第五章 殺し屋のコンパニオン

「根岸さん」

 六本木ウェイブのなかを歩き回っていると、聞き覚えのある、やや尖った江戸っ子弁が自分を呼んだ。振り向くと、真っ青なビロードのベストを着て、蝶タイをつけたブギー中山が立っていた。

パイプをくわえ、くゆらせている。(まだ、どこでもタバコが吸えた時代である・・・)

「やっと来てくれましたね。例のビデオはちゃんと取っておきましたよ。他の人が借りられないようにね」

 笑顔はあくまでも柔らかい。

「ありがとうございます」と六郎は丁寧に礼を言った。

「でもねえ、あの映画はいま渋谷の単館で上映していましてね、すごいロングランになったまま、まだやってます。そっちで見たほうがいいような気がするなあ、大画面でね」

 そのことはすでに知っていた。「グラン・ブルー」とフランス語にタイトルを変え、渋谷で上映しており、連日立ち見が出るほどの大盛況だということは少しでも映画をかじっている者ならみんなが知っている今年のエポックだった。それは、日本だけでなく、ヨーロッパ各地でも同じで、「グランブルー・ジェネレーション」という言葉すら流行するほどだった。この一作をもってリュック・ベッソンは映画監督として一挙に世界的な名声を得てしまったようだった。そしてもう一人、準主役の俳優、ジャン・レノはこれ以降、レッド・カーペットの常連となっていく。

「いや、今日は映画の話しじゃなくてね、」と六郎は言った。

「おやおや、じゃあ、タバコですか?」

 ブギー中山のタバコ屋は、フロアの一角にある小さな店だった。ショウケースの中を見ると、ダンヒルだのハーフ&ハーフだのといった、パイプ用の葉タバコがぎっしりと収められている。ここがそうしたパイプタバコ・ファンのためのマニアックなタバコ屋であることを六郎はとっくに知っていた。もちろんシガー(葉巻き)の品ぞろえも豊富である。しかし六郎が以前から目に止めていたものは別にある。六郎はタバコ屋のある一角を見つめた。

「いや、タバコでもないんです」

 そう言いながら、相手に悟られないようになにげなく中山の足元を見る。この前と同じローファーだった。しかし今度はちゃんと右足にも1セントコインが挟まっていた。

「実は、ちょっとあなたに聞いてもらいたい話しがありましてね」

「ほおー・・・じゃあ、バーで話しましょうか」

 そういうと、中山はもう勝手に、バーの方向に歩き始めた。

「お、これはペトリチアーニじゃないでしぁ、この季節にはしみるなあ」

 中山は店内に流れているBGMをひとしきり褒めてから、バーテンダーにギムレットを注文した。「あんたは?」と聞かれたので、六郎は咄嗟にドライ・マーティニを頼んだ。胸のなかで、(殺し屋と飲むにはお似合いの酒だ)とひとりごちていた。

「実は、これは私の愚痴だと思って黙って聞いてほしいのです」

 六郎は切り出した。

「また、あらたまって急に、なんですか?」

 中山は微笑みを絶やさないままだ。

「銀座に老舗で格別な選りすぐりの商品だけを扱っている宝飾品店がある。ヴィンテージの時計や、超高級のジュエリー類など、品ぞろえは超一流です。そこが少しばかり悪い奴に狙われてましてね」

 全く表情をかえず、中山はジャズにあわせて膝をゆすっている。しかし、耳は注意深く言葉を捉えていることが、はっきりと六郎にはわかる。本当は一言一句、聞き洩らすまいと注意深く耳をすませているにちがいないのだ。

 六郎は一気に、宝飾店・参番館の香川親子のこと、娘婿の慎平のこと、江田秀雄という不動産屋のこと、北軽井沢のまるで価値のない広大な土地のこと、それを使った参番館乗っ取り計画疑惑、そしていま病室にいる志麻子の姉、香川麻里子に迫った深刻な危機について、噛んで含めるように語った。


 話しが終わった。二杯目のギムレットを飲みほした中山は、愛想のいい笑顔を浮かべたまま、今度はせわしなくパイプに新しい葉をつめた。六郎はその指先をじっと見つめた。コンパニオン(パイプに葉を詰める金属の道具)を器用に操ってせっせと葉タバコをパイプに詰めこんでいる。

「さてと・・・」

 中山が言った。

「そういう話だったら、弁護士さんと警備会社かなにかに相談されたらどうですか」

 眼鏡の奥の中山の眼はあくまでも穏やかだ。

「だってそうでしょう、参番館さんの代表印鑑は弁護士さんに頼んで保全すればいいし、あとは警備会社を雇ってお姉さんの身辺警護をやってもらう。彼らはプロですからね」

「中山さん」

 六郎は、低いがよく通る声で言った。

「あんたは、まさか本気で私にそんなつまらんアドバイスをしているわけじゃないですよね」

「・・・・」

 まだ中山は笑顔のままだ。

「いい靴を履いてますね」六郎は言った。

 中山がかすかに表情を変えたがすぐに笑顔に戻った。

「え?ああ、このローファーですか。大したものじゃありません」

「ほお、しかし甲の部分に挟まれたコインは大したものだ」

 中山の笑顔がはじめて警戒の色をおびた。

「何をおっしゃりたいのですか?」

「その靴には誰もが知っているリンカーンの肖像が刻まれた1セントコインが挟まれています」

「それがどうかしました?」

「先日お会いしたときは、右足側にはコインが挟まれていなかったのに、今日はちゃんと右側にもついています」

「そうそう、よく落としてしまうんでね、落としたらすぐに補充するようにしているんです。たかが1セントですからね、一度でも米国に行った人間なら、そりゃいくらでも手元に残っているでしょう」

「中山さん」

 六郎はじっと中山の眼を覗きこんだ。

「私が人に自慢できることがたったひとつあるんです。それは、まるでマサイ族のように視力がいい、ということなのです。だから、エルバ島でもリュック・ベッソン監督ご愛用のストップ・ウォッチ、ワックマンを裸眼で修理できたのです。厄介な代物で部品の数は数百個もあった」

「ほおー、映画雑誌に載せたいエピソードですな」

「あなたのローファーに挟まれたその1セントコインですが、右側はどこにでもあるコインですが、左足の方は一九五五年に製造された特別なものですね。以前お会いしたときから気づいていました」

「いやあ、そこまで確認はしてませんがね」

「与太話しはそこまでにしましょう。左側のそのコインは、エラーコインと呼ばれるヴィンテージもので、1955年に打ち損じで二重鋳造されたものだ。そのために描かれている年号や文字が微妙にずれて、二重になっているんです。なんとも珍しいコインですね。これは〝1955・double die cent″と呼ばれていて、世界に何枚とない、コレクター垂涎の代物です。しかし、左側だけだ」

 中山は、そっぽを向くとひときわ大きなパイプの煙を吐いた。六郎は続けた。

「オシャレなあなたのことです。片方だけヴィンテージで、片方はどこにでもあるコインというのは、さぞ納得がいかないことでしょう。じゃあ、右足にあったはずのコインはどうなったのか・・・。実はこれは千葉の科学警察研究所、いわゆる科警研というところにある。私の大学時代の友人がそこにおりましてね、教えてくれたのです。それも立派な1955年製のダブル・ダイ・セント(二重鋳造コイン)。三カ月ほど前に、山梨県の殺人現場から発見されたものです。中山さん、あなたのそのコイン、取り戻してみませんか」

 長い沈黙が流れた。

「ちなみに山梨の殺人ですが、傷の形状からみて凶器はあなたがパイプに葉を詰めるために愛用しているコンパニオンに収納されている鋭利なスティックだと私は見ています。そう、コンパニオンに必ず内臓されている、あれです。実に見事なひと刺しでした。そのことを、こんど科警研のその友人に助言するべきかどうか迷っています。中山さん、時間がないのです。神父を名乗るそのヤクザな不動産屋は今週の日曜日、つまり三日後に聖ヨゼフ国際病院の五〇五号室、香川麻里子の病室に現れる。時間は夜の八時」

 それだけ言うと、六郎は中山に背を向けて歩きだした。


 柳谷百貨店外商部の部長、大山善次郎は部下から不可解な報告を受けた。

 昨日の西洋骨董特別頒布会で売られた商品に不良品の疑いがあり、検品してほしい、という顧客からのクレームがあったというのだ。

「どのお客さんからだ」ときくと

「香川様です」という答えだった。大山は凍りついた。香川といえば柳屋外商部のトップランクの顧客、香川一族からのクレームにちがいなかった。返品されたのは、ナポレオン三世が使用していたという乗馬用の鞍だ。

 大山はすぐに、外商部のスタッフ全員を集めた。

「香川さんから、ナポレオン三世の馬具について、不良品ではないかというクレームが入った」

「不良品と言っても、ちゃんとナポレオン三世の紋章が入っていたはずですが」

 仕入れ担当の山崎が甲高い声で言った。

「しかし、それは極めて疑わしい」

「何故ですか」

「ナポレオン三世は、馬具の製造をエルメスに依頼していた。だから本物だとするならばエルメスでなければならん。なあ、根岸」

 大山は六郎の方を見て、あとの説明を催促した。六郎は立ち上がった。

「その通りです。ナポレオン三世は皇帝ナポレオンの子孫たちのなかで、唯一ナポレオンを名乗ることを社会から許されたそれなりの実力者でした。そして、彼は全ての馬具をエルメスに一括して特注していたのです。ですから、本当に三世御用達であればエルメスの紋章が入っていなければなりません。しかし、残念ながらこの鞍には紋章がない」

 山崎の顔がひきつった。そして15名の部員全員がどよめいた。

「山崎、仕入れ先はどこだったんだ」大山が聞いた。

「パリ支店が仕入れたものでして、彼らが偽物をつかむはずはありません」

 気の毒になるほど動転している。

「いや、それはわかりませんよ」

 根岸六郎が低い声で言った。

「パリ支店のその担当の名前は?」

「北里といいます。北里健一課長です」

「わかりました。私から電話してみてもいいですか」

 六郎が聞くと、山崎は少し躊躇する顔になったが、渋々OKした。

 緊急ミーティングは散会した。

 時間を見計らって、パリ支店に国際電話をかけた。相手はパリ支店で高額商品の仕入れを担当している課長の北里健一だった。

「本店外商部の根岸です」と六郎はまず挨拶した。

「はじめまして、北里です」北里はよく通る低い声で言った。まるでオペラ歌手のような、素晴らしいバリトンだ。

「実は、そちらから回ってきた商品に不良品の疑いがありまして」六郎は事の顛末を話しだした。

「それはまた、突然ですね。どの商品でしょう」

「はい、ナポレオン三世が愛用していたという鞍です」

「ああ、あれですか、あれなら間違いないはずだが」

「と言いますと」

「きちんとナポレオン一族が取り仕切っている会社から買い取ったからです」

 北里の声のトーンが高くなった。

「なんという会社ですか」

「ナポレオン末裔のボナパルト家が大株主になっているボナパルト社です」

「お手数ですが、会社概要をいただけませんか」

「わかりました。十分ほど待っていただけますか」

 北里はそう言うと、電話を切った。

 きっちり十分後にファクスが入った。会社概要だが、何故か役員名が抜けている。それを言い訳でもするかのように北里から国際電話が入った。

「代表者は、ルイ・ナポレオン・ボナパルト、つまりナポレオン六世です」

 何人もいる「自称ナポレオン」のひとりだ。正式な名前は、ルイ・ジェローム・ヴィクトル・エマニュエル・レオポルド・マリー・ボナパルト。六郎の頭にはいつしかボナパルト家の家系図が叩きこまれていた。1914年生まれだからどう考えてもかなり高齢で、とても現役で会社を経営することなどは難しいはずだ。

(これは裏で動いているヤツがいるな)

 六郎はすぐにそう考えた。

(ナポレオン六世はたぶんお飾りだろう・・・)

「北里さん」六郎は電話ごしに呼び掛けた。

「なんでしょう」

「株主の名簿は手に入りませんかね」

 しばらくの沈黙のあと、北里は「やってみましょう」と答えた。

 

 よく晴れた金曜日だった。ブギー中山は、中央区新富町にある「メタモル堂」という変わった名前の店の前に、1961年モデルのシボレー・インパラ・コンバーチブルを横付けた。全長5メートルを優に超える伝説のアメリカンドリームがそのまま新富町の一角を睥睨している。店のガラス戸をあけた。

「よお兄弟、景気はどうだい」

 兄弟と呼ばれた若い男は、小さく微笑むと中山を店内に招じ入れた。店はこれといった特長はないが、ところ狭しと帽子やメガネ、ステッキ、靴、そして大小様々なゴム製のフィギュアなどが立ち並んでいて、足の踏み場もない。リノニウムの床には、がっしりとしたデスクが一台だけ置かれ、壁一面に大きな鏡が張られている。そのぶん、部屋は倍の広さに見えた。

 店主の名前は淀崎進一というが、業界ではロベルト・ヨディーノと呼ばれている。幼少期をイタリアで過ごすうちにロベルトと呼ばれるようになったという。ヨディーノという苗字は淀崎をもじったものらしい。度の入っていないメガネの奥で人なつっこそうな目が柔らかく中山を捉えている。年齢は中山よりだいぶ若く、まだ二十代だ。

「ブギーさん、今日はなんの用ですか」

 ロベルトが聞いた。

「あのな、明後日の晩なんだが、ちょっと神父を演じるはめになってな。例によって、あんたに頼みたいんだ」

「神父?」

「そうだ。神父だ。いいか、間違えるなよ。牧師じゃないぞ、カトリックの神父だ。牧師はプロテスタントだからな・・」

「倉庫で探してみましょう」

 店を裏側に抜けた奥が倉庫になっているらしかった。

「ただしお直し代と特急料金はもらいますよ。」

 ロベルトは事務的に言った。

「いいとも、いいとも」

 中山はにこやかに答えた。

「最近また少し太ったでしょ、ブギーさん」

 そう言いながら中山の腹まわりにメジャーをまわした。

「「最近、ナタデココに目がなくてな、つい食い過ぎてしまうんだ」

「九十三センチ、先月から二センチ増えてますよ」

「そうか。そのサイズの神父服、用意できるかね」

「ブギーさんの頼みじゃ、ノーとはいえないでしょう」

「ありがたい。さすがロベルトだ。警察官の制服からホームレスの寝巻まで、あんたは天才だよ。ところでなんであんたの店はメタモル堂ってんだい。モルタル堂の間違いじゃないのかい、おい」

「もう、何度言っても忘れるんだから。メタモルフォーゼの略。あとは辞書で調べてくださいよ」

「そうだ、そうだ。メタモルフォーゼ、変身の意味だったな。映画やドラマの制作会社の衣裳係は、親父さんの代からみんなこの店の世話になってるっていうじゃねえか」

「衣裳だけじゃないですよ」

「そうか、怪獣ものの特撮班も来るんだったよな」

「お陰様でね。ところで、最近なんか気になる〝音〟はないですか」

 中山は、嬉しそうにちょっと上を見て考えるふりをした。

「やっぱり、ワールド系だろう。テクノとかハウスは好かん。人工的な音はだめだ。アフリカのユッスー・ンドゥール、パパ・ウェンバ、それと、フランスのストリートミュージックなのに何故かワールドっぽい、レ・ネグレス・ヴェルド、このあたりだな。おお、ちゃんとメモっておけよ」

「大丈夫、しっかり暗記しましたから」

 実はロベルト・ヨディーノは暗記の天才だったということを思い出して、中山は満足そうにうなずいた。

「神父の衣装ですが、明日の夕方までに六本木にお届けしますよ」

「おお、助かるな」

 そう言うと中山は、ボタンがはち切れそうで悲鳴を上げているパパスのジャケットからパイプを取り出し、無造作に口元にくわえるとそのまま店を出た。入れ替わりに、中山よりもさらに肉付きのよい髭もじゃの男が店に入ってきて鉢合わせになった。

「おい、ブギーじゃねえか。元気か」

「なんと、シンさん。あれ?娑婆にもどったんですか」

「馬鹿言え、執行猶予がついたんだよ」

中山がシンさんと呼んだのは、今年の一月に、パンツの中に覚せい剤を隠し持っていてハワイで逮捕された俳優だった。有罪判決だったが、執行猶予がついたことを思い出すと、何故か笑いが込み上げてきた。執行猶予で保護観察中の身分じゃ変装のひとつもしたくなろうというものだ・・・。

 中山はその足で、銀座に出ると、資生堂のパーラーにはいって、一人の女を探した。

「ブギーちゃん!」

 奥の席から高い声を発したのは、厚ぼったい唇をした、まるでグラビア・アイドルみたいにど派手な女だった。

「おお、待たせたなゴロー、」

 そう言うと、中山は女なのにゴローと呼ばれた女の向かい側にどっかと腰を下ろした。


 一転して曇り空になった土曜日の早朝、江田秀雄は、渋谷区松濤の家に迎えにきた運転手つきのシトロエンCXに乗り込んだ。この曇り空ならなんと今日一杯はもつだろう。目的地は千葉の印旛カントリークラブ、江田のホームコースだ。

 ゴルフ場につくと、フロントがにこやかに江田を迎えた。

「会長、今日もお元気そうですね」

 江田が何者なのか、ゴルフ場の社員たちは知らない。で、とりあえず会長と呼んでいる。

「いやいや、雨が降りそうになると膝が痛んでな」

 江田は、しかめっ面を作って見せた。

 フロントがちょっと申し訳なさそうな顔をしてから言った。

「実は今日は、お一人で来られたお客様がおられましてね、なんとか社長の組で回らせていただけないでしょうか」

 ゴルフ場としては、一人で来たお客をそのまま一人でコースに出すわけにはいかない。まして今日は土曜日だ。なるべく多くの客を収容したいから、三人で回る組にその「お一人様」を吸収してもらいたいのだ。よくあることだ。江田の組はその日は三人だったので、あと一人入れてほしいと言われたら断りにくい。

「ああ、もちろん構わないが、腕前の方はどうなんだ」

「さあ、腕前の方はちょっと・・・」

 江田は悪い予感がした。下手と回るのはただでさえ気が進まない。それも、男ならまだいいが、もしも女となると、ほとんどの場合がプレーの大ブレーキになる。

 江田の悪い予感は的中した。一番ホールのティーイング・グラウンドに現れた「お一人様」は、誰が見てもゴルフ場のグリーンとはかけ離れた女だった。

「五郎丸と申します。よろしくお願いします」女は開花したばかりの陽まわりのような笑顔で挨拶した。

 随分変わった苗字だと思った。

「江田です」と挨拶すると、ほかの二名のシングル・プレイヤーたちも、慇懃に強張った顔で挨拶した。

 年の頃は二〇代半ばだろうか。サンバイザーの下から覗く目は、はっきりとした二重瞼で、厚ぼったい唇に色気があった。薄紫のポロシャツは突き出た胸ではち切れそうだ。それでいて、同色のミニスカートから伸びた足はすらりと細く、しかも長い。江田は一瞬息を呑んだ。

(これは予想外の収穫になるかもしれない)漁色家の血が騒ぎはじめた。


 プレーが始まり、江田がドライバーショットを打つと、女は可愛らしい声で「ナイス・ショットー」と掛け声をかけた。少し鼻にかかったその声は、なかなか官能的だ。

しかし、やはりゴルフの腕前の方はほとんどだめだった。ドライバーはかすっただけで、四〇ヤードも飛ばないし、アイアンは思い切り右にシャンクする。林のなかに打ち込んで、なかなか出て来られないこともしばしばだった。女は、失敗するたびに「ごめんなさーい」と謝り、何故か媚びたような表情を江田に向けるのだった。

 たまりかねた江田は、スイングの基本から教えにかかった。

「バックスイングではもっと左手を伸ばして」とか、「打ったあとボールの行方を追わないで、頭は残したまま」とか、「もっと下半身を柔らかく使って」とか、一打ごとにアドバイスを送るようになっていく。スタンスの広さなども、手に持ったゴルフ・クラブを彼女の足元に差し出して、細かく指示をした。

 女は、素直にハイ、ハイ、といちいち大きな返事を返し、「こうですか?」などと素直にアドバイスを聞いたあと、打った球が見事に空に舞い上がると、キャッキャ、と歓声をあげてから、「ありがとうございます」と嬉しそうに江田に礼を言った。そのあとも、積極的に江田に教えを乞うようになっていき、さらには、ポラロイドカメラを取り出して、自分のスイングをいちいちキャディーに撮影してもらう始末だ。だんだん打ち解けてくると、バックスイングのときに江田は実際に彼女の両肩を後ろから支えて、回転させてみたり、フォロースル―のときには軽く腰に手をやって押しこんだりするようになった。

「ウチに帰ってから復習しなきゃ」などと言いながら、彼女は即席レッスンの様子をいちいちキャディーに頼んで写真に納めてもらっている。

 なかなか向上心がある、江田は微笑ましく思った。しかし、なんと色っぽい女だろうか・・。

 江田は、この五郎丸という女とレッスンを通じて仲良くなっていくことが次第に心地よくなってきて、警戒心の固まりのような表情を崩しはじめた。そして時には欲望にまみれた笑顔を隠そうともしなくなっていった。

(ゴルフのあとはどこか食事にでも誘ってみよう)

 そんなことを考えると、気分が浮き立ってくる。午前中のハーフが終わった。手を洗い、食事となる。江田はワクワクしながら、食堂のテーブルについた。パートナーの二人の男はすでに着席していて、スコア・カードを点検している。

 ビールが出てきて、三人は乾杯した。

 しかし、五郎丸というその女の姿がない。江田は何度も食堂の入り口を見たが、それらしい姿は見えない。不安を抱えたまま、食事が出てきてしまい、三人は黙々とそれを食べた。

食事を終えると、江田はたまらずフロントに行って尋ねた。「午前のハーフを一緒に回った五郎丸さんは、どうされたのかね」

フロントはいぶかしそうにプレイヤー・リストを見てから、神妙な顔をして言った。

「ああ、その方でしたら、なんだか体調が悪いとかで、先にお帰りになりましたが」

 江田は落胆したが、そういうことならまあ仕方ないなと気を取り直した。それにしても、挨拶ぐらいはあってもしかるべきではないか、と独り言を吐いてから、気を取り直して十番ホールに向かうのだった。

 午後のハーフが終わり、風呂に入ってさっぱりしてから、着替えて再び食堂に上がる。すると、そこで声をかけられた。

「江田秀雄さんですね」

 見ると、ゴルフ場には不釣り合いな、背広姿の二人組の男が、まるで通せんぼでもするように江田の進路を塞いでいた。

「はい、江田だが」

「千葉県警の者です」と言って、男は警察手帳を見せた。

「あなたから痴漢行為をされたという女性がおりまして・・」

「なにを馬鹿な」江田は気色ばんだ。

「いや、証拠写真が大量にあります。署までご同行願えますか」

「ちょっと待ってくれ、それは何かの間違いだ」

「話しは署でしてください」

 江田は、二人の刑事に抱きかかえられるようにしてパトカーの後部座席に乗せられた。

「待ってくれ、私はジェネシスという不動産会社の社長だ。ちゃんと事務所も青山にある。君たちが考えるような怪しい者ではない」

「もちろん、身元はよく存じあげております」

「じゃあ、何故こんなひどいことをするのか」

「動かない証拠があります」

「それはなんだ」

「あなたが、五郎丸早苗さんの股ぐらをゴルフクラブでまさぐっている写真がある。それだけではない、嫌がる五郎丸さんを後ろから抱きしめて、胸に触っている」

「ちがう、ちがう、それはゴルフのスイングを手ほどきしているだけだ」

「五郎丸さんの供述とは相反します。大変傷ついたそうです。あなたに罪を償ってほしいといってます」

「ちょっと待て、私は明日の日曜日の夜に大事な仕事をひかえているんだ。まさかそこまで時間がかかるようなことはないだろうな」

「いいえ、それは無理です。動かぬ証拠がある以上、最低三日間は拘留し、取り調べをさせていただきます」

「おのれ、あのクソ尼、オレをはめやがったな。その五郎丸という女に会わせろ。すぐにだ」

「しばらくは無理ですね」

 刑事の言葉はにべもないものだった。


「香川さんですね」

 病院の面会控室で居眠りをしていた香川慎平は軽く背中を叩かれて、はっと我に返った。反射的に見た病院の時計の針は午後八時四十分をさしていた。

「無事に終わりましたよ」

視線を後ろに向け声の主を確かめると、黒ぶちの丸眼鏡をかけた、やや肥満型の男が黒い詰襟の神父服に身を包んでにこやかに立っていた。一瞬、自分の目が悪くなったのか、と思った。江田秀雄がこんなに肉づきがよかったはずはない・・・。

 北軽井沢の物件購入について、妻の麻里子から一筆を取ることを含めて、すべてを江田に任せていた慎平は、昨夜から全く連絡の取れなくなった江田のことを疑問に思い、聖ヨゼフ国際病院にやってきた。妻の状況をナースセンターでシスター(修道女)に確認すると、ただいま神父様と面談中とのことで、ほっと胸を撫で下ろしたのだった。そして、そのまま控室でうたた寝してしまったというわけだった。

 しかし、慎平の前に立っている小太りの男は、明らかに江田ではなかった。

「どなたです?」

「はい、イエズス会の者です。今日は江田神父が具合が悪くなったので、私が代役でお邪魔した次第です。細田と申します。奥さまに神のご加護があらんことをお祈りました」

 にこやかにほほ笑んでいる。

 肥満しているのに細田か、という思いが脳裏をかすめると同時に、慎平は頭が混乱してきて、何が何だかわからなくなっていた。江田ではない、別の神父が妻の告解を聞いたのか。一体それは何故なのか。江田になにがあったのか。

 細田と名乗る神父は、「あなた様にも神のご加護があることを祈りましょう」十字を切りながらそう言うと、そのまま踵を返して病院を出ていった。ほのかに、ユーカリの香りがした。

 慎平は、急ぎ足で505号室に駆け上がり、ドアをあけた。

「麻里子、」と声をかけ、顔を覗きこむと、妻はこれまで夫には一度も見せたことのない、心から安心しきった赤子のような笑顔で微笑みかけ、うっとりと、夢を見るように言った。

「素晴らしい神父さまだったわ」


 1990年も師走を迎えようとしていた。

 ブギー中山はいつものように、ぶつぶつ独り言を言いながら、ぎっしり詰まったビデオ棚と格闘していた。

「デミ・ムーアちゃんのゴーストか、ジュリア・ロバーツちゃんのプリティー・ウーマンか・・そこに四コーナーから突然割って入ってきたグラン・ブルーか。今年は珍しく洋画の当たり年ってもんだぜ、まったくよ・・・」

 そう言いながら、「ブギー様いち押し!」と書いた手書きのPOPをグラン・ブルーのパッケージの背表紙に貼りつけて、満足そうにパイプの煙を吐いた。

「こんにちは」

 いきなり背中から声がかかった。振り向くと、根岸六郎が若い女を連れて笑っている。その女を見て、中山は一瞬頭が混乱した。

(もう心臓病は治ったのかい・・・)

 いや違う。似てはいるが聖ヨゼフ国際病院で告解を聞いてやったあの女とは少しちがう。

「あ、こちらは香川志麻子さん。麻里子さんの妹の」

 六郎が紹介した。

「この度は姉がお世話になりました」

 そう言い、志麻子が挨拶した。姉の麻里子とはまた違って、毅然としてすっくと立つような魅力があった。

「今日は、ブギーさんにお土産があるんです」

 六郎が、鞄のなかからなにやら小さな箱を取り出した。

「どうぞ、使ってください」

 開けてみると、不思議にレトロで、微妙にモダンな美しい時計が入っていた。ベルトは赤の革製だ。LOCMANと印字されている。あまり聞いたことのない名前の時計だった。

「お・・・これは」中山は声をあげた。

「以前ここに来たことのあるマルコを覚えていますね」

「覚えているとも。あんたより少し年上のイタリア人だったじゃないか」

「そうです。彼が全く新しい時計ブランドをたちあげました。LOCつまりロックは、僕の名前の六郎から、そしてMANは彼のファミリーネームのマントバーニから取ったのです。僕はやがてこの時計を日本で展開するための会社の代表になるつもりです」

「なるほど、ちょっとそこらにはない時計だな。気に入りましたよ、うむ、うむ」

 そう言いながら中山は、六郎がマサイ族なみに目が良いと言ったその言葉を思い出し、もし六郎が時計のマニファクチャラーとしてデビューするならば、それはきっと彼の天職にちがいあるまいとひとりごちていた。

「それと、この時計にはナポレオン一族が投資しています」

「ナポレオン?」

「そうです。本家はイタリアのエルバ島でして、ナポレオン直系の子孫たちが有り余る資金を世界の有望産業に投資しているんです」

「イタリア?しかしナポレオンといえばフランスじゃあないのか」

「そう思っている人が多いですね。しかしそれはちがうんです」

 六郎はイタリアのエルバ島とナポレオンの因縁について手短かに説明した。中山は驚きながらも興味深々といった表情を募らせて、六郎の言葉に耳を傾けた。

「それと、今日はここにいる香川志麻子さんからもブギーさんにプレゼントがあります」

 中山は志麻子に目をやった。見れば見るほど、勝気そうな美しい女である。その志麻子が取り出したのは、しっかりとしたプラチナの十字架だった。しかもまん中に相当立派なダイヤモンドが埋め込まれている。

「姉が申していました。今回告解を聞いていただいた神父さまは素晴らしい方だったけれど、ただひとつ、お使いになってらした十字架がちょっと貧相だったと。なので、今日はちゃんとしたものをお持ちしました。受け取ってください」

 そう言って志麻子はいたずらっぽく笑った。

「はあ、それは有り難いが・・・どういう意味かね」

「姉は、これから1カ月に二回のペースで細田神父様とお会いして、告解を聞いていただきたいと言うのです」

「ちょっと待ってくださいな」

「ですから、ブギーさん」

 六郎が口をはさんだ。

「麻里子さんはすっかりあなたに心を開いたってわけですよ」

「・・・・・」

「それに、麻里子さんの病気もあと二ヶ月くらいで山を越えると先生がおっしゃってましたから、なにも永遠にずっとというわけじゃないんです。退院するまでのことです」

「細田神父さまにお会いしてから、姉もなんだか急に元気になってきて、快方に向かってます。本当に感謝しているんです」

 志麻子が笑顔で言った。中山は、困惑しきったように渋面を作ったまま、プラチナ成型の十字架を見つめて固まっている。

「あ、その十字架ですが、お役ご免になったら参番館がいつでも800万円で引き取らせていただきますからね」

 なるほど、と中山はいっぺんで腑に落ちた。その800万がひと仕事したオレ様のギャラってわけか・・・。悪くない。



 


 

 

 

 

     

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