第12話 僕、和解する。

 僕がティーナちゃんで図書館に現れた『川上零名の復讐』という本を読む。

 さらに当時の自分を語りながらティーナちゃんに説明した。

 僕がティーナちゃんの過去を見ていた時。同時に、ティーナちゃんは僕の過去を見ていたようだ。彼女は、幸せにならなければならないと願った母としての松村零名の、その根底を知った。だから、零名を殺したのは僕だったと言ったのだ。

 僕は説明を終えて、何も発言しなかった。

 ティーナちゃんもだ。


 僕らは無言で座っていた。緑川さんも黙ってしまっている。

 零名がここに居れば、何か発言したのかもしれないが、彼女は今、牢屋で寝ているハズだ。

 誰一人言葉を発しなかった。

 僕は手元にある『川上零名の復讐』を読みながら、僕の考えと零名の考えが同じだった事に気が付いた。

 彼女が僕を結婚式に呼んだ理由。

 やはり嫌がらせだったのだ。

 だが最後の最後に、後悔したと書かれている。

 彼女はどんな意味で後悔したのだろうか。それだけが気になった。


「……少し言い過ぎましたわ――」

 僕の向かい座るティーナちゃんが突然謝った。僕の事は見れていない。図書館の大テーブルに視線を落としている。多分、気持ち的に僕を許す事はできないのだろう。

「――母が死んだ原因は私(わたくし)にありました。咄嗟に出てしまったのです。申し訳ありません、優さん」

「……いや、いいよ。僕が原因の一端である事は間違いないし――」

 彼女は僕の言葉に何の反応もしなかった。まだ大テーブルの下を向いたまま、彼女は何も動かなかったのだ。

「――ごめん」


 ティーナちゃんは一度、深く息を吐いた。どういう意味を持つのだろうか。彼女すら迷っているフシがあった。それでも彼女は僕に向き直ると、こう言ったのだった。

「私は母が好きだった訳ではありません。けれど、嫌いだった訳でもないんですの。ご飯は貰いましたし、学校も高校まで行かせてもらいました。感謝はしています。でも、その感謝はどうしても他人に感謝するような感覚です。私は結局、母と深いところで繋がってないのです。だから、優さんが気にしなくても良いかと思いますの」


「いや、けど――」

「そういう事にしてください。お願いです」

 僕の言葉を遮るように彼女は言った。彼女もまた納得していないのだろう。だけど、ティーナちゃんには僕を糾弾する権利があると思う。なら何故彼女は僕を攻めたてないのだろうか。彼女になら僕は言葉で罵られてもいい。そんな覚悟があった。

「……では、そろそろここにきた本題に入りましょうか」

 ティーナちゃんは僕を無視するように話を進めた。

 どうやらそのまま進めるようだ。

 僕らがこの図書館に来た理由は、零名と僕の過去を確認する為じゃない。それはあくまでついてだ。

 さっきのは分かっていた事の答え合わせをしただけの事だったのだ。


「……じゃあ……、……聞かせてもらえますか……?」

 僕の隣にいた緑川さんが言った。彼女はもう立場を隠すつもりはないらしい。彼女は情報を開示した。自分はキュバスと同じ存在なのだと。僕らが川上零名を確認した後、そう言ったのだ。

 そんな彼女の言葉を聞いてティーナちゃんが全てを説明しますと、僕に言った。彼女はここの全てを理解したそうだ。

 誰もしゃべらなかった牢屋で、

「……行きましょう」

 僕にポツリと告げた。

 その時、何故か彼女は僕の手に触れた。だが直ぐに離した。

 僕らはそんな距離感のまま、この図書館に来たのだ。

 今さらながらに、僕が息をごくりと飲む。

 だが聞かない訳にもいかない。

 これは僕らにとって大切な問題なのだ。



「ではお話ししましょう。パーガトリから出る方法とその根拠です」


 ティーナちゃんが僕に視線をくれた。

「まず、そうですわね。優さんからいきましょうか」

「……ええ……、……どうぞ……」

「優さんがここから出る為にすべき事はとても簡単です。母と和解すればいいのです。違いますか?」

 ティーナちゃんが緑川さんに問う。しかし緑川さんは何も答えなかった。そういえば彼女は話を聞かせてもらうと図書館についてきたのだった。答えるとは言っていない。

 だが答えないという事がそのまま正解を表しているように思う。


「根拠も言ったほうがよろしいでしょうか? 多分、言ったほうがよろしいのでしょうね。翠ちゃんも、黒服の男たちもその根拠を聞きたいが為に、こんな手の込んだ事をしているのでしょうから」

「…………」

「まずは場所。ここがどこなのかという点についてですの」

「……ここって、どこなんですか?」


 僕がティーナちゃんに問うた。

 彼女が僕に小さく微笑む。一体彼女はどんな気分なのだろう。

「優さん、多分ちょっと気が付いていたのでは?」

 ここがどこなのか。僕が薄々だが気付きつつある事をティーナちゃんは察していたようだ。

 ここでは縄を取り出す事ができた。鉛筆もアイスも突拍子もなく出てきた。それに牢屋に運び込まれるなんて、そんな事は現実的には起こり得ない。だが僕らは知っている。そんな突拍子もない事が起こり得る場所を知っている。それも感覚的に。そんな場所に正しい意識を飛ばせるなんて信じる事はできないが、それでも答えは一つしか考えらえない。

 それにキュバスが言っていた。僕らに飲ませた薬はただの睡眠薬だった、と。


「ここは、夢の中なんですの」

 ティーナちゃんが、話し始めた。


◇ ◇


「ここは、夢の中なんですの。

「何故か、という疑問に関してはもう優さんの中ですら、答えは出ているのではないかと思います。

「ですら、という表現はやめて欲しいと。

「では、優さん程度とでも言っておきましょうか。

「優さんが無言になったところで、説明していきますの。

「まず、ここが夢の中だとする根拠はいくつかあります。


「その中でもっともらしい根拠は、黒い服の男と翠ちゃん、あなた達の存在です。

「あなた達が何なのかという答えは、ハッキリ言って私も半信半疑ですの。

「しかしこの本を読んだら、答えは一つしかなかったのです。

「ええ、この大テーブルに置いてあるその本です。

「そうです、優さん。『〇〇と××の未来について』です。

「優さんが『〇〇と××の生態系について』という本を読んでいた時、私はこの本を読んでいました。

「するとこの本には、〇〇と××が今後生存する為にどんな方法があるかと書かれていました。

「ああ、優さんには〇〇と××の正体がわからないのですか?


「ものすごく簡単ですの。

「〇〇はインキュバスについて書かれていて、××はサキュバスについて書かれているんですの。

「ええ、それは想像上の生物です。架空の生物と言ったほうがいいでしょうか。

「悪魔とも言い換える事ができます。

「え? 黒い服の男と翠ちゃんが悪魔ですって?

「あの、一応言っておきますが、現実に悪魔なんて生物は存在してませんのよ。

「いえ、馬鹿にはしてませんのよ。でも、断言しておきます。悪魔なんて生物はこの世に存在しておりません。

「では、何故この本を引き合いに出したか、ですか?

「そもそも優さんは悪魔についてどれほどお詳しいですか?

「いえ、漫画の知識とかは必要ないですの。現実的にこの世界で説明されている悪魔です。

「悪魔とは恐怖という抽象的概念を具体的なイメージに置き換えた生物の事を指します。

「分かりにくいですか?

「もっと簡単に言いましょう。


「そもそも古代人は死が恐ろしかったと言います。死んでしまったらどうなるのか。自分という自我は消えてしまうのか。

「未知という事は誰しも不安で怖いのです。

「だから古代人は死を、または死後の世界を明確化しようとしたのです。

「それが夢の世界でした。彼らは死後の世界と夢の世界が同じだと思い込んでいたのです。

「だから夢の中に出てきた生物。

「それらを悪魔と呼び、絵を書き、死後の世界にはこんな生物がいるのだと、未知を既知に置き換えたのです。

「そして安心を得るようになりましたの。

「何となく分かりましたか? ええ、何となくで構いませんの。

「ただ分かっておかなければいけないのは、恐怖という抽象的だった概念を、具体的な悪魔という絵に置き換えてしまったという点です。


「どういう意味があったのか、ですか?

「そうですね。例えばベルゼブブと聞いて、どんな悪魔を想像しますか?

「蠅の王と言われる悪魔ですの。

「この生物は巨大な蠅の絵として現存しています。複眼という網の目のような眼を備えていて、触覚が二本あり、羽が二枚ある、従来通りの蠅です。

「それがただ大きいだけですの。

「初めにベルゼブブと聞いただけでは、どんな悪魔なのか分かりませんでしたでしょう?

「しかし絵として巨大な蠅を残していると、夢の中で巨大な蠅が出てきたら、それがベルゼブブだという認識を誰もが持つようになりませんか?

「つまり夢の中でベルゼブブは存在の固定化に成功したという事になります。


「さて、しかしです。

「ええ、優さんの疑問はもっともです。

「それはただ夢でしかなく、黒い服の男や翠ちゃんとは何の関係もないように思います。

「そこで、この本を読んだのです。

「ええ。『〇〇と××の未来について』です。

「この本はインキュバスとサキュバスがどうすれば生存できるのかという部分が焦点に当てられています。

「しかし、まず前提がおかしいとは思いませんか?

「インキュバスとサキュバスなんて生物は現実世界には存在しておりません。

「生存するなんて言葉を使用している方がおかしい、という事になります。

「そう、優さんにしては良い事を言いましたの。矛盾しているのです。

「え? 私がやけに優さんに突っかかっていくですって?

「…………。

「この本は矛盾している。いえ、逆に考えてみましょう。この本が矛盾していないとしたら?


「そうです。あくまで仮に、という話です。

「仮に矛盾していないとしたら、この本はこういう事を表しているのです。

「インキュバスやサキュバスには『生』の概念がある、と。

「さて、しかし『生』の概念とは何でしょうか?

「色々と説明する事は可能ですの。ただ最も簡単に表現するとしたら、生きようとする事。もしくは生きたいと思っている事ではないでしょうか?

「ここも疑問ですわね。何故、生きたいと思うのか。

「それは『死』という概念を知っているからこそではないでしょうか?

「お分かりですか?

「『死』がなければ、生きたいとは思いませんの。

「つまり生きたいと思う事は、死にたくないという事なんですの。

「何かよく分からない話になっていると思いますわよね。

「ええ、私ですら思います。

「ただ、その上でこの本『〇〇と××の未来について』を読むとします。


「すると、この本にはこんな事が書かれていましたの。

「『〇〇と××は心理学によって死を与えられた。それは宗教が蔓延っていた時代では考えられない事だった。科学の発展によって我々は真綿で首を絞められるように死を与えられ、存在価値を失くした。このままいくと我々は存在そのものが消失する……』。


「まだ内容は続きますが、ここらで止めておきますの。

「さて、何が書かれていたか。

「例えばです。

「優さんが夢の中で、サキュバスを見たと周りの人間に言うとします。

「いえ、言った事があるという、訳の分からない告白はいりません。

「たいていの人間は、心理学に合わせてこう考えるのです。

「性的欲求が、夢の中で実現された、と。

「もう既にサキュバスという存在を説明する必要はないのです。

「心理学に合わせて解答を得る事ができるのですから。


「つまりそれは『死』です。

「サキュバスは死んでいるのです。いえ、一応瀕死くらいでしょうか。

「そして『死』の概念を与えられた事によって、サキュバスには自我が生み出されたのです。


「つまり、です。

「『自我を持った夢の中の生物』というのが存在する事になります。

「そんなものは信じられない、と。

「ええ、そうでしょう。

「夢の中の生物だとしたら、何故現実世界で薬を渡せたのか?

「優さんの意見はごもっともだったと私も思います。

「なら、もっとシンプルにこう考える事はできないでしょうか?

「そうすると、全ての不可思議な現象に説明がつくのです。

「この〇〇や××の同類が黒い服の男や翠ちゃんだとします。


「彼らは私たちの目の前に現れて薬を渡した。

「謎の空間に私たちを連れてきた。

「私は優さんの過去を見せられた。

「そして私たちは、板垣も含めて生きている時代が全く違う。なのに会話ができていますの。

「これらを可能する物質が一つだけあります。

「電子です。

「つまり黒い服の男や翠ちゃんは、


「『自我を持った電子』なんですの」


◇ ◇


 自我を持った電子……?


 僕の頭が停止した。

 ……い、いや、待って欲しい。

 僕にだって常識がある。


「……な、何で、電子が薬を渡せるの?」

「電気信号ですの。例えば、脳からそこに人がいるという電気信号を眼、鼻、耳、皮膚に送るとします。すると、そこに人がいるという事にはなりませんか?」

「…………。……ちょっと待って、そしたら、薬は? 薬は実際にないと――」

「プラシーボ効果はご存知ではないでしょうか? これは病気を治す薬です、と手渡されると、病気を治す薬ではないのに、何故か病気が治るというケースがありますの。脳がそう認識するだけでいいのです」

「……僕らがここに連れてこられたのは?」

「明晰夢(めいせきむ)でしょう。夢を夢だと認識し、夢の中を自由自在に体験できる夢の事ですの。明晰夢を見るには、脳に微弱な電流が流れておかなければなりません。つまり今、私たちは、ただ夢を見ているだけなのです」

「……僕の過去を見せられたのは――」

「映像を電気信号化し、流した。以上です」

「待って。なら、僕らの時代が違うのに話せている理由は?」

「カー・ブラックホール。帯電したカー・ブラックホールは名前が違ったと思いますが、どちらにしろ過去と未来を行き来する事ができますの。理論上は。私たちが発信した声を電気信号化し、未来に過去にと流している。そう考えることができます」


 絶句した。

 色々な理屈がキュバスや緑川さんの事を電子だと証明できるらしい。

 意味は全くわからない。僕には理解できない。


 しかし最低限そこは納得するとしよう。

 だが『自我を持った電子』だとして、何故僕らはそんな奴等に、こんなところに閉じ込められている? 目的が全く分からない。


 僕の言葉にならない言葉は、ティーナちゃんに伝わったようだ。

「目的が分からないと思っているのでしょう。はい。私もその点が不思議でした。彼らが『自我を持った電子』だとして、何が目的なのか。あるいは彼らにどういうメリットがあるのか。そこで考えたのです。報告会とは何だったのか。もう一つは、何故私たちの過去を必要以上に他人に見せたがるのか。すると一つだけ答えがでました」

「……それは……、……どんな答えですか……?」


 緑川さんがそこで初めて、口を開いた。

 僕のとなりにいる彼女は、今の今までだんまりを決め込んでいたというのに、答えを欲しがったのだ。つまりティーナちゃんが今まで披露した説明が正解だということなのだろうか。

 緑川さんは初めて表情を作ったような気がした。

 彼女は真剣にティーナちゃんを直視していたのだ。


「答えは一つしかありません。あなた達『自我を持った電子』は過去を否定して欲しくないのです。翠ちゃん、あなた達は電子から生まれた電気信号、つまり悪魔を夢の中で見せる為の電気信号です。しかしその電気信号は自我を持っている。死んでしまう条件は、悪魔の存在を否定された時ですの。違いますか?」

「……続けて下さい……」

「過去の否定は悪魔の否定に繋がりますの。悪魔なんてものは過去に造られた産物。もう今はあらゆる科学という言葉に置き換えられます。だから『自我を持った電子』は過去を否定するという人間の意思そのものを許容してはいけない。つまりそんな考えを人から抹消しないといけない。だから集めた。過去を否定したいと思っている人々を、ですの」

「ちょっと待って。そんな人間だけを集めてどうするの、ティーナちゃん?」

「一人一人説得していくのです。過去を否定してはいけませんよ。過去を変えるのではなく、今から変わっていけばいい、と。そうすれば夢の外に出る事ができますよ、と。多分、途方に暮れる作業でしょう。過去を否定したいと思っている人間はごまんといますの。未来にも過去にも。そんな人達、一人一人をこのような夢の世界に集めて、答えを出すまで待つのですから」


「…………」

「そして私たちに簡単に答えを教えなかったのは、私達が真の意味で過去を否定するべきではないと納得して欲しかったというところでしょうか? 過去を他人に見せる事で客観性も得られます。説得されやすくなると踏んだのでしょう」


「……ほ、報告会は?」

「あれはあまりにも雑でしたの。びっくりするくらい。急遽考えられた。いえ、違いますね。板垣を排除する為に考えたというところでしょうか? 『自我を持った電子』がどれだけ説得しようとしても無理な人間も存在するでしょう。ならばどうするか、記憶を消してしまえばいいのです。そうする事でしか、どうしようもないからですの。まぁ、その辺りは板垣を見れば分かりますわよね。どう見ても説得に応じるタイプではありませんもの。私の祖父に当たるという事が、少々以上に悲しいですわ」


「じゃあ、ちょっと待って――」僕は何回この言葉を言うのだろう。それくらい頭がついていくのがやっとだ。「――黒い服の男が言った『質問と答え』って……」

 僕らずっと言われていたパーガトリから出る為の条件。

『質問と答え』を考えろというのは……。


 僕はどんな過去を否定したいと思ったのだろうか。

 間違いない。川上零名を裏切った事だ。僕はその過去を悔いていたし、もっと彼女に言えたことがあったハズだったのだ。

 それを僕は楽な方に流れた。

 川上零名を放置して、忘れていた。

 それを否定してはいけない。過去を否定して、過去を変えたいと思ってはいけない。

 それが答えか。


 具体的な答えはティーナちゃんが教えてくれた。

 零名と和解すれば、それが今を変えるという答えになるのだ。


◇ ◇


 牢屋で寝ている零名を待って十分は経ったのだろうか。

 彼女が起きてきてからは大変だった。当然だろう。零名にはこの場所の意味も分からなければ、黒い服の男の正体さえわからない。

 それは彼女がこれから気付かなければならない事だ。

 ティーナちゃん曰く、『自我を持った電子』だという正体は見破らなくても、過去を否定すべきではない、という部分だけ理解すれば解放してくれるだろうとの事だった。


 だから心配はしていない。

 零名ならきっとできるだろう。

 僕は彼女にただひすたら謝った。僕が謝ったのは、彼女に対して真剣になれなかった事。向き合う気持ちが不足していたのだと、そういう事だった。

 零名はその気持ちをどう受け止めたのかはわからない。

 けれど彼女はこう言った。

 自分も悪かった、と。

 彼女は後悔したと言っていた。

 ささやかな復讐心を満たして、結婚式に嫌がらせで呼んで。

 ごめんなさい。


 僕は彼女に何度も謝られた。

 僕らは互いに謝り続けた。零名は最後の方、顔を涙でぐちょぐちょにしていたが、それでも頭を下げ続けてくれた。

 僕も同じだった。

 涙は出ていたかもしれないし、出ていなかったのかもしれない。ただ自分の頬に触れると、僅かに湿っていたので、多分そういう事なのだろう。

 僕はもう外に出られるのだろうか。

 後はキュバスに答えを告げにいくだけだ。

 結婚式に行けて良かった。そう言うだけで通じるだろう。謝れたキッカケは何であれ、これで万事解決なのだろう。


 でもその前に、僕はティーナちゃんに挨拶をしに行こう。

 彼女とはもう当分会えないのだ。時代が違うのだから。彼女がいたからここから出る事ができたと言っても過言ではないのだ。零名とちゃんと話す事ができた。

 感謝してもしきれない。

 確かに彼女が生まれるのは、一年後と言っていたか? 性格はあれだけど、意外と人を助けようとする彼女になるのはまだ先か。

 ティーナちゃんにはもう一度謝ろうと僕は思う。

 だって彼女の時代で、川上零名は……。


 ……あれ? ……おかしい。

 そうだ。

 何も考えていなかった。

 ティーナちゃんの延々と続く説明によって、僕は失念していた。

 僕は零名と和解できていなかったのか?

 いや、そんな事はないハズだ。ちゃんと二人とも謝れた。涙を流して許しを請うた。


 なのに……。

 あれ……?

 だってもしこのままだったとしたら、何も変わらないのじゃないか?

 もしこのまま時間が流れていったとして……。

 ティーナちゃんが生まれ……。

 零名と一緒にショッピングモールに行ったら……。

 零名は自殺してしまい。

 ティーナちゃんは誘拐されてしまうのだ。

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