第六章 皇帝ファンド

 ときは1995年になっていた。江田秀雄は五年前に起きた出来事を思いだすたびに胃の中をかきむしられるような不快感を覚える。千葉のゴルフ場で連行され、三日間拘留された。釈放されたのは、相手の五郎丸と名乗る女性が告訴を取り下げてきたからだった。これはどう考えてみても、自分を三日間だけ娑婆に居させないための謀略だ。この痴漢騒ぎは、なんとしても自分を香川麻里子の病室から遠ざけるために、周到に計画された猿芝居だったとしか思えない。すぐに香川慎平に連絡を入れて、病床にある妻の香川麻里子はその後どうなったのか、と確かめると「江田さんの代理を名乗るイエズス会の神父が聖ヨゼフ国際病院に現れて、妻・麻里子の告解を聞いた」ということだった。名前を細田といったらしい。日本のイエズス会の本部に問い合わせてみたが、細田なる名前の神父は在籍していなかった。

 はかられたな・・・江田は確信した。    

 このままでは腹が収まらない。自分を痴漢行為の犯人だとして警察に訴えた五郎丸という女について、調べてみようと考えて、印旛カントリークラブのフロントに連絡を取った。この女がどういういきさつであの日、ゴルフ場に現れたのかを聞いた。すると、もちろん彼女はゴルフ場のメンバーではないが、ある有名俳優の紹介で当日やってきたということがわかった。その俳優とは、その年の一月にハワイで下着のなかに覚醒剤を所持していたかどで逮捕でされた、あまりにも有名な男優だった。「あの方のご紹介ですから、我々としても無下にお断りするわけにもいきませんで」というのがフロントの言葉だった。

 ここで調査の糸はぷつりと切れたも同然だった。その俳優は妻帯はしているが、交際している女性は星の数ほどもいて、それを一人ひとり当たるのはまず不可能に近い。またそういうことにこの俳優が協力してくれるはずもなかった。どうせ、五郎丸という名も偽名に決まっている。

 これで北軽井沢の別荘地の売買はなくなったし、従って参番館を抵当に入れさせて、やがて手に入れるという算段も水泡に帰した。江田はこれまで、大抵のことは自分の思う通りに運んできたが、どうも最近潮目が変わり始めていることを感じていた。誰かが裏で自分を邪魔している。それは誰なのか。いずれにせよ、邪魔ならばその邪魔者を排除するしかない。

 不機嫌に輪をかける面白くないことがもうひとつあった。それは、江田が実権を握っているパリの会社が世界の骨董マーケットに卸している「ナポレオン三世の馬具」が偽物と断定されたことだった。これは、東京、ニューヨークそしてミラノなどの百貨店ですでに富裕層のために販売されているのだが、偽物とわかってしまった以上このまま販売し続けるのはリスクがある。

(せっかくチャンスをくれてやったのに、あの老いぼれめが・・・)

 江田は今年81歳になるルイ・ジェローム・ボナパルト→通称ナポレオン六世(皇帝ナポレオンの末弟の子孫)のどこか浮世離れした瓜実顔うりざねがおを思い浮かべて舌打ちした。

 ルイ・ジェロームをおし立てて「ボナパルト社」を設立したのは10年前た。この会社は遮二無二ナポレオンブランドを活用しては様々な恩恵を享受した。やや無理筋であることを知りながら、ナポレオン六世公認と銘打った刀剣類、食器、家具などを販売したわけで、これらは面白いように儲かった。もちろん利益の一部はルイ・ジェロームにも還元した。

 それなのにボナパルト家の長老は骨董についてまるで素人だった。ナポレオンの傍流ではあるが一応先祖に当たるナポレオン三世が馬具の製造をかのエルメスに依頼していたことすら知らなかった。お粗末にもほどがある。ルイ・ジェロームが自宅のガレージに眠っていた馬具を引っ張り出して来て、これは先祖代々伝わるもので、きっとナポレオン三世が使用していたものだろうというから、それを何脚もコピーして製造したのだが、肝心のエルメスの紋章がなければ、「三世御用達」とはいえない。そこでもう、最初から躓いていたことになる。かといって、あの鞍にエルメスの紋章を刻んだなら、エルメス本社が黙っていなかったことだろう。だからあれは初めから存在しえない商品だったのだ。江田としては、全部で10脚製造し世界にデリバリーしたヴィンテージものの馬具への投資がふいになってしまったのは慙愧にたえないことだった。

 自分は成功しつづけてきた。九州の湯都院温泉、黒木温泉にある老舗の温泉旅館がリニューアルする度に旅館のオーナーに高利で金を貸し、わざと焦げ付かせて担保である旅館そのものを手に入れた。江田の軍門にくだらず抵抗するオーナーは即座に抹殺した。ほとんどはトリカブトを使った毒殺で、殺害の形跡が残らず、さらにうまいことに殺す前に保険をかけてその保険金を略取することもできた。ダブルで儲かってしまうのだからたまらない。バチカンでは、強欲な司祭と組んで、マネーロンダリングや人身売買で数億ドルの富を得た。江田の悪徳は留まるところをしらず、まさに空を飛ぶ全ての正義の鳥をも撃ち落とす勢いだった。

 しかし、順風満帆だった自分の人生にあるときから突然邪魔が入りはじめた。ナポレオン三世の馬具が引き金だったのだろうか。いつからかナポレオン六世を看板とし自分が支配する「ボナパルト社」からナポレオンブランドの商品を発売しようとすると、取引先がことごとく買い取りを辞退しはじめた。はじめはその理由がよくわからなかった。そして部下に命じて徹底的に聴きとり調査をしたところ、ナポレオン直系の子孫はイタリアのトスカーナに存在しており、その本家の了承なしに出回るナポレオン商品は全てフェイクである、という覚書が存在し業界に流布されていることがわかってきた。

「トスカーナ?」江田は耳を疑った。そんな馬鹿な話しがあるものか・・・。

 しかし、それは嘘ではなかった。ナポレオンはもともと、ナポレオーネ・ブオナパルテというイタリア人だったというのである。そしてその直系の子孫はいまトスカーナのエルバ島にいるという。その子孫たちの許諾なく、むやみにナポレオンを名を使うことは許されないという文書の存在が明らかになったというわけだった。ナポレオン六世を味方につけた江田の「ナポレオン・ビジネス」は一気に萎もうとしていた。

 江田は考えた。

「だったらトスカーナのナポレオンを消してしまえばいい」


 ある日、新聞の社会面にあっと驚くような記事が載った。

<ナポレオンの子孫が日本でトップ棋士と将棋対決!>

 そのリード文にはこう書かれていた。

「フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの直系の子孫であるナポレオーネ・ブオナパルテさん(18歳・イタリア・トスカーナ在住)が、このほど来日して日本のトップ棋士である加藤二三男ふみお九段と将棋対決することになった。これは熱心なカトリック信者である加藤九段が、バチカン皇国を通じて対戦を申し入れて実現したものだ。ナポレオーネさんは、チェスの競技においては向かうところ敵なしで、ヨーロッパではチェスのチャンピオンの座にあり、かねてより深い関心を持っている日本伝統の将棋でも頂点を極めたいとしている。稀代の戦略家であった先帝ナポレオン公の血を引いたナポレオーネさんが、盤上でどのような戦いを見せるのかが注目がされ、迎え撃つ加藤九段は、”相手がナポレオンなら私は東郷平八郎になったつもりで戦います。対戦を前に今からワクワクしています” と語っている」

 またさらにこの記事によれば、ナポレオーネはこの年の九月に鎌倉の八幡宮で催される流鏑馬やぶさめにも出場するという。なにしろナポレオーネはスポーツ万能で、とくに射撃やアーチェリーでは他をよせつけない高みまで昇り詰めているらしかった。そんなわけで、この秋は日本にちょっとしたナポレオン・ブームが舞い起こりそうな勢いだった。

 江田秀雄はその記事が載った新聞を思い切り引き裂いた。


 まるで勢いよく枝を張った若い樹のように美しい少年に成長したナポレオーネ・ブオナパルテは、95年の夏が終わった9月、はじめて日本の地を踏んだ。姉のベアトリーチェも一緒で、さらにマルコ・マントバーニが付き添っていた。

 到着ロビーに姿を表した彼らには、何やらこの世のものとは思えない特殊な光が当たっているように光って見えた。

 空港で彼らを迎えたのは、根岸六郎と、妻の志麻子だった。志麻子は言うまでもなく銀座参番館のオーナーである香川一族の次女で、二年前に六郎と結婚したばかりだった。スカイブルーのスーツに身を包んだナポレオーネと、対象的にグレーのカシミアのセーターにジーンズというカジュアルないでたちのベアトリーチェがに向かって、遠慮のないマスコミのフラッシュの閃光が飛んだ。すぐに目つきの鋭いダークスーツ姿のSP二名がどこからともなく現れて、姉弟の両脇についた。六郎にはそれが通産大臣の指示によるものだとすぐにわかった。余計なことをして・・・と六郎は舌打ちをした。それはこれからはじまるある会合のために用意されたこととはいえ、警備を厳重にしたら、かえって怪しまれてしまうのではないかと六郎は懸念したのだった。

 六郎とマルコは軽く目配せをするとナポレオーネたちを、待たせていた二台のワゴンのひとつに誘導した。悠然と一台めの運転席でまどろんでいたのはメタモル堂のロベルト・ヨディーノで、ナポレオーネたちが乗り込むと低い声で「ボンジョルノ」と挨拶した。三人のイタリア人が地中海から運んできた屈託のない明かるさが車内に広がった。六郎たちも同じ車に乗り込んだ。二台目には身体の大きなふたりのSPが乗り込んだ。ロベルトは車を猛スピードで発進させた。もともと世田谷あたりで鳴らした暴走族の頭で、その運転技術は異次元のものだ。血まなこで追いかけるマスコミの車両はまたたく間に遠ざかり、SPたちの車もついていくのがやっとだった。いつもの退屈な東関東自動車道だが、走行中六郎はベアトリーチェの質問攻めにあい、その退屈さを感じる余裕はまったくなかった。

「通産大臣は本当にくるのか」 「産業同友会の会頭はどんなことを考えているのか」「こんどの事について日本の関係各庁はどう反応するだろうか」などなど・・・。六郎はいちいち丁寧に答えていたが、最後は根負けして「ぼくはたいがいのことはわかるが、日本の官僚のことだけは全くわからない。直接聞いてみてくれ」と答えるのがやっとだった。

 都内にはいったワゴンは、東銀座で高速道路を下り、新富町にある貸衣装店・メタモル堂の地下駐車場に滑り込んだ。車を降りてから目立たない小さなドアを開けると、メタモル堂店舗の地下にある秘密めいた部屋へとロベルトは全員を誘導した。細い廊下の先にはがっしりしたドアがあった。取り付けられた液晶パネルにロベルトが掌をかざすとドアはゆっくりと開いた。中はまるで核シェルターかなにかのように全く窓のない部屋で、円形のテーブルの上にはいくつものダウンライトが光を落としていた。そのテーブルでは7名ほどの人物が席について今や遅しとイタリアからの来客を待ち受けていた。そのなかの何人かはマスメディアによく登場する著名人だ。二名のウェイターが、すでに全員にシャンパンを注ぎ終わり、オードブルをサーブしているところだった。本来であれば来賓が到着してから食事がふるまわれるはずなのだが、時間はすでに午後の二時になろうとしており、席次筆頭のVIPが空腹のあまりしびれを切らしてしまったらしい。

 右手前に座った、身体のがっちりしたそのVIPがナプキンで口を拭いながらゆっくりと立ち上がった。

「ようこそ、ナポレオン八世閣下!」

 根岸六郎は、その人物を新聞やテレビ以外で見るのははじめてだった。もう70代だろうか。その割に艶のいい大きな顔、そしてギョロ目。日本経済の司令塔とも言うべき産業同友会会頭の木島信隆である。木島は数年前に関東電力の会長を勇退した。日本の経済政策、とりわけエネルギー政策について鋭い一家言を放つ論客で、経済界でいまだに隠然たる発言力を持っている。

「これで全員揃ったようです。大臣、よろしいですか」と木島が低いがよく通る声で言った。。

 うなずきながら中央の席で立ち上がったのは、佐々木幹夫通産大臣だ。年齢的には木島よりは若いので、上座を木島にゆずった形になっている。

「ナポレオン八世閣下、ようこそ日本国へ」

 与党民自党で当選七回目という大物。電電公社の民営化では先頭を切って尽力し、国民からの人気もある。意志の強そうな強面だが笑うと別人のように人懐こい表情になる。きっとそんなところが長きにわたって有権者たちに支持されてきた所以なのだろうと六郎は思った。佐々木大臣は席を立つと、ナポレオーネたちの前に進み出て握手した。にこやかな表情だが、いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた人物らしい油断のない風格もちゃんと漂っている。

「お目にかかれて光栄です、大臣」とベアトリーチェが一行を代表して挨拶した。ベアトリーチェが言葉を発すると、匂い立つような気品が溢れて部屋が一瞬バラ色に染まったような錯覚さえ覚える。通産大臣はシャンパン・グラスを顔の位置まで持ってくるとなんと英語で乾杯の辞を述べた。それもちょっとやそっとの英語ではない。

「Here's looking at you kid!」映画「カサブランカ」でハンフリーボガートがグラスを上げてイングリット・バーグマンに向かって言った言葉で、名訳として後世語り継がれている日本語字幕は「君の瞳に乾杯!」である。その意を汲んだベアトリーチェはにっこりとほほ笑んだ。さすがはかつて外務大臣を歴任し、世界中を飛び回った行動派の政治家である。六郎は驚きながらも(この親父は話せるな)と直感した。

 ナポレオーネが握手を求めて全員の前に進み出てると、一同は若きナポレオンの峻烈な碧い眼光に吸い寄せられた。

「これはトスカーナからのプレゼントです」

 ナポレオーネが言うとマルコ・マントバーニが黒いフェルト地の小箱をふたつ取りだした。

「我々が共同開発を進めてきたロックマンという新しい時計です。今年のバーゼルでデビューさせます」

 マルコがそう言うと、佐々木大臣と木島会頭の手に、美しい時計を手渡した。ふたりは、初めてみるイタリアの魔法のような不思議な時計に目を細めた。これまで見たこともないデザインだ。そしてしっかりとイタリアらしい洗練された洒脱さを漂わせている。

「この時計には私たちの先祖である皇帝ナポレオンからのメッセージがこめられております。そのメッセージは、2019年の8月15日、つまり皇帝の生誕250年のその日の午前零時にこの時計自らが語りだすことになっております」とナポレオーネが言った。

「ほお、それは素晴らしい。しかし、一体どんなメッセージなのでしょうか」

「いいえ、それは私からは申し上げられませんわ。お手元のロックマンに聞いてください」

 ベアトリーチェがまるで子供をしかるような口調で答えた。

「2019年か・・・私は生きていないだろうね、そのころは」

 木島が笑顔に無念そうな諦観を滲ませて言った。

「会頭のご家族がメッセージを受け取られれば、それでよいのです」とマルコ・マントバーニが言った。木島は、フームと唸りながらまだ不満そうだ。 

「ところで・・・」と佐々木が慎重に周囲を見回した。

「追跡はされてないだろうね、誰からも」念を押すように聞いた。

 答えたのは根岸六郎だった。

「もちろんですとも、大臣。それに、今回の来日目的はあくまで加藤九段との将棋対決と言うことになってますからご安心ください」

「そうだったね」大臣は満足そうにうなずいた。

「では、まずベアトリーチェ王女から本日の検討課題について説明をお願いします」

 六郎が言うと、大臣と木島会頭はおもむろにうなずいた。ロベルトが通訳として素早く二人の日本人VIPの間に席を取った。

 ベアトリーチェが、シャンパンをひと口飲んでから立ち上がった。27歳。未婚である。金髪に深い藍色の瞳が映えて、西洋の古典絵画から抜け出てきたような姿はどこか、周囲を包みこんで放さない強烈な磁場を湛えている。六郎はその横顔に見入りながら、やがてベアトリーチェ・ブオナパルテが大陸をリードする欧州の母のような存在になる、そしてそれこそがきっと、八代前の先祖である皇帝ナポレオンの遺志に応えることになるにちがいない、と胸を躍らせながら夢想していた。

 低い天井に、ベアトリーチェのいかにも聡明そうな英語が響き渡った。

「わがブオナパルテ・ファンドは、これまで数々の投資を成功させてきました。古くはヨーロッパ産業革命の支援から米国の自動車産業の支援、さらにディズニーやハリウッドなどの娯楽産業、また世界各国のスポーツ団体にも選手育成のための投資を行ってきました。そして最近ではマイクロソフト、アップルに代表されるIT産業への投資支援です。一方で、ヨーロッパの美術館や博物館への投資も惜しみませんでした。最近では、シャネル、ルイ・ヴィトン、ディオール、などのハイ・ブランド各社にも幅広い投資を展開しています。これらの投資の平均利回りは年率換算で20%という高い水準を維持しています。そして今回、私たちは日本に着目しました。日本にはまだまだ高い伸びしろのある産業が存在します」

 全員がベアトリーチェの言葉に注意深く聞きいっている。

「今日はわけがあって日本のエネルギー産業の重鎮ともいうべき木島会頭と、電気や都市ガスなどエネルギー供給公益事業を管轄する行政のトップである佐々木通産大臣においでいただいております。ここでこうして、お二人にお目にかかれたことを大変光栄に思っております」

 木島は、うっすらと微笑んだ。

 佐々木はグラスに残ったシャンパンをごくりと飲みほしてから言った。

「今日は、我が国のエネルギー産業に対して画期的な投資を検討していただけると伺い、お話しを大変楽しみにしてまいりましたが・・・」

 ベアトリーチェは、佐々木を一瞥すると、すぐに視線をそらせて手元の書類に目をやった。

「日本には現在、40基以上の原子力発電所があります」

 出てきたのは意外な言葉だった。佐々木は感情を押し殺した表情のまま、ベアトリーチェの次の言葉を待った。

「火山国であり、地震も頻発するこの国にあって、原発は大変危険な施設とはお考えになりませんか」

 部屋が静まり返った。予期しなかった展開に、佐々木と木島は絶句している。沈黙のあとに、木島が不機嫌そうに言った。

「反原発運動に対しての投資ということでしたら、お断りしますよ」

「そうではありません。投資とはあくまで建設的なものです」ベアトリーチェがさらりと言った。

「ただし、投資をするからには過去の誤りについてのきちんとした検証が必要です。一体なぜ日本にはこれほど多くの原発が跋扈してしまったのか、それについてお聞かせいただきたいのです」

 佐々木と木島が顔を見合わせたが、少し間を置いてから木島が立ち上がった。小さな咳払いをしてから話しはじめた。

「1973年のことです。日本が石油ショックなるものに見舞われたことは皆さんご存じと思います。これは原油の価格が急騰して起きたことです。当時中東の産油国の連合体であるOPECが急に石油の値段を吊りあげてきたわけです。これで我が国はパニックに陥ってしまった。電気もガスもほとんどが石油燃料に依存してきたわけですから無理もないことでした。エネルギーに対する危機感が日本中を覆いました。主婦の皆さんが平常心を欠いて、トイレットペーパーを買いしめに走ったその異様な光景をご記憶の向きもあるかと存じます。この石油ショックは日本のエネルギー産業にとってトラウマとなりました。そして、その後いちいちOPECの顔色をうかがわないでもやっていける方法はないものか、と我々は懸命に議論しました。そこで、伝家の宝刀と言いますか、窮余の一策といいますか、原子力利用の拡大という選択肢が提起されたわけであります」

「なるほど。しかしその後原油価格も落ち着きを取り戻し、エネルギー供給も危機を脱しましたはずですよね」

「たしかにその通りです。しかしいったん抱え込んでしまったトラウマというものはそう簡単に消え去るものではありません。日本人は、用心深い民族です。二重、三重に保険をかけないと落ち着かないのです」

「原発がその保険だと?」

「いかにも」

「では、原発のリスクに対する保険はどう担保されているのでしょうか」

 木島は額の汗をハンカチで拭った。こんどはシャンパンではなく、水をごくりと飲んだ。ベアトリーチェは木島の顔を見つめたまままばたきひとつしない。

 緊張感が走った。

「それは、厳重な安全基準を満たすことによって担保されていると考えます」

「その安全基準はどなたが策定しているのですか」

「原子力安全保安院が策定し通産省も認定した上で各電力会社に義務付けています」

「つまりお役人の皆さんが策定されたわけですね」

「・・・・・・」

 先ほどからメモを取りながら、どことなく気配を消し去っているような二人組がいた。ベアトリーチェの発言に対して顔色がみるみる青ざめている。佐々木大臣付きの通産省の官僚にちがいなかった。ベアトリーチェは押さえた声で言った。

「私は、日本に電源三法交付金という奇妙な補助金があることを知っております。これは、原発が存在する地方自治体に対して毎年支払われるもので、もちろん出どころは税金です。現在40基強存在する原発は、だいたい全国で約14か所の自治体に散らばっております。これらの自治体に対して毎年4,000億円以上の交付金が支払われておりますね。そしてこれは今後ますます増額されていくことになっております」

 二人の通産官僚はつとめて平静を装っているが、心の動揺が顔に出始めている。その二人に対してベアトリーチェが目を向けた。

「そちらのお役人のお二人に伺います。この交付金は一体なんのためにあるのでしょうか。何故、原発のある自治体だけに支払われるのでしょうか。電源というなら火力だって水力だって電源ではありませんか」

 二人の通産省の役人は目を伏せたまま無言である。

「お答えいただけないなら、私がお話ししましょう。この交付金がどんな風に使われているのかというと、誰も使わない公民館や音楽ホール、車の走らない道路などなどにです。その不適切な使われ方については再三会計検査院が指摘しているところです。こうしたハコモノや道路の建設によって潤っている人たちがいます。これは明らかに、金をやるから原発を作らせろと言っていることになりませんか。裏をかえせば、原発に対してなんらかのやましさがあるとしか思えないのですが、いかがでしょうか」

 全員が料理には一切手をつけなくなってしまった。じっと腕組みしたり、天井を睨んだりしている。明らかにベアトリーチェの言葉は我が国のエネルギー施策のいびつさを突いていた。

 そこで佐々木大臣がにやりと笑った。不敵な笑いのようでもあり、また妙に親近感を滲ませた笑いのようでもあった。

「ベアトリーチェさん、あなたの言うとおりだ。原発が100パーセント安全であったらそんな交付金をばらまく必要などない。でも支払われてしまった。もう25年間もの間ね。今更どうにかしようと言ってもはじまらない。日本という国はいったん走り出したものを止めるのが極めて苦手な国なんです。止めるということは、だれかが責任を取ることを意味しますからね」

「なるほど、日本では行政の担当者が責任を取ることは絶対にないのですね」

「その通り。過去、不祥事とか不正発覚以外の理由で職を辞した官僚は一人もいません」

「つまり、間違った行政がまかり通ったとしても糾弾されることはない、そういうことですね」

 すっと立ち上がったのはマルコ・マントバーニだった。

「一年間に4,000億ということは、十年間で四兆円ですよ。このまま続けていって本当にいいのですか。イタリアでは絶対に考えられない暴挙です。どんな悪法だろうといったん施行されてしまったらそのまま遵守されていく。そんなことでいいのでしょうか。少なくとも国民に対するアカウンタビリティー(説明責任)は必要じゃないですか」

「マントバーニさん、お恥ずかしい限りだが、これが日本という国のありようなんだ」

 佐々木大臣が開き直ったように言った。

「そのお金をストップする方法がひとつあります」とベアトリーチェが言った。

 全員が彼女の毅然とした美しい顔に釘付けになった。

「というと?」木島が聞いた。

「原発そのものをなくせばいいのです」

 座がざわめいた。

「そう簡単に言われても・・・」

 木島が言った。

「ちょっと待て」

 佐々木大臣がさえぎった。

「ベアトリーチェさん、さっきあなたは後ろ向きなことには投資しない。投資とはあくまで建設的でなければならないとおっしゃった」

「はい、その通りです」ベアトリーチェは無表情のままだ。

「だったら、その原発をなくすだけじゃない、それに付随するなにか建設的な提案をお持ちと考えていいのですかな」

「もちろんです」

「それをお聞かせいただけますか」

「わかりました」

そう言うと、ベアトリーチェは六郎に向きなおった。

「あの方はまだですか」

「いや、いま到着したようですよ」六郎は携帯電話の画面を見ながら言った。

 ロベルトが席を立つとドアを開けて出て言った。二三分たつと、ロベルトはある人物を伴って再び部屋に現れた。

 二年前、熱狂的に支持されながら誕生した日本のプロサッカーリーグ「ジャパン・リーグ」の生みの親である鰐淵二郎チェアマンである。

「いやいや遅くなりまして申し訳ありません。今日は北海道の新しいサッカークラブ設立のためのプレゼンを聞いておったところでして」と鰐淵はいかにも頑丈そうな広い額についた汗をハンカチで拭った。その顔に向かってベアトリーチェが安堵したようにな笑顔を向けた。

「お久しぶりです、ワニブチ・チェアマン」

 鰐淵もベアトリーチェとナポレオーネに向かって親しげに微笑んだ。佐々木と木島、そして同席の官僚たちは、呆気にとられたようにぽかんとしている。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

トスカーナのナポレオン 中坊 薫 @namonakidokU27

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る