第2話 豆太
僕はひどく苛立っていて、また、すべてが馬鹿馬鹿しいような気持ちになった。目の前に広がるファンシー小説然とした事態に納得がいかなったが、説明を求めようにも、この状況を的確に説明してくれる誰かがいるとも思えなかった。
「もちろん、タダというわけにはいかない。それなりの対価を払ってもらうことにはなるがね」
猫にも契約の概念があるようだ。もっとも、この猫(と思わしき何か)が一般的な猫であるとは微塵も思えなかった。月並みの猫たちも、僕らの知らないところでこんなことをしているのだろうか。
「確かに、僕は猫の手も借りたいと言ったよ。でもね、普通こんなことが起こると思うかい? ただの慣用表現じゃないか」
僕はとりあえず目の前の猫某に抗議をしてみた。だって、普通ならこんなことありえないんだから。
「あゝ、いけないなぁ」
気障に髭をさすりながら、猫某は芝居掛かった声で言った。
「『普通なら』なんて思ってはいけないよ、少年。よく考えて御覧。君の生活に一日だって同じ日はなかったはずだ。この世界を取り巻くのは『異常』以外の何物でもない。それを『普通』と括ってしまうのは愚の骨頂。もっと俯瞰して物事を考え給えよ」
僕はマンションの三階に住んでいるのだが、今すぐこの猫の首根っこを引っ掴んで窓から放り投げてやりたい衝動に駆られた。僕をそんな衝動に駆り立てたのは、もちろん彼の放つ言葉だったが、それを思いとどまらせたのも、やはり彼の放つ乱暴ではあるが知的で、神秘的とすら言えるその言葉だった。
「いくつか質問してもいいかい?」
そう口にした瞬間、僕の好奇心は僕自身を『異常』に引き摺り込んだ。今思えば、この時其の猫を追い出してしまえば良かったのかもしれない。レポートの提出期限に追われ、一人で本を読む生活も、僕には十分な満足感を与えてくれていた。刺激的ではあるものの、常に疲弊とともに街を闊歩する今の生活は少々僕には辛いものがある。しかし、今までの何倍も楽しく、知的で、行動的な毎日は、そんなに悪いものではない。なにはともあれ、僕と其の猫はこの日出会い、そして、1年間生活を共にする相棒となるのだ。其の猫は、窓から放り投げるにはあまりにも聡明だった。
「答えられる範囲なら答えるがね」
猫は大仰に言った。
「君の名前、いや、貴方の名前はなんていうんだい」
この猫はどうやら高貴な精神を持ち合わせていそうだったので、とりあえず二人称を改めてみた。
「名前というものにあまり意味を見出していなくてね。猫には名前のない者が多いのだよ。かくいう私もその一人さ。飼い猫でも、飼い主から付けられた名前を認めていない猫というのは、結構多いものだよ。」
少し意外だった。犬は人に懐き、猫は家に懐くという言葉は聞いたことはあったが、あながち間違いではないらしい。
「でも、僕の手伝いをしてくれるんでしょう? 何か呼び名がないと話しかけづらいな」
「君の好きなように呼ぶといいよ。その名前を認める認めないに関わらず、呼ばれて識別することはできるからね。その名前にアイデンティティを見出さないというだけさ」
僕は少し考え込んでしまった。名付けというのは案外難しく、どうしても凝った名前を考えてしまう。しかし、考えたところで、其の猫にとっては識別のための記号以上の意味はなく、凝った名前は僕の自己満足でしかないだろう。
「それじゃあ、豆太と呼ばせてもらおうかな」
この名前が僕の嗜好品に由来していることは言うまでもなく、適度に日本風で、時代錯誤的で、それでいて可愛らしい良い名前だと思った。
其の猫は僕の顔を数秒見つめて、何やら小難しい顔をしたが、やはりあまり名前には意味を見出さないらしく、すんなり受け入れてくれた。
こうして、其の猫は豆太になった。
其の猫、聡明にて。 水野 大河 @mizuno-taiga
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。其の猫、聡明にて。の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
雨の匂い、夏の始まり/水野 大河
★15 エッセイ・ノンフィクション 連載中 7話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます