第四章 十字架を下げた悪魔
大手百貨店の上層階には、限られた客しか入ることのできないスペースが必ず存在する。それは、外商の口座を持った富裕な顧客専用の場所で、もちろん会員制だ。根岸六郎の勤務する柳屋百貨店日本橋本店の「柳クラブ」と呼ばれるその特別スペースがあり、その日は高価な西洋骨董の特別頒布会だった。
また、これか、、、腐るほど金を持った人たちが集まり、まるで縁日で綿菓子でも買うかのように超高額商品を買っていく光景、、。見ていると気が変になりそうだ。こういった催事にはつとめて関わらないようにしてきた六郎だが、今日は部長の大山からどうしても出てくれとせがまれたのだった。
目立たないように壁際にいた根岸六郎は、ふいに若い女性客から声をかけられた。
「根岸君・・・・」
こんなところで自分を君付けで呼ぶ女がいるとは・・来場客に目を光らせていた六郎は動転した。振り返ると、学生だったころにはなかった艶やかな女らしさをまとった香川志麻子がぽつんと立っていた。切れ長の勝気な目に、全く化粧っけのない素顔。六郎の心にやり切れない敗北感が走った。
志麻子は、品の良い初老の女性と一緒だった。その老婦人を見たとき、見事な銀髪のその顔に見覚えがあるような気がしたが、思い出せない。志麻子に視線を戻してから言った。
「驚いたな。香川はここの会員なのか?」
「ちがうわよ、母が会員なの」
志麻子は傍らで微笑む初老の女性の方に目をやった。どこかで会ったような気がした。
「あ、こちらは根岸君、大学の同級生なの」と志麻子が紹介した。
「はじめまして根岸です」そう挨拶しながら、六郎はすっかり身についた外商らしい慇懃な物腰で内ポケットから名刺入れを取り出した。
「根岸君て、このデパートに勤めていたんだ」と志麻子は大げさに驚いてみせた。(知っているくせに)と六郎は胸の中でつぶやいた。老婦人がいかにも上流らしい物腰で六郎に会釈した。その瞬間、全身に冷や汗が吹きあがった。思い出したのだ。この女性こそ、外商の顧客リストでも常にトップランクに入っている香川麗子ではないか。ということは、志麻子は香川麗子の娘ということになるのか。迂闊だった。麗子に自分と同い年の娘がいることくらい、家族構成表を見ればわかることではないか。たしか香川麗子は、銀座六丁目にある老舗の宝飾店「参番館」のオーナーで、しかもそのビルを丸ごと保有しているはずだった。参番館は表参道や青山通り、さらに大阪や名古屋にも支店がある。
「娘がお世話になりまして」と香川麗子がほほ笑んだ。
「とんでもありません、こちらこそ在学中は志麻子さんにはさんざんお世話になりました」
嘘ではなかった。貧乏学生たちの宴会の場に上等な酒や料理をふんだんに持ち込んで、その場を華やかにしてくれたのはいつも志麻子だった。しかしいつまでも思い出に耽っている場合ではない。
「さあ、香川さま、本日は西洋骨董の名品を取りそろえてみました。マイセンやロイヤル・コペンハーゲンの稀少品もあります。どうぞ、ご覧になってください」
百貨店マンに戻って思いだしたように言うと、六郎は香川親子を陳列棚のほうへと誘導した。
そのとき、一人の男が走るようにして近寄ってきた。
「遅くなってすみません」と親子に詫びている。
「あらよかったわ。シンペイさん。骨董はあなたに選んでもらわないとね・・。私と志麻子だけではとても頼りないもの」
麗子からシンペイと呼ばれた男は、光沢のあるブルー系の玉虫色のスーツに身を包み、どう見ても日焼けサロンで焼いたにちがいない、熱唱系の歌手を彷彿とさせる不自然に黒い顔でかしこまっている。六郎より年上で、三十歳に届くかどうかと見たが、首筋のあたりに脂肪が乗っており、それが弛緩した生活を伺わせていた。
「娘婿の慎平よ。よろしくね」と麗子が六郎に男を紹介した。いかにも頼り切っている感じが伝わってくる。
「ということは、志麻子さんのご主人??」
「違うわよ。姉の旦那さん」と志麻子が抗議するように言った。どうやら志麻子はこの慎平という義兄をあまり好きではないようだ。
それはともかく、香川麗子は慎平に薦められるままに、高価な食器や飾り棚や、絨毯などを次々に買い漁った。一体どれだけ買ったら気が済むのだろうか。百貨店の外商をやっていると、つくづく富裕層という人種たちに驚かされるばかりだ。途中で慎平が声をあげた。
「お、すごい逸品がありますよ。これ、ナポレオン三世の馬具ですよ」
慎平が指差しているのは、年季の入った皮製の鞍だった。たしかに、ナポレオン三世の紋章が小さく見える。
「あら、本当だわ」志麻子が応じた。
「ちゃんとナポレオン本家の家紋も入っている。すごいわね。うちのお店のインテリアにいいわね」
(おかしい・・・)六郎はただちに思った。そんな品物を今回の頒布会のために仕入れたのは一体誰だろうか。あとで確認しなければならないと思った。六郎は全身に嫌な予感を感じて、思わず頒布品リストを確かめた。するとたしかにその鞍はあった。値段は8,000万円だ。「Napoleon BonapaltⅥ・autoriser=ナポレオン六世・公認」という文字が刻まれていた。パリにいるナポレオンの子孫が認定しているということだ。
(そんな馬鹿なことがあってたまるか)心臓が早鐘を打ち始めた。六郎の胸の内など知る由もない香川親子は、ためらうことなくその古めかしい馬具を購入品リストに加えた。
ややあってから、志麻子は何故か麗子と慎平の二人に先に帰るよう強く促すと、六郎だけを誘って会員向けの喫茶室に入った。断る理由もないし、何と言おうと相手は超一級顧客のお嬢様だ。持ち場を離れてお茶をしたところで誰にも文句は言われまい。六郎と志麻子は隣接した喫茶室に入った。堂々たるシャンデリアが輝くロココ調のインテリアだ。
「あいつには困ったものだわ」
急に疲れた表情になった志麻子は、豪奢なソファに倒れ込むように座ると言った。六郎は戸惑った。
「あいつよ、慎平よ」と、まるでハエでも追い払うかのように腕を二、三度振って見せた。
「慎平さんはお姉さんの旦那さんだと言ったけど、何故お姉さんは一緒に来なかったの?」
「いま、心臓病で闘病中なの。もうずっと前からよ、ペースメーカー入れて、絶対安静状態」
「お気の毒に」
「でも、それが慎平には都合がいいのよ。随分前から参番館の代表は姉の麻里子になっているのだけれど、姉の不在をいいことに慎平はやりたい放題なのよ」
「例えばどんな風に?」
「身内の恥をさらすようだけど、毎日ろくに仕事もしないでゴルフ三昧。夜は銀座の高級クラブに入り浸りなの」
「お姉さんと慎平さんはどうやって知り合ったの」
「ある日ママが勝手に慎平を連れてきてね、無理やり結婚させちゃったようなものなの。参番館には跡取りが必要だと言ってね」
「でも、それをお姉さんも承知したんだよね」
「慎平はあれでも一応、幼稚舎から慶応でね。姉の麻里子も慶応だし、気を許したところはあるわね。とにかくママは慶応が大好きなの。慶応の卒業生だけの婚活クラブに自分で出向いていって、つかまえてきたのよ。銀座のビル持ちは慶応じゃなきゃ、というのが口癖なの。慎平も最初のうちは大人しくて、いい人然としていたわ。でも、みるみる堕落していった。慶応でも相当下の方ね、たぶん」
神奈川県の国立大学出身の六郎には縁のない話しだ。そして志麻子も六郎と同じ大学である。
志麻子は、サンドイッチを注文すると旺盛に食べ始めた。食欲旺盛な女性を見ると、なんだか肉食獣に見えてしまうことがある。が、相手が魅力的な女性だったときは、いっそ食べられてしまってもいいかも・・・などと男は思うものだ。
「根岸君がここで働いていることはとっくに知っていたわ」
「そうだろうね。卒業者名簿に出ているから」
「そう、そしたら母が急に今日は柳屋の頒布会があるから一緒に行かないかとさそってきて。それなら根岸君と自然な形で会えるかもしれないと思って」
「自然な形がそんなに重要かな」
「そうよ・・・」
志麻子は一度横を向いて考える仕草をしてから六郎に向き直った。
「私からわざわざ連絡することなんて、できないもの」
「何故?」
「ていうか、あんな別れ方をしちゃったんだし」
志麻子が自分を振ったことを言っているらしい。六郎はそれについての返事は返さずに、常識的なことを言ってつくろった。
「もともと仲間だし、つまらん遠慮はいらないよ。で、なにか話しでもあるのかい」
「私、恐いの」志麻子の目が一点を見つめて曖昧な光を放った。
「あのお義兄さんがらみのことかい」
「義兄だけじゃないわ。母は実はとても冷たい人で、自分のことにしか関心がないの。周囲でいま、とんでもないことが起きているのに全く力にもなってくれない」
「いま、恐いと言ったけど、君がそう言うからには相当なことが起きているのだろうな」
六郎は昔から志麻子の気の強さを知っていた。なみの男などではかなわない、図抜けた度胸の持ち主のはずだった。その志麻子が恐い、と言っている。六郎は全神経を会話に集中させた。
「もちろん発端はあの日焼け男よ。半年前にどこで知り合ったのか得体もしれない不動産屋を連れてきてね。それから不動産に手を出すようになったの。都内のマンションを買って、銀座ホステスを住まわせたりね。まだそれは序の口で、だんだん東京から遠く離れたマンションやリゾートのコンドミニアムなんかを投資のため、と称して買い漁りはじめたのよ」
「うーん、それはちょっと危ないな」
六郎は顔を曇らせた。
「いまはバブルでみんな熱病みたいに浮かれているけど、おそらく来年あたりから不動産はいきなり転落していくと僕は見ている。心あるアナリストは皆同じ考えだ。いま、ピークのてっぺんにある不動産を買うのはとても危険だと思うけどな」
六郎は本気でそう思っていた。百貨店で仕事をしていると、顧客の微妙な変化を肌で感じるものだ。ちょっと前までは右から左へ売れていった高額商品の売れ行きに少しずつだが翳りが見えはじめていた。また、おりしも新任の日銀総裁が、「平成の鬼平」などと自称して、企業への融資の総量を規制する、と言いはじめていた。もうこれまでのようにじゃぶじゃぶと金が市中に溢れることはなくなるだろうと六郎はふんでいた。
「そんなことを言っても、聞く耳など持つ義兄じゃないわ。でもいいのよ。いまは慎平個人のリスクで投資をしているんだから」
「え?個人?」
「そう、銀行はね、いくら実権がないといっても参番館の一族ならば、例え個人でもジャブジャブお金を貸してくれるのよ。あいつの個人保証でね。そのうちいずれ慎平は破産するでしょうけど、そんなのはあいつの勝手よ。私たちには関係ないわ。でも、ことが参番館そのものを脅かし、ひいては母や姉や私をどん底に突き落とすようなことだけは許すわけにはいかないわ」
「そんなことがいま起ころうとしているのかい」
「そう。いまとっても危険な事が進行しているの。これはどうにか阻止しなければならないのだけれども、私ひとりの力ではどうにもならなくて」
志麻子は、長い髪を手ですいてから、首を振って斜め後ろにはね上げた。切れ長の目が怒りを帯びて研いだばかりの刃物のように光った。なにかの覚悟を模索しているようにも見えた。
「私、かなりびびっている。恐い」
志麻子はもう一度、恐いと言った。これで三回目だ。
「力になるよ。何でも話してくれ」
「根岸君、ごめんね、わたし・・・」
「いいんだ」志麻子は(おそらくは)過去の恋愛がらみの顛末を詫びようとしているのだろう。
六郎はそれを遮った。
それから志麻子が語ったのは、常軌を逸した実に戦慄すべき物語だった。
「うちの家が代々カトリックだということは根岸君、知っているわよね」唐突な出だしだった。
学生時代、食事の前に志麻子が両手を組んで「天にまします、われらの父よ」とか「父と子と聖霊のみ名において、アーメン」などとなにやら祈りの言葉を唱えているのは、皆が知っていることだった。
「もちろん知っている」
「これは、カトリックと関係した話しなのよ」
六郎はうなずきながら、不吉な胸騒ぎを覚えていた。
志麻子はコーヒーのお代わりを注文し、テーブルのバスケットに添えられた小さなチョコレートを手で弄びながら、低い声で語りはじめた。空気が冷たくなった。周囲に暗緑色のカーテンが降りたような気がした。
志麻子の義兄の慎平は入り婿なので、香川慎平という名前になる。毎日のように通っているのだから、ゴルフが上手いのは当たり前でハンデはシングルである。つまりプロとラウンドしても、十打未満の遅れしか取らないということになる。並大抵のことではない。所属のカントリークラブにはシングル・プレイヤーが何人か存在するが、たいていは金持ちと決まっている。つまり時間と金のある人たちで、なかにはあまり人には言えない危ない仕事をしている人もいる。しかし、そういう人物に限って、笑顔を絶やさず、表向きは穏やかな紳士然としているものだ。
お坊ちゃんで、何不自由なく暮らしている慎平だから、そういったえせ紳士の格好の餌食になっても不思議ではない。慎平は同じシングル仲間のある男と親しくなった。年は慎平よりも相当上だが、ドライバーの飛距離では慎平を上回り、軽く二八〇ヤードは飛ばす。その男はいつも、ロレックスやオーディマ・ピゲといった高級時計を腕にのぞかせており、胸元には常に十字架のペンダントがあった。
「いつもそのペンダントをしてますが、なにか意味があるのですか」慎平が聞いた。すると男は恐縮したように、小さな声で言った。
「私は、その、キリスト教徒でして・・・それもカトリックなのです」
黒沢明や小津安二郎が好んで映画に器用したあの名優・笠智衆を思わせる毅然とした佇まいは、何故かカトリックと言われてみるとストンと胸に落ちるものがあった。自分の家は、戦国時代から代々伝わる隠れキリシタンの家系だと語った。実家は九州の天草で、両親に連れられて少年の頃からイタリアやバチカンによく旅行したらしい。そして、その頃からバチカンでは、カトリックの要職にある司祭たちと交流を持ったという。それがその後の人生で大いに役立ったと男は満足そうに目を細めた。バチカンといえば、ローマに隣接した世界最小の国家だ。
「香川さん、人口五百人にも満たない小国ですが、バチカンは実は世界の中心なんですよ。なにしろローマ法王がおられるカトリックの総本山ですからね、とてつもない力を持っている。私は何度もバチカンの知人たちに助けられました。私も結構危ない橋を渡ってきたものでね。香川さんも、困ったときは私になんでも相談してください。まずたいがいの問題は解決してお見せしますから」
にやりと笑った。その不敵で野趣に満ちたな笑顔を見たときから慎平は、この男に惚れてしまった。そして、すがるようにあることを相談したのである。
「実は、ちょっと困ったことがありまして」
「なんでしょうか」
「店の宝飾品を筋の悪い相手に売ってしまいまして」
「筋が悪いといいますと?」
「銀座のクラブで知り合ったのですがつまり、その筋の幹部です」
「ほお、どこかの組の人ですか」
「はい、誰でも知っている組の幹部です。金はあとで振り込むと言うことだったのですが、三か月経っても支払われていません」
「おいくらですか」
「二億です。ドレスデンから仕入れたばかりの20カラットのブルーダイヤモンドです。こんな品物が手に入るのは、うちかハリー・ウィンストンくらいでしょう」
「ほほう、それは困りましたね。そういう相手だと、このままではおそらく代金の回収は難しいでしょうね。もうとっくにどこかに売り飛ばされていますよ」
慎平は背筋が凍りついた。
「なんとかならないかと、毎日思い悩んでいて夜も眠れないのです」
しばらく遠くを見るような目で何かを考えていた江田が言った。
「わかりました。なんとかやってみましょう」
「本当ですか」
慎平は藁をもすがる思いで男を見た。
「ただし、首尾よく回収できたときは、回収金額の半分を頂くことになります。あちこちへの謝礼が必要になりますのでね。それでよろしいですか」
回収金がゼロになるよりはずっとましだと慎平は考えた。
「お願いします」頭を下げた。
一週間後、男は現金で一億円を持って参番館に現れた。中サイズのジュラルミンのトランクに一個分だ。慎平は驚愕した。
「お約束どおりです」
ひと言言っただけで、帰って行った。領収書もなにも要求されなかった。
しばらくしてからまた、慎平はゴルフ場で男と会った。
「先日は有難うございました」と頭を下げた。
「いやいや、あのくらいのことでしたら、いつでもお役に立てますよ。またなにかあったら、いつでもご相談ください」と男はにこやかに言った。午前中のハーフを回ったあとのランチのときだ。
「実は今日は、香川さんにとっておきのお話しがあるんです。まだ外には出回っていない、超ド級の良い話しです」
例の不敵な笑顔を慎平に向けて言った。
バチカン筋からの極秘情報で、北軽井沢のあるエリアで広大な開発計画が決まっており、その土地がまだ更地のままで、いまなら相当安く買える、という話しだった。土地は東京ドーム十五個分の広さがあり、将来別荘地として分譲されるという。なにしろ、日本はいま空前のリゾート・ブームだ。香川さんは日本のリゾート王になったらいい、と男は嬉しそうに言うのだった。
「安く、とおっしゃいますが、いかほどなのですか」慎平は聞いた。
「90憶円」
なんでもないことのように男は言った。しかし、さすがにその金額は、慎平が逆立ちしても無理だ。
「それはちょっと・・・」と慎平は苦笑いをして言った。
「いやいや、心配するには及びません。手付金は一割で9億ですが、それは私の方で全額ご用立てします。9億あればとりあえずその土地の名義はすべて香川さんのものになる。そこで、分譲計画を公表すれば、あっと言う間に買い手は殺到するでしょう。私への9億円の返済はもとより、少なく見積もっても全部で300億にはなりますよ」
素晴らしい話しに聞こえた。
「9億の手付金をご用立ていただくとは、また願ってもないことですが、どのようなお礼をご用意すればよいのですか」
すると男は、
「お礼なんて、そんなものは要りません。私と香川さんの仲じゃないですか」といい、
「万が一、ご返済いただけなかったときの担保といいますか、保全をちょっとお願いするだけでいいのです」と言った。それはどのような?と聞くと、男は300億円級のゴージャスな笑顔を満開にして言った。
「参番館さんの店舗と商品を、万一のときの抵当にお願いします」
意味がよくわからず、慎平は渋面をつくった。
「担保といってしまうと、どうも響きが不穏ですな。でも逆に香川さんには、バチカンという担保がある。この物件にはバチカンのエンドース、つまりお墨付きがついているということです。ご損をさせるわけがありません」、
そして、イタリア語で書かれた開発計画書と図面を見せられた。表紙には、あまりにも有名なバチカンのサン・ピエトロ広場の写真があしらわれていた。これは本物だと慎平は思った。慎平の脳裏には300億のキャッシュが乱舞する光景がひろがっている。
「しかし・・・」慎平は口ごもった。
「店舗のことは妻の麻里子が代表になっていまして、印鑑も妻が管理しています。担保提供に応じるかどうか、さあ、聞いてみないとなんとも・・」
「そうですか。では、なんとか奥様にこの計画がいかに有望なものであるかを説明して、説得してみたらいかがでしょうか」
「そうしてみましょう」
その日の話しはそこまでだった。翌日から、慎平は妻が入院している武蔵小杉の聖ヨゼフ国際病院に赴き、熱心に北軽井沢のリゾート計画への参入計画を説明した。しかし、妻はがんとして慎平の言うことを聞かなかった。「畑ちがいのことには手を出したくない」というのがその理由だった。それは極めて真っ当な考えだ。しかし、熱病に侵されてしまっている慎平にはわからない。なんとしても自分は日本のリゾート王になるのだ、そんな妄想の虜になっている慎平だった。
「香川、ちょっと待てよ」
ここまでじっと話しを聞いた六郎は、心の中に沸々と湧いてくる不条理への怒りを抑えきれなくなって呻くように言葉をはさんだ。
「普通は、購入する不動産そのものが抵当に入るはずだが、それじゃ十分じゃないということなのか」と聞いた。すると志麻子は答えた。
「北軽井沢のその土地は測量とか面倒だから担保にしないでいいって。参番館の店舗と商品を抵当にする方が簡単だというのよ」
「冗談じゃない。軽井沢のその土地を担保にしないということは、それが全く価値がないことを自ら白状しているようなものじゃないか。それでいて、参番館の店舗と商品を抵当に入れるというのは、参番館に対する明らかな乗っ取りじゃないか」
志麻子はためらうようにうなずいた。
「ちなみに、その男の名前はなんというんだ」
「江田、、、そう江田秀雄といったわ」
六郎は自分の顔色が変わるのがわかった。地の底が沈んでいくような不吉な断崖絶壁の突端に佇んでいるような恐怖が襲ってきた。
「香川、よく聞いてくれ」
六郎は座りなおすと正面から志麻子の顔を凝視した。
「その男は札付きの悪党だ。即刻縁を切ることだ。そもそも、おたくの宝飾品は世界に君臨する品ぞろえだ。デパートの外商が言うんだから間違いない。それをたった9億で店舗ごとかっさらわれたらたまったものではない。江田とはきっぱり別れることだ。彼の素性を知っているか」
「なんでもその昔、先祖が九州のあちこちに温泉を掘ってひと山当てたらしいことはたしかだわ。ほら有名な湯都院とか、黒木温泉とかね。で、最近でもそうした温泉地の老舗の旅館を次々と買収しているみたい」
「だめだ。あいつは見ためはきちんとしているが中味はヤクザだ」
「知っていたの」
「ああ」呻くようにうなずいた。
「たしかに礼儀もちゃんとしてるけれども、眼が怖いわ。その眼のあたりに、火傷のような傷跡があるわ。実はちょうど江田が店に現れたとき、馴染みの宝飾コレクターさんがたまたま来店していてね、江田を見ると驚いたような顔になったの。で、知り合いなのですか、と聞いたら、知るも知らないも、あいつは極悪人だよと言うの。なんでも、九州の老舗の温泉旅館を彼が手に入れるときは、必ずその旅館のオーナーが不審な死に方をするらしいわ。警察も動くのだけど、なかなか尻尾を出さない、悪党中の悪党だと」
六郎は指の関節を鳴らした。焦りと無力感が入り混じる。
「で、まさかこのまま参番館を抵当に入れるなんてことにはならないだろうな」
「幸いなことに、現在の代表取締役は姉の麻里子だし、印鑑も姉が握っているわ。はじめはママが慎平に代表になってもらおうと言いだしたんだけど、私と姉でなんとかそれだけは食い止めて、姉が代表になり、印鑑はすべて姉が預かることで決着したの」
六郎は少しだけ胸をなでおろした。でも高ぶった怒りは収まらない。
「じゃあ今回の北軽井沢についてもまだ契約はしていないんだよね」
「もちろんよ。でも慎平はゴルフのあと、毎日のように姉を見舞い、北軽井沢の購入を進めようと必死になって説得している」
「そこは絶対に譲ってはだめだよ」
しかしその直後に、志麻子が妙なことを言い出した。
「私もそれで一件落着と思っていたの。ところが最近になってどうやら慎平は最終兵器を手に入れたみたいなの」
「最終兵器?」
ざわざわした不快感が六郎の胸をかきむしりはじめた。
志麻子はつづけた。
最終兵器とは、問題の江田という男の別の顔だった。
志麻子の家の香川家は代々カトリックだが、家族のなかでは、姉の麻里子が一番信心深いということだった。とくに心臓病で生死の際をさまよってからは、ますます宗教心が強まったという。無理もないことかもしれない。問題はその江田もカトリックで、しかも神父として相当高い地位にあるということだった。バチカンではかのローマ法王(現在の教皇)にも拝謁を赦されていると本人はいう。そんな江田はある日なんと神父の礼服を着て慎平と一緒に姉の見舞いに現れたという。そして、にこやかに、おごそかに麻里子に接近した。一緒に主に祈りを捧げましょう、とベッドサイドに膝まずいたという。
江田は自分がカトリックの神父として要職にあると強調した。神父は、信者にとって父のような存在である。従って、信者は神父をファーザーと呼ぶ。さらに信者は通常、毎日曜日教会に赴き神父に対して最近犯した罪を告白することが慣例化されている。これをカトリックでは告解と呼ぶ。薄暗い小さなブースでそれをなすわけだが、罪と言っても色々あって、例えば不埒な妄想をしたとか、言葉で人を傷つけたとか、あるいは身分不相応なものを欲しがったとか、どんなにささやかでも、それら全てが罪と考えられている。信者はこれらについて、神父に告白し、そして清められるのである。だから、熱心な信者は告白をしないと、自分が汚れているような気がして落ち着かないのだという。神父はもちろん、信者から聞いた告解は絶対に他言しないことになっている。例え信者が殺人を犯したと告白したとしてもである。しかし、万が一、神父がこれを悪用し、そんなことはあってはならないことだが、何らかの意図に基づいて誘導尋問して信者から秘密を聞き出そうとしたとしたらどうだろうか。全くありえないこと、といえるだろうか。
江田は、こともあろうに姉の麻里子の告解を自分が聞いてしんぜよう、と申し出たのである。しばらく告解をなしていなかった麻里子は、すがるような目で「お願いします。神父様」と答えたのだった。
(それが、最終兵器か・・・)六郎は絶句した。
姉の麻里子の病室には、参番館の代表印鑑がある。当然妹の志麻子は、その印鑑を一時的に自分が預かることを提案したが、やがてそれはたいして意味をなさないことを知らされる。軽井沢の土地を販売している会社はイタリア系のデベロッパーであり、従って契約書は購入者のサインが優先されてしまうのである。もし麻里子が江田の甘言に乗ってサインをし、さらに念のためにと言われて、指印でも押してしまったら、一巻の終わりなのである。イタリア系と聞いて六郎はすぐにいやな気持ちになった。おそらくそのデベロッパーはマフィアだろう。
しかし、六郎はもっと悪い結果になることを恐れ始めていた。重度の心臓病患者が、もしペースメーカーを外されてしまったら即死することは自明の理である。告解は、他者がそこにいることを許さないカトリックの神聖な祈りの場である。これほど江田にとって都合のよい場はない。そんな場所を簡単に作りだしてしまってよいのだろうか。まずいことに、聖ヨゼフ国際病院は生粋のカトリック系であり、ナースたちもほとんどが修道女である。信仰を助けるためならどんな無理でも聞いてしまうにちがいないのだ。神父を名乗る江田が、他人は入れず二人だけにさせろ、と言えば病院はなんとしてもそうするだろう。
江田が違法すれすれの方法で参番館を手に入れようとしていることは明白だった。参番館に取りついて様々な恩恵を手に入れようと目論んでいる江田にとって、目ざわりなのは契約に応じない参番館代表の香川麻里子の存在である。ここはなにがあってもおかしくはないと考えるべきである。しかも、その日は今週の日曜日の夜ということだった。当直を含めて病院が最も閑散とするのは日曜日である。
「なんとか止めさせることはできないのか」
六郎は言った。
「そもそも本当に神父かどうか、わかったものじゃない。それにね、バチカンはずっと前からマネー・ロンダリングだの人身売買だのの温床になっていて、そのため銀行の頭取が虐殺されたりしている闇の部分がある。映画のゴッドファーザーにもそれは出てくる。影で牛耳っているのはネオナチなどの極右組織とマフィアだ。たぶん江田はそうした連中の手先だろう」
志麻子は二杯目のコーヒーの残りを飲みほした。気のせいか顔が青くなっているように見えた。
「江田が九州で悪事を働いてきた極めつきの悪党だということは姉には何度も言ったんだけど、何かに憑かれたような目をして、あの人に限っては大丈夫だと言いきるの。まるで催眠術にかかってしまったみたいにね。このまま黙って放置しておくわけにはいかないわ。根岸君、力になってほしいの、お願い」
「もちろんだ」
そう答えたがなにをどうしたらよいのか、具体策があるわけではなかった。たしかなことは今度の日曜日、江田は病室で志麻子の姉の麻里子に会って告解をさせる。そして、その病室でなにかが起こる。六郎の胸騒ぎはさざ波から嵐に変わろうとしていた。
「今度の日曜日といったらあと三日しかないじゃないか」
なんでこんなに大事なことをもっと早くに・・・と思った瞬間に六郎は言った。
「奥原さんには相談しなかったのか」
奥原正人は、志麻子が六郎を捨てて走った大学の先輩である。
「あの人とは別れたわ。でも・・・」
志麻子の言葉は歯切れが悪かった。
「でも?」志麻子はかすかにうなずいた。
「美術の面ではいまも尊敬しているわ」
重たい沈黙が澱のようにたゆたった。
奥原が美術に造詣が深いことは学内でもよく知られていた。父親は著名な洋画家だ。一方幼い頃から美術や工芸品に囲まれて育った志麻子も美術好きだから、ふたりが引かれあうのは無理からぬことだった。
志麻子の卒論のテーマはたしか、「ルネッサンスに見る美意識の転換」だった。六郎にはまるで縁のないテーマだった。湘南の江の島の漁港生まれの六郎が魅かれる美術といえば、荒波に揺れる船を描いた葛飾北斎くらいのもので、とても奥原や志麻子に太刀打ちできるわけはないし、競う気もなかった。しかし、と六郎は思う。果たして志麻子は美術という世界の枠だけに収まるような女であろうか。志麻子は、たしかに美しいものを感じ取る感性はあるにちがいない。しかしそうした受け身の感性以上に、人に対して何らかの影響力を行使しないではいられない、能動的な貪欲さを秘めた女なのではあるまいか・・・。
いま、六郎は途方に暮れはじめていた。これほど切迫しているのに、母親の麗子もましてや慎平も、手をこまねいてみているだけなのか。世間的には誰もが羨むような、セレブリティを絵に描いたような香川の家の、氷のような冷たさと、硝子のようなもろさが、眼の前にあられもなく横たわっている。
「向こうが最終兵器を出してくるなら、こちらも出すしかないな」
思わず六郎は、自分のやるべきこと呟いてしまった。志麻子は何を言われたのか意味を計りかねて目の焦点を曖昧にさせた。
「根岸君にも最終兵器があるということ?」
「まあ、結果は保証の限りではないが、、、目には目を、だ」
志麻子は六郎のその言葉に、ぴくりと反応して目を光らせた。
「それにしても気になることがある」
「なに?」
「お母さんが今日買われたナポレオン三世の馬具なんだが・・」
「ああ、あれね、それがどうかして?」
「あれを強く勧めたのは、慎平さんだったよね」
「そうだったわ」
「何故、慎平さんはあの鞍を強く勧めたのだろうか」
「ナポレオンの公認商品だからでしょう」
「実はそこが引っ掛かる」
「何故?」
「ナポレオン三世が愛用していたもので、ナポレオン六世公認としてあったがそんな商品が世の中にあるはずがないんだ」
志麻子はちょっと困惑したが、眼だけはしっかりと六郎を捉えている。
「ちょっと、あの商品だけ検品請求してみてくれないか」
「検品?」
「そうだ、不良品の疑いあるので再精査してくださいと、うちの外商に連絡するんだ。理由はいまは話せないが、とても大事なことだ。そこが突破口になるかもしれないんだ。いいね」
「わかったわ、すぐにそうしてみるわ」
志麻子と別れるともう就業時間はとっくに終わっていた。そのまま六郎はひとしきり日本橋界隈を歩きまわった。まだ九月なのに、吹く風が奇妙に冷たく感じられた。気がついてみると、胸のなかに居座った剣呑で凶暴な殺意を、自分の代わりに遂行してくれるかもしれない者のもとへと、六郎は吸い寄せられるように歩みを進めていた。六郎は地下鉄に乗ると銀座駅でいったん降りてから、エスカレーターを使って日比谷線に乗り換えた。足は自然に六本木方面へと向かっている。
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