僕も琉球空手やってたんで
カメ28号
第1話
この八月に、大学時代から足掛け六年住んだ安アパートを離れて、会社の近くに部屋を借りた。特に念願というわけではなかったが、トイレと風呂が別々になり、コンロも一つ増え、部屋も少しだが広くなった。そんな新しい部屋に満足していたし、住んで一ヶ月経ってもゴキブリの類も出てこないので、ありがたかった。別に僕はゴキブリが苦手なわけじゃない。鹿児島の出身だから、高校時代まで東京よりも一回り大きいゴキブリを相手にしてたから、むしろ奴らをやっつけるのはお手の物だ。だけどやっぱりそれが週に二回、三回となると苦手でなくても、その行為が面倒に感じて嫌にはなってくる。
そういう意味で新しい部屋はとても落ち着いて生活が出来てその部屋は気に入っていた。
だけど僕としたことが、つい三日前、 引っ越したことをすっかり忘れて、それまで住んでいた部屋に戻ってしまったのだ。
三日前のその日は仕事でとんでもないミスをやらかした日だった。どういうミスかと言えば、それは簡単でお客様とのアポイントメントをすっぽかしてしまったのだ。
月曜日だったその日、僕の上司の柳原さんは前日、日曜日の休日出勤の振り替えのため休みだった。休日出勤自体は前もってわかっていたらしいが、その振り替えがどこに来るかまでは柳原さんは把握しておらず、「じゃ。明日休んで」という社長の鶴の一声で決まったそれに反対することも、代休の制度なんて実はあってないような小さな会社だから出来なかった。
そして突然の休みとなった月曜日に、僕の上司は仕事の予定を入れている。しかもいつもなら会わないような、年に一回だけ毎年同じ時期に同じ物を注文をしてくれる大事なお得意様とのアポイントメントが入っていた。
「ごめん。三浦君。明日、俺の代わりに行って貰っていいかな? 君も去年、一度挨拶してる人だし大丈夫だから」
休日に会社の人間から掛かってくる電話ほど恐ろしいものはない。何か大きな自分のミスが発覚したのかと思ってすっぽかそうと思ったが、出てみると大した用事じゃなくて僕はほっと一安心。
「わかりました。三時に山本機械の八戸さんのところに窺えば良いんですね」
「そうそう。あと行くときに俺の机の上にあるクリアファイルもよろしくね。その中に領収書入ってるから」
「了解しました」
そんな調子の良い受け答えを思い出すと、返事だけは良いな! いつもそうやって先輩にからかわれていた学生時代が蘇ってくる。
僕の会社はトイレを掃除するラバーカップの柄を専門に中国から輸入していて、その八戸さんは、用途は不明だけど毎年夏になると決まって大量発注するお得意様だった。
ま、簡単な仕事だなって思った。どうせ月曜日はやる気があがらないから先週溜めた事務処理をこなそうとしていて、どうしてもって用事はなかったし、時間も三時だから上手くネットカフェで時間を潰せばそのまま直帰も出来るだろう、と。
だけど、それが甘かった。
当日、社長からお遣いを頼まれたのがいけなかった。
「三浦君、マクドナルドで新しいシェイクが出たらしいから買って来て。マックシェイク飲みたい人いる?」
丁度、一時過ぎだった。三時まではまだ二時間もあった。社長の問いには全員が手を挙げて答える。全員と言っても社員は社長も含めて六人で、その日は僕の上司の柳原さんは代休だから、僕以外の三人の手が挙がったことになる。
五月の連休明けだった。それから僕は先輩方のマックシェイクの味を聞いて、今日代休になった柳原さんは運が悪いなー、とか思いながら会社を出てお遣いに向かった。
これもそう。三時の約束と一緒で簡単な仕事だと思った。だけど事は思ったように進まない。
まず会社から一番近いマクドナルドの入っている雑居ビルが火事で燃えていて、買い物どこじゃなかった。それで僕はちょっと遠くまで足を運ぶことになり、そこについて見ると今度はマックシェイクは売り切れと抜かす。このとき始めて、あ、これもしかしたら――、みたいな予感があったけど、気を取り直して、社長に携帯で事情を説明すると、「三軒目によろしく頼む」とご武運を祈られた。
そうして会社から結構遠い三軒目になる国道のマクドナルドに着くと、社長の熱い思いが通じたのか、新しい味のマックシェイクはまだ残ってて、無事僕はそれを買うことが出来た。
ほっと胸を撫で下ろして、僕は袋に詰まったマックシェイクと共に会社に戻ろうと店を出ると、今度は、雨、雨、雨。強烈な雨だったのでそれがにわか雨であることはすぐにわかった。
「しょうがない――」
そういう訳で、すぐレジに戻ってポテトを買って店で雨宿り。もうその頃になると僕の頭からはすっぽり三時の約束のことは雨に流されちゃって消えて、このまま会社に戻ってマックシェイク飲みながら社長と無駄話して今日が終われば良いな、なんて呑気なこと考えていた。
四時になって、会社でマックシェイクのゴミを片付けているとき、僕の机の電話が鳴った。携帯じゃないところが憎らしい。柳原さんは僕が電話を受け謝る姿を、社内のみんなに見せたかったんだ。
だけどそれもしょうがない。ミスを犯したのは自分なんだから。
電話を受けると、もう烈火の如く怒る柳原さんの声。スピーカーホンじゃなかったけど、その声は狭い会社の中に響いていたんじゃないかな?
「はい。トーキン商事。三浦です」
「お前、何やってるんだ! こらぁ!」
「ひぃ」
思わず身震いして、時計を見て気づいたときはもう何もかもが遅かった。それからすぐに柳原さんがやって来て一緒に取引先に土下座しに行って、その後も懇々と諭すとは遠い怒りを直接、往来のど真ん中で柳原さんに向けられた。
そんなもんだから僕のテンションはだだ下がりで、もう会社辞めたいな、とかそんなことばかり考えながら、ほとんど無意識に電車に乗って、揺られて、降りて、とぼとぼ歩いていたら、気づかぬうちに前住んでいたアパートの扉を開けていた。
「あ」
丁度、革靴を脱ごうかというときに僕は自分の失態に気づく。こんなんだから雨宿りして大事な約束を忘れちゃうんだ。
慌てて僕は部屋から出ようとする。部屋の明かりは付いたままで、中に誰かいることがわかった。他人の僕が部屋に居たら、きっと新しい住人は驚くだろうし、警察だって呼ばれかねない。そうなったら会社は辞めれるだろけど、その他にも色々諦めなくちゃいけないものが出てくる。僕はまだ二十四歳だしやっぱそれは嫌かな~、って思って気づかれないうちにそぉーっと部屋を出ようと身を反転させて、見覚えのあるドアノブを掴もうとしたときだった。
「うわ! え? え?」
女の子がいた。彼女は驚きながらも、素早くこちらに拳を放つんだから驚きだった。「え? 嘘? 誰? 何者? もういやー!」
まず鍵が開いていた時点でおかしかったんだ。鍵を掛けずに外出、もしくは滞在することなんてほとんどない。借主なら鍵は大家から貰ってるはずだし、部屋の明かりがついているということは、一度は室内に入っているってことで、それなのに鍵をかけないっていうのはつまり、何かおかしなことになっているって証拠なんだ。
間違って前に住んでいた部屋に来てしまい焦っていた僕は、そんな事に気づくこともなく、見知らぬ女の子の拳に沈んでしまったわけだ。
「お、起きましたか?」
目を覚ますと、よく知っている天井。僕が前に住んでいた部屋だ。横には女の子の顔があった。どうやら僕は気を失った後、部屋にある布団の上に寝かされたらしい。布団から良い香りがしたのは、もうその部屋がその女子のものになっていたからだろう。
「あ、ぼ、僕」
「すいません。突然、得意の正拳突きぶちかましちゃって」
「え? あ、いや全然」
正直、みぞうちが痛むが嘘を吐く。
「僕も琉球空手やってたんで」
「ほんと。すいません。あの三浦さんですよね? この部屋に前住んでた」
なんでそれを知ってるのって感じだった。だから僕は「なんでそれを?」と、彼女に尋ねる。
「財布、見ちゃいました。まだ免許証の住所更新してませんでしたよ。ここの住所載せたまんまです。だめですよ」
彼女は僕に財布を渡す。一万円が抜かれていることに気づくのは家に帰った後で、彼女があの部屋の新しい住人じゃないと知ったのもそのときだった。
僕も琉球空手やってたんで カメ28号 @kameko_28
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