第二章 運命の出会い
翌日もよく晴れわたっていた。
つい寝過ごしてしまい遅い朝食をとっていると、ジャックが現れた。
「日本人なのにコンチネンタル・ブレックファーストかい」
ジャックがまぜかえしてきた。しかし、たしかこのホテルのメニューにはそれしかなかったような気がする。たっぷりとしたジュースにパンと目玉焼き、そして生野菜。20歳の胃袋はいくら食べても食べたらない。見つめてくるジャックの瞳に、ちらっと若さへの羨望のような光が宿った気がしたが、すぐにジャックは大きく口角をあげて魅力的に微笑んだ。カフェにはかなりの音量でオペラのアリアが鳴り響いている。
映画のロケが行われているのは、島のちょうど真ん中あたりの北に位置するポルト・フェッラーイオという埠頭の近くだということだった。六郎はあらかじめ地図でその場所を慎重に見極めていた。いよいよ、映画のロケの現場に立ち会う、、、そう思うと嬉しさと緊張がこみあげてくる。
ジャック・マイヨールは六郎を乗せて、真っ赤なアルファロメオを海の方角に向けて走らせた。いくつかの坂を下っては上り、複雑な交差点を左右に曲がりながら、土埃を舞わせるようにして走った。やがて、大きな埠頭へとつづく展望のよい場所に来ると、150メートルほど先に、人の群れが見えた。その向こうには大きなパネルや、脚立があり、さらに巨大な照明器具とカメラと、長いポールのついたガン・マイクが見える。これはまさしく映画のロケーションにちがいない。人の群れはロケを見物にきた野次馬たちだろう。車を停め、外に出ると、むっとするような潮の香りが鼻をついた。景色は違うが潮の香りは、日本のそれとほとんど変わらず、六郎は思わずここが遠い外国であることを忘れかけた。
ジャックに導かれ、野次馬の群れに紛れ込むようにして撮影現場の至近距離にきてみると、ぼさぼさ頭で顔に髭をたくわえ、太鼓腹をした一人の太っちょがあれこれと大声で指示を飛ばしていた。貫禄はあるが、まだ30歳にやっと手が届いたくらいではないかと踏んだ。イタリア人?いやフランス人だろうか。ジャック・マイヨールを見つけると、大きな声で「ボンジョルノ!」と挨拶してきた。ジャックも笑顔で挨拶したあと、英語ではない言葉でなにやら六郎のことをその大男に紹介した。最後に「リュック」と言ったところをみるときっと、彼がそのリュック・ベッソンという名の監督らしかった。
撮影がはじまった。
その太っちょ監督の指示に注意深く耳を澄ませて、一言一句聞き洩らすまいとしている若いイタリア人の青年が見えた。白いTシャツ一枚にジーンズという軽装だ。自分より少し年上だろうか。彼は、指示を聞き終わると一目散に埠頭の隅まで走っていき、そこでじゃれあっているふたりの少年の手を引いた。青年は二人の少年になにやらこまごまと説明をしながら、こちらの方に二人を引っ張ってくる。少年たちは戸惑ったような表情で撮影カメラを見てから、決心したようにシャツを脱いで上半身裸になった。なにかがこれから始まるらしい。六郎の好奇心がむくむくと高まってくる。
「プレーゴ!」
大男が声を発すると同時に、二人の少年は海に飛び込んだ。気がつくとカメラはふたりの海へのダイビングを追って回っていた。
その白いTシャツを着た青年が、ジャック・マイヨールに気付くと走ってきて握手をせがんだ。イタリア語だが、「お目にかかれて光栄です」と言っていることははっきりとわかった。
ジャックはその青年に六郎を紹介した。
「日本からきたロクロウ・ネギシだ。私の親友の息子・・・」
青年はよく日焼けした陶器のような滑らかな顔から白い歯をのぞかせて、手を差し出してきた。
「マルコです。今日は臨時雇いで撮影の手伝いをしているんだ」
これまでに見たこともない、キラキラとしたさわやかな笑顔とともに流暢な英語で自己紹介をし、手を差し出してきた。六郎は笑顔でその手を握った。
ジャックはその場を離れると、監督らしい太っちょの男の方へ行ってしまった。きっと以前から仲がいいのだろう。二人っきりになり、六郎は小声で聞いた。
「その、あなたがこっちへ引っ張ってきた二人の少年は一体誰なんですか」と六郎は思わず聞いた。
「ああ、二人の主人公の少年時代を撮影しているんだよ。つまり、ジャックとエンゾだね」
二人の少年が海から上がってきた。青年はすぐにタオルを取り出すと、二人の身体をふいてからあらためてこちらに向き直った。
「君は日本人?」
「はい、このロケを見るためにはるばるやってきたのです」
「へえー、それはすごいな。しかし、この映画が日本でもそんなに話題になっているとは驚きだ」
「なんといってもジャック・マイヨールは伝説のヒーローですからね」
「もちろんさ。だからこそ、どうせ撮るならルーカスとかスピールバーグあたりにやってもらいたかった、と僕は思っているんだ」
「あの、大声を出し続けている太った人だけど・・・」
「もちろん監督だよ。まだ若いけど」
「リュック・・・・」
「ベッソン。いま上り調子の注目株らしいが、実力はまだ未知数だからね」
六郎もこの監督が将来有望と見られていることはうっすらと知ってはいたが、それ以上の詳しい情報は持ち合わせていなかった。フランス人・・それは間違いないが。
悪い予感が脳裏をよぎった。
(これは、もしかするととんでもない三流映画なのかもしれない。そもそも一流の映画監督にデブはいないし)
「ところで、マルコ・・・さん、あなたは撮影の手伝いをしていると言ったけど、それがあなたの仕事なのですか?」
「そうだ。いろんな仕事をやっているけど、この仕事は案外ギャラがいいんだ」
「そういう仕事って、成り立つんですか?」
それほど社交的とはいえない六郎だが、異国にいると何故かいつもより饒舌になる自分を発見していた。
六郎のやや失礼な質問に、マルコは少しむっとしたのか、端正な顔を曇らせた。
「わかってないね。映画ってのは一番お金になるんだよ。撮影クルーは現地のことをなにも知らないからね。僕らのような地元の便利屋に色んなことを頼んでくるんだ。ロケ場所の選定から、宿の手配、車など移動手段の手配、小道具やエキストラの手配、クル―の三度の食事から場合によっては夜遊びのアレンジまで頼まれるんだ。ここエルバ島はわりとよく映画のロケに使われるからね、ほら、あの有名なゴッドファーザーだって、何か所かはここらで撮影したんだよ」
六郎にとってはどれも目からウロコが落ちるように新鮮な話しだった。感心しながら、じっと聞いていると、
「おっと行かなければ」
マルコ!!と大声で呼ぶ監督の野太い声に反応して、マルコは慌てて立ち去りにかかった。
「ちょっと待って」
六郎はマルコを呼びもどした。
「なに?」
「よかったらもっと話しを聞かせてくれませんか、いろいろと」
「ああ、いいよ」
「じゃあ今夜、ホテル・エルミタージュで七時に待っています」
「わかった。あとで友達も合流するけど、いいかな」
「もちろん」
マルコはにこやかにウィンクをすると走りだした。この全身にエネルギーが弾けているようなイタリア人青年の身のこなしにはどこか優雅さが漂っていた。
六郎は勝手のわからない異国で、早々と気の合いそうな友人を見つけられたことに興奮していた。ジャックと別れて宿に帰ると、シャワーを浴び時差ぼけでぶっ倒れそうになっている身体をシャキッとさせた。夕方まで少しまどろんでから、青いラルフローレンのポロシャツをひったくるようにして部屋を出た。夕食をかきこみ、いそいそと宿を出てエルミタージュに向かう。
「ボナセーラ」
無難なイタリア語で挨拶をすると、フロントマンのピエトロが驚いたような顔で六郎を見た。
「おやまた、今夜はどうしたんですか」ピエトロは神経質そうにちょび髭をなでつけた。
「ちょっとアポがあってね、ここで待ち合わせたんだ」
「ほお、だったらそこのラウンジで何かお飲みになったらいかがですか」ピエトロはロビーに面した小さなコーヒーラウンジを指差した。
「待ち合わせのお客さまはたいがいそこを使いますよ。コーヒーだけじゃなくて、お酒も・・・」
「ありがとう」礼を言うと、六郎はラウンジに歩を進めた。
ラウンジの席に座るのと同時にマルコが飛びこんできた。
「待たせたかな?」
昼間はジーンズにTシャツ一枚というラフな出で立ちだったが、いまはピシっとした黒いパンツに糊のきいたドレスシャツできめている。ウェイトレスたちが口ぐちに「ボナセラ、マントバーニさん」とうやうやしく言ったところを見ると、マルコはこの島ではちょっとした名士らしい。
「いや、僕もいま来たばかりです。それより悪かったですね、マントバーニさん。忙しいのに」と六郎はいま聞いたばかりの苗字を使ってマルコに詫びた。
「いや、もう仕事は終わったから大丈夫だ。監督はいまごろ海辺のカフェっでマイヨールさんと飲んでいるよ。僕らもなにか飲むとしよう。君はなににする?僕はビールだ」
六郎もビールにした。「モレッティ」とラベリングされた小ぶりのボトルがすぐに運ばれてきた。
「しかし、あのベッソンとかいう監督はなかなかのキレ者だな」マルコは藍色の瞳をしばたたかせながら、楽しそうに話しはじめた。突き出た太鼓腹の大男の横顔が浮かんだ。巨躯のわりに顔が小さくて、おまけにハンサムだったような気がする。
「キレ者?どんな風にですか」
「つまり、低予算で上手に撮影するってことだ」
「なるほど、映画もお金がかかりますからね」
「その通りだ。僕は代々事業家の家に育っているから、ビジネスには敏感なんだ。彼はちゃんと仕事をしていると思う」
「事業家?なにをやっているのですか」
「もともとは、建設業をやっていたし、ホテルも経営していた。一方で革製品などの製造販売も得意分野だったんだ。観光ビジネスとかもね。もちろん君が見たとおりインバウンド系の便利屋だって、立派なビジネスさ」
「インバウンド?」
「ああ、お客さんをエルバ島に迎えてなにかとケアする仕事をひとくちにそう呼ぶんだ」
マルコの話しはひとつひとつ、全く六郎の知らない世界のものだったが、ひどく興味深かった。
「君は、日本ではまだ学生なのかい?」
「はい、まだ若造です」
「将来はなにをやりたいの」
「家業の漁師をやろうとずっと思っていたんですが、家が食堂になっちゃって、出番がなくなってしまったんです。いまは途方に暮れてます」
「ふーん、でもやっぱり自分が得意なことをやるべきだね。なんでもいいんだよ、得意なことからはじめるべきだ」
六郎は、さして人に自慢できる得意分野はないが、強いていえば、昔から異常に視力が高く、また人一倍手先が器用だった。そのことをぼんやりと考えた。それを活かした仕事って、何かあるのだろうか。
「何故ここに来たの?映画のロケを見ることだけが目的じゃないだろう」
「マイヨールさんは僕の父の親友でした」
「まさか!」
マルコはビールをゴクリと飲んでから「本当かい」と目を丸くした。六郎は、父親とマイヨールの出会いからの顛末を話してきかせた。
「これは驚いた」マルコは目を丸くして身体をのけぞらせた。六郎は続けた。
「だから、僕はどうしてもこの島に来なければいけなかった。それは僕の宿題のようなものだったんです」
「よくわかった。では君のお父さんに乾杯しよう!」
マルコはグラスを高くかざした。六郎もそれにならった。
マルコは六郎よりも五歳年上だった。つまり25才。それでもう立派にビジネスをやっている。そのことに六郎は素直に感心した。
「仕事のことをもっと聞かせてくれますか」
「うん、実は僕はイタリア人は世界から誤解されていると思っているんだ」
「どんな風に?」
「なんていうのかな、快楽主義でアバウトで、緻密さに欠ける・・・というようにね。君も実はそう思っているだろう」
「いや、まあ。たしかに日本では、イタリア人と待ち合わせするときは一時間ほど早い時間を指定した方がいい、なんて言われてます」
「本当かい」
「残念ですが本当です」
「よく言ってくれた。外国人の話しは刺激になる」
「一方、日本人男性は時間には正確ですが国際的には女性にモテないと言われてます」
「でも、ヒデはロザンナを射とめた」
会話が止まった。六郎は驚いてマルコの顔を凝視した。
「あなたは日本のポップ・ミュージックに詳しいのですね」
「まあ、いくつかはね」
「話しの続きを聞かせてくれますか」
「どこまで話したっけ」
「つまり、イタリア人は快楽的だとかアバウトだとか、それは誤解だと・・・」
「うん、君は例えばサルバトーレ・フェラガモの靴を知っているかい」
「名前だけは・・・」
六郎は曖昧に答えた。
「デザインの美しさは完璧といっていい。でもそれだけじゃないんだ。10年いや20年履いても型崩れしない堅牢さを併せ持っている。すばらしい職人芸だよ。世界中であれほどの靴はなかなか見つからない。同じことがカッシーナの家具にもいえる。頑丈で長持ちするうえにデザインがいい。つまりセンスが飛びぬけていい。これがイタリア人の素晴らしいところだと思う」
六郎はカッシーナという名称を聞くのは初めてだった。しかしマルコの話しの邪魔をしたくないので、黙ってうなずいた。
「産業を見ると自動車産業はイタリアの全GDPの8・5パーセントを占めているんだけど、エコ・カ―や電気自動車では最先端を走っていることを君は知らないだろう。フィアットの小型車は、ここ五年間世界で最も売れている車だし、オリベッティが長い間、機械メーカーとして世界に与えた影響は計り知れない。さらに君は意外に思うだろうが、イタリアは木だけを使ったビル建築でも先駆者なんだ。六階建てで、震度7にもびくともしないんだよ。エコロジーや自然エネルギーの分野でもイタリアは突出している。そういうことを世界は知らな過ぎるんだ」
六郎は驚いた。日本と同じ火山国だ。地震も頻発する。だからもちろん原発に対してはネガティブだ。イタリアはあえて再生可能エネルギーで先端を走り、木質の建築物で勝負している比類のないエコの先進国なのだという事実をマルコから知らされて、六郎はちょっと打ちのめされた。
「素晴らしいですね。日本はどんどん原発は作るし、なんでも効率重視でコンクリートだらけになりつつある」
「イタリア人はモノづくりの力とデザインの力とをうまく重ね合わせることに成功したの唯一の民族だと僕はここで断言する。だからこそ、僕はそういうイタリア人が世界に向かって狼煙をあげるような仕事をしてみたいと以前から思っているんだ。精緻な職人の技とデザインの融合だ。もうだいたい構想はできているんだけどね」
六郎はますますこの青年に惹きつけられている自分を発見していた。
イタリアを、とくにトスカーナを語るとき絶対欠かせない人物がいる。六郎はその名前を出してみることにした。
「レオナルド・ダヴィンチやガリレオ・ガリレイはここトスカーナの出身ですね」
「そうだ。その二人はイタリアの誇りの源泉だ。そしてもう一人、スーパースターがる」
「誰ですか」
「ナポレオン・ボナパルト。彼はヨーロッパが生んだ史上最強の戦略家だ」
「でも、フランス人じゃないですか」
「そう思っているだろう。しかしそれは正しくない。ナポレオンの生まれたコルシカ島は、当時フランスに割譲されたばかりで、もともとはイタリアのジェノバ領だ。そこはまさにイタリアの文化圏だった。事実彼の言葉からイタリア訛りがぬけることは一生なかったことは広く知られている。つまり彼はもともとイタリア人だったと考える方が自然なんだ」
「しかし、彼が就いたのはフランス皇帝という地位です」
「当時、フランスは圧倒的にイタリアよりも上だったからね。イタリアは、ヨーロッパの列強が勢ぞろいしたかの有名なウィーン会議でも蚊帳の外だった。というかオーストリアに支配されていたからね。ナポレオンも、幼年学校からフランスに学び、その後パリの士官学校に留学している。しかもフランス革命の嵐が吹き荒れた直後だ。ヨーロッパはリーダーを待望していた。ナポレオンはその波に乗るためにも、フランス人でいた方が支持されやすかったんだよ。しかし現存するナポレオンの膨大な書簡類を見ると、そこここにイタリア的な表現が混ざっているというのが面白いね」
ナポレオンはイタリア人だった。これは一番の衝撃だった。しかし、六郎は半信半疑だった。何故ならナポレオンの子孫を名乗る人たちが、フランスに現存するからだ。そのことを六郎は確かめないわけにはいかなかった。
「でも、ナポレオンから連なるボナパルト家は今日もフランスの名門として綿々と続いているし、彼らはナポレオン七世とか、八世とか呼ばれているじゃないですか」
するとマルコは毅然として言い放った。
「ちがう。あれはナポレオンを長男とする8人のボナパルト兄弟の末弟ジェローム・ボナパルトの子孫であって、ナポレオン本人の直系とはいえない。だから彼らがボナパルトという苗字を名乗るのはよしとしても、ナポレオンの名を名乗るのは本来は言語道断なんだ。ナポレオン七世と八世を名乗っている当のふたりは、親子なのにどっちが本家かと争っている。本当の直系じゃないからそういうことになる」
「なるほど」この話しに嘘はなさそうだった。しかもそれは戦慄すべき事実だ。六郎は飛行機のなかで読んだ今日までのボナパルト家の家系図を思い出していた。ニューヨークにいるボナパルト家の八世は、ジャン・クリストフ・ナポレオン・ボナパルトという。パリにいる七世は、シャルル・マリー・ジェローム・ヴィクトル・ナポレオン・ボナパルトという長ったらしい名前だ。二人ともさすがに冒頭からナポレオンを名乗るのは気が引けるのだろう。名前の一番最後に遠慮がちにやっとナポレオンが出てくる。それはこうした、非直系ならではの背景があるからなのだろうか。
「しかし、ナポレオン本人にはフランスで生まれた息子がいて、それがナポレオン二世と呼ばれましたよね」
マルコは微笑んだ。
「その通りだ。二番目の妻、マリー・ルイーズとの間にできた一人息子だ。しかし不幸なことに彼は20歳で亡くなった。もちろんまだ独身だった」
「ということは、そこでナポレオンの直系子孫は途絶えた・・」
「フランス的にはね」
そこでマルコは悪戯っぽくウィンクしてからつづけた。
「しかし前にも言ったように、もともとナポレオンはナポレオーネ・ブオナパルテというれっきとしたイタリア人だ。その直系は実はちゃんとこのエルバ島に脈々と生きている」
「え?」六郎は意表を突かれて狼狽した。
「驚いただろう。でもそれは事実なんだ。今からその証拠をお見せするとしよう。ほら来た」
マルコはホテルの玄関を指差した。レモンイエローのワンピースを着た一人の若い女性が足早に玄関を入ってくるところだった。
六郎は絶句した。
「ボナセーラ・マルコ・・・」
そう言いながら、マルコの頬に軽くキスしたのは、六郎がこれまでに見たどの女性ともちがう、華やかな笑顔のなかに特別の気品を湛えた、美しい金髪のイタリア人女性だった。
「紹介しよう」マルコが言った。
「こちらは、ベアトリーチェ・ブオナパルテ。かのナポレオン直系の子孫だから、まあ言ってみればプリンチペッサ(王女)だよ。いまでも島の人たちは彼女を王女様と呼んでいる」
呆気にとられながら、六郎は懸命に言葉を探した。ふと視線を感じて周囲を見ると、フロントマンのピエトロらしき人物がカーテンに隠れてじっと話しに聞き耳を立てているのが見えた。一体なにが彼をそうさせるのだろうか。
「ボナセーラ・・・プリンチペッサ」六郎はやっとのことで、イタリア語であいさつした。
「ボナセーラ・ロクロウ、あなたのことはマルコから電話で聞いて知っているわ」
〝王女〟は、あたりの景色すらも一変させてしまいかねない、凄まじいオーラを放ちながら、静かに微笑んでいる。それは「笑った時の方が怖い」と言われ、氷の微笑で誰をも屈服させ畏怖させたナポレオン・ボナパルトの横顔と重なったような気がした。
楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。同世代といってもいい二人のイタリア人とのひと時だが、そのうちの一人はナポレオン直系のプリンチペッサであることを、片時でも忘れるわけにはいかない。緊張しながらも六郎は次第に彼らと打ちとけて、好きな音楽の話しや絵画や本の話しで盛り上がった。海洋小説の古典ともいうべきメルビルの「白鯨」や、最近ヨーロッパでも翻訳が出版されはじめたハルキ・ムラカミの小説などについても語合った。遠く離れて育ったのに、これほど話しがしっくりとなじみ合うという奇跡に六郎は夢中になった。またこの二人の文学や芸術に対しての知識は同世代の一般的な日本の若者とは本質的に相いれない高みにあった。バブル景気に浮かれてクラブのお立ち台で踊り狂っている日本の若者は将来大丈夫なんだろうか、とんでもないしっぺ返しを食らうのではないか、そんなことを思い、六郎は暗澹とした気分に沈んで行くのだった。また、ベアトリーチェはいきなりオペラの話しを振ってきて六郎を慌てさせた。それほどクラシック音楽に詳しいわけではないが、何人かの作曲家の名前は知っていたので、それを小出しにして時間を稼ぐしかない。やっとのことでプッチーニを思い出した。
「プッチーニね、彼もトスカーナ出身の偉大な作曲家だわ」
ベアトリーチェが、名門らしい気品に彩られた笑顔で言った。
「でも相当おんな癖が悪かったらしい」とマルコが笑いながら言った。
「それを言うなら、ダ・ヴィンチだって相当なものだったらしいわ。そもそもイタリア人の漁色の系譜はローマの英雄カエサルにまで遡ることができるのだから」
六郎は稀代の色事師であるカサノヴァの名を思い出したがここでは言わなかった。
「私の回りにもいっぱいいるわ」
ベアトリーチェがいたずらっぽく笑った。
「あ、そうか。ベルルスコーニさんとか・・・」
マルコは大富豪で、トリノのサッカークラブ「ユベントス」のオーナー、そして次期首相候補と言われる人物の名前を出した。まさか、彼がベアトリーチェを追いかけてエルバ島までやってきたことがあったのだろうか・・・。
六郎は相槌を打ちながら、イタリア人にとって漁色家であることは、恥なのか勲章なのか、一体どっちなのだろうかと考えたまま、答えを見つけることをあきらめた。
「ところで、明日はどうするんだい?」とマルコが聞いた。
「迷惑じゃなければあなたの手伝いをしたい。お金はいりませんから」と六郎は答えた。
「手伝いか。いいだろう、仕事は山ほどある」
「私も行ってもいい?」とベアトリーチェが目を輝かせてきいてきた。
「ああ、たんなる見物ならいいよ」と素っ気なくマルコが答えた。
「でも、ちょっと実は心配なことがあるんだ」
「なに?」
「監督から預かっているストップ・ウォッチが動かなくなっちゃってね」マルコはポケットから大きな丸いストップ・ウォッチを取り出した。
「これなんだけど・」
六郎は素早く文字盤を見た。WACMAN(ワックマン)と書いてある。かなり年季がはいったヴィンテージものの懐中時計だ。
「スイス製でね、ベッソン監督が僕に預けてくれている」
「何故あなたに預けているの?」ベアトリーチェが聞いた。
「うん、例えばこのシーンのカットは三十秒で切りたいとか、長回しを二分でやりたい、とか、撮影のひとつひとつに監督は時間を設定するわけさ」
「長回しって、長いワンカットのこと?」
ベアトリーチェが興味深そうに聞いた。
「まあそうだ。映画は短いカットと長回しの組み合わせでできているといってもいい。で、あらかじめ監督が決めたそれぞれの時間を僕がストップ・ウォッチで計って、カット三秒前にスタッフに僕が手振りで知らせるんだ」
「じゃあ、ストップ・ウォッチがないと困りますよね」
六郎は聞いた。
「そうなんだ。しかも監督が長年愛用してきた時計だからね」
「できるかどうかわかりませんが・・・」
六郎はおずおずと言った。
「僕にその時計、ひと晩預からせてくれますか」
二人が怪訝な顔をして六郎を見た。
「実は・・・家では、時計とかテレビとか冷蔵庫なんかが故障すると、それを直すのは全部僕の役割なんです。目がよくて、手先が器用なのが、僕の取りえなのです。ストップ・ウォッチは初めてですが、まあなんとかなるかもしれません」
二人は思わず、六郎のがっしりとしている割には奇妙に繊細そうな手と長い指に目をやった。
「有難う。じゃあ、とにかくやってみてくれないか」
マルコが地獄で仏にでもあったかのように、すがるような目で六郎に向き直り、丸い大きな時計を手渡した。
「でも、工具類がないと・・」
マルコはフロントに向かって大声を出した。すると物影からピエトロがするりと進み出た。
「極小のピンセットとドライバーはないかい。+と-の・・」マルコがたずねた。
「ありますとも、マントバーニ様」陰気な顔をしたピエトロが小さな声で応じた。
ピエトロはしばらくすると、小さな工具箱を抱えてきた。六郎は中をたしかめると、小さくうなずいた。
翌日、リュック・ベッソン監督の映画撮影ロケは快調に進んでいた。六郎はマルコから命じられて、いわゆる現場の雑用のような仕事についていた。大勢の野次馬をロープで仕切って撮影の邪魔にならないようにする、カメラが回っているとき、カモメなどが近付かないように追い払う、ゴミを片付ける、あるいは、スタッフのためにミネラル・ウォーターを買いに行く、など、やることはいくらでもあった。
「おい、ジャパニーズ・ボーイ」
突然話しかけてきたのは、なんと監督だった。
「どうやら君は神の手の持ち主らしいな」
ひと晩でストップ・ウォッチを修理したことをマルコから聞いたのだろう
「いいえ、そんな、大した故障でもなかったので」と六郎は緊張しながら答えた。
「あれはね、スイスのワックマンというメーカーのヴィンテージモデルでな、私のお気に入りなんだ。これまでは、ほとんど故障したことがない。だがいったん故障するとスイスに送って直すしかないという気難し屋なんだ。それを君はひと晩で直したんだね。ありがとう、お礼を言わせてもらうよ」
ベッソン監督がにっこり笑った。笑うとびっくりするほどチャーミングだった。
「どういたしまして。今回は手巻きのネジがバカになっていただけですから応急処置をしただけです」
「でも助かったよ。で、相談なんだが、メガネの弦の調整なんかもできるかい」
「ええ、だって、あれは極小のドライバーさえあれば誰でも出来るでしょう」
「ところが、こだわっているヤツがいてね、左右がちょっとずれたり、緩んだりするだけでだだをこねるんだ。撮影にも影響が出てしまう」
随分神経質な人もいるものだ。
「ということは、そのメガネの持ち主は俳優さんですか」
「そうだ。この映画の主役の一人だよ。今夜にでも会って相談を聞いてやってくれないか」
「いいですよ」
「それはよかった」
「で、その俳優さんはどなたですか」
「うん、あとで紹介するが、名前はジャン・レノという」
聞いたことのない名前だった。やっぱり主役級が無名だから、この映画はマイナームービーだと六郎は確信した。
「ロクロウ!」
大きな声で呼ぶ声がした。
振り向くとマルコが近付いてくる。
「ベアトリーチェがいま、到着したよ。弟も一緒だ」
マルコが指差した方向をみやると、野次馬に混じって日傘をさした「王女」が手を振っている。昨夜とは一変して、麻素材のたっぷりしたベージュのノースリーブを着ている。カジュアルな装いでも、出自の良さは隠しようがなく、彼女がいる場所だけはなにか特別の光が当たっているようにふんわりと浮かび上がって見える。かたわらにやっと十歳になったくらいの、やけに精悍な金髪の少年が寄り添うように佇んでいた。
(弟?ということは、ナポレオン直系の王子・・・)
六郎は、背中のあたりが粟立ってくるのを感じていた。
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