第三章 グラン・ブルー
六郎は大学を卒業すると東京の大手百貨店に就職した。湘南育ちというと聞こえはいいが、自分は実は驚くほど田舎育ちであることを、横浜の大学で思い知った。湘南地方を代表する町といえば藤沢だが、ここは決して洗練された都会ではない。例えば、有名ブランドを買おうとしても、まるで手に入らない。シャネルもないし、ティファニーもない。もちろん六郎がマルコから教わったフェラガモの靴も手に入らないし、フィアットやアルファロメオの代理店もない。横浜にはそういったものがちゃんとあるし、なにしろ元町のようなオシャレなストリートも存在する。そして、その横浜をもってしても、逆立ちしても叶わないのが東京だ。
だから、六郎はなんとしても就職するなら東京で、しかも銀座か日本橋のデパートがいい、と決めていた。六郎が念願かなって柳屋百貨店の日本橋本店に就職した平成元年(1989年)はのちにバブルと呼ばれた成長経済の絶頂期であり、百貨店は都会の花形だった。六郎は実家の海鮮食堂のために少しでも役に立ちたいと、食品の仕入れ販売担当を志望したのだが、配属されたのは「外商」だった。いわゆる富裕層の自宅に出向いて、高額な商品を買わせるのが外商の主な業務だ。即座に自分には向いてないと思った。しかし会社の人事は六郎の男らしく端正な外見に白羽の矢を立てたのだった。外商のお客の七割は女性なのだ。
就職から一年余りが経過した1990年の春ころ、日本ではある事件が人々の耳目を集めていた。山梨県で、19歳の男が極めて残忍な方法で主婦とその娘を強姦したのちに殺害し、金品を強奪した。犯人は娘の眼の前で、母親の指の爪を一本一本はがしてから、犯した。そのあと娘の身体のあちこちにタバコの火を押しつけてから殺した。最愛の妻と子供に先立たれた夫の、悲しみの涙と今後の戦いへの決意は大衆の同情を誘った。目撃証言から男は指名手配されたのだが、当局が追い詰める前にその犯人は何者かによって殺された。「暗殺」と言ってもいいだろう。殺害方法は鋭い千枚通しのような刃物による刺殺で、心臓をひと突きにしたものだった。母子強姦殺人の犯人は犯行時十九歳だったため、逮捕されたとしても少年法により死刑を免れるばかりか、実刑になっても早期に出所できる立場にあった。このような残虐事件の犯人にまで少年法を適用してもよいものなのか、マスメディアでも議論が沸騰した。この暗殺は、「ならば、天に代わって自分が成敗してやる」と言っているように見えた。人々は全く正体を見せないその暗殺犯を、人気時代劇になぞらえて「必殺仕置き人」などと呼んだ。
六郎は、この暗殺に対して強烈な共感を覚えた。できるものならこの暗殺者に代わって、自分が殺ってしまいたかったとさえ思う。そしてなんとかしてこの必殺仕置き人と会ってみることはできないか、と思うのだった。
殺害現場は暗い山道で、暗殺犯はなんの痕跡も残さなかった。それはどう見ても、プロ中のプロの仕業だった。ただし、たったひとつ、1セントのコインが現場に落ちていた。それだけが犯人が残したあまりにもかすかな痕跡だった。米国の硬貨だったことから、外国人が殺害したのではないかという憶測が週刊誌を賑わわせもした。しかし六郎にはこれは日本人の仕業だという確信があった。天に代わって仕置きする・・このメンタリティーはどう見ても日本人だ・・・。
六月になったばかりの頃、突然マルコ・マントバーニが来日した。六郎は躍りあがるような気持ちで成田国際空港にマルコを迎えた。イタリアでなく日本で会うマルコはどんな感じなんだろうか。圧倒的に日本人の多い到着ロビーで見ると、マルコはまるで初めて会うような見事な「外人」だった。不思議な感覚だ。六郎は実の兄(それも異国の)を迎えたような気持ちで抱きしめた。
ふたりはエアポート・リムジン・バスに乗り込んだ。これで都心まで行けばいい。リムジンはひと目でそれとわかるアメリカ人観光客でいっぱいだった。
「随分と急なことだったね」六郎は聞いた。
「ああ、あの映画が日本でどうなっているのか、気になってね。もちろん監督もすごく気にしている。日本は巨大なマーケットだからね。ならば、僕が行ってみてくると、言ってしまったんだよ」
「なるほど。リサーチか・・・」
その映画「グレート・ブルー」は日本では昨年(89年)に公開されたが、あっと言う間に撤退したことを六郎は苦々しい思いのなかで知っていた。もちろん、そのことはマルコも知っていた。
六郎はこの映画を数寄屋橋の日劇プラザ劇場で鑑賞した。そして心の底から感動した。とてつもない名作だ。そう確信したのである。自分はこの映画の撮影現場にいた!その事実を思うと、えもいわれぬ誇らしさがこみあげてくる。
(あの太っちょ監督はただ者ではなかった!)
また、六郎がメガネの弦を調整してやった、レノという俳優が画面に現れるたびに鳥肌が立った。何故か本物よりも数倍かっこいい。細い丸縁のあの独特のメガネが不思議に似会っていた。
それにしても、こんな名作が日の目を見ないなんて、許せない、六郎は悔しくてたまらかった。都内に向かうバスのなかでその思いをマルコに打ち明けると、マルコも映画「グレート・ブルー」こそはリュック・ベッソン渾身の名作だと熱っぽく語った。二人はその映画のことを語りあうとき、何故か同時に目がしらが熱くなってくるのを堪えられなかった。
「でもねロクロウ、僕はある情報を得てここに来たんだ」
マルコが意味ありげにほほ笑んだ。
「六本木というエリアに、大きなレンタルビデオ店があるはずだ」
「ああ、ありますよ。ウェイブという」
「その店では、グレート・ブルーの貸出しランキングが急上昇しているという情報だ」
「本当かい!」
思わず叫んでしまった。それにしても何故イタリア人が東京の、しかもきわめてディープな情報に明るいのだろうか。あらためてマルコのアンテナの鋭さには、唸ってしまう。
「東京の感度の高い人たちが集まってくるのが六本木だと僕は聞いている。違うかい?」
「まあ、その通りです」
「では、いまからすぐにそのウェイブとやらに連れていってくれないか」
「いいとも」
バスは都心に入った。そこから都内の主要なホテルを巡回し、外人客を降ろしていく。マルコが宿泊予約をしている紀尾井町のホテル・ニューオータニで、ふたりはいったん下車した。そこから六本木までは、タクシーですぐの距離だ。
六本木「ウェイブ」のビデオ・レンタルショップは独特のテーストを持った店だ。東京のクリエイターや編集者たちはここでカルト系の映画やミュージック・ビデオをチェックし、同フロア隣りの「リブロポート」でブック・ハンティングをするのだと、会社の宣伝部にいる先輩が教えてくれた。
「あの辺りの店は、日本橋のデパートとは基本的にコンセプトが違うからね」と先輩は言った。「見て回っているだけで自分の感性が磨かれるような、いかにも六本木らしい店が集積しているんだ。とくにウェイブはその象徴的な存在だ」
それから六郎は何度も六本木にいき、夜更けまで徘徊することが多くなった。ウェイブの店内は広くて、ビデオだけではなく、レコード(今や半分以上はCDだ)もふんだんに揃っている。奥にはバーまであった。
そのバーのカウンターでコーヒーを飲みながらパイプをくゆらせている男がいた。三十代だろうか、四十代だろうか、年齢不詳といった風情である。ひと目見た時から、男は店のなかで異彩を放っていた。パイプタバコの香りに混ざって、何故かユーカリに似たアロマの香りが鼻をついた。男のオーデコロンだろうか。ワインレッドのブレザーに蝶ネクタイといういで立ちは、なかなか計算されたコーディネートだ。丸顔に黒ぶちのメガネ。やや小太りだが、それがかえって男の洒落っ気と親近感を醸すのに役立っている。男は六郎とマルコを見ると、人懐っこい笑顔を向けて話しかけてきた。
「ボナセーラ・シニョーレ」マルコを見た瞬間、イタリア人と喝破するとはなかなか大した観察眼だ。「こんにちは」とマルコが日本語で返事をしたので、男はびっくりしてから六郎に気さくに尋ねてきた。
「こちらの外人さんは日本には長いのかな」
「いや、いま成田に着いたばかりです」
「そう、どうしてまたここへ?」
「この人はイタリアのエルバ島というところから来たのですけど、その島にゆかりのある映画がありまして、その映画のビデオを探しているんです。昨年日本でも封切りされたのですが・・・」
「もしかして、それはグレート・ブルーじゃないかな」
「その通りです。よくお解りですね」
男は少し自慢げにちょび髭のあたりを撫でた。
「わかるもなにも、いま人気急上昇中の映画だからね」
なんとなく意味がわかったらしく、マルコが「ほらね・・」と言うように満足そうにうなずきながら笑顔を浮かべた。
「僕たちは実は、エルバ島でその映画のロケの手伝いをしていたんです」
男は、目を丸くした。
「ファンタースティック!」
ボナセーラ!と挨拶してきたのに、何故ここでいきなりアメリカ英語丸出しになるのかよ、と六郎は密かに舌打ちしたが不覚にも男の笑顔に惹きつけられてしまう。
「素晴らしい。私は十年に一本の名作だと思いますね。しかし、でもどうかなあ。いまは品切れかもしれないな。なにしろ異常な人気ですからね、返却されるとすぐに借りられてしまうんだ。五本は揃えてあるのですが、それでも足りません。ちょっと見てきましょう」
男はやや肥満体の割には驚くほど俊敏な動きでカウンターから下りると、ビデオの並んだ棚の方に足早に歩を進めた。
ややあって、戻ってくると心から残念そうに両手を広げた。
「残念ですが、やっぱりレンタル・アウト!ですね。二、三日お待ちいただかなければなりません」
「そうですか」落胆したように言ったが、六郎たちはその映画をすでに何度も見ているから、ビデオを借りる気にはなからなかった。
「ところでそのビデオはいま、この店の貸出しランキングでは何番目ぐらいになるんです?」
「もちろん、断トツ一位ですよ。ここ三カ月で急上昇です」
六郎はマルコと顔を見合わせた。笑みがこぼれた。しかし、店の情報に精通しているこの男性はどう見ても店員には見えないが、一体何ものなのだろうか。
「あの、失礼ですが、お店の方ですか」
「ええ、まあ、臨時のコンシェルジュみたいなものです。同じフロアの奥のタバコ屋が本業なんですけどね、そっちが暇なもので、ビデオ店からお客様の相手をしてくれって、頼まれているんです」
「ほおー、コンシェルジュですか」
ホテルならわかるが、ビデオ店のコンシェルジュなど、聞いたことがない、とマルコが言った。「六本木という街は、すごいところだね」としきりに感心している。
「グレートブルーが棚に戻ったら、ご連絡しましょうか」と聞いてきた。迷っていると、
「あ、失礼、私は中山と申します。通称ブギー中山。そっちの方が通りがいいです。ここか、タバコ屋か、きっとどちらかに居りますからいつでも遠慮なくお立ち寄りください」
「有難うございます。私は根岸と申します。こちらはマルコ・マントバーニさん」
「よろしく」マルコが器用に日本語で挨拶した。
別れぎわに六郎は軽く頭を下げた。そのとき、中山と名乗ったその男の足元の靴が目に入った。六郎は、電流に打たれたようにはっとして、ある考えを巡らせた。
(まさか・・・)大胆すぎる考えが六郎のなかで鎌首をもたげ、小石を投げこまれた湖面のように胸に広がった。
二人は「ウェイブ」をあとにした。
気がつくともう夕刻で、二人ともかなり腹が減っていた。六郎は、麻布十番にある「ベルニーニ」というイタリア料理店にマルコを案内した。しっかりとした味のわりには手ごろな値段で、ワインの品ぞろえも過不足ない店だ。
フランチャコルタのスパークリング・ワインで乾杯すると、マルコが堰を切ったように話しはじめた。
「あの映画はね、実は監督のおひざ元のフランスでもじわじわと人気が出始めているんだ。監督も確かな手ごたえを感じている。きっとこれはすごいことになる。日本でもおそらく今年の秋あたり、また劇場でリバイバル上映するはずだ。そのときは、たぶんフランス語読みの表記で〝グラン・ブルー〟というタイトルになると思う」
グラン・ブルーか・・美しい語感だ。六郎は、エルバ島のあの澄み切った空と海の色と、そして満天の星に彩られた美しい夜空を思い浮かべながら言った。
「僕らが現場に立ち会ったあの映画が、いまブレークしはじめている。なんだか感無量ですね。あのときは本当に素晴らしい経験をさせてもらいました。あなたとの出会いについては、いつも神様に感謝しているんです」
「僕だって君が島にいる間はとっても楽しかった。居なくなったら急にさみしくなったよ。で、ちょっと折入って話があるんだけど・・・」
マルコが口ごもった。なんだか言いにくいことでもあるのだろうか。
「実は、僕が日本に来たのは映画の感触を確かめることもあるけど、もうひとつ目的があるんだ」
「というと?」
「うん、今回エルバ島で腕時計のメーカーを本格的に立ち上げることになったんだ。エルバ島発の、世界中で愛されるプレミアムな時計メーカーを目指している」
「ほおー、それは素晴らしいですね」
「これには実はナポレオーネやベアトリーチェたちの思いもこめられているんだ。常々彼らとは、イタリアならではの、精緻なクラフトマンシップと質の高いデザインを融合させた新製品を世に送り出せないかと、ずっと話しあってきた。これは僕の思いであり、彼らの思いでもあるんだ」
それは、マルコがエルバ島で六郎に何度も語って聞かせた彼の壮大な夢への第一歩そのものに思えた。
マルコは六郎の眼を見つめてきた。
「近い将来、君もこのプロジェクトに参加してもらえないだろうか。日本支社の代表者として」
嬉しい話しだった。
「まず、エルバ島の本社をがっちり固め、それからトスカーナ全域に広げていく。そのあとにパリやニューヨークへと進出するつもりだ。だから、日本はその先になるけど、準備だけは進めておきたい」
「オーケー、わかりましたとも。なんとしても君の要望に答えていきたい。時計のマーケットについて勉強しておくとしましょう」
「そうしてくれたまえ。それと、もうひとつ相談がある」
「何でも言ってください」
マルコはじっと考えるような表情をつくった。その目には妥協を許さない決意と意志が宿っていた。
「僕はナポレオーネ・ブオナパルテがナポレオン直系の子孫であることを、いま一度きちんと世の中に宣言したいんだ。いま、ナポレオンの名を語るいい加減な商品が出回りはじめていてね、頭を痛めている。そうした動きをちゃんと整理して、ナポレオーネを世界中にオーソライズさせたいんだ」
「なるほど」
「それには君の力が必要だと思っている。ベアトリーチェたちもそう思っている」
「光栄です。なんなりと申し付けてください」
「そのため、君にはブオナパルテ家の精神をしっかりと理解してもらいんだ」
「精神・・・」
「うん、皇帝ナポレオンの直系であるブオナパルテ家は先帝ナポレオンの不屈の精神を継いでいる。現在のナポレオーネ少年をもってナポレオン直系のブオナパルテ家は八代目になるが、当家は過去150年間近く、人類の進歩に貢献する世界の有望産業に対して多額の投資を展開してきた。このことはきっとほとんどの人が知らない事実なんだ。そもそも初代ナポレオンは退位してエルバ島にやってきたときに、密かに巨大な財宝を持参してきたんだ。君はきっとどこかで、ナポレオンの戴冠式を描いた絵画を見たと思うが」
その絵ならいくつもの歴史書のなかに出ているのを見たことがあった。六郎はうなずいた。
「絵のなかで、最初の妻ジョセフィーヌが無数のダイヤモンドを散りばめたティアラをつけて跪いている姿があるが、あれひとつを取ってみてもナポレオンの常識外れな財力がわかる。あのティアラにはなんと1040個ものダイヤモンドがあしらわれている。もともとマリー・アントワネットが作らせたものだが、のちにナポレオンに贈られたというわけだ。おそらく今の時価にして100億円はくだらないだろう。これはナポレオンが所有した財宝のほんの一部でしかない。このティアラは20世紀にはいってから、モナコ王妃のグレース・ケリ―がモンテカルロ市100周年のパーティで着用している。まるで彼女の頭上に無数の星がきらめくような美しさで、パーティに列席していたかのオナシスなどは陶然となって思わず彼女にという跪いたという。これはブオナパルテ家から王妃に贈られたものだ。生前ナポレオンはこれらの膨大な財宝をすべて母親であるレティシア・ブオナパルテに預けた。そのとき、ナポレオンは母に言った。
”自分は世の中のために貢献するべく生きてきたが、我が人生はいつしか戦いと殺戮という恐ろしい魔物に支配された。これは間違いだった。だからこの財宝はこれからの豊かな社会の実現と平和貢献のために役立ててほしい” とね。レティシアはこのとき目に涙を浮かべて皇帝を抱きしめたという。これはのちに金銭に換えられて、ブオナパルテ基金と呼ばれ、さらには皇帝ファンドと呼ばれるようになるのだが、ブオナパルテ家はこの膨大な資金をその後、世界選りすぐりの有望事業に投資するようになっていったんだ。例えば英国の産業革命もこの資金なしには成し遂げられなかっただろうし、自動車産業やのちのIT産業もあれほどのスピードで成長することはできなかっただろう。投資のための条件はただひとつ、”人類と世界をよりよい方向へ導く平和的事業であること” だ。利益を追求することだけが目的ではない。そのことを君にもわかっておいてもらいたい。ブオナパルテ・ファンドは、真の意味で世界を動かす巨大なキャピタルへと成長を続けているんだ」
六郎はひと言も聞き洩らすまいと、マルコの口元を見つめた。
マルコは一度うなずいてから、いつものように真っ白い歯を見せて微笑んだ。
「で、ここからが大事なんだが、これからこの皇帝ファンドの投資先として最も重要視されているのが日本なんだ」
六郎は思わず唾を飲み込んだ。
「それはまた、何故・・・」
「うん、日本は数年前に崩壊したバブルの失政で深い傷を負ったとされている。おそらくその後遺症は今後10年、いや20年近く続くことだろうとも言われている。しかし、どこかおかしいとは思わないかい」
「というと・・・」
「だって、バブルを造り出したのは日本の行政だ。そしてそれを崩壊させたのも行政だ。まるで銀行が悪いかのように言っているが、銀行だって行政の前には無力じゃないか」
なるほど、そう言われてみればそうだ。六郎は聞いた。
「つまり、日本の行政、、、つまり官僚組織が悪いのですか」
「いや、そうとは限らない。日本の行政は、もっと上の方のなにか不気味な勢力によってコントロールされていると僕は見ているんだ」
「政治家ですか」
「それも正確ではない。もっと後ろの方に控えていて隠然たる力を持った何か、、、だ」
六郎は突然目の前に巨大な暗闇が出現したような感覚を覚えた。後ろの方に控えていて隠然たる力を持つ何か・・・明確にはわからないが、漠然とそれは確かに存在するような気がする。
「ドイツとイタリアは第二次世界大戦で敗北し、様々なものが間違いだったということを認めた。
むろんヒトラーやムッソリーニは諸悪の根源だったことを国家国民の全体が認めたんだ」
「つまり日本は、間違いだったことを認めていないということですか」
「表面的には認めた。しかし、一億総懺悔って変だと思わないかい。懺悔すべきは国民じゃなかったはずだ」
「それは天皇だとでも?」
「いや、ちがう。むしろ天皇は犠牲者だ。悪いのは天皇を利用しつくしてきた裏の勢力だ」
「軍部・・・」
「もちろん、それもある。しかし、どうもそれだけじゃないような気がするんだ」
「え?それは誰・・・」
「よくわからないんだが確実に存在する見えざる権力・・・としか言えない。戦争だって、もともと彼らが仕掛けたんだ。もっと言うと、日本のその後の高度成長も、石油ショックも、バブルとその崩壊も、全て彼らの仕業さ」
「ビッグ・ブラザー?」
「そうだ。日本には確実にビッグ・ブラザーが存在する」
ジョージ・オーウェルが著書「1984」で予言した監視社会に君臨する巨大な闇の支配者の名前をふたりは同時に口にした。ひんやりとした悪寒が背中を走った。
「ドイツやイタリアにはすでにビッグ・ブラザーは存在しない。ある意味ではナチスで膿を出尽くしたといえるのかもしれない。しかし、何故か日本にはそれがいまだに厳然と存在する。ぼくらは、なんとかしてその日本のビッグ・ブラサーを駆逐するところから始めたいと思っている」
六郎は日本人よりも日本のことを知っているこの外国人に対して恐怖に近いものを感じはじめていた。
マルコは毅然として言った。
「日本とドイツとイタリアがこれからの世界平和のリーダーとなるべきなんだ。それがあの戦争でともに敗北を喫した者同士の贖罪というものだ」
「さっきから、しきりに”ぼくら”と言っていますね」
六郎はやっとそう言った。
「もちろんだ。これはあのベアトリーチェやナポレオーネの意思でもあるからね。僕と彼らは家族のようなものだ」
「つまり君はブオナパルテ姉弟とは一体だということですか」
「そしてロクロウ、君もその家族の一員だ」
六郎の心に突然燃え盛る炎のようなものが投げ込まれた。なにかが込み上げて、六郎は思わず天井を見あげた。そこには古めかしい大きな扇風機があり、ゆっくりと、さほど役には立たない風を起こしていた。いつしか六郎の握りしめた拳はじっとりと汗ばんでいた。
「ところで、さっきのビデオ店でのことだけど」とマルコが話題を変えた。
「君は、あのブギー中山というタバコ屋兼コンシェルジュの足元を見たときに、おや、という顔をしなかったかい」
さすがはマルコだ。さりげなく人のことをよく観察している。
「ああ、ちょっと気になったことがあってね」
「何が?」
「彼が履いていた靴ですよ。あれはコイン・ローファーだ。日本で根強い人気のアメリカン・カジュアルと呼ばれるファッションを象徴するような靴です」
「何故日本人は戦争に負けたアメリカさんの真似ばかりしたがるのか、僕にはさっぱりわからないが、まあいい、それで?」
「あの靴はね、もともとアメリカの学生が、靴の甲の部分に一セントコインを挟みこんだところから、コイン・ローファーとか、ペニー・ローファーなどと呼ばれた」
「それがどうかしたのかい」
「うん、彼のローファーの左足の方にはコインがあったけど、右足にはなかった」
「どこかで落としたんだろう」
「ああ、きっとね。いつ、どこで落としたのか、それが問題だ」
「そんなに重要なことかい」
「うん、最近あったある殺人事件の現場に一セントのコインが落ちていたというんです。きっと偶然だし、僕の思いすごしかも知れないが、ちょっと引っ掛かるのです」
「人を殺すような男には見えなかったが」
「もちろんです。だからこそ、余計気になってね。それとね、殺害される前に被害者・・といっても極悪人だが・・は足で身体中をしたたかに蹴りこまれていたらしいんだ。そこがどうしても気になる」
「蹴りを入れたときにコインが落ちたと?」
「そういう推理は成り立つと思うんだ」
「なるほど。で、最終的な凶器は何だったのかい?」
「千枚通しと言っても君はわからないだろうな。つまり先のとがった鋭い金属棒、かなり大き目の針とでもいおうか」
「そういうものはすぐに手に入るのかい・」
「いや、あんまり見かけないですね」
マルコは少し考え込んだ。長い沈黙を終わらせたのは六郎だった。
「この話しはここまでだ。さ、ワインをもう少し飲みましょううか」
「賛成、もちろんだ」
六郎は、ブルネッロ・デ・モンタルチーノの赤を一本追加オーダーした。
「トスカーナのナポレオンに乾杯!」
「乾杯!」
初夏の長い夕方も、いつの間にか肘黒の闇に支配されていた。
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