トスカーナのナポレオン
中坊 薫
プロローグ 2017年11月
まじかに潮騒が聞こえる。ベランダを吹き抜ける風の冷たさは冬の匂いを色濃く宿している。そうか、もうじき木枯らしが吹くとこのあたりの景色はどんよりと容赦のないモノクロームに沈むんだったな。そう思うと、急にぞわぞわした寂しさが込み上げてくる。近くでウミネコが鳴いたような気がした。根岸六郎は今年はじめて背中に忍び寄る痛みのような寒さを感じて思わず身震いした。すっかり冷たくなったティーカップを持ったままドアを開け、ベランダと居間を区切る敷居を跨いで屋内に入る。振り返ると海の向こうの三浦半島に真っ赤な夕日が沈もうとしていた。
六郎が千葉県の館山に移り住んでからすでに3年の歳月が流れようとしていた。この、館山湾に面した平屋建ての日本建築の家は、あの人がこよなく愛した家だ。そう、あの人・・・銀髪に同じ色の口髭をたくわえ、いつも遠くを見ていたやさしい鉄人、ジャック・マイヨールの家だ。
居間に入ると、六郎はラップトップのパソコンを開いた。
そこには、おびただしい量の数字が並んでいる。それは、自分たちが投資している世界中の企業や団体の直近の収支報告だ。六郎はヘッドフォンを装着すると、スカイプで話しはじめる。並んだ数字画面の右上に相手の顔が浮かぶ。「ボンジョルノ」と六郎が言うと同時に速射砲のような会話がはじまる。「テスラ」と六郎が言うと先方が「ステイ(そのままに)」と答える。「アップル」と言うと「バイ(買い)」と答える。「ソニー」というと「セル(売り)」、、、。見解がちがうとき、六郎は遠慮せずに言う。「待て、これは売りじゃなくて、買いだろう」などとあけすけに言う。相手はしばらく黙って考えるが、だいたい六郎の意見が通る。スカイプの相手は、今年38才になるナポレオン八世だ。イタリアのトスカーナにいながら、こうして六郎とオンラインで会話している。
ひと通り、やり取りが終わると、六郎は大きな伸びをしてからデスクを離れる。
ダウンジャケットに袖を通すと、再びベランダに出る。あたりはすっかり暗くなり、左手に見える洲崎の灯台が不規則な閃光を放っている。右を見れば、浦賀水道から何艘かの漁船が小さな灯りをともして外洋へと出てくるところだった。六郎はその漁火を見つめながら、背中をまるめて小さく息をはいた。ひとつひとつ、さまざまな思いがしっかりとした輪郭を伴って六郎の胸に去来する。そのほとんどは、イタリアの友人たちと過ごした宝石のような日々の思い出だ。マルコ、ベアトリーチェ、そしてナポレオーネ、彼らと過ごした30年間たらずの日々は、整備の悪いでこぼこのサーキットを猛スピードで何百周もするような無謀で危うい日々であり、果てしない冒険と挑戦の日々でもあった。そこではいつも、勝利の歓喜と手ひどい敗北の無念とが交錯し続けた。いつまでも光り輝いて色あせることのない「オレと彼ら」の青の時代・・・。
「志麻子・・・」ふいに呟いてしまった名前の響きに六郎は動転した。それは自分が愛し続けた同い年の妻の名前、そしていまはこの世にいない生涯の恋人の名前。六郎は夕日を呑みこんだ紫色の空を見つめながら、彼女のいない喪失感にまたしても打ちのめされていく。
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