第13話 僕、救う。

 ティーナちゃんは図書館にいた。

 大テーブルの椅子で、三角座りをして本を読んでいる。

 必死に走ってきた僕に気が付くと、彼女は顔を上げた。

「どうしましたの? そんなに息を切らして?」

 キョトンとした顔で、僕に問いかける。

 しかし僕にはそんな悠長に構える余裕はなかった。


「…………」

 しかしここに来て、僕は言葉を失った。

 何も言えない。だって何と言えばいいのだ。君の母親は死んだままで、君の状況は何も変わらない、とそんな言葉を言えというのか?

 そんな事言える訳がない。

 そんな――。


「もしかして気が付きました?」

「……へ?」

「いえ、優さんにとっては未来であっても私にとっては過去ですので、何も変わらないという事です」

「……いや、でも」


「『いや、でも』とかそういう話ではないんですの。どちらにしろ過去を変えるなんて事はできないのですから。ただまぁ、私の母が自殺したのは優さんが原因ではない、とそこは確実に答えておきましょうか。だって母は優さんと和解しても本質的に何も変わらなかったのですから」

「…………」

「母を殺したのは母自身と私でしょう。それが分かっただけでも、私は良かったですの。だって母を殺したのが優さんではない。これほど嬉しい事が私にはないのですから」

「……嬉しいってそんなの……」

「私が、ここに来た理由って何だと思いますか? 誘拐されて育った自分を否定したくて、だと思いますか? それとも母の自殺の原因を作った事だと思いますか。答えはどちらも正解でどちらも不正解なのです」


「…………」

「私は誰かに信用して欲しかったのだと思いますわ。私はずっと孤独に生きてきましたの。誰を信用する事もできず、誰からも信用されなかった。そんな人間を疑問の一つも挟まず信用した人間は、優さん、あなただけですの。ちょっと変態じみていましたけど、それはとても嬉しかったです。私は今を変える事がもうできています。今の私が何かを変えて欲しいと望む事はもうないんですの」

「……でも、僕にとってはまだ未来だから――」


 そうだ。

 僕にとってティーナちゃんが誘拐されるのは未来なのだ。まだ救う事ができる。孤独に生きるという選択を消滅させる事ができるのだ。


「ええ、ですので、助けてあげて下さい。幼かった私を誘拐させないようにしてあげてください。翠ちゃんに一応確認は取りました。過去を変える事はできなくても、未来を変える事は構わないそうです。それは『自我を持つ電子』が積極的に行っている事だから、とそう言っておりましたわ」

 それは確かに可能だろう。別に『自我を持つ電子』にいちいち許可なんかとってやるものか。絶対に助けてやる。


 だけど、そんな事をしたとしても、今目の前にいるティーナちゃんは……。

「私の心配はいりませんのよ」

 ティーナちゃんは視線を本に集中させていた。

 僕をもう見ていなかった。

「どういう理屈になっているかは知りませんの。私が誘拐される時点が分岐点になって、優さんが生きる世界線とは全く違う世界線で生きる可能性だってあります。まぁ、そうなってしまえば、優さんは私ともう二度と会う事はできないと思いますが。いえ、私の事ですから、こんなキャラに落ち着くかもしれません。案外分かりませんよ」

「それで、ティーナちゃんはどうするの? それでいいの?」

「ええ、私は構いませんの。もしかしたら私の事を理解した優さんが私の世界線にもいるかもしれませんし。それに会えなくても構いませんわ。人を信頼できて、人に信頼されたという経験を得た嬉しささえあれば、私はきっとこの先を生きていける気がしますの」


 ……それでいいのだろうか?

 分岐した世界線が違う中でそれぞれ生きる。

 確かにそれもいいのかもしれない。でもあまりにも寂しいじゃないか。

 ティーナちゃんが誘拐されない世界があったとして、そこは確かに不幸のない世界かもしれない。だけどそこにティーナちゃんがいないのは、僕は嫌だ。


 ……いや、待て。

 分岐した世界線?

 そもそも世界が分岐して、保存されるという保証がどこにある?

 僕は今、ティーナちゃんに誘導されているという事がハッキリわかった。だって分岐した世界があるかどうかなんて僕らには分からない。もちろんパラレルワールド仮説を信じていない訳ではない。


 もしかしすると、僕が過去を変えて、未来に生きる彼女は消えてしまうかもしれないのだ。つまりタイムパラドクス。今の未来に生きている彼女は消滅するのかもしれないのだ。

「もしかして、私の存在が消えてしまうとか考えていますの? タイムパラドクスが起きて。あり得ませんの、そんな事は。シュレディンガーの猫の矛盾を解決したパラレルワールド仮説はきっと正しいですわ」

 そう淡々と告げているハズの彼女の本の上に、水が落ちていた。書物を水で濡らしている。


 彼女は言っていた。

 いや、正しくは考えていたハズだった。

 慰めてくれる相手がいなければ、涙は流す意味のないものだ、と。

「でも、もしです。もし、私が消えてしまうとして。存在ごと消滅してしまうとして。優さんが私を助けてくれた世界の私の中に生きていると思います。フィードバックというのでしょうか。私の存在が、幼い私の中に収束される。それは私が生きているという事になりませんか?」

「……………………」

「だから大丈夫ですの」


 彼女の言葉は、あまり聞き取れなかった。だって彼女は泣いているのだ。

 僕を慰めてくれる相手だと知って、泣いてくれているのだ。

「でも……」

「『でも』ではありませんの。私が体験した事を、幼い私は体験しない。それはとても素晴らしい事ですの。だからお願いします」

 僕が掛ける言葉は一つしかなかった。

 消滅を辞さない覚悟、幼い自分を救おうとする彼女に言える事は一つしかない。

 僕は腹を決めた。大きく息を吸い込む。



「必ず、助けるよ」



 言葉はきっとそれだけでいい。

 僕からできる事ばそのたった一つだけだ。

 彼女は泣いたままだった。

 ティーナちゃんは声も殺さず、ただひたすら泣いていた。

 零名の比ではない。本はもうぐちゃぐちゃだろう。


 僕は図書館を去ろうとした。去ってキュバスの答え合わせに付き合わなければ、ここを出る事ができない。ティーナちゃんも遠からず、ここを出るだろう。

 そうして僕らは別々の世界に帰るのだ。

 もしそれが存在の消滅に繋がっているとしても。

 僕が図書館に出ようとした時、泣いていたティーナちゃんが小声で言った。それは確かに僕を見て言った言葉だった。

 僕は振り向いた。


「私は、あれです。優さんの事好きでしたよ。恋愛感情ではありません。良い人だと思いました。そうですね、強いて言えば匂いが好きでした」

 僕は笑った。

 こうして僕は図書館を出た。

 そしてパーガトリを出た。


 ◇ ◇



 幼かった僕、一七歳。

 あの時の僕は川上零名を心配して上げられなかった。その言葉と行動を確かに彼女に伝えていれば、そんな事は起きない間違いだった。

 だから次は誤ってはいけない。助けなければならないのだ。

 僕はショッピングモールに来ていた。

 この一年、ずっと通い続けた。会社は辞めた。それでも尚、やらなければならない事があったのだ。

 

 彼女がいつ誘拐されるのかは分からない。

 だが僕にそんな事は関係ない。

 僅かな記憶に頼り、似たショッピングモール探しだし、その日を待ち続けた。

 実は何度か松村零名を見かけた事があった。

 よく来るのだろう。だがあまり松村栗栖を連れてくる事はなかった。

 つまり栗栖を連れてきた日がその日なのだろう。

 そして僕は今日がその日だという事を知った。

 

 ショッピングモールの入り口に零名と栗栖が並んで入った。栗栖は零名と手をつないでいる。彼女は一時も母と離れたくはないのだ。

 彼女とその母が服屋に向かった。今、パンツを選んでいるところなのだろう。昼食を食べて、零名が栗栖の為に、子供の玩具売り場に向かおうとしていた。

 そこで栗栖は嫌がった。もう帰えりたいと願ったのだろう。

 だがパンツを取りにいく時間がある。それまでは帰れない、とそういう流れになっているハズだ。


 そうして子供の玩具売り場に彼女らは移動した。

 見て回っている。その一つ一つを栗栖が喜ぶだろうとして見せている零名。玩具売り場を歩き回った。その時、零名が腕時計を見た。

 パンツを取りにいく時間を過ぎたという事が判明したのだろう。

 彼女は栗栖を説得しようと、しゃがんで声を掛けた。

 しかし栗栖は嫌々した。

 もう歩きたくない。そう言っているハズだ。

 仕方ないからと、零名は栗栖を休憩所に置いていった。

「後で迎えにくるから、動かないでね!」


 そう言って服屋に行った零名を誰が責められよう。不用心だとは思うが、この後誘拐が起きるなんて、露にも思わないだろう。

 小さい女の子が一人になった。

 足をプラプラしている。記憶の中にある映像と同じだ。

 この後、必ず来る。


 そして映像の通り、そこに近付いていこうとする男が一人いる。

 スウェット着用した、だらしない細い男だった。彼は明らかにショッピングモールの子供の玩具売り場にいて良い人間ではない。

 だが彼が本当に松村栗栖を連れ去ったのかはわからない。

 記憶に頼るとするなら、あの男が僕の視界には映っていたハズだった。

 僕は子供玩具売り場の一画から、その休憩所を監視していた。

 男が小さな女の子に声を掛けた。

 僕は瞬間的に携帯電話を取り出した。ある場所に電話をする。

 そして直後に僕は駆けた。


 今しかなない。

 何としても、ここを防がないといけない。でなくては約束を果たせない。

 自分を捨ててまで幼い自分を助けようとした彼女との約束を、僕は叶えてあげないといけないのだ。


 走った。

 駆けた。


 二九歳になった僕の脚はとても重かったが、そんなのは些細の事だった。

 息が乱れる。

 乱れたまま休憩所についた僕に、誘拐犯が目を見開いた。

 こいつとしては、誰も見ていないとでも思ったのだろう。

 ふざけるなよ。


「お前……はぁはぁ……何してる?」

 僕が問いかけると、男はしどろもどろになった。眼を合わそうともしない。何も答えないまま沈黙を貫こうとした。

「何してるってきいてるんだよ!」

 僕の大声に男が竦み上がったような気がした。

 玩具売り場にいた人間が何だ、何だと、注目しだした。これでもう目の前にいる男は何もできない。逃げるという選択肢しか残らないだろう。

 だが逃がすものか。

 お前は絶対に逃がさない。

 僕は調べた。誘拐未遂の現行犯逮捕も可能なのだ。今に警察が来ているところだろう。一一〇番に電話を掛けて、不審者がいると電話をしておいた。さらに嫌がる子供を連れ去ろうとしていると言っておいた。でっちあげだが関係ない。

 この犯人のせいで人生が狂った人間が二人もいるのだ。

 そんな奴をこのまま逃がして、のうのうと生きさせるなんてあり得ない。

 捕まって反省しなくてもいい。

 だが目の前の男が捕まらないなんて事を許容してはいけない。


「……い、いや、そ、その、困ってそうな子がいた、いたから、こ、交番に、連れていってあげよと、おもおも思って……」

 男はさりげなく逃げようとした。歩いて僕の横を通り過ぎようとする。


 僕が道を塞ぐ。

「な、何ですか。ど、どいて下さいよ」

「警察を呼んだ。警察来るまで、拘束させてもらうぞ」

「な、なんで? ぼ、僕は、何もしていないし。そんな勝手な事を――」


 有無を言わさず、僕は男の手を掴んだ。手を掴まれた男は僕から逃れようとした。必死に手を捻ってくる。だが僕は何としても手を離さなかった。男が僕の顔を殴る。しかし痛くもなんともない。僕は一切手を出さなかった。それでも男は尚殴ってくる。僕は手を離しそうなった。だけど離さなかった。

 男は僕を転がそうと足をかけてくる。殴られて反応が遅れた僕は足を簡単に救われた。だけど手だけは離さなかった。


 僕がこけたと同時に、男も転がった。

 その瞬間。

 ガタリ、と音がした。

 僕がそちらに眼を向ける。

 幼い松村栗栖がベンチから立ち上がっていた。

 彼女には何が起こっているのかまるで分からないだろう。眉を不安そうに寄せ、キョロキョロとしている。


 僕は転がっている男の体を上から圧し掛かって、ガチガチに拘束した。絶対に離さない。逃がしもしない。

 しかし男はまだ抵抗してくる。僕の顔をヒジで殴った。その直後、僕らの体が反転する。男が僕に馬乗りになる。

 男は拳を振り上げた。気が動転しているのは目を見ればわかる。彼は僕を殴り続けた。

 息が上がっている。何度殴っただろう。彼はもう僕に抵抗する意思がないと思ったのか、身体を僕の上からどけた。逃げようとした。


 だが逃がさない。

 僕は男の足を掴んだ。

 男が足を払おうとする。

「お前……はぁ……いい加減にしろ……はぁ……」

 男は僕の顔面に掴まれていない方の足で蹴りを入れた。しかし僕は掴んだ足を離しはしない。


「……もう……はぁ……離せよ……気持ち悪いんだよ……」

 男が一瞬、気が緩んだ瞬間に、僕は男をもう一度転がした。

 瞬間的に男は翻った。僕に正面を向ける形になった。


 僕は男の胸倉を掴んだ。

「もう……はぁ……はぁ……やめろよ……」

 僕は男の胸倉を掴んで、顔を寄せた。おでこ同士をくっつける。

 男が、ヒッ、と情けない声を上げた。

 僕の顔がボロボロになっている事にビビっているのか?

 知るか、そんなもん。


 僕は告げてやった。ハッキリと明瞭に。

「……もしお前が……、……後日にあの子を狙うって腹なら…、……覚えておけよ。……何度犯行に及ぼうと、……何度日を改めようと、……僕がお前を見ているぞ」

 ショッピングモールは騒がしくなった。

 人垣ができている程になっている。

 僕は警察が来るまで男を逃がしはしなかった。


◇ ◇


 男が警察に連れていかれると、騒ぎは過ぎ去ったように思えた。だが警察はまだいる。事情聴取をするのだろう。僕に任意同行を求めた。

 人垣はまだいる。しかし零名はまだ帰ってきてなかった。


 僕は警察に、

「せめて、あの子の親がここに帰ってくるまで、ここにいさせてください」

 と言うと警察は、休憩所にいる奥の女の子を見て、しぶしぶ許可をくれた。


 栗栖は多分、何も分かってはいないだろう。

 騒ぎが大きかった事に対して、怯えている様子だ。

 しかしその時、彼女と目がったような気がした。

 いや、眼が見えていない事は知っている。だがこちらを見たような気がしたのだ。

 僕の勘違いだろう。

 そう思った時の事だった。


 栗栖がプラプラさせていた椅子から降りた。

 ベンチに手をついて立っている。立って僕の方を見ていた。

 そして彼女は僕に向かって言った。


「……オジサンは、誰、ですか?」

 答えようもない。僕は君のお母さんの友達だよ、と告げておいた。

 そう答えるしかないのだ。

 その会話はそこで終わるハズだった。

 そこで終わるのが当たり前だった。

 だが栗栖はまたしても言ったのだ。


「だから、だったんですか?」

 言っている意味がよく分からなかった。僕はどういう意味かと尋ねた。

 すると彼女は言葉を探しているのかのように、喋り始めた。


「あの……ね。オジサン。私は、その、眼が……見えてないの」

「うん」

「だから、その……」

「うん」

「み、耳と鼻が人より少しだけ良いんだって」

 何が言いたいのか良くわからない。

 ただ栗栖自身もわからないのだろう。

 それでも彼女は言葉を探している。

 探して、見つけたのか。

 パッと表情を明るくすると、僕を見てハッキリと言ったのだった。


「オジサンからは懐かしい匂いがしたの」

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幼かった僕、一七歳。 百舌鳥元紀 @takahirohujii

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