B面:松井千明の視点より
県立茶南高等学校2年3組出席番号34の松井千明は、自分が冴えない男子高校生であることを知っている。
そこから、クラスまたは学内において自分がどのような立ち位置にいるのか自覚している。
彼は、所謂イケてないグループに属している。休み時間に喋る相手は、そのほとんど同じく冴えてない男子高校生であった。イケてるグループから揶揄されることもしょっちゅうだ。
しかし、そう割り切ることによって、彼は毎日をささくれ立たずに過ごしていた。
また、彼は自分の外見に対して興味がなかった。頭髪は少しボサつき、服装はTシャツにジーパンであればもうよいと思っていた。いつも猫背気味で、よく親から背筋をのばせ、と叱責されたものであった。
もう少しなんとかすればそれなりにカッコいいのに、とは姉の弁である。
だが彼もまた年頃である。友人の口から伝え聞く“女”の話は、ほんの少しであるが“魅力的”には聞こえた。人に愛されるというのはどういうことなんだろう、とは思った。しかし、自分に興味のない人間が、他人に愛されようなどということ、ましてやそれを得るために行動しようという考えが思い付くよしもなかった。また、彼は女性と────肉親以外は────プライベートのコミュニケーションを取る機会もまたなかった。学校内で喋る事があっても、ほとんどが事務的な内容であった。彼自身もまた、誰かへの恋心が芽生えることもなかった。
さて、先週の水曜、NIHEIショッピングモールけいそでの事である。
彼は、映画鑑賞が趣味であった。
彼は、ひとり映画をしに来ていた。
SNSで知り合った大学生の同じく映画好きに、『LOVELY&POPPING』という今流行りの女優と今流行りの俳優がイチャイチャする、いつもなら彼が観ようとは思わない映画が、撮影だか編集だかが良いから観てみろと薦められたので、モール内にあるTOYOシネマけいそにひとりで足を運んだのだった。
ひとり映画は、よく来る。誰かを待ったり待たせたりして煩わしい思いをすることもないし、気を利かせず集中できるからラクで良い、とは本人の弁だ。
そんなひとり映画マスターでも、流石にこの『LOVELY&POPPING』をひとりで観るのは勇気が必要であった。誰かに見られたらどうしよう。ああ、あそこにクラスメイトに似ている子がいるな。こんな恥態を見られてしまってはどうしよう。ああ、そう。例えば、可憐でいつも自然体の“高嶺の花”の、あの……。
彼女であった。その県立茶南高等学校2年3組出席番号32の橋本めぐみまさに本人が、何て時にこのシネコンに足を運んでいたのである。
彼は隠れようかと思った。このまま帰ってしまいたいとも考えた。購入したチケットを手汗でしわくちゃにしながら。
しかし、彼が考える彼女は、たとえ誰かが恥辱の様を見せつけていても嘲笑うような彼女ではない。
1年生の頃も同じクラスで、出席番号が近いこともあり、班活動でも一緒に行動することが多かった。彼女の参加態度は極めて良好で、普段はあまり気力の無い彼ですら、彼女のようになりたいものだ、と思っていた。
でも、これとそれとは話が別で、分けるべきだと彼は考える。たとえ彼女が笑わないとしても、彼は恥ずかしさのあまり発狂してしまうかもしれなかった。
ああ、一刻も早くこの場から立ち去りたい……。それとも、もういっそのこと逆に、自分から話かけてしまおうか。しかしそんなキャラではないということは彼も彼自身が自覚していた。
そう右往左往と考えあぐねながら、彼は、彼女の顔をふと見た。
なんて可憐な、端正な顔つきだろう。化粧をしていないと風の噂で聞いた。その上であの顔は反則だと、彼は心の中で彼女にレッドカードを切った。
その刹那────
彼女と彼は目が合った。
見られた!と思った。
本当に逃げ出そうと彼は決心した。彼女が、近付いてきたのだ。
あまりの倒錯からか、彼女は出席番号32の橋本めぐみではないのでは、とさえ思った。
どんどん、どんどん、その小さな可愛らしい顔が近づいてくる。
ああもう、間違いなく、その顔は、間違いなく─────
「松井、くん……?」
「え?」
来。
た。
彼は、その身体の芯から来る動揺を隠せなかった。
「松井くんじゃん。よっ」
ポップコーンとサイダーのセットを片手に抱えた彼女は、もう片方の手で挨拶のジェスチャーをした。
「あ、ああ。おお。橋本さん。……よっ?」
彼はとてもぎこちなく、会釈を返した。
「松井くんも映画?」
彼女は早速、彼の核心をついてきた。
「いやまあ、うん、そんなとこ。」
「へえ。こんな所で映画なんて、松井くんらしいね」
どうやら、彼女は彼の映画鑑賞の趣味を既に知っているようだった。
もうここは変にはぐらかしても仕方あるまい、と彼は悟り、諦めた。
「いやぁ、ははは。結構、来るんだ。一人で」
「そうなんだ。」
ここ最近で最も苦々しく笑う彼を横目に、彼女は、すこしぬるくなったサイダーを気まずそうにストローからすすった。
「橋本さんは?今日は誰かと?」
聞かなくともいいことを、と口から疑問符を発した直後、悔やんだ。
「ううん。そのはずだったんだけど、ついさっき川端からすっぽかされちゃって。」
「川端?」
誰だろう。知らない名前だ。もしかして、男かも、と彼は途端に不安に駆られた。
「ああ、そっか。4組の。女バドで一緒なの」
「なるほどね」
依然としてそのカワバタが誰なのか把握できていなかったが、とりあえずは女子であることにどこか安心し、また、ここはこういう風になあなあで通した方がいいだろう、と彼は判断した。
「松井くんは?」
「いや、だからさっき言った通り、俺は一人で……」
「あ、そーだった、なんかごめん。すまん」
こんな短期間に。まさかサイダーの炭酸にでもやられたのだろうか、と彼は訝しんだ。
「いやまあ、別にいいけど」
そして、彼女の“すまん”が、なんだかとてもいとおしく感じられた。
「そうか。ならチケット要る?席もう取っちゃってて」
「イヤイヤイヤ、それはいい。てか俺ももう観る映画決めて席取ってるから」
まさか誘われるとは思ってもみなかったため、彼は動揺しながら早口でその誘いを拒絶してしまった。
「……あ、そうか。じゃあひとり映画だ。初めてなんだ私。どうなんだろ」
彼は、不安がる彼女をなんとかフォローせねばなるまい、という使命感を瞬時に背負い込んだ。
「慣れれば普通に行けるよ。ひとり焼き肉よりはつらくない」
ひとり焼き肉。
「ひとり焼き肉?なにそれ、行ったことあるの?」
彼女は、ひとり焼き肉が妙に引っ掛かったようだった。彼は、ああスベった、とまたも後悔の念にさいなまれた。
「いや、ないけど。例え話ということで」
一度スベったギャグを説明するほどのムダと恥辱はおそらく現代にはない。
「ふふっ。」
「ははは。」
彼女が笑って、彼の口元がふと、緩んだ。
「やっぱりさ、松井くんって普通の人よりちょっと、なんかこう、面白いよね」
「それは褒め言葉なのかな」
「褒めてるよ。うん。たぶん」
「まあ、そういうことにしとこう」
少しずつ、緊張の糸がほぐれ、両者の会話の流れがスムーズになっていった。
「14時35分より上映のスクリーン6番、『LOVELY&POPPING』、ただいまより開場致します。チケットをお持ちのお客様は……」
時間となり、場内アナウンスが入場開始の旨を告げた。
「あ、入場始まった。じゃあ私行くね」
あれ?
「ん、え、ああ。うん。じゃあ……、あっ。」
まさか、の三文字が彼の頭を往復250回秒速36452kmで駆け巡った。そのまさかだった。
「え、なに」
「俺もその映画だ」
気恥ずかしそうに、彼は男ひとりで恋愛映画を観ようとしていた事を告白した。
「本当に!?」
彼女は本当に驚いた様子で、引いているようにも見えた。
「うん、まあ」
彼の頬のあたりが、少しずつ熱くなっていくのを、彼は確かに感じた。
「松井くんってこういう映画も観るんだね。なんか意外」
「うん、まあ。知り合いが照明や編集が良いって言ってたから。気になって」
これは真実である。
「おお、なんか松井くんっぽい」
だが彼女の指摘にある“彼っぽい”は正確でない。
本当は、撮影だとか編集だとか、彼にはいまいちわからなかった。彼は映画技法については全くの無勉強であった。ましてや、そんな映画技法に無関心でも楽しめる、コンピューターグラフィックスてんこ盛りのハリウッドの、夏に続々と公開されるような映画が好みだった。
係員にチケットを渡す。チケットは軽妙な音を立ててもぎられ、半券となる。
「右の通路、スクリーン6番でございます」
彼女の後に次いで入場した彼は、誰かと映画を観るのは久しぶりだな、と郷愁を覚えた。
スクリーンのある箱のなかに入る。だが、思っていたより人はいなかった。
「……ガラガラだね」
「だね」
半券に印字された席を探した。印字されたアルファベットまで階段をのぼり、印字された数字まで席を見定めた。
「私、Fの7番。ここだ」
「俺はHの14。じゃあ、また」
ようやく、彼はひとりとなった。
いつものローカルでチープなCMが流れた後、次いで劇場用予告が流れ始めた。彼にとっては、どれも見慣れたものばかりだった。
見慣れないものといえば、それは彼が教室内でよく見た後姿が、彼の王国の2列前に腰かけていることだろうか。
観客は、依然として少なかった。カップルが3組、女性2人組が2組といったところだった。
彼は、普段見ているはずの後姿に何故だか今日はいつもと違う感情を確かに覚えた。
すると、彼女が急にそわそわし始めた。そして、ポップコーンとサイダーのセットならびに荷物を抱え、彼のもとへと近づいてきた。
「松井くん、松井くん」
「ん?どうかした?」
「いや、あまりにも人が来ないもんだから」
彼は席を見渡した。何かを彼は期待した。
「隣で、観ていい?」
その期待はそのまま彼女の口から現実に変わった。
「え、いや、そんな……」
「一人で観るのも寂しいし、楽しく観ようよ」
ああ、自分の人生にもこういう事があるのか、と思った。自分が自分でなくなる気がした。
「うーん……まぁ、わかった」
彼は頬が、いや全身が、赤く、熱くなるのをしかと感じた。
「やった!」
ポップコーンを座席にセットして、彼の横に彼女が座った。
彼女と彼の間の距離は15センチ。
両者の腕の間の距離は15センチ。
すぐに交わるようで交われない、酸っぱい距離だった。
彼の見慣れた予告はそんな中でも流れ続けていた。
見慣れぬ光景が横に広がりながら。
「今のこの予告の映画、松井くん好きそうだよね」
「ああ、でもこのシリーズのはそんなに……」
「そうなんだ。あっ、ポリモンだ。懐かしい」
「夏はポリモン!って言うくらいだからね」
彼自身も、本当にこの時は変なことを言いすぎていた、と後日悔やんだ。
とにかく、この瞬間がひどくいとおしかった。
「映画ドロボーだ。私、昔家族で映画観に来た時、これが怖くていつも顔塞いでた」
「はは、俺も。昔はもっと画面が暗かったもんなぁ」
彼は、笑った。
「そうそう。なんか、見られた!って感じが怖かったもん」
「うん。何回か夢に出てきたことまであったよ。あ、そろそろ始まる」
「一応、おしゃべり禁止だもんね」
何故か、彼はその15センチの間にあるポップコーンに目を奪われた。
キャラメルでコーティングされた、トウモロコシの発泡物。
上映中は禁止される、ひどくいとおしかったおしゃべり。
スクリーンの光に反射して銅色に輝くポップコーンは、その瞬間を閉じ込めたタイム・カプセルのように彼の目に映った。
「あんまり人はいないけど。禁止。あ、ポップコーンもらっていい?」
「へへん。いいよ」
15センチの不可侵領域が、ほんの一瞬だけ、無くなった。
甘いけど、少し苦い。やわらかいけど、かたい部分もある。
彼は、まるでこのラブリーな瞬間が口の中で飛び跳ねるかのようなポップコーンを味
わいながら、いつもとは少し違うひとり映画の上映を楽しんだ。
上映が終わった。
「面白かった!久しぶりの映画だったし」
「おお、なら良かった」
何故“良かった”とするのかわからないが、彼は確かに“良かった”と心の底から安心した。
「(流行りの女優)もめっちゃ可愛かった!」
「ああ、うん。そだね」
「松井くん的にはどうだった?」
彼女は彼に問うた。
「評判通り照明の、なんていうのかな、当て方……が良かったし、編集も良かったよ。テンポが良かった。」
先述の通り、この感想は他人からの借り物である。本当は、そんなこと彼はなんにもわからなかった。
「流石、映画博士ですな」
「ハハハ。そんな偉くもないよ」
他人の感想を述べただけなのに彼女から賞され、彼は少し罪悪感を抱いた。
「さて、俺、帰るわ」
「じゃあ私も帰ろ。川端が来なかったから、もう早く家に帰って寝る!」
「じゃあ、俺、チャリだから……」
「あ、私も自転車。家、近いの?まぁ、近くなければこんな小さなショッピングモールなんか来ないよね」
ああ、そういえば確か……と彼は彼女の出身中学を思い出した。
「うん。まぁ、網場等町のあたりだけど」
「ああ、じゃあ反対方向か。ウチは史暮町なの」
「じゃあ家って結構近いんだ。橋本さんちと俺んち。」
「そうだね。」
「あ、じゃあそれじゃ中学は網場等中なんだ。あそこ親戚が通ってた」
正直、彼は中学にいい思い出はなかった。
「なんて名前?」
「阿藤海。知ってる?」
その名前を聞いて、彼はひとつ嫌な記憶を思い出した。阿藤海にはよくちょっかいをかけられていて、お世辞にもいい関係とは言えなかったのだ。
「あー…。同じクラスになったことはないなぁ」
本当は2年間同じクラスだったが、ここで彼ははぐらかした。
「そうなんだ」
後日、阿藤と彼女の家は疎遠であると知って、彼はすこし安心したりもした。
駐輪場に着いた。彼女は自分の自転車をすぐに見つけた。
「じゃあ、私の自転車、これだから」
「おっ。じゃあ……ああ、うん」
じゃあね、と言う直前、彼はその喉に魚の小骨が刺さったような感覚に襲われた。
「じゃあね」
「あっ、いや、橋本さん。」
彼は、彼女を呼び止めた。
言うべき事が、ある気がする。
「?」
彼は、頭の中の、その言うべき事を精一杯に引っ張り出しては紡いでいった。
「今日は、偶然だけど、一緒に映画観て結構、その、楽しかった。ホント偶然だけど。」
「私も、そうだよ」
彼と彼女の“楽しかった”は別のものであるかもしれない────それでも、彼は“楽しかった”。
「偶然だけど、まぁ、うん。また、なんか面白い映画があれば、その……教えるから。それだけ!ポップコーンありがとう!!」
出し切るべきは、出された。
「どーもー!」
「じゃあ、また!学校で!」
手を振る彼を横目に、彼女は自転車に跨がり、走らせた。
ライトグリーンの車体はどんどん遠く、薄くなっていった。
それでも彼は、手を振り続けた。
すると、遠くの彼女が振り返って、叫ぶ。
「はーい」
彼女もまた、手を振った。
「また!」
空はどんどん赤色がかっていき、太陽の沈みがこの1日の終わりを告げていた。
たまには観ないジャンルの映画も観てみるものだ、と彼は思った。
ああ、それにしても、自分には似つかわしくない楽しい時間だったな━━━反芻しては、にやついた自分に気付いて興が冷めたりもした。
明日、学校で彼女にまた会えると思うと、普段は行くのもかったるい珍しく学校に行こうと思えた。
━━━━また?
ああ、言っちゃたのか。マジでか。
自分が自分で無くなる感覚を初めて味わったという事実に気付いた彼は、まったく、どうしようかな、と思った。
今日からの事を、あの大学生の映画好きに相談してみようかな、兄に聞いてみようかな、帰り道にいつもは借りないようなDVDでも借りてみようかな、と考えを巡らせた。
でも、彼女が自分の事をどう思っているのか、途端に不安になったりもした。他にもいるのかも、とも思った。
それでも、今まで自分の事にもあまり興味の無かった人間が、初めてこころの中に他人を受け入れようとしたという事実に赤面し、安堵し、驚愕し、また不安を持ちながらも、このいたくいとおしかった時間をまた味わいたいと思った。
県立茶南高等学校2年3組出席番号34の松井千明は、自分が冴えない男子高校生であることを知っている。
ひとり映画にかた寄せて シクリム @DrSICRIM
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