数学的・宇宙的・「それでいい」

フェルマーの最終定理=「n≧3の場合、x^n + y^n = z^n となる、0でない自然数の組 (x, y, z) はニエット(ロシア語)」を追い求めた数学者の「総勢」は多いです。少なくとも変数nを証明しただけでも、n=4:元凶フェルマー、n=3:偉大なるオイラー先生。ソフィ・ジェルマンの定理に基づきディリクレとルジャンドがn=5、n=14の時の場合を証明。やがて100年経ち、谷山豊と志村五郎が例の「もしかしたら関係ないっぽいこっちとこっち、実は繋がってるんじゃね予想」をし(数学研究史を卑近化)、やがてフライ・セールのε予想が「谷やんとシムの予想を証明できれば、自然とフェルマー予想バキれるず!」と証明し、その通りに、あー長かった、ワイルズが330年のこの問題に終止符を打った……概略を示すだけでも、これだけの数学者の「Tie」が存在するわけです。

やっと本題に入れますが、この短編は、「設定」と「人物の思想」以外が出てきません。丘灯さんはそういう思弁…というか「思念」的な書き方をしばしばされます。デッサン、というよりもむしろ純粋思念。

それが本短編の理系な雰囲気においては、むしろ「これだからこそ」と思えるのです。
アクションも、血なまぐささも、すべては地上の猥雑物。理想の純粋さを追い求めたがゆえのアランとイゼル。

本短編を読んでいて、ずっと頭に思い浮かべていた風景は、宇宙の暗黒でした。そのなかで、孤独に二人だけが、思念として存在していた。
潔癖であり、純粋ゆえに孤立していてあり、痛々しくもあって、でも、それだからこそ、美がある。

その思念の美と、思念の正義正当性とは、また別ですが。
でも、そんな数学的孤高の美は、自分には好ましく映りました。

最終的には、彼と彼女は「Tie」で繋がっていた、というところに、全ての物語が集約するところ。
AI=アラン&イゼル。
シビれますね。本作の個人的ベストセンテンスはここです。

フェルマーの最終定理は巨大な難問でした。その前に数多の数学徒が破れ、潰え。ほんの少しを証明しただけでも大天才(オイラーでさえn=3の限界でしたよ、なんだこのチート対神の領域)。
それでも。
数学徒たちには、絆がありました。自分の数学研究が、いずれ誰かが継いでくれるという、夢想(ロマン)を抱いて。

数学全体から見たら、フェルマー予想もまた「ひとつの問題」であって、ああ、世界は広い。ましてそんな広い世界のなかで「個人の名前=思想」が残るには、どれだけの労苦が必要でしょうか。イゼルはそれに費やします、自分を。

「それでいい」
つまりは、彼ら彼女らの、「それでいい」と自らを捧げる美しさ、なのかもしれません。結局は。

(作者氏の近況ノート4/17分のネタその3を拾って)