其の猫、聡明にて。
水野 大河
第1話 夜明け
深夜2時半、ふと目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。PCには文書作成ソフトの画面が表示されている。どうもうまくいかない。仮説の設定から見直すべきだろうか。しかし、締め切りは3日後に迫っている。本来ならば、もう作成を終え、文章推敲の作業に移らなければいけない時期だ。しかし、どうもうまくいかない。自分の文章に妥協はしたくない。締め切りを理由に手抜きのレポートを提出したくはない。ここで信念を曲げて、凡庸なもので満足するのは嫌だった。
窓を開け、ベランダに出る。寝静まった住宅街には人っ子一人いない。月がよく見える、空気の澄んだ夜だ。眼鏡をはずして大きく伸びをすると、月は二つになる。近視性乱視であるため、眼鏡がないとなんでも二重に見えて気持ち悪い。再び眼鏡をかけ、ふぅっと息をついた。根を詰めるばかりではいい文章は書けない。コーヒーでも飲んで休憩しよう。
コーヒーが好きだ。近所の焙煎屋さんから豆を仕入れて、ミルで挽くところから始める。ミルは手動だ。自動のほうが何倍も早く挽けるのだが、手動のミルを愛用している。特に味が変わるわけではない。時間がかかる分、豆の風味が落ちる可能性すらある。しかし、こうしてひたすらごりごりとしていると、日々のストレスや苛立ちを粉々に砕いているような気分になるのだ。
注ぎ口の細いケトルで湯を沸かし、ドリッパーにとぽとぽとお湯を垂らす。蒸らす時間は約15秒。中央から外側へと「の」の字を描くようにゆっくりとお湯を注いでいく。ドリッパーからサーバーへと抽出液が落ちるのを見つめる。水たまりに雨粒が落ちるように、ぽつりぽつりと黒い液体が落ちていく。
「スロウ・コーヒー」と自分は呼んでいる。何か締め切りに追われているとき、あえてゆっくりとコーヒーを楽しむ時間をつくるのだ。すると、緊張した神経を落ち着かせ、発想も柔軟さを取り戻す。急がば回れ、先人の知恵である。
淹れたコーヒーを飲みながら、好きなアーティストのエッセイ集を読む。スロウ・コーヒーを楽しむにあたって、追われている仕事には一切手を付けてはならない。尖った神経を休めるための時間なのだから、仕事とは別のことをして神経を癒さなければ意味がないのだ。決して逃避ではない。そう、これは逃避ではないのだ。
このアーティストによれば、世界で最も可愛らしい動物は「猫」らしい。普段のあのそっけない態度の裏には、本当は甘えたいという思いが隠れていて、それを知っているそのアーティストはあえて自分も猫に対してそっけなくするそうだ。すると、猫は寂しくなってそっとアーティストのもとに寄ってくる。喉を鳴らしてひっくり返るさまは、想像すると可愛いらしい。
いけない、読み耽ってしまった。時計を見ると、4時を回っていた。窓から見える空は既に紺色を帯びている。今日は1限目から授業が入っている。今寝たら確実に寝坊してしまう。あぁ、今日は徹夜だ。急いでカップを片付けてPCに向かった。
「猫の手も借りたいよ」
思わず愚痴をこぼしたその時だった。ノックの音がしたのだ。僅かに空気を揺らしながら、なんとか耳まで届くような、小さい音だった。丁寧なリズムで扉が鳴る。気のせいではない。自然音にしては意図的すぎる音の間隔だった。
こんな時間に来客など来るはずがない。仮に来たとしても、インターフォンが付いているからノックをする必要がない。不気味だった。
インターフォンを覗いてみる。モニターには誰も映っていない。やはり気のせいか? しかし、いまだにノックの音は止まない。いよいよ不気味を通り越して恐ろしくなってくる。いったい何なのだ。何か精神病にでもかかってしまったのだろうか。自分の置かれている状況がおかしいのか、自分の頭がおかしいのか。
覚悟を決めた。このままノックを続けられてはレポートどころではない。きっと子供の悪戯か何かだ。そうに違いない! 無理やり自分に言い聞かせる。
しっかりとドアチェーンをかけ、そっとドアを開けた。隙間から覗いた景色に、人影はなかった。うん。やっぱり誰もいない。よかった。大きくため息を吐いた。やはり幻聴か? 病院に行くべきだろうか。誰もいなかったことに安心し、そんなことを考えていた時だった。足元から声がした。
「早く開けろよ、人間。猫の手を貸しにきてやったぞ」
あのアーティストは噓をついていた。全然可愛くなんかないぞ、この猫。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます