Re:main/Believe (丘灯秋峯;短編集)

丘灯秋峯

零れる涙と、お茶漬け

 幸せは雲の上に、悲しみは星の影に。 そう知っててもなお幸せだった

   —丘灯秋峯


神代零児様乃企画「夏だよ 一つのプロットで文体見せ合いっこ!」

https://kakuyomu.jp/user_events/1177354054883650512

への参加作品









 波音が響く家に、秋生アキオは帰る。

 時間ときはすでに22:00、仕事に明け暮れる夫を、実香ミカはいつも笑顔で出迎えてくれた。



「おかえり」


「手早く食べられるものを用意してくれ」



 なんども交わしたやり取りにも妻は微笑みを返し、台所へと戻って行く。


 なんども...... そうだ、こんな夜を僕は何度も過ごしてきたのだろうか。その思いがぎる。その度に実香は笑って迎えてくれた。その顔を見ると安心し、緩んだ心へ疲労が一気に注がれる。




「ミカ」


「ん」


「いつもありがとうな」


「いいんだよ。それ、何度言われればいいのかな」


「やっぱりか」

 アキオは息を漏らすように笑った。リビングのテーブルへと歩み、椅子に座ると、ネクタイを緩め、汗ばんだシャツの襟を解く。

「いつかスキヤキでも食べに行きたいけどな」


「食べたかったらそう連絡してくれればいいのに」


「僕が食べたいわけじゃないんだ。それに、今は時間がないだろう」


「はいはい」

 



 気持ちが緩み、楽になっているところに、ミカがリビングへと戻ってくる。


 テーブルに置かれたのは、大きめの茶碗に盛られたお茶漬け。続いて漬物と一緒に、ひとつかみの氷が茶碗へ注がれる。


「食べやすくていいな」


「でしょ」


 そう言うと、ミカはまた台所へと引っ込んでいく。


「ミカは食べないのか」


「もういただいてしまって」



 ゆっくりと茶漬けをすする。ほのかな塩味に思わず笑みが浮かぶ、男のその様子を女は台所から見ていた。

 


 静かな夜の一軒家に、コトリと置かれた茶碗の音が響く。

 テレビのある壁の方角へ向き直って、男はそっと涙をこぼした。この姿は見せられない、いつも微笑みかけてくれる女に......


 リビングに背を向けたまま、女はシンクにうつむき静かに泣いた。この姿は、いつも頑張ってくれる男に見せられなかった。


 二人はあの頃の、涙をこらえてきた孤独な季節から抜け出した。そんな過去があったからこそ、二人は幸せだった。それはそうだろう、こうしていられることは、ある意味奇跡なのだから。




 もうすでに二人の生きる国は消え去り、家のあたり周辺は””に飲み込まれていた。

 生けとし生きる魂は皆、新世界へと泳ぎきっているのだろう。だが滅びの瞬間、涼やかな茶漬けをすすり、二人は幸福に涙を流した。その後その身に起こった不幸を知ることもなく。そうして、その瞬間をなんど繰り返すのだろうか。このまぼろしの一軒家の中で......




 誰か、判断できるのだろうか。


 その身に起こった真実を知ることが、果たして幸福なのだろうか。不幸なのだろうか。


 その瞬間を繰り返すことが、果たして喜ぶべきことなのか、悲しいことなのだろうか。


 流したその涙は、孤独ではない嬉しさなのか、孤独になれない哀しみなのだろうか。


 二人は世界から孤立したのか。それとも孤独ではないのか。


 そしていつしか全てを悟る時、二人は、有限だった幸福を悲しみ、影の落ちた泥のような、石のような海へと沈んでいくのだろうか。あるいは、その幸福を喜び、星空を見上げてまた泳ぎだすのだろうか。



 ......夏は、まだまだ続く。無限とも、有限ともわからないまま。

 それでも、二人は幸せだったのだ。

 



 .......お茶漬けが二人を繋ぎ止めた? それは面白い。

 ただ、誰も彼らにはなれない。それは、喜ぶべきか、悲しむべきなのだろうかわからないけど......。





【了】

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