第一章 レジェンドたちの海へ
《こわもて
根岸六郎の家は代々、神奈川県の江の島対岸の腰越漁港に舟を持つ漁師だった。六郎は小さいころから父親のが操舵する漁船に乗って、よく海に出たものである。父、六助は頑健な体を持つ息子の六郎をとりわけ可愛がり、漁師仲間に「こいつにあとを継がせるのだ」と目を細めて自慢してまわっていたのだが、実はこの息子には父親しか知らない驚くような美点があった。それは並み外れた視力だ。魚を求めて海に出たときに、六郎は五キロも先の鳥山を発見して父親を驚かせた。海上で鳥が群れているあたりのことを鳥山といい、その下では必ず海面近くに魚が群れているものだ。そんな六郎の特技は、父親の漁に大いに役立った。誰よりも早く、父の船は漁のポイントに駆けつけることができたからだ。
父・六助は夢見る男だった。「俺は日本一の漁師になるのだ」と周囲に公言してはばからないばかりか、ついに、このあたりでは滅多に見ることのない巨大なカツオ漁船まで手に入れてしまったのだ。カツオ漁船の全長は軽く20メートルを超え、総排水量は25トン、巡航速度は18ノットに達する。ここ湘南界隈はおろか、全国の漁港でもなかなか見ることのない豪華な船だ。いま思えば、父はなんでまたこれほど馬鹿でかい船を購入したものかと、首を傾げたくなるのだが、それにはわけがあった。知人の紹介で知り合った九州の投資家と称する男が、ある日六助にこの船の購入を薦めてきたのだ。そして購入資金2,000万円のうちの1,200万を低利で根岸家に貸しつけるというのだった。当時の2,000万円といったら大変な金だ。日本一の漁師になるのだという思いと、1,200万の借金を背負うという呵責との間で父親は揺れた。しかし、最後は「夢」が勝った。とくにこの九州からきた
「カツオの一本釣りに命を賭けてみようとは思いませんか。カツオ漁は男のロマンです」
カツオの一本釣り・・・これは投資家に言われるまでもなくまさに男の釣りだ。長竿一本でカツオの群れにエサを落とし、次から次へと大きなカツオを釣りあげては、それをそのまま船の甲板に叩きつける。荒っぽい漁法だから、船体は大きいほどいい。六助は、この全長20メートル超、全幅5メートルのカツオ漁船を見た瞬間、彼女にひと目ぼれしてしまったのだった。
しかし、夢と現実とは必ずしも一致しない。カツオ漁をやるには、春と秋に、三陸沖150キロ界隈まで足をのばさなくてはならない。三陸沖は湘南からは遥かに遠い。さらにカツオ漁には20人以上の人手が要る。カツオの群れを見つけたら、それに向かって20人以上の漁師が一斉に竿を出し、短時間の間に次から次へと釣りあげなければならない。急がないとあっという間に群れはいなくなってしまうからだ。そうやってはじめて成立する漁なのだ。当時の卸売価格で一尾3,000円ほどのカツオを一度に数百尾単位で釣ってこそ初めて元が取れる。その20人を集めるだけでも難題だった。
そんなわけで父はなかなかカツオ漁に出ることが出来ず、従ってこのカツオ漁船「根岸丸」は、次第に無用の長物へと化していくのだった。しかし借金の返済だけは根岸家に容赦なく、そして重くのしかかる。
一方で父親の六助にも特技があった。地元では知らぬ者はいない「素潜りの名人」。昔は江の島界隈ではサザエが豊富に繁殖していて、大きなものがよく獲れた。根岸六助は十メートルも十五メートルも軽々と潜水して、あっという間に何十個ものサザエを獲るのだった。また、岩の下に潜んでいる石鯛やカサゴなどをモリで突いて獲物にした。こうした魚貝は高値で売れたから、根岸家の家計を大いに潤わせたものだった。
六助はやがて、湘南近辺では飽き足らずに、房総半島や西伊豆などに遠征して三十メートル以上も素潜りするようになっていった。六郎はどこだろうと、大好きな父親についていきたがったが、遠征するときの父は何故か修行僧のような鋭い目つきを虚空に這わせ、近づきがたいオーラを放った。父はやがて夏だけでなく、春や秋、さらには冬でも海に潜るようになっていった。そして潜れば必ず収穫があった。そんな六助を人々は、〝おとこ海女〟などと呼んで冷やかした。六郎は学校で、そのあだ名を聞くと、「おとうは立派なおとこじゃ」と大声で反論したものだった。
ある日、キッチンのテーブルでテレビを見ていた父六助が近所中に聞こえるような大きな声を上げた。
「ありえねえ!」その声を聞いて六郎もテレビに目をやると、画面では間もなく途轍もない素潜りの世界新記録が生まれるかもしれない、というトピック・ニュースを報道していた。なんでも超人的なイタリア人ダイバーがいて、すでに七〇メートルくらいは素潜りで潜っているのだが、こんどは水深100メートルに挑戦する、というのだった。挑戦の舞台はトスカーナ州のエルバ島という島である。テレビでは、この島のことを地中海の真珠と表現していた。
これを見た六助は、矢も盾もたまらず、そのエルバ島での新記録樹立の現場に立ち会いたいと思ってしまったのである。貯金を全部おろし、本気でイタリア行きを画策しはじめた。とにかく言い出したら聞かない父親だった。知らない間にイタリア政府観光局まで出かけていって、その超人的なダイバーによる素潜り挑戦イベントの日程や、自身の旅の計画まで全部練り上げてしまっていた。忘れもしない1976年の11月19日、父親はろくに荷物も持たずに羽田空港を飛び立ってしまったのだった。
エルバ島に到着した根岸六助は、ジャック・マイヨールというそのダイバーと運命的な出会いを果たした。海に面したバルの広いテラスで二人はしこたまビールを飲んだという。似たもの同士は、会った瞬間から意気投合したというわけだった。
「ジャックはなあ、昔から日本に憧れていたらしいんだ」と帰国してから六助はよく六郎に語ってきかせてくれた。「だから日本人のオレをひと目で気に行ってくれたんだ・・・」
「ところでお前、素潜りってのは男にとって何だかわかるか」と聞かれた。六郎には全く答えなど見つからなかった。父親は壁に張ったイタリア半島の地図を見つめながら、歌うように言った。
「ジャックとオレにはよーくわかるんだ。素潜りってのはな、男の祈りなんだよ」
六郎は父親の言葉の意味を計りかねたが、その言葉を発したときのいつになくきっぱりとした表情がいまでも脳裏に甦ることがある。後日、ジャック・マイヨールの伝記を読んだ六郎は、彼が何故か禅の教えに深く深く導かれていたことを知ることになる。きっとマイヨールにとっても、素潜りは男の祈りだったにちがいない。
毎晩のように六助とジャックは酒を酌み交わし、夜更けまで語りあったという。深く潜水した者にしかわからない生き物のように暴れる海流のこと、気がつくと迷い込んでいる刺すようなに冷たい海域のこと、遭遇した得体の知れない巨大な怪魚のこと、そして男の祈りのこと・・・。
1976年11月23日、ジャック・マイヨールは大勢の見物人とマスコミが見守るなか、実に人類ではじめて海底100メートルの素潜りを成功させ、伝説のサブマリンとなった。その前にシチリアで行われた潜水イベントで勝利したのはライバルのエンゾ・マイホルカだったが、ジャックはついにエルバ島でエンゾを打ち負かしたのだった。そのとき興奮しながらシャッターを押し続けたにちがいない発色の悪いカラー写真を六郎は父から何度も見せられたものだった。
イタリア語はもちろん、英語すらままならない六助ではあったが、身振り手振りで、素潜りのなかで自分が感じたある種の浮世離れした境地について語ると、それについてジャックは深い共感を示したという。「そうだ、海に潜ったぼくらはいつの間にか神に導かれていることを知る」とジャックは言ったと。その後、ジャックは度々来日しては六助と合流し、一緒に水にはいった。そして最後には千葉の館山に、海に面した別荘を構えるまでになったのは有名な話しだ。
六助は、カツオ漁船「根岸丸」のために背負った借金の返済が滞るようになり、極度のストレスで胃潰瘍を患った。潰瘍はやがてたちの悪い胃癌を誘発させた。そんな六助をジャックは自分の館山の別荘に招き、療養させた。六郎は父に連れられて、房総半島南端の断崖に建つその素朴な別荘でジャックに会ったことがあったが、想像に反して銀髪を冠した面ざしの優しい紳士だった。とても100メートルも潜るような超人には見えない海の伝説の体現者は、六助をロッキーと呼んで心の底から親愛の情を示し、他の誰よりも厚く遇していた。しかし、六助は六郎が高校二年になったときに、ジャックに見守られながら、あえなく四九年間という短い人生を終えてしまったのだった。決して長くはなかったが、子供のように天真爛漫に生き、そのまま燃え尽きた人生だった。
死期の近い父親の枕元に現れた九州の投資家を六郎はその時はじめて目の前で見た。まだ40代そこそこで、贅肉ひとつついていない顔を持つ怜悧な表情の男で、名前を江田秀雄と言った。江田は江の島界隈の漁師たちに、船を購入するときの資金の工面することがあり、この界隈ではちょっとした有名人だった。漁獲高を数値で予測できない漁業という商売に対しては銀行は貸し出しを渋るため、漁師たちは江田のような個人金融を重宝がるところがあったのだ。
六助が返済に困ったために、1,200万を借り入れたときに抵当に入れられたカツオ漁船の根岸丸はあっと言う間に江田のものになった。返済は半分ほどは進んでいたから、江田はたったの600万足らずという破格の値でこの豪壮な船を手に入れたことになる。さらに低利貸し付けとは名ばかりで、住宅ローン利息が4%台だったこの時代に、江田はなんと年利15%という高い利息をむしり取っていた。六郎は好むと好まざるとに拘わらず、この江田秀雄という名前をある種の嫌悪とともに胸に刻みこむことになった。
主人を失った根岸家は、所有していた他の舟も売り払い、父が愛したカツオ漁船の名をそのまま店名とした海鮮食堂「根岸丸」を腰越漁港の目の前に開いた。そして母親が厨房に立った。
1987年、横浜の大学に通う六郎は二十歳になっていた。そして同じダイビング・クラブに所属する香川志麻子という同級生とつきあうようになっていた。六郎の中では、志麻子とはやがて結ばれることになるのだろうという漠然とした予感のようなものが芽生え始めていた。ただ彼女は、容易には自分の身元をつまびらかにしない不可思議なところがあって、下手な芝居で育ちの良さを必死に隠ぺいしているような危うさが見え隠れしていた。もしかすると、志麻子は自分とは住む世界が全く違う人なのかもしれないと六郎は恐れるのだが、いったん火がついてしまった恋心がそんな懸念を覆ってしまうのだった。
その年の春、六郎は一通の手紙を受け取った。手紙は、なんと父六助の生涯の友と言うべきあのジャック・マイヨールからのものだった。手紙には、夏休みを利用してイタリアのエルバ島に来ないかと記されていた。その誘いには理由があった。フランスの映画監督のリュック・ベッソンがジャック・マイヨールの伝記映画を撮影するべく、撮影クルーとともに島にやってくるというのだ。そして手紙には「ぼくはロッキー(六助)の最愛の息子である君と一緒に、その映画の撮影に立ち会いたいと心から願う」と結ばれていた。ジャックのどこか遠くを見るような、優しい眼差しを思い浮かべると、六郎は居てもたってもいられなくなった。たしかジャックはこの年60歳になるはずだった。ジャックが記録を打ち立てた地中海の島で、それを再現する映画が撮影される、そしてその現場にジャックとともに立ち会う、、、こんな奇跡はまたとあるまい。六郎はなにをさておいてもエルバ島に行くべきだと考えた。
さっそくエルバ島についての情報収集がはじまった。
すると、すぐにこの島があの皇帝ナポレオンと密接につながっていることがわかってきた。六郎のなかでエルバ島は直接的には海の英雄ジャック・マイヨールの島ではあるが、一方で200年前のヨーロッパの英雄ナポレオンの島だったという歴史の因縁は六郎をひどく驚かせた。まだ40代でありながらすでに頂点と凋落とを経験したナポレオンは、皇帝を退位したあとの299日間をエルバ島で過ごしてから、この島を出て不死鳥のように再び天下を目指すのである。この島で失意のナポレオンが何を思い、そして何が彼を再び天下へと駆り立てたのか、そのエキスのようなものの痕跡を辿ってみたいと六郎は思うのだ。
印象的なエピソードがある。終生ナポレオンに付き添った母親のレティシアは、息子ナポレオンとともにエルバ島で満天の星に彩られた夜空を見上げたときに、それはまるで何百万もの宝石が足元まで降り注いでくるような夢のような体験だったと周囲に語っている。六郎はなんとしても、それを自分の目で見て、自分も全身に星屑のシャワーを浴びてみたいと願った。
六郎がイタリア行きを決心すると、すぐに香川志麻子も一緒にいきたいと言いだした。もちろんそれは魅力的なことだった。ふたりで地中海の海を見ることができたならどんなに素敵だろうか、、、。しかし六郎には、この旅は自分にとって特別なことだという思いがあった。海の祈りを共有した父とその親友のつながりは神聖なものであり、そのジャックがわざわざ亡き親友の息子である自分に手紙で島への来訪を誘ってきたことには、彼ならではの深い思い入れがあるにちがいない・・・。六郎は志麻子に告げた。
「この旅は僕が一人でいくべきものなんだ」
この決断について、六郎はのちに激しく後悔することになるのだが、そこにいたるのは少しあとのことである。
夏七月、コバルト・ブルーの空の下、地中海は眼を射るような虹色の光彩のただ中にあった。根岸六郎はトスカーナ西岸のリヴォルノから船に乗り「これはもしかしたら夢なのではないか」といった眩暈にも似た浮遊感を抱いたまま、伝説の島、エルバ島に入った。小さくて素朴な島を思い描いていた六郎は、船腹にキラキラと明滅する海の照り返しを受けた舟が停泊する港や、華やだい雰囲気のレストランやカフェが立ち並ぶ洗練された街並みを見て、ここがすでに地中海を、そしてヨーロッパを代表する高級リゾートであることを知った。美しいリゾートの光景は何故か六郎の心をかきむしった。生まれ育った湘南江の島のそれとはあまりにも異なる、まばゆい洗練をそこに見たからだろうか。いや、旅に出ると人間はきらびやかな景色に希望を見出すこともあるが、反対に何故か打ちひしがれ、絶望を見ることもあることをそのとき六郎は知った。こうした漠とした寂寥感は以後旅に出るたびに、ふわふわと六郎を苛むことになる。
もちろんイタリア語を喋れるわけではない。英語ならなんとかなるが、この島の人たちはほとんど英語は使わない。やっとのことでフィアットをレンタルし、ジャックが待つホテル・エルミタージュへと走らせた。
ホテルのテラスで、ジャックは六郎を出迎えた。遠くからみて、すぐにそれがジャックだとわかった。彼の姿には何とも言えない透明感が漂っていて、容易に人を受け入れない圧がある。変人と言ってしまうのは簡単だが、彼が海から選ばれた特別な存在であることを六郎はとっくに知っていた。どんなに固いボールを投げても吸収してしまう真綿のような柔らかさと大きさがある。海の哲学者は昔とかわらぬ優しい笑顔で六郎を迎えてくれた。今年60歳を迎えるが、ジャック・マイヨールは驚くほど若く、そして魅力的だった。
「よく来てくれたね」少しばかりしわがれたような独特の声で六郎に微笑みかけると、力強く抱きしめてきた。懐かしい潮の香りがした。
芝を敷きつめたホテルの庭の向こう側には、少し青みを増した午後の海が広がり、遠い水平線のあたりには、ナイフで切り裂いたような一筋の銀色がすーっと走っていた。
そんな景色を見て、六郎はふと思った。
「ナポレオンも、同じ景色を見たのだろうか」
六郎はイタリアまでの飛行機のなかで、エルバ島にゆかりの深い英雄ナポレオン・ボナパルトの伝記をむさぼるように読み続けていた。
その本にはこうあった・・・
”1814年、フランス皇帝の座を追われたナポレオンは失意のなか、エルバ島に居場所を与えられた。自分が育ったコルシカ島のわずか東にありながはるかに小さい島だった。ナポレオンがエルバ島に渡ったころは、すでに最初の妻ジョゼフィーヌとは別離しており、オーストリア皇帝の血を引くマリー・ルイーズ(仏語ではマリア・ルイーザ)を二番目の妻に迎えていた。しかしナポレオンは、皇帝を退位したフォンテヌブローから直接エルバ島に向かったため、妻を同行させることができなかった。最愛の妻マリー・ルイーズをエルバ島に呼び寄せようとナポレオンは何度も手紙を書いている。彼女もナポレオンとの暮らしを望んだが、オーストリア皇帝フランツ二世の娘であり、パルマ公国の女王でもある彼女を二度とナポレオンに近づけまいとする貴族たちの思惑が邪魔をした。マリー・ルイーズはエルバ島に行く前に「しばし休息を取られるべし」と周囲から進言され、保養地のエクスレバンに向かわされてしまう。その道すがら密命を帯びたナイペルクという碧眼の護衛役の貴族が彼女を誘惑し、男女の関係を持ってしまったのである。当時41歳で妻子のあるナイペルクだったが、出発前に、「私は一週間でマリー・ルイーズをものし、十日間で妻にしてみせる」と周囲に語ったという。そして、果たしてその通りになった。それを知らないナポレオンは、ひとり息子のフランソワ(ナポレオン二世)を連れて一刻も早くエルバ島に来るようにと、妻に宛てて何度も手紙を書いた。しかしいつまで待っても、ナポレオンがマリー・ルイーズの返事を受け取ることはなかった。だからエルバ島は、ナポレオンにとっては、紛れもなく失意と絶望の島だったはずだ。「我が辞書に不可能という言葉はない」と豪語したナポレオンは、エルバ島ではじめて「不可能」を知ったのだ。”
ジャックは、六郎をホテルのなかのカフェ・レストランに連れていった。そろそろ夕刻にさしかかっていたので、ふたりはきりりと冷えたスプマンテで乾杯した。シャンパン・グラスでこの透明な発泡酒を呑むのは、つい最近飲酒解禁になったばかりの六郎にとっては、もちろん初めての経験だった。
「君の素晴らしいお父さんに乾杯しよう」そういって、ジャックはグラスをあわせてきた。亡き父親の親友とこうして地中海の島で会っている、そう考えると六郎は嬉しくてたまらなかった。しかし面と向かってみると何から話したらよいものやら、スムーズに言葉が出てこない。アルコールがもたらすしびれるような恍惚のなかで、六郎は必死で言葉をさがした。ずっと漁師をやるつもりで生きてきたのに、父を失うと同時にその前提が崩れてしまい、途方に暮れていることや、その後漁港の近くに開いた海鮮料理の店が思いのほか繁盛していて母がてんてこ舞いの忙しい日々を送っていること、日本経済が好調なので大学を卒業したら東京の中心にある百貨店にでも就職しようと思っていることなどを話したが、それらはジャックにとってはなにひとつ大したことではないような気がして六郎は無力感に打たれた。
白ワインを飲みほしたジャックが、突然六郎に向かって親密な笑顔を近づけてきた。
「ロクロウ・・・」なにかの決意が宿っているように見えた。
「日本にある僕の別荘だが・・・」
「はい、あの館山にある平屋建ての・・・素晴らしい景色のベランダがありました」
「うん、あそこはいつか君に住んでもらいたいと思っている」
六郎は目を丸くしてジャックを見た。
「いや、そうは行かないでしょう。だってジャックさんは何度も日本に来て、あそこを使っているじゃないですか」
「うん、しかしね、僕はだんだん弱ってきていてね、素潜りもできない身体になってきているし、だいたいロッキーがいない現在、あそこに行く意欲がわかなくなってしまったんだ」
生涯の友に先立たれたいま、ジャックはその友がいない日本に行っても仕方がない、そう思っているのだろうか。
「ロッキーの最愛の息子が館山の家に住んでくれたら、僕としては本望だ。あそこの夕暮れの景色は美しい。とくに冬がいい。君ならその良さがわかってくれるはずだ。お父さんがわかったようにね」
六郎は、父親に連れられてなんどか訪れた房総半島の突端近くにあるジャックの別荘を思いだすのだが、いつも父とジャックの興奮しきった会話についていくのが精一杯だった。だからその家のつくりまではうまく思い出すことができない。広いベランダから対岸の三浦半島がよく見えたことだけはうっすらと思いだせる。
「ジャック、その申し入れには感謝しますよ。しかし、少し時間をかけて考えませんか」
そう言うのがやっとだった。
こののち、ジャック・マイヨールはやがてひどいうつ病になり、不遇の晩年を迎えることになるが、この時点ではもちろん六郎はそんなことを知る由もない。
つかず離れずにさりげなく二人の様子を伺っている男がいた。ピエトロという名札をつけたホテルのフロントマンだった。六郎がまだ酒を飲むには若すぎる年齢なのではないか、と疑っているようにも見えたが、それだけではない、どことなく陰鬱な表情が顔に剣をつくっている。。
六郎の話しに耳を傾けていたジャックを見やると、その顔に少し寂しげな影がさしていることに気付いて、六郎はあわてた。もしかして、ジャックは数々の潜水の記録を打ち立てた華やかな時を終えて、その反動とも言うべき虚無に支配されてしまっているのではあるまいか。だとしたら自分は力いっぱい、ジャックの力になってやるべきだ。
それでもムール貝のワイン蒸しを冷えた白ワインで胃に流し込む段になると、ジャックは旺盛に食べ、飲み、そして屈託なく笑った。六郎はほっとした。
「さて、明日は一緒に映画のロケ現場にいってみるとしよう」
ジャックが言った。それは胸がときめく体験にちがいなかった。映画の主人公の実在のモデルと一緒に、そのロケを見る・・・なんて素晴らしいことだろう。六郎は目を輝かせた。
ホテルには六郎が宿泊するための部屋がすでにリザーブされていた。しかも、料金は無料だった。三階の角部屋で、広々としたリビングがついたスイート・ルームである。
「遠慮しないでいい。この部屋は、私のためにホテルがいつでも空けてくれているんだ」とジャックが笑顔で言った。
六郎はあらためて、ジャック・マイヨールがこの島の誇りのような存在であり、島にとっての名士であることを思いだした。
「では明日、9時には迎えにくるから、ゆっくり休みたまえ」
そう言い残して、ジャックはホテルをあとにした。
六郎は時差ぼけで、なかなか眠れなかった。仕方なく起きだしてから、ホテルの庭に出てみた。すると夜空はまるで神が満天に砂金をばら撒いたかのような美しさだった。日本では見たこともない大小様々な星が六郎を包みこみ、それぞれが明滅しながら、身体の隅々にまで降り注いできた。ナポレオンとその母が見た夜空だ。芝生の上に座りこみ、大の字になって夜空を眺めると、ふいに涙が頬を伝うのだった。
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