馬を呼び寄せる。

「ほう、君らもなかなか馬と通じ合っているんだね」

 楽しそうな声でシルヴィスがそう言うと、今度は槍を構えてハンネルに向かってきた。

「こいつめっ!!」

 負けじとハンネルは馬首を返すと、すぐさまその槍をからめる様に下からすくいあげた。

 しかし、次の瞬間、宙に弾かれていたのはハンネルの槍……!

「伏せろっ!!」

 兄の言葉に素早く反応したハンネルは、間一髪で太刀の一撃を躱す。

「冗談じゃない、馬上で槍と刀の二刀流かよっ!」

「君達も兄弟かい? いいよね、兄弟ってさ!」

 続け様にハンネルに振り下ろされたシルヴィスの太刀は、返す刀でイクセルの放った小刀を弾き返す。

「くそっ、なんて奴だ!」

 イクセルはようやく戻ってきた馬に飛び乗ると、ハンネルに追いすがった。

「どうする兄者、悔しいが相手は数段上だ」

「ならば、こっちは二人の利点を生かすまで。アレをやるぞ!」

 イクセルとハンネルはぴたりと馬の歩調を併せると、再びシルヴィスに向かって突進する。

「お、何か奥の手がある様だね。それは楽しみだ」

 そんなシルヴィスの挑発に反応せず、イクセル、ハンネル兄弟は併走からぱっと二手に分かれると、左右から槍の穂先を神気で練り上げ、上下から狭間にいるシルヴィスに斬りつけた。

「ほっ、やる!」

 シルヴィスは自身も神気を瞬時に張り巡らせると、左右の手に持った槍と太刀でそれを受け止めた!

 二人の息のあった渾身の一撃に、さしものシルヴィスの両腕に痺れが走る。

 しかも、兄弟の攻撃はそれで終わらなかった。

 交錯した直後に、馬の背に預ける様にして体を仰向けに投げ出すと、小刀を投げつけてきたのだ。

「なんとっ!」

 咄嗟に気付いたシルヴィスは太刀を離すと、器用にも馬上で体全体を横半回転させて小刀を槍で弾くが、その内の一本が銀兜に突き立った。

 そのままシルヴィスはくるっと回転して、馬から飛び降りる。

「やったか!?」

 兄弟が馬首を返すと、シルヴィスを庇う様に金獅軍の騎馬武者達が二人を遮っていた。

 銀兜を脱ぎ捨てたシルヴィスは、流れる様な美しい金髪を左手で掻き上げて微笑む。

「お、女……?」

 その凛々しき華武者振りに驚くイクセルとハンネル。

「あっぶないなぁ。髪がこんなに切れちゃったよ。どうしてくれるのさっ!」

 シルヴィスにしては、珍しく不機嫌そうな声を出した。

 高めの声だが、それは女の声ではない。

「まあ、今日のところは君達兄弟に勝ちを譲ってあげよう。久しぶりに楽しかったから、見逃してあげるよ」

「なんだとっ!?」

 ハンネルが食って掛かろうとするのを、イクセルが止める。

「それより、今ので隊から大分離れてしまった。大叔父上が心配だ、戻るぞ!」

 イクセルの言葉に頷くと、ハンネルも兄を追ってその場を立ち去っていく。

「……あまり無茶をしないで下さい。貴方様にもしものことがあれば、我が金獅軍だけでなく、ボーグタス家全体の大きな痛手となります」

 紅潮した顔を拭いながら、爽やかな笑みでホールソン兄弟を見送るシルヴィスを嗜めるように、金獅軍の騎馬武者達が周囲を固めた。

「大袈裟だなあ。まあ、舐めてたわけじゃないんだけど、やっぱ、二人同時は無茶だったかな。次からはやめにしておくよ」

 シルヴィスはそう言って、小刀を抜いた銀兜を被り直すと戻ってきた愛馬シルヴィアに跨るのだった。


 一方、バルデス将軍とラドミール卿の戦いにも決着がつこうとしていた。

 互いに激しい打ち合い、そして神気のぶつかりあいの末、ついにラドミールの馬がその圧力に耐え切れずに横転し、ラドミール卿は地面に投げ出された。

 右肩をしたたかに打ち、槍を落としたラドミールにとどめを刺そうとバルデスが馬首を返すと、そこに新たな将が立ちはだかる。

 イクセル、ハンネルの父、ディンセル・ホールソンである。

 ディンセルは槍を振り上げ、後続の弓隊に構えさせると、自身はバルデスの側面を突く様に、廻り込んできた。

 この男もラドミール卿と互角か、それ以上の腕前と見たバルデスは即座に馬首を返す。

「これ以上、貴様等に裂いてる時間はないわ。我が狙うは、北領公の首ただ一つよ!」

 バルデスは金獅軍の騎馬隊と合流すると、暴風の如き暴れながら遠ざかっていく。

「大殿! 御無事でっ!!」

 駆けつけてきたのはイクセル、ハンネルの兄弟。

「……バルデス・バランディーン。なんと恐ろしい男よ」

「まさか、大叔父上が不覚を取るなんて……」

 兄弟は青ざめた顔で馬から降りると、ラドミール卿の体を抱き起こした。

「ここには、もう我等しかいない。このようなところで死ぬわけにはいかぬ。引くぞ」

 冷徹な口調で父ディンセルがそう告げると、イクセルは何か言いたげであったが父の言に大人しく従った。

 どの道、今から金獅軍を追ったところで、間に合うはずもない。

 負傷したラドミール卿を馬に乗せると、彼らもまた、風の様に去っていった。


        *         *         *


 時刻は正午を過ぎた。

 この時点で、ブリアス城市を包囲する大親征軍は、東藩王軍とエイル砦に籠る両帥将の軍を除くと、そのほとんどが壊滅、もしくは撤退しており、十万と号した陣容は見る影もなかった。

 南東の敵本陣および、後陣で暴れまわっていた緑獅軍、青獅軍、紫獅軍は追撃を止めて兵を休ませており、現在の主な戦場は北領公家の本陣に移っていた。

 エイル砦の帥将ドルフは、全軍の出撃準備を整えさせると即座に砦の放棄を麾下の将兵に告げる。

 摂政家の本陣はまだ動きを見せておらず、このエイル砦から兵が出た途端、一気に追撃してくるのは明白であった。

 この孤立した戦場で追撃を受ければ、おそらく半数も生きては帰れまい。

 そんなことはドルフ自身、百も承知である。それでも、砦を打って出ねば、主君である北領公への救援が完全に手遅れとなってしまう。

 北領公の安否は分からぬが、帥将ドルフはそれでも行かねばならない。

 未だそこで戦っているであろう、味方の将兵を見殺しにすることは出来ないからだ。

 ここで本来ならば、このエイル砦に一千ほどの守兵を殿しんがりとして残し、時間稼ぎをするのが定石である。

 帥将ドルフが、敢えてそれを選ばぬのは理由がある。

 それは、盟友である帥将ヴァーゼルが軍狼を通じて送ってきた書簡にあった。

 ただ一言、「殿しんがりは任せよ」と……。

「このドルフ・エーケンダール、決してこの恩は忘れぬ……」

 ヴァーゼルへの返書には『忝 《かたじけな》し』とだけ書き記して書簡に詰めて放ると、待機していた豺が素早くそれを口に咥え、走り去っていく。

「死ぬなよ、ヴァーゼル……」

 盟友への思いを振り切ると、帥将ドルフは全軍出撃の号令を上げた。

「ようやく動いたかっ!」

 エイル砦の動きを見て取った摂政ダルヴァは、直ちに赤獅軍に進撃を命じる。

「どうやら、ヴァーゼル隊が殿しんがりの様で……」

 僧帥イヴァンがそう告げると、摂政ダルヴァは意外そうな顔をした。

「まさか、主家の滅亡を悟り、ここで殉ずるつもりではなかろうな?」

「……ありえる話とはいえ、フォントーラの者が今更それを選ぶかは、甚だ疑問なことですな」

 そんなイヴァンの言に、ダルヴァも頷く。

「どの道、追撃中の赤獅軍の後背を守る為にも、エイル砦に残ったヴァーゼル隊は包囲せねばならぬ。彼奴が玉砕を選ぶのであれば、相手にせず遠巻きにして包囲すれば良い」

 ダルヴァは、奇襲部隊の三将軍に新たな命を伝えると、本陣をイヴァンの黒獅軍に任せ、自身は銀獅軍を率いてエイル砦の包囲に向かった。

「殿っ、敵本陣に動きあり! 追撃は赤獅軍、こちらの包囲は銀獅軍の模様!」

 物見の報告を聞き、ヴァーゼルは立ち上がった。

「……さて、我等も始めるぞ」

 いつになく、静かな物言いで各隊の部将達にそれを伝える。

 そして、最後にカゼルを呼んで何かを耳打ちした。

 カゼルは緊張した面持ちで頷くと、ガーヴァスと共に持ち場へと向かって歩き出す。

「いいのかよ? 引き受けたオレが言うのもなんだが、かなり際どい作戦だぜ?」

「自分は殿を……父上を信じています。大丈夫、きっと上手く行きます」

 カゼルには、体中に張り巡らされたその緊張感に胸が高鳴るのを感じていた。

 初めて、殿しんがりという大役を任されたこともあるが、それだけではない。

 相手は何しろ中原の覇者、摂政ダルヴァ率いる銀獅軍。今まで出会ったどんな相手よりも、精強な軍団に違いない。

「(この窮地を切り抜けてこそ、自分はフォントーラの志を引き継ぐ資格があることを証明することが出来る!)」

 死ぬつもりはない。生きて、生き抜いて自分を取り巻く全ての不協和音を取り除いてやる……カゼルの心はかつてないほど、燃えていた。

 そんな後ろ姿を見送る姉リーゼルの手は、小刻みに震える手を握り締め、叫びそうになるのを堪えるのが精一杯……。

 遂には遠ざかっていくカゼルの背を追いかけようするも、それを祖父アイゼルが止められる。

「大丈夫だ。カゼルには策を授けてある。そして、その策を遂行するのに最適な将として選ばれたのだ。それに豺狼軍もつけてある。心配するな」

 祖父アイゼルは、リーゼルを振り向かせると、彼女を待つカミルとセリオの方へと押しやった。

「姫様、我等も急がねば」

「カゼル様は、きっと大丈夫です!」

 蒼白な顔のリーゼルは、震えるその唇でカゼルの名を呼ぶ。

 そのか細い声は、馬蹄の響きによってかき消されていった……。


 エイル砦に残ったカゼルとガーヴァスは浪人衆を集めると、自分達がこの撤退戦の殿しんがりとなったことを伝える。

 その後ろには、ラウグやラインの他、カスパーとロマスの姿も見えた。

「ウ、ウソじゃろ? ワシら、浪人衆ですぞ!?」

 浪人衆の多くは、信じられないといった顔をしていた。

 そもそも浪人衆といえば、負け戦となれば真っ先に潰走するのが普通であり、こうしてまだ全員集まっていること自体、奇跡といえた。

「本当です。我等がこのエイル砦で時間を稼ぐ役目を任されました」

 カゼルが、念押しにそう答えるが、浪人衆の動揺は収まらない。

「バカ言うな! 何で正規兵が逃げて、オレらが殿しんがりなんだよ!」

「あのヴァーゼル殿が、オレ達を捨石にするのか!?」

 すると、怒鳴りつける様にガーヴァスが大声を上げた。

「ばかやろうっ! カゼル殿が残ってるんだ! 捨石のワケねーだろっ!!」

 ガーヴァスに言われて、ようやく浪人衆はそのことに気付く。

「で、でも、ワシらだけであの銀獅軍の追撃を防げだなんて……」

「大丈夫。ここに父ヴァーゼルから授かった策があります。我々のこれまでの働きを見て此度の殿しんがりに適任だと言ってくれたのです」

 それを聞いても、浪人衆の面々は半信半疑の顔をしていた。

 ここで浪人衆にやる気を出させねば、せっかくの策も無駄に終わってしまう。そんな彼らを説得する言葉を、必死に考えるが上手く言葉に出来ない。

 焦るカゼルを見て、ガーヴァスが先に口を開いた。

「……なあ、オマエら。逆に考えれば、浪人衆で殿しんがりを任されるってスゲェことだと思わねぇか? しかも、あの名将ヴァーゼル殿にだぞ?」

 ガーヴァスの思わぬ言葉に、ポカンとする浪人衆。

「ここで一発、オレら浪人衆がフォントーラ家直伝の策で、あの摂政軍をぎゃふんと言わせてみろ。こんな面白いことは他にねえだろうがっ!」

 ガーヴァスは、自信ありげな顔で笑っていた。浪人衆はその様子に呆れ、堪え切れず笑いだす者も出始めた。

「隊長、そりゃ面白いに決まってる!」

「それが出来るってんなら、冥土に行っても自慢できるな!」

「上手く生き残れりゃ、女にモテモテよ!」

「仕官の口だってあるかもな……」

 カゼルは、こうやるんだとばかりに得意顔のガーヴァスに一礼すると、再び浪人衆に向き直り、頭を下げた。

「皆、あの時と同じ様にもう一度、力を貸して下さい! 我等が一丸となれば、必ずやあの摂政軍に一泡も二泡も食らわせてやれるんですっ!! そして、成功の暁には三倍の報酬を約束しますっ!!」

 カゼルが再び顔を上げると、キラキラと目を輝かせた浪人衆の面々があった。

「そうこなくっちゃ! どうだ、お前達。一発どかんと派手にやったろうぜ!!」

 ガーヴァスの音頭で、浪人衆の雄叫びは天を突くかの様に響き渡っていた。


「一体、どういうつもりだ、あれは……」

 先鋒の銀獅軍大将セブリオ・アズナールが、砦を見上げてそう呟いた。

 ヴァーゼル隊が籠城しているはずのエイル砦では、押し寄せた銀獅軍に向けて、二つの門が開け放たれていたのである。

「どうした、何を止まっておる」

 続いて到着した摂政ダルヴァも、砦の異様さに気が付く。

「……小癪なマネを。ここで空城の計とは、やってくれる」

 空城の計とは、読んで字のごとく、城内の兵や旗指物といったものを全て隠し、城門を開け放ったままにする作戦である。

 古典的な計略であるが、いざ、実際にこれに対すると大抵の将は面食らう。

 敵は兵を伏せており、攻撃隊がのこのこと城門前にやってきたところに、一斉に矢弾の雨を降らすというのが定石ではあるが、本当に城内には、誰も残っていないこともありうる。

 更にはそうと見せかけて、城内の家屋などに隠れており、攻撃隊が城内に入った瞬間に襲ってくる手もあるのだ。

「(限りなく、罠の臭いがする……)」

 ヴァーゼル隊の精強さは、摂政家の誇る七獅軍に引けを取らない。今、ダルヴァが率いてきたのは三千であり、対する砦側は約六千はいるはず。

 打って出てくれれば、こちらは八百以上の騎馬隊がおり、数で劣っていても互角以上にやれる。

 しかし、万が一、伏兵に襲われた場合、相手が倍では勝負にもならない。

「黒獅軍と合わせれば、数はほぼ互角になりますが……」

「出来ればそれは避けたい。御師おんしには、本陣でこの広大な戦場を見通して貰わねばならぬ」

 黒獅軍の強さはその戦闘力もさながら、諜報力の高さにこそある。

 ブリアス城市周辺に展開している全ての敵味方を監視し、最新の情報を元に、適切な指示を出す重要な役割がある。

 敵軍の主力は壊滅させたと言っても、まだ二万の兵を持つ東藩王が残っている。

 対する摂政軍は戦力を大きく分散させており、どこか一つが崩れると、せっかくの大勝利をひっくり返される恐れもあった。

 ギリギリの戦いを続けている摂政軍には、もう余力はない。

「ここで冒険は出来ぬ。仕方ない、物見の兵を出せ。敵兵の姿がなくとも、油断はするな!」

 百人ほどの兵を先行させると、ダルヴァの本隊が砦下で待機した。

 すると案の定、物見の兵が城内に足を踏み入れた途端、無数の矢が襲い掛かり、それぞれ半数に近い損害を出して逃げ戻ってくる。

「やはり、兵を伏せていたか……」

 それとは別に、ヴァーゼル隊が使っていた城門の両脇の雑木林を探っていた密偵も戻ってきた。

「残念ながら、正面側の抜け穴の全てに焼いた硫黄が流されていました」

 坑道内は毒素で充満しており、とても通れる状態ではない。

「豺狼軍か……敵ながら、用意周到な奴等めっ!」

 相手が万全の態勢で待ち構えているのであれば、これ以上の無理押しは兵の損耗を招くだけ。

 摂政ダルヴァは歯噛みしながら、手の空いた奇襲部隊の面々が到着するのを待つ他なかった……。


 やがて、日もすっかり暗くなる頃、ダルヴァはふと、砦の様子に違和感を感じた。

 いつまでたっても煮炊きの水煙が上がってこないのだ。

 確かに手持ちの干し餅(火を通して乾燥させた雑穀の餅)など、煮炊きを行わずしても食事は済ませられるが、それを使っては、いざ退却中の兵糧がなくなる。

 仮に、連中がここで玉砕するつもりならば、きちんと食事を取らせて、最後まで戦える気力と体力を整えるはず……。

 念の為、物見を出すも砦から敵兵が出た様子はなかった。

 ダルヴァの感じたその違和感は、夜に入って確信的なものになってくる。

 明らかに、砦から見える篝火の数が少なすぎた。

「しまった! さては寡兵を殿しんがりに残し、死兵の計を用いてきたか!?」

 兵を愛し、また愛されるヴァーゼルが、自らの兵に死を強要する「死兵の計」を使ってくると、想定していなかった自分に、ダルヴァは、その迂闊さに歯噛みする。

 更に、ブリアス城市からの伝令で、ドルフ隊を追撃したはずの赤獅軍が、敵の挟撃を受けているとの急報がもたらされた。

「おのれ、ヴァーゼルっ! またしても謀られたか!!」

 ダルヴァは自ら銀獅軍の先頭に立ってエイル砦に乗り込み、その足で赤獅軍の救援に向かおうとしたが、それを銀獅軍大将のセブリオ、副将タブリグ兄弟に押しとどめられた。

「閣下が死兵に向かうことは、絶対になりませぬ!」

「ここは我等にお任せを。必ずやヴァーゼルの首を挙げて御覧に入れまする!」

 血気に逸っていたダルヴァだが、二人の言をもっともだと頷き、彼ら銀獅軍だけでの追撃を命じることにした。

 更に、ブリアス城市内に引き上げていた金獅軍にも赤獅軍救援を命じると、自身は後軍の黒獅軍と合流し、迂回路を通ってブリアス城市の守備に回ることにした。

 主君の怒りを引き継いだ銀獅軍だが、昼間の伏兵のこともある。

 開け放たれた城門ではなく、慎重に歩兵隊に斜面を駆け昇らせた。

 防柵や物見櫓から矢弾はまったく飛んでこず、歩兵隊は易々と城内に突入を果たす。

 その時、突如として砦内に火の手が上がり、爆炎が立ち込めたのである。

「なんとっ! またしても罠であったかっ!!」

「退却の銅鑼を鳴らせっ!!」

 慌てた兵士達が、斜面を転がる様にして逃げてくる。

 その多くが、自らの鎧や斜面に投げ捨てられた槍によって傷を負っていた。

「あの煙は、硫黄の毒です! あれでは、当分砦には入れません」

 突入した兵士からは、更にこんな報告があった。

「火を放った敵兵が、裏手から逃げていくのが見えました!」

「ならば、この砦を迂回して追おうぞ! せめて、そいつらだけでも血祭に挙げてくれん!!」

 副将タブリグは騎馬隊と共に、松明を掲げて闇夜の中を猛然と走り出した。

 しかし、いくら追っても、砦から逃げ出した敵兵の姿は見つけられない。

「これは一体、どうしたことか?」

 更に半刻ほど捜索するも、一向に敵兵の一人も見つからない。

 すると、行く手に松明を掲げてひた走る騎馬隊に遭遇した。

 摂政ダルヴァからの要請を受け、再出撃してきた金獅軍大将バルデスの騎馬隊であった。

「おう、これは銀獅軍のタブリグ殿ではないかっ!」

「なんと、バルデス殿も来てたか! 逃げてきた砦の敵兵を見なかったか?」

「いや、見かけたのはブラントーム家の敗残兵だけだ」

 悔しがるタブリオだが、今は赤獅軍の救援が先だと判断する。

 その時、二人の前方を駆けていく百騎ほどの騎馬隊を発見した。

「あれは……金獅軍の別働隊か?」

「いや、我等はここにいるのが全てだ」

 ならば、それこそ追い求める敵だと、すぐさまタブリグの銀獅軍がそれを追う。

 バルデスはその追撃を銀獅軍に任せると、引き続き、赤獅軍の行方を追って馬を馳せた。

「今度こそは逃さぬっ!!」

 怒りに燃えるタブリグと銀獅軍は、夜陰をふらふらと彷徨う哀れな獲物目掛けて飛翔する梟の如く、猛然と彼らに襲い掛かるのだった。


        *         *         *


 話は、ほんの少しだけ時を遡る。

 エイル砦から逃げ出した北領公家帥将ドルフを追っていた赤獅軍大将ギジェル・ディオーラは、日没の寸前にようやくその姿を視界に捉えることが出来た。

「よしよし、ようやく追いついたわ! 一兵たりとも逃がすでないぞ!!」

 猛然と追撃してくる赤獅軍に気付いた最後尾の部隊が反転し、槍衾を構えようとするが、疾風の様な速さで迫ったギジェル隊によって、一気にそれは突き破られた。

「大殿を討たすわけにはいかぬ。我等、ここを死地としようぞ!」

 そう言って、二人の部将がギジェルの騎馬隊を必死に阻む。

「雑魚が、しゃらくさいわ!」

 瞬く間に、二人の部将の首が、ギジェルの放った薙刀で飛ばされていく!

 しかし、流石に帥将ドルフの隊は精兵であり、士気も高い。

 指揮官である部将が死んでも、代わりの将校がその部隊の指揮を引き継いで応戦する。

「叩け、叩けぇーーー!」

 兵達は槍を上段に構えると、呼吸を併せ、一斉にそれをギジェルに叩きつけてきた。

「こなくそっ!!」

 気合と共に、ギジェルは五本の槍を受け止めると、それをまとめて跳ね返す!

 次いで、ギジェルは棹立ちとなった馬から繰り出された足蹴りで足元の兵士を踏み倒すと、指揮を引き継いだ将校目掛けて、馬の手綱を取る。

「あ、あああっ!?」

 哀れにもその将校は、水車のごとく振り回されたギジェルの薙刀で、横一文字に真っ二つとされてしまった。

 それでも殿しんがりとなった部隊は、槍の壁を作って騎馬隊の突進を防ごうとする。

「めんどうだっ! こいつらを先に叩き潰すぞっ!」

 言うが早いがギジェルは馬から飛び降り、ところ構わず薙刀を振り回し、槍の壁を切り払っていく。

 それに続けとばかりに次々と騎馬隊の面々も馬から降り、ギジェルの巻き起こす刃の竜巻に弾かれた敵兵を串刺しにしていった。

「くそったれ、これじゃ大物を逃がしちまうだろうがっ!!」

 そんなギジェルの怒りを叩きつけられた敵兵が、一振りごとにまとめて二、三人吹き飛ばされていく。

 その時であった。

 赤獅軍大将ギジェルの下に、伝令が飛び込んできたのは……。

「…………すっ!……ますっ!!」

「聞こえねえぞ、はっきり喋れっ!」

 自らの起こす剣戟で聞こえないにも関わらず、ギジェルはその手を休めようとはしない。

「……ゼルです!! 後方から来てますっ」

 薙刀を振り切った後、ギジェルは固まった様にその動きを止めた。

 周囲の敵兵は、転がる様にしてギジェルに距離を取る。

「……もっかい、言ってみろ?」

「ヴァーゼルが来ましたっ!!」

「……なんでだぁーーーっ!!」

 癇癪でも興した様にして前方の敵兵に向かって、偃月の様な剣風を放つと、十人以上の兵が、ばらばらに千切れて吹き飛んでいく。

 ギジェルは急いで騎馬隊を騎乗させると、崩れかかっていたドルフ隊を放って、後方の救援にと全力で駆けだした。

 すると、ギジェルの目前には、悪夢の様な光景が広がっていた。

 そこはまるで、自分が今まで蹴散らしていたドルフ隊の殿しんがり部隊と、まったく同じ光景が広がっていたのである。

 そして自分と同じく、竜巻の様に矛槍を振り回している巨漢がいた。

「こんの化け物野郎がぁっ!!」

 馬を飛び下りると味方の兵を押しのけて、その巨漢に薙刀を叩きつける。

 真っ二つにしたつもりが、なんとがっちりと受け止められていた。

「……よく言うぜ、この化け物野郎」

 その巨漢ジィド・ローハンは、ぼそっと呟くと力任せにギジェルを押し戻す。

 そこからは、化け物同士の戦いの始まりであった。

 互いに、相手が地面にめり込むかの様な一撃を叩きつけ合ったかと思えば、すぐさま嵐の様な連撃で激しく打ち合う。

「おんどれぇーーーっ!!」

 打ち合いではらちが明かぬとばかりに、ギジェルが距離を取る。

 そして、必殺の神気を練り上げると、その剣風をジィドに向かって叩きつけた!

 シュバッ……!

 大気を切り裂く剣風は、目の前の化け物を真っ二つに……とはならなかった。

「う、うそだろ、おまえ……」

 ジィドは、その剣風の太刀筋を見切って、自らの矛槍の刃で切り裂いたのだった……。

「まったく……どいつもこいつも自慢げに、すぐそいつを使いたがる」

 神気もなしに剣風を相殺するなど、ギジェルは聞いたことがない。

「悪いが、そいつじゃオレは倒せない」

 ジィドには、残念ながら神気を使いこなす資質がなかった。

 その代わり、幼き頃より鍛え抜いた鋼の様な体と獣の様に鋭い感覚を持っていた。

 そしてある時、立ち会った剣豪との果し合いの中、神気の太刀筋が見えたのである。

 その筋を断ち切ると、たちまち神気は霧散した。

 今、ジィドが見せたものは、まさしくそれだった。

 驚くギジェルに、副将である弟のナジェロが、どうっと隣に転がり並ぶ。

「兄貴、ここはもうヤバイ! ヴァーゼルの野郎も、相当にヤバイっ!!」

 見れば弟のナジェロは左手首から先を失っており、すでに血まみれであった。

 目の前には矛槍を構えなおしたジィドと、その横にヴァーゼルの姿……。

「オレ達兄弟が揃って押し負けるだなんて……こいつは、ちょっとした悪夢だぜ」

 大将と副将の劣勢を見て、赤獅軍の将兵がその盾になる様に、間に割って入ってくる。

 激しい乱戦の中、ギジェルは負傷した弟ナジェロを抱えて後退するも、更に悪いことに、逃げていたはずの帥将ドルフの騎馬隊が、反転して襲ってきていた。

 その後、駆けつけてきた金獅軍バルデスの働きにより、赤獅軍はかろうじて窮地を免れたが……その被害は大きく、副将ナジェロの負傷もあり、彼らはそれ以上の追撃を諦めざるを得なかった。

 こうしてヴァーゼル隊、ドルフ隊は共に死地を切り抜けると、一路トラス城市へと落ち延びていくのであった。


        *         *         *


 その頃、銀獅軍大将セブリオの率いる騎馬隊は、エイル砦から逃れたヴァーゼル隊の殿しんがりを追って、必死の追撃を行っていた。

「くそ、連中に騎馬隊があるはずもなし、何故追いつけんっ!?」

 どれだけ駆けても、それらしき姿は見当たらない。

 それどころか、敗走してきた赤獅軍の兵と、それを守る金獅軍と鉢合わせてしまったのだ。

「おう、セブリオ殿じゃないか。その様子だと、敵の殿しんがりは取り逃がしてしまったらしいな」

「バルデス殿……面目ない」

 半年以上に渡る篭城戦でブリアス城市を守り抜き、更に敵の二大主力軍の片割れ、北領公軍を完膚なきまで叩き伏せた金獅軍に比べ、さしたる戦果も上げられなかった銀獅軍大将セブリオは、悔しそうに唇を歪ませる。

「気にするな、銀獅軍の役目は我等が主君、ダルヴァ閣下の直衛隊なのだ。今後、いくらでも活躍の場はあろう」

「言われずとも、わかっている……しかし、敵の殿しんがりは一体、どこをどうやって逃れたのか……?」

 すると、バルデスの横に馬を並べてきた白銀の騎馬武者が、二人の将軍の会話に割って入る。

「騎馬隊の追撃の逃れるとすれば、あそこじゃないですかね」

 金色の長い髪を夜風になびかせながら、シルヴィス・バランディーンはそう言って、隣にそびえる山を指差した。

「山……この夜にか?」

「もしかしたら、砦に残っていたのは噂の豺狼軍ではあるまいな……」

 もし、そうであるなら、逃げられたのも致し方ない。

 彼等も僧帥イヴァンの子飼いである影士の凄さは知っている。

 それと同等か、それ以上と言われるフォントーラ家の闇士と豺狼軍ならば、闇夜の中でも昼間のように山野を駆け巡ることが出来るのだから……。

「そうだとすれば、あとは黒獅軍の面々に任せる他は無いか……」

 銀獅軍大将セブリオ・アズナールは、不気味なものを見るかのように、夜の山を見上げるのだった……。


 彼等が取り逃がした浪人衆は、シルヴィスの指摘通り、夜の山中を駆けていた。

 もちろん、先導役として闇士ハーレンと豺狼ガルムの先導あっての、逃避行である。

「はぁはぁ……よくもこんな悪路を、ああも走れるものですね」

「しゃべる元気があるなら、足にまわしな」

 息切れしながら、必死に遅れまいと駆けるラインに対し、狩人として山道に慣れてるラウグは、まだまだ余力がありそうだ。

 ラインだけではない。浪人衆全員がこの夜の闇を恐れ、ハーレンの灯す僅かな明かりを見失わないよう追いかけるので精一杯なのだ。

 隊を指揮するガーヴァスとて、例外ではない。月明かりですら届かぬ足元には、常に不安がつきまとうからだ。

「あんたは、こういうの慣れてるんだな」

 ハーレンが所持するこの『灯り筒』は、三本だけ。

 小さな蝋燭を半分に割った竹筒で覆ったものであり、灯り窓のある方向のみを照らすという仕掛けになっている。

 その内の一本は、先頭を行くハーレンが後ろ向きに吊るし、皆の目印としていた。

 残りの二本は浪人衆の副長、そして山道に慣れているラウグの二人に託し、隊の中ほどを歩かせることで、どうにか他の者達の目印として機能しているようだった。

「ええ、一年ほど彼等と一緒に、山野で暮らしましたから」

 カゼル自身は久しぶりの夜目を慣らしながら、浪人衆の最後方を進んでいく。一人の脱落者も出さないようにと、ガーヴァスと二人でそう決めたのだ。

「あんたんとこは、皆そんなことやらされてるのか?」

 半ば呆れた口調で、ガーヴァスが聞いてきた。

 押し黙っているより、しゃべっていた方が皆の不安も少しはまぎれてくれる。

「いえ、自分だけです。豺狼軍を率いるのは、その世代で一人と定められているのです」

「じゃあ、その前はヴァーゼル殿がやってたのかい?」

「まさか。当主はやりません」

「へぇ……そうなのか? オレはてっきり、あんたがヴァーゼル殿の跡目を継ぐって思ってたんだがな」

 流石に、その話題をされると、カゼルは困った顔になる。

「……たとえ浪人衆であっても、兵の前でする話ではありません」

「おっと……そいつは悪かったな」

 先代の豺狼軍の将は、祖父の末弟だったと聞いた。

 五年前の戦で深手を負い、亡くなった。急遽、代わりが必要になったので、カゼルがその後任に指名されたのだ。

「(そう……自分は、あの時から父上の跡を継ぐことは、叶わなくなった……)」

 家は継げなくとも、ガイゼル卿の志は継ぐことが出来る。

 だから、カゼルは父ヴァーゼルの為、フォントーラ家の為にその役目を引き受けることにしたのだ。

 今更、それを後悔したりはしない。

「自分は……父上のお役に立てれば、それでいいのです」

 カゼルが特に気分を害してないのを見て、ガーヴァスは苦笑いをした。

「まあ、その若さでこんだけ出来れば上等だ。オレは庶子で末弟だからな。何の役目もないから、こうして家を出て好き勝手してる。そういう意味じゃ、あんたが羨ましいぜ」

「貴方ほどの腕前と見識があれば、どこにだって仕官出来るのに。それをしないのは、いずれ家に戻る為でしょう?」

 ガーヴァスは、そんなカゼルの言葉に一瞬、しまったという顔をする。

 庶子であろうが、末弟であろうが、ガーヴァスもカゼルと同じく、家に必要とされたい人間の一人なのだ。

 それを指摘されたガーヴァスは、少し不機嫌そうにそっぽを向く。

「……まったく、勘がいいヤツは嫌われるぞ?」

 その時、二人のすぐ背後を走っていた一匹の豺が立ち止まると、低く唸り始めた。

「なんだ……?」

「しっ……討手に追いつかれたようです」

 カゼルは後方を振り返ると、足場を探る為に使っていた槍を肩口に構える。

 ピキッ……!

 小枝が折れる音。

 そこに向かって、カゼルは槍を投じた!

「ぎゃっ!?」

 ガゼルの十歩先で、何者かが倒れる。

 そんな暗闇の中から、カサカサと小走りで駆けてくる音……!

「(影士だっ!)」

 闇士の訓練を受けていたカゼルには、即座に犬笛を短く鳴らす。

 すると、目の前で唸りを上げていたやまいぬが、矢のごとく暗闇の中に飛び込んだ。

「ぐあああっ!?」

 暗闇の中で、断末魔が一つ……。

 しかし、残りの二つの気配が、カゼルに襲い掛かってくる!

「はっ!」

 短い気合いと共に、カゼルは跳躍した。

 何かとすれ違い、逆手に持った短刀で打ち合った。

「くそ、何も見えやしねぇ……」

 悔しそうに大槍を構えたまま、ガーヴァスが闇夜を睨みつける。

 すぐ目の前で、カゼルと何者から打ち合っているというのに……

「ん? そうでもないのか……」

 あることに気付いたガーヴァスは、足元に転がる適当な石ころを拾うと、注意深く前方の暗闇を見つめた。

「そこだっ!」

 ガチンッ! 石と鉄甲がぶつかる音。

 一瞬、月夜で照らし出された人影は、驚いたようにそこから飛びのく。

 それを逃さんとばかりに、ガーヴァスは鋭く練った神気を大槍の穂先から飛ばした!

「ぐうっ……お、のれ……」

 暗闇から姿を曝け出したのは、ガーヴァス同様、大槍を持った男……。

 月明かりに照らされたその顔面には、まるで焼きごてでも押し付けたかのような、縦にまっすぐ走る大きく傷痕。

「へぇ? 密偵の癖に槍使いとは、変わってるじゃねーか」

「だまれっ、貴様のような浪人風情に……」

 今の剣風で太腿を切られたらしく、ボタボタと血を地面に垂らしながらその男はにじり寄ってくる。

「浪人で悪かったな。とっととくたばれっ!」

 ガーヴァスは、とどめとばかりに大槍を繰り出すも、相手も鋭い槍捌きで打ち合ってきた。

「うおっ!? なんだ、こいつ……密偵の癖にやるじゃねーか!」

 暗闇で、しかも足元も不安定なこの場所。

 負傷してるにも関わらず、相手は的確にガーヴァスを攻め立ててくる。

「くそっ、こっちは夜目が利かねえんだ、ちっとは加減しろっ!」

 悪態をつくも、向こうは薄笑いを浮かべながら、大槍を扱いてくる。

 その間にも、カゼル達は暗闇の中で死闘を繰り広げているらしく、何度も刀を打ち合う音が聞こえてくる。

 距離を取ろうにも、周囲の木々が邪魔だし、月明かりを頼りに戦っているガーヴァスは、この場を離れることも出来ない。

「くそ……カゼル、早く片付けて戻ってこいってだ!」

 すると、目の前の男は薄気味悪い笑みを浮かべて、槍を振り回してきた!

「ぐっ!? この野郎……」

「ははっ、貴様を片付けたら、次こそあの小僧の番だっ!」

 あっという間にガーヴァスは防戦一方となり、捌き損ねた槍の穂先が、鎧のあちこちを掠めてくる。

「ふん……神気を使えたと言っても、所詮は浪人だな。おまけに、槍使いもなっとらんっ!」

「……んだとぉ?」

 我流のガーヴァスに対し、相手はカゼル同様、正規の訓練を受けた槍捌き。それも並大抵の腕ではない。

 昼間ならまだしも、このままじゃやられる……。

「(しょーがねぇ、アレをやるしかねぇか)」

 ガーヴァスは、足先に神気を集中すると、相手の踏み込みに合わせて、足元の石をまとめて蹴り出したっ!

「ぐあっ!?」

 バチバチバチッ!

 神気によって、砕かれた石が鋭い礫となって相手の顔面に降り注ぐ。

「く、くそ……卑怯なっ!?」

 再び、闇の中に飛びのいたその男だが、それ以上の言葉を続けることが出来なかった。

 喉元に食い込んでいたのは、カゼルの短刀……。

「がっ……」

 男は、鬼のように血走った目で背後から短刀を突き刺したカゼルを振り返るも……そのまま大量の血を吐き出し、絶命する。

「なんだよ、いいところで横取りしやがって……」

 暗闇から抜け出すようにして、カゼルと豺が月明かりの下に現れる。

「おいおい……血塗れじゃねーかよ」

「大丈夫です。全部相手の血ですから……」

 どちらも鮮血に塗れていたが、どうやら手傷は負っていないようだった。

「まあ、正直危なかったんでな。一応、礼は言っとくぜって……おい、どうした?」

 カゼルは、自分がしとめたその男をじっと見下ろす。

「……モルグ師範。あなたでしたか」

「なんだよ、知り合いだったのか?」

 カゼルは鮮血に塗れた顔を拭うと、何でもないという顔をする。

「いえ、それよりも次の討手が来ないうちに、先を急がないと」

 カゼルは、自分を守ってくれたやまいぬをよしよしと撫でてやった。

 そして、その豺をを先導にして、ガーヴァスと共に先を行く浪人衆の跡を追うのだった……。


        *         *         *


 ようやく摂政軍の追撃を振り切り、トラス城市に辿り着いたヴァーゼル等だが、その姿は出陣時の晴れやかさ裏腹に、惨めなものだった。

 一つ間違えれば、全滅すらありえた状況にも拘わらず、両軍合わせての死傷者は千五百人ほどで済んだのは、運が良かったとも言える。

 それでも、勝利を信じていた市民、そして目前にあった勝利を失った兵士達の表情は暗かった。

 そんな中、次々と凶報がヴァーゼル等の下に舞い込んでくる。


 一つは、大総督レアンドル・ブリアス南領公と、宰相ロズナー伯の死。


 恐怖あまり、発狂したレアンドル公は、これまで自分を支えてくれた宰相ロズナー伯を枯れ井戸に突き落とし、それを見た側近が憤激のあまり、その狂人を斬り捨てたのだと言う。

 敵が喧伝したにしても、それはあまりにも無様過ぎる死であった。

 また、レアンドル公麾下の兵士達も主君の死を知らされると、あっけないほどに戦意を喪失し、その多くが武器を捨てて降伏してしまったという。


 一つは、大総督クレマン・ブラントーム北領公の敵前逃亡。


 次々と本陣や後陣が摂政家の奇襲部隊に襲われたのを見たクレマン公は、なんと敵に襲われる前に、一万もの無傷の将兵を残したまま一人で遁走してしまったのである。

 哀れを誘ったのが、そんなことも知らずに危険を冒して主君の捜索に向かった帥将ドルフの嫡子ロルフ・エーケンダールである。

 彼はドルフに預けられた百騎の騎兵を率いて、北領公の本陣を駆けずり回ったが、運悪く銀獅軍のタブリオ隊に捕捉され、その若き命を散らしてしまったのである。


 一つは、大帝レイモン・ラバンディエの捕縛、そして幽閉。


 親衛隊以外にろくな軍勢を持たぬ大帝レイモンは、緑獅軍ガレイ隊の奇襲により、あっけなく捕縛されていた。

 衛将ロイ・マウェストン以外の親衛隊は、ろくに戦い方も知らぬ貴族の子弟達しかおらず、衛将ロイが壮絶な死を遂げると、全員武器を投げ捨てて降伏してしまったのだという。

 おそらく大帝は、そのまま摂政家の領地に送られ、幽閉されるに違いない。

 表向きには病と称し、摂政の娘の子である皇太子にその帝位を譲らせるのだろう。

 摂政ダルヴァは、新大帝の就任と共に、その権勢はますます高まることになるのだ。


 そんな中、ヴァーゼル等にとって唯一の朗報は、殿しんがりを務めたカゼルと、浪人衆の部将ガーヴァス等の帰還である。

 彼らはギリギリまで摂政ダルヴァの軍を引きつけ、ヴァーゼルの授けた空城の計にて、摂政軍を翻弄し続けた。

 そして、最後には砦に火を放ち、その間に北側に残してあった抜け道より脱出。

 摂政軍の執拗な捜索にも拘わらず、彼らは山林を伝ってその包囲網を抜け、空城となっていたバルーケ城砦に無事辿り着いたのである。

 本来は砦に火を放つ前に、浪人衆は摂政家に降伏する手筈であった。

 しかし、彼らはカゼルと共に、この熾烈極まる撤退劇を最後の最後まで貫き通すことを作戦参加の条件として、カゼルに求めてきた。

「まあ、いざとなったら、あんた以外は降伏しちまえば良かったしな」

 ガーヴァスは、何事もなかったかの様にカゼルにそう答えた。

 確かに、降伏した浪人衆を皆殺しにする様な真似をすれば、今後摂政家には二度と浪人衆は集まらなくなる。

 カゼル自身は父の郎党であるカスパーとロマス、そして弓の名手ラウグがついており、最悪、自分達だけであってもやりきるつもりではあった。

 また、闇士ハーレン率いる豺狼軍もいた。

 しかし、それでもあそこで浪人衆が捜索隊の注意を引かなければ、潰走中の他の諸侯等にも追討の手が伸びていたに違いない。


 カゼルとガーヴァスは、バルーケ城砦の中で浪人衆と別れの盃を交わすと、そこで浪人衆を解散した。

 それぞれ、作戦決行前に前払いで報酬を渡しており、彼らは皆、誇らしげな顔で思い思いの道へと去っていく。

 すでにバルーケ城砦でヴェーゼル隊の殿しんがりが解散したと知った黒獅軍大将イヴァン・ファーロフは、全ての追撃隊に帰還命令を下した。

 こうして、カゼル主従とガーヴァスは見事、任務遂行を果たしてトラス城市に帰還してきた訳である。

 兵士達の大歓声の中、真っ先に飛び出してきたのは姉リーゼルであった。

「良かった……もう、帰ってこないかと思ったじゃないのっ!」

「遅くなってゴメン。そんなに泣かないでよ、皆が見ている」

 リーゼルは、泣き笑いの顔のまま、決してカゼルを離そうとはしなかった。

 そんな二人に、ラセリアやサーリアの二人も抱きついていく。

 父ヴァーゼルに母コーラル、そして祖父アイゼルが、カゼルの帰還に喜び、肩を抱き合っていた。

 そんな光景を離れて見つめていたのは兄クーヴェル、そしてソーゼルの二人。

「……カゼルは凄いな。あんな無茶な作戦を、事も無げにやり遂げてしまった」

 兄クーヴェルは、少しだけ悔しそうに笑っている。

 しかし、ソーゼルは兄の様には笑えない。そして、そんな自分を恥じていた。

「無理に笑わなくていい。ただ、立派に殿しんがりを果たし、生還したカゼルのことは、武人として認めるしかあるまい」

 俯くソーゼルの肩を掴むと、クーヴェルは横顔のままそう言った。

「そうですね……同じ武人としてなら、認めるしかありませんね」

 顔を起こしたソーゼルは、勇敢な一人の武人を出迎える為に歩き出す。

 兄クーヴェルは、そんなソーゼルの背中を叩くと、自身も早足にカゼル達の輪の中へと溶け込んでいった。


「これから、貴殿は如何される?」

 ドルフ・エーケンダールは、ヴァーゼルとの別れ際にそう訪ねた。

「我等には、我等の志が残されている。それがある限り、決して諦めはしない」

「ワシは、貴殿とは別の道を進むことになるだろう……だが、貴殿のことは決して忘れぬ」

「こちらこそ。また会おう、我が友よ」

 親子の差ほどある二人の男はそう言って、互いの手を固く握り合う。

 城門前で、別れを惜しむ二人を本城の城壁の上から見つめていたのは、カゼルとリーゼルの二人。

「ねえ……この後、一体どうなると思う?」

 リーゼルの長い髪が、風に揺れていた。

「そうだね。少なくともあと三年は、どこの家も本格的な戦争をする余力はないんじゃないかな」

 カゼルはそう口ではいったが、いくつかの例外があるのを知っていた。

 それは南海王家であり、また東藩王家である。

 この大戦で無傷だった両家は、やがて覇権をかけ、再び大きな戦乱を巻き起こすのだろう。

 そして、その矛先にあるのは摂政ボーグタス家に違いない。

 多くの領地を手にした摂政家だが、その急激な領土拡大に必ずや様々な問題が起こる。

 幸いなことに、ヴァーゼルとドルフは此度の戦いで結果的に負けはしたものの、十万の兵を破った摂政家を相手に、互角以上に戦ったことで、その武名はますます高まっていた。

 それを恐れてか、結局、どの諸侯家も摂政家の下した追討令には参加しようとはせず、結局、摂政家からの本隊も出ることはなかった。

 それでも、今のフォントーラ家には大きな変化が求められていた。

 その一つが、リーゼルの政略結婚である。

 翌年、新春を迎えると同時に、リーゼルはアルトナー家へ嫁入りする。

 今のフォントーラ家の現状を考えれば、隣接するアルトナー家とは是が非でも結んでおきたいのだ。

「まあ、何故かは知らないけど、アルトナー家には歓迎されてるみたいだし、それもありかなって……」

 あっけらかんと笑う姉の笑顔が、カゼルには泣いている様にも見えた。

 そんなカゼル自身にも、養子縁組の話がいくつも持ちかけられているらしい。

 これも『三道三志の試し』と、そして、此度の痛快とも言える撤退劇のお蔭なのだろう。

 一方、微妙なのがトゥアルグ家の後継問題である。

 当主であるロズナー伯の忠烈なその死に同情が集まり、唯一残された末子に家の相続が望まれていた。

 しかし、トゥアルグ城市の城主は死んだと思われていた書記官ユーグ・ベルトラン卿が生還したことにより、彼が城代として任命されることとなったのである。

 かろうじてトゥアルグ家はお家騒動もなく、存続出来たが……家臣の大半を失った今、トゥアルグ家の人間は、ベルトラン家の客人扱いも同然であった。

 それは嫡子でありながら、トゥアルグ家の後継者として望まれていたクーヴェルの立場が微妙になったことも意味している。

 この先、もしトゥアルグ家で内紛が起こった場合、トゥアルグ派の者はこぞってクーヴェルの継承と、フォントーラ家の支援を求めるに違いないからだ。

 ヴァーゼルやアイゼルは、家中に要らぬ対立が怒るのを避ける為にも、おそらくカゼルの養子縁組の話を受けるに違いない。

「結局、私達って、この家を出ていくことが家の為になるのかしらね」

 リーゼルは、自身の嫁入り後のカゼルの行く末を心配していた。

 カゼルにはそれが嬉しくもあり、寂しくもある。もう、今のままの二人ではいられないのだ。

 すっかり高くなった空に、ぽっかりと小さな雲が浮いていた。

 二人は、ゆっくりと空を流れるその雲を、いつまでも見送っていくのだった……。

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青雲の義将 カゼルの中原騒乱記 真樹 良成 @tkx

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