その唄を眠らせて

 ボーオゥオゥ。

 早朝の空に低音が響く。それにつられて湊をふり返った瞬間に頭上が翳り、カマルは思わず悲鳴をあげた。前を行くファルハと、ラクダのフムが足を止める。

「あーあ、やったか」

 笑い含みの言葉と近付いてくる足音を、カマルは耳だけでとらえる。視界は一面ラクダ色。もう一頭のラクダ、ニフの背から崩れ落ちてきた荷を支えようとして、その太い胴に体ごとはりついている状態だ。精一杯伸ばした両手にも頭にも荷がもたれかかっているから、まったく身動きがとれない。

「広場までもたなかったなぁ」

 残念残念。軽い口調で言いながら、ファルハはそれを持ちあげる。ようやく解放されたカマルはぷはっと顔を上げ、それから崩れた荷をひょいひょいと直すファルハの手つきに、複雑な表情をした。

「……ゆるんできた気はしていたのだ」

 弁解のように言って、ちろりと目をそらす様子に、ファルハはひそかに笑う。今朝、ニフの荷造りをしたのはカマルだ。出発前に何度もやり直して、ようやく完成させたのに、宿を出て半分も進まないうちに崩れてしまった。そのうえいとも簡単に手直しされて。

 悔しくて申し訳なくて、やっぱり悔しいのだろう。眉と唇が、そんな気持ちで微妙な曲線を描いているのがおかしい。

「……歩きにくかっただろうな、おまえ」

 首を撫でながら言うカマルのこめかみに、ニフが大きな鼻を押しつける。気にするなとでも言うような仕草だ。近づけば威嚇か、容赦なく小突くかという険悪ぶりだった最初の頃が、今はもう懐かしい。とくにニフは、最近ではカマルがひとりで乗ってもまったく抵抗しなくなっている。ここ最近のカマルの頑張りを、彼らも認めているのだろう。

「ん、なんだファルハ?」

「いや、成長したなぁっと思ってさ」

 なぁと目で求めると、二頭も同意を示すように鼻を鳴らした。鼻孔がぱたりぱたりと開閉して、息が日よけのスカーフと前髪を揺らす。カマルはくすぐったそうに微笑んだ。端正な顔が、喜色に彩られてほのかに輝く。

「おう、いたいた。間に合った」

 聞き覚えのある声にふり返ると、明るい緑と赤の服が目に飛びこんできた。この五日間、同じ飯屋で毎昼毎夕と顔を合わせた老人だ。こちらを探していたらしい。会えてよかったと、油紙の包みをふたりに手渡す。

「今朝出発と言っとったろ。持っていきな」

 港の端の屋台で売っている総菜だ。市場に出せない小魚とヒヨコ豆をすり潰して丸めた揚げ物で、イルマンに来て以来、カマルはよくこれを食べていた。

「わざわざ、これを……?」

 受け取った包みからは、まだ湯気が立っている。覚えたてのイルマン語でたどたどしく礼を述べると、老人は皺だらけの黒い顔をさらにくしゃくしゃにして、カマルに手を差し出した。

 ぎこちなく応じた手の平に、硬い肉刺まめの感触。潮焼けで荒れた甲には、何度も皮がめくれた痕。長年水夫として働いてきた老人の手は、年季を重ねた革袋のようだ。

 カマルはもう、その手を汚らわしいとは思わない。

「優しい顔をするようになったな、あんた」

 老人に見送られ、再び歩き出してからファルハが言う。

「そういう顔してる方がいい」

 相変わらずのてらいない言い方には、今もやはり反応に困る。口の中を揚げ物でいっぱいにしてごまかすカマルの頭を、これもまた以前のようにニフが小突く。違うのは、長い睫の下で獣の目が笑っていること。カマルもお返しに叩き返すこと。それから、こうしてふざけている相手がニフだとわかることだ。

「カマル。ほら、門が見えてきたぞ」

 ファルハが前方を指さす。その隣にいる、上唇のめくれたひょうきんな顔が、フムだ。フムの方が少し大きい。フムは黒味がかった毛色で、ニフは水を吸った土のような茶色。二頭ともいたずら好きだが、ニフの方が少しだけのんびりしていて、フムの方がやんちゃだ。そんな区別が、いつのまにかつくようになっていた。

 そっと、隣を歩くニフに触れる。石造りの建物が落とす影と、朝とはいえ強い真夏の光が、やわらかい毛皮にくっきりとした影絵を描いている。背後を頑健な男が荷車を押して駆け去り、濃淡の絵が一瞬動いた。

 ボーオゥオゥ。低音がまた響いて、湊に船が着いたことを知らせる。町中どこにいてもわかるあの独特の音が、楽器ではなく人の発するものだと知ったときの驚きは今もまだ新しい。笛男ふえおとこという仕事だそうで、ところ変われば職種も変わると感心したものだ。

「そうだ、これ」

 立派な門まで着いたところで、ファルハは例の騒動以来取り上げたままだった短刀を、再びこちらに寄越した。

「持ってな。夏だから数は減るけど、帰りの沙漠はサソリが出る」

「……いいのか?」

「俺のこと刺さなきゃな」

 わざとらしく首を竦めてみせるファルハに、カマルも苦笑を返す。帯に柄を差すと、久方ぶりの重さと硬さを腰に感じた。

 大丈夫。使い方はもう間違えない。

 鐘が鳴り、門が開く。ニフの背に跨り、カマルは手綱を握り締めた。イルマンの町をふり返る。知りもせず野蛮な異郷と蔑んでいた町へ、今は謝罪と親しみを。

 それから視線をファルハへ。少し前を行く広い背中に、敬意と感謝を。

 心からの感謝を。

「さあて、泣く子の涙も干上がる真夏の旅のはじまりだ。覚悟しろよ、カマル」

「ああ」

 二頭のラクダが長い脚をゆるりと踏み出す。

 第四夏季シャアバーンの太陽は、無謀な旅人たちを嗤うように燃えていた。


 呼ばれた気がする。呼ばれている気がする。

 遠く離れたところから。記憶の奥底から。

「――…」

 ライラ、おまえなのか。

 わかっている、待っていて、すぐ行くから。

「――カマル!」

「っ!?」  

 やっと鼓膜の震えを感じて、カマルは我に返った。閉じかけていた目を開けたとたん、強烈な陽射しに襲われた。

 くらむ視界に一点、群青の塊。それが軽快な速さで近づいてくる。ああ、呼んでいたのは彼か。

 気づかぬうちにまた引き離されていたようだ。大丈夫かと問うファルハに詫びて、カマルはぎゅっと目を閉じ、開く。二、三度それを繰り返して、ようやく両目は正常な視界を取り戻した。

 白い。見渡すかぎり白い砂の海。遮るものは枯れ木一本なく、落ちる影さえ砂の隆起による、正真正銘の不毛の地。沙漠に覆われたこの地方でも、南東に横たわるこの白海原しろうなばらほど広大で乾いた土地はない。住む者はおらず、資源も見つからず、あまりの利用価値のなさから、付いた呼び名が無駄遣い《タブディール》だ。

「がんばれ。あそこまで行ったら休憩だ」

 指さす先に急勾配を認めて、カマルは頷く。夜明けから歩きだして、太陽はもうすぐ中天に届く。もっとも日の高くなる午後の時間は日避けの下での眠りにあて、日暮れから夜中まで、また歩く。

 往路とは違う歩みに戸惑ったのは最初だけで、四日経った今はその効率の良さを身体が実感している。これほど過酷な世界では、睡眠も前進も半日続けるのが限度なのだ。

 ニフの首につけてある皮袋から、アロエを出して薄く切る。新たに表れた水気のある断面を瞼と唇に押し当てて、カマルはラクダを促した。長い脚がゆらりと動きだす。暑さにも、日に何度もぼんやりと手綱を取るのを忘れる乗り手にも、ニフは不満を見せない。

 辛抱強い獣の背を、そっと撫でる。そんなカマルをときどきふり返りながら進むファルハの首筋には、塩の粒が見える。自分だけが辛いわけではない。そのうえファルハが往路のように海岸線を迂回せず、あえて沙漠のみちを選んだのはカマルのためなのだ。

『永遠の放浪者ガジャルラサン』を探すために。

 遠くを仰ぐ。砂の連なりは茫漠ぼうばくとして限りなく、烈日れつじつに焼かれた地平は色褪せ、生命の気配はどこにもない。

 こんな場所に囚われるのは、どれほど孤独だろう。

「……待ってて、くれ」

 囁きは乾いた風に掻き消え、呟いたカマル自身にも届かない。代わりに耳の横に垂らした飾り帯が、応えるように小さく揺れた。

 

 美声が途切れて、カマルは手拍子を拍手に変えた。喝采を受けたファルハが、おどけた礼をしてみせる。

「ラクダと狼では、ラクダの方が賢いのか」

「ずる賢いんだよ。処世に長けてるんだ。っと違う違うフム、褒めてるんだって」

 後ろからターバンを齧られて、ファルハは慌てて弁明する。狼は単純なのだなと、カマルも背もたれ代わりにしているニフを撫でた。

「じゃあ次はあんたの番だ」

 砂の上に転がるナツメヤシの実をひとつ取りあげ、ファルハが言う。今度はどんな話を聞かせてくれるのだと、その目が子どものように輝いている。好奇心たっぷりな青年の様子に、カマルは苦笑しながら口を開く。

 月夜唄サマル・シャハルをしよう。

 ファルハがそう持ちかけてきたのは、沙漠に出た最初の晩だった。それは互いに知っている唄物語を披露し、ひとつ唄うごとにナツメヤシの実をひとつ食べるというだけの、簡単な眠気覚ましだ。元は商隊キャラバンの見張りたちがはじめたことで、夜が明ける前にナツメヤシを食べ終わってしまったら、それまで唄ったどの物語より不思議なことが起きるといわれているらしい。

 まあそれは眉つばだろう。そう笑い飛ばしたファルハが、それでも毎晩こんな遊びをしてくれるのもやはり、夜の沙漠に探し人をしているカマルのためだ。

 だからせめて感謝の証になればと、カマルは今夜も数少ない持ち唄をせいいっぱい唄いあげる。

「へーぇ、面白い話だなっ」

 口を閉じたとたん、盛大な拍手と感想が届けられた。

「さっきの羽が生えた人の話も面白かったけど、この話もいいなぁ。かぶると姿が見えなくなる上着なんて、あったら便利だよなぁ」

 あまり感心されると、少々むずがゆい。遠い昔に母から習った唄なのだが、久しぶりに歌ったら音を外すわ詞はうろ覚えだわ、お世辞にも聞き心地の良い出来とはいえなかった。

「そりゃ謙遜だ。あんた、いい声してるよ」

「よしてくれ。おまえにそんなことを言われると困る」

 ぶっきらぼうに言って、カマルはナツメヤシを摘まんで口に放りこんだ。

「俺の番だな、よぅし」

 今度ファルハが語るのは冒険譚。次々と襲いかかる不思議と困難を、見習い水夫の少年が乗り越えていく話だ。堂々とした語り口に思わず心が躍る。さすがと手を叩くと、まんざらでもない笑顔が返った。

「前から気になっていたのだが、おまえたちの一族には、唄を教える師がいるのか?」

「いないいない、そんなもん。親や年長の子たちが唄ってるのを聞いて、自然に覚えていくんだよ」

 行商や遊牧で生きる者たちにとって、唄は最上の伝達手段だ。元々は血の織物(ダムトゥーブ)の文様や掟を伝えるためだったそれが、今ではもっと情緒的な部分で一族を繋いでいる。遊び唄や恋唄、ささいな日常を綴った小唄まで、知っている唄の種類と数が、自身と家族とのつながりなのだ。

「うちの母さんは、なかでもとびきり唄が好きだったからなぁ。それこそ寝ているときと食べているとき以外は唄ってるくらいの」

 山羊の面倒見ながら唄い、洗濯をしながら唄い、織物を織りながら唄い……病の床についてからも、調子の良いときは枕辺で看病する子らをあやすように唄っていた。

「母上は……病で?」

「ああ。十歳のときに。友人の多い人でね、最期のときには天幕の周りを大勢の人が囲んで、俺たち家族と一緒にお別れを唄ったよ」

 ファルハの母にふさわしい話だ。思ったままを口にすると、精悍な顔に照れたような笑みが浮かぶ。

「まぁ楽天家なところは、一番似てるって言われるよ」

「唄が好きなところも、ではないのか」

「俺くらい、一族じゃ普通な方さ。二番目の兄貴や姉貴たちなんか、もっとよく唄うよ」

 そうか、と頷きかけて引っかかる。二番目ということは、少なくとも二人以上兄がいるのか。そして姉貴「たち」ということは?

「おまえは何人家族なのだ?」

「え? どこまで数に入れればいい?」

「ま、待てっ。きょうだいの数だけでいい」

 だったら自分を入れて八人だと、それでも驚異的な数が返ってきた。思わず「八!?」とすっとんきょうな声を上げてしまう。

「そ、それはその、全員同じ母上なのか?」

「もちろん、唄織りのルジュムズィカは重婚しない。男の器は、ひとりの女をどこまで幸せにできるかで決まるもんなのさ」

 それはカマルの知っている常識とはまったく違っていたが、だからこそ素晴らしい考え方に思えた。

「おまえの母上は、幸せ者だな」

「うん、まあ、そうかな。でも親父も親父でべた惚れだったから、幸せなのはお互い様ってやつだよ。いつまでも恋人気分の抜けない人たちで、人前でも平気で『瞳のヌーゥルアィーニャ』なんて呼んじゃってさ」

「『瞳の光』?」

「『愛しい人』『大切な人』『生きていくための光』……そういう、唄に使うような口説き文句だよ。親父につられてみんながアイーニャって呼ぶから、俺なんか母さんの元の名前を知らないんだぜ?」

 それにまた驚いたが、どうやら彼ら一族では、呼びやすいあだ名が本名にとって代わることも珍しくはないらしい。母の方でも新しい呼び名を気に入っていたのだろう。外から来た者だから、沙漠の民の名が嬉しかったのかもしれない。そこまで言って、ファルハはふと目元を和ませる。

「たぶん、俺の母さんも西の血を引いていたと思う。あんたと同じ、きれいな白銀の髪に紫の瞳だったから」

 カマルは三度みたび驚く。

「だから呪いではないと、最初から……?」

「ああ、それもある。見た目が珍しいだけなら、もっと珍しい人の話を親父からも聞いていたしな」

 その中には父の経験だけではなく、彼の父や叔父から聞いた話もあった。さらに彼らもまた、それぞれの商いの師である親や親戚から話を受け継いできた。大勢の口を経た話は膨らんだり歪んだりすることもあるが、知恵でもあるのだ。

 そう語るファルハが眩しくて、カマルは思わず目を細める。受け継いだ言葉を活かしていけるのは、親を尊敬しているからだろう。

「……ファルハもきっと、良い父になるな」

 そんな風に褒めると、ファルハはくすぐったそうな顔をした。

「どうかな。なれればいいけど」

「なれるだろう。子どもも好きだろう?」

「まあ、普通かな。姪や甥の世話は好きだけど、俺って歳の離れた末っ子で、甘やかされて育ったからなあ」

「なに、末っ子なのか?」

 それも意外だが、甘やかされて育ったというのも意外だ。それとも愛情を全身に浴びて育ったから、カマルのような者にまで優しくできるのだろうか。

「うん。俺たちはだいたい、十五歳くらいで独り立ちするんだ。兄姉たちは十歳から仕事の手伝いをはじめたけど、俺はその年にちょうど母さんを亡くしたからな。みんなに憐れまれて、十二歳まで子どもの扱いだったよ」

「では独り立ちも遅れたのか?」

「いや、それはちゃんと十五で……あれ? それって五年かけて覚えることを、三年で詰めこまれたってことか? 兄貴たちが言うよりしんどかったのって、それまで甘やかされてきたせいじゃなく?」

 意外な鈍さを披露したファルハに、カマルは吹き出した。こういうのんびりしたところも、愛されて育った証なのだろう。けれどそこにはひたすら頭を撫でるだけではなく、脆い砂の上でもひとりでしっかりと立つための術を教えこむ厳しさも含まれているのだ。

 本当に、なんと自分と違うのだろう。

「ああ、カマル。次で最後な」

 唐突にそう言われ、そろそろ次の唄をはじめようかとしていたカマルは、開きかけた口をぱくりと閉じた。ひとつを残し、ファルハがナツメヤシの実を籠に戻す。気がつけば、月はもうずいぶん西に傾いていた。

「そうだな。これが最後だ……」

 いくらなんでも徹夜で『永遠の放浪者ガジャルラサン』を待つわけにはいかない。気持ちはどうあれ、一睡もせずに明日も歩けるほど易い土地ではないことくらいは、カマルももうわかっている。

「……」

 ぽつんと転がった実を、指先でもてあそぶ。黒にも見えるそれが、本当は濃い琥珀色だとわかるほどに、あたりは明るい。満月なのだ。光をたたえた天空の銀盆に背を向け、カマルは少しの間、考える。

「どうした?」

「うん。……おまえにきちんと礼を言ったことがなかったなと思って」

 隻眼が瞬く。礼を言われる覚えがないのだろう。それがあまりに彼らしくて、自然と笑みが浮かぶ。

「私は、ナツメヤシの味が好きだ」

 なんとなく思いついて、言ってみる。干した実は口に含んでやわらかくすると、生のものよりねっとりとした食感が増す。けっこう癖になる感じで、好きだと思う。ラクダのミルクのスープも羊の干し肉も、イルマンで食べた総菜も。最初にファルハと囲んだ夕食も、すべて好きだった。楽しかった。あいかわらず味はよくわからないのに、美味しいような気がしていた。

 なぜなのかは、考えなくてもわかる。

「ありがとう」

 心をこめて、カマルは言った。

「ずっと、連れてきてくれるならどんな人間でもよかった。だが今は、おまえでよかったと思っている。他の誰でもなく、おまえに会えたことを幸運だと思う」

 本当に、本当にそう思う。彼の存在はきっと、カマルに与えられた最期の慈悲なのだ。

「ありがとう、ファルハ。私と出会ってくれて」

「な…んだよ、どうしたんだ、いきなり」

 ぱちぱちと忙しなく瞬きをくり返し、ファルハはぎこちなく言う。

「そんな、お別れの挨拶みたいな言い方するなって。びっくりするだろ」

 だが本当は、どうしてカマルがこんな物言いをしたのかわからないわけではないだろう。『永遠の放浪者ガジャルラサン』が本当に現れるのか、現れたときいったいなにが起きるのか、カマル自身も確信は持てない。けれどひとつだけ、はっきりしていることがある。

 呪いが解けたら、カマルは――

「どうするんだ?」

「――えっ?」

 我に返って聞き返すと、だから、とファルハが笑った。

「呪いが解けたら、どうするんだ、って。やりたいこととかあるのか?」

「え、あ、そうだな……」

 突然の問いに戸惑って、カマルは視線を泳がせた。考えていないと答えると、ファルハはうーんと腕組みをした。

「どこか落ち着ける土地があるといいよな。呪いが解けても、髪の色はそのままなんだから、アデラーダ教の国じゃない方がいい」

 いっそ西の大陸まで行ってみるか。雪が降るという、母親の故郷を目指してみようか。

「お代は出世払いでいいからさ」

「……そうだな」

 からりと笑うファルハに、カマルは懸命に笑顔を返す。涙が出ないだけで、本当はもう自分は泣いているのかもしれない。そう思いながら、唇だけなんとか笑みの形を作る。

「なんならこのまま俺に弟子入りするか?」

「沙漠のサフラーウィに?」

「そうそう。色々教えてやるぞ?」

「………それもいいな」

 もしもできるなら。

「おまえの唄を覚えるのは、楽しそうだ」

「崩れてこない荷の積み方が先だろ」

 ブゴフンッとラクダたちが鳴いた。間合いの良さに、ふたりは揃って吹き出した。

 しばらく腹を抱えて、心から笑って。

 それからカマルは言った。

「最後の唄を、唄うよ」

 息を吸いこむ。夜気が、緊張している喉を撫でて胸に集まる。

 最初の音は震えてしまったけれど、その唄がもたらしたのは懐かしさだけだった。


 銀の沙漠を ゆらゆらり 

 ラクダの舟が 参ります

 舟の上には金の甕 

 王子と姫がおわします

 藍の空から月だけがふたりの姿見ています

 藍の空から月だけがふたりの幸せ祈ります


 たったこれだけのささやかな端唄はうたに、カマルは万感の思いをこめる。

 妹の作った唄だ。そう言うと、ファルハが目を瞠った。

「あの子も唄を作るのが好きだったんだ。これは最後の旅をしているときに作って……」

 そして作りかけのままになってしまった。

 この唄を知っているのは、カマルだけだ。

「っ…カマル、俺は」

 なにかを言おうとファルハの口が開かれる。

 けれど続きを聞くより先に、カマルはその気配に気づいてしまった。


「………え?」

 視線を追ってファルハも気づく。

 人がいた。

 砂の稜線の向こう、ひときわ小高い丘の上を、いつのまにかたくさんの人が歩いていた。月光を浴びて身に纏う衣が銀色に輝く。

 いや、服ではない。彼ら自身が発光しているのだ。遠目にも明らかに人とわかる姿でありながらその輪郭は曖昧で、ところどころに背後の夜が透けている。

「…――『永遠の放浪者ガジャルラサン』――?」

 ファルハが呟くのと、カマルが立ちあがるのが、ほぼ同時。

「ファルハ。忘れないでくれ、あの唄を」

 呆然としているファルハに微笑み、告げる。

「おまえに覚えていてほしいんだ」

「待っ」

 ほんの一拍、その差で捕まえそこねた。

「カマル!」

 鮮やかな青を翻し、カマルは砂を蹴立てて駆けていく。日よけ布が脱げてひらめき、髪が、月光と同じ銀髪があらわになる。

「カマルッ!」

 後を追ってファルハも走り出す。砂にめりこむ足がもつれる。体格では勝っているはずなのに、先んじた少年に今一歩追いつかない。

「カマル、待てカマル!」

 制止の声はもはやカマルには届いていない。その耳が聞いているのは、あの夜の悲鳴だ。その目が見ているのは、あの夜の光景だ。

「ライラ!」

 転がるように走りながら叫ぶ。何十年ぶりにおまえを呼ぶのだろう。どれだけ待たせてしまったのだろう。

 アルフライラ。ライラ。誰もが忌み嫌う呪われた兄に唯一、優しかった娘。たくさんの花に甘い菓子にその笑顔。おまえはいつもぬくもりをくれた。優しいおまえ。母を失って、愛すべき相手も守るべき相手も、愛してくれる相手もおまえだけだったのに。

 逃げてしまった。

 おまえを置いて。

 ――兄さん

 あの夜。ラクダが突然倒れ、甕ごと砂丘を転げ落ちた。なにが起きたのかわからず這い出たカマルが見たものは、盗賊に襲われて逃げ惑う人々の姿だった。

 薄布がひらめき、白刃がきらめく。月光を背に、砂丘の上の光景はまるで人形劇のようで、呆けたように見ていたカマルが我に返ったのは、か細い悲鳴が聞こえたからだった。

 ――兄さん、兄さん、兄さん、どこ?

 助けに行かなければならなかった。敵わなくても立ち向かわなくてはならなかった。あの子しかあの子の側にしか生きていける場所なんてなかったのに。

 ――兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん

 わかってるライラ、もう逃げない。

「今度こそ助けるからっ!」

 まろびながらカマルが短刀を引き抜く。刃が月光を反射する。その白い光、あおのいた白い喉にファルハは戦慄した。

 神に嫌われるほどの罪、亡霊になった妹、呪いを解く方法、神に許される方法、あるべき姿。

 ――『永遠の放浪者ガジャルラサン』は生者を。

「おまえの代わりに私が!」

「やめろーッ!」

 刃の振り下ろされる瞬間、ファルハは渾身の力で砂を蹴った。交差する叫びとともに、ふたつの影がもつれあい砂丘を転げ落ちる。

「よせ!」

 手放してしまった短刀に、カマルはなおもとりすがろうとする。砂上を這う細い身体を、ファルハは羽交い絞めにした。

「離せ! やらせてくれ!」

「ッ、できるかっっ!」

 振り回される腕が、何度も顔に当たる。どこに力を隠していたのか、めちゃくちゃに暴れる身体は少しでも気を抜くと拘束を外してしまいそうだ。

「ライラ! ライラ、ライラ、ライラ!」 

 去りゆこうとする亡霊の列へとカマルは腕を伸ばす。空を掻くその手までを、ファルハは必死で押さえる。

「呼ぶな、あれはあんたの妹さんじゃない」

「待ってくれ、ライラ! 助けに来たんだ! 行かないで! 私を許してくれっっ!」

「頼むカマル、話を――ッ!?」 

 言いかけたファルハは、異様な気配を感じて息を呑んだ。ひゅ、と、叫んでいたカマルが喉を鳴らす。

 すぐ目の前に『永遠の放浪者ガジャルラサン』がいた。

「……っ」

 いつのまに近づいてきたのだろう。間近で見るそれには、目も鼻も口もなかった。

 輪郭だけが人の形。しかしその曖昧さが、こちらの気持ちをひどく不安にさせる。

「――駄目だ」

 カマルがなにか言う前に、ファルハはその口を覆った。再び手を伸ばさぬよう、腕の中に閉じこめる。

「駄目だ。この人はやれない」

 じる喉を叱咤して告げる。腕に力をこめると、抱いている身体も自分と同じように震えていることがわかった。カチカチと歯が鳴る音もする。彼のその怯えに気を奮い立たせ、ファルハはまっすぐに亡霊を見る。

 頼りない光の人形ひとがたは、頭の部分をゆらりゆらりと左右交互に傾けている。幼子がするようなその仕草は、どこか滑稽に感じられた。

「すまない。どこかの誰か。あんたが安らげる日を、祈っている」

 ゆらり、ゆらりと。

 亡霊はしばらくそこに佇んでいたが、やがて向きを変え、音もなく遠ざかっていった。

 ファルハは安堵の息をつく。腕の力を弱めたとたん、カマルの身体がずるずると砂上に崩れた。

「…っああ……あああああぁ」

 動けなかった。ファルハのせいではない。怖くて怖くて、カマルは動けなかったのだ。

 広い胸が自分の背中を受け止めてくれる。そのあたたかさが恨めしい、嬉しい、苦しい。刃を振り上げたあのときまでは、たしかに死ぬつもりだったのに。

「カマル……」

 あやすように頭を撫でていたファルハが、すうと息を吸いこむのがわかった。そして。

 次の瞬間、カマルは耳を疑った。


 砂の海原 月の姫

 旅の男と 逢いました

 姫と男はお互いの 

 瞳の光となりました 

 

 詞が違う。曲の調子が違う。

 けれどこれはたしかに、妹の唄だ。

 わけがわからず、カマルは肩越しにファルハをふり返る。甘い低音を響かせる喉から、恋の詞を紡ぐ唇へ。鼻筋をたどって見上げたそのに、息が止まった。

 右は見慣れた、穏やかな黒。

 左は。ターバンの下から現れた左の目は、紫。

「……薄い色の目って、太陽に弱いからな」

 視線に気づいたファルハが、色の違う両の目を細める。左の視力だけ少し弱いから、こうしておかないと右目もひきずられるのだと、あまりにいつもどおり話すから、これが現実なのか夢なのかわからなくなる。

「ど、う、して……?」

「俺も思ったよ。どうしてあんたが、母さんの唄を知っているんだろうって」

「……かあさん?」

 白い喉がひくりと震えた。ファルハはカマルの小さな身体を反転させる。月光の下で向かい合うのは、同じ色の瞳。

「理由はひとつだよな」

 片方の紫が微笑む。

「俺の母さんが、あんたの妹さんなんだよ」

 めまいが、した。

「俺が唄ったのは、うちの両親ののろけ話さ。若い頃の親父が、沙漠できれいな銀髪のお姫様を助けたんだ。とてもひどい思いをしたせいで、その人は言葉も過去も失くしていた」

 行くあてのないその娘を、男は親身になって世話した。娘はゆっくりと彼らの言葉を覚え、仕事を覚え、やがて男の妻になったのだ。

「それからはさっき話したとおり。子どもを八人育てて、山羊の世話して織物して、まるまる太った普通のおばさんになったよ。そうしていつも、にこにこ唄ってた。笑った顔は、カマル、あんたと似ていた。……でもまさかこんなことがあるなんてな」

 まさしく月夜唄サマル・シャハルだ。最後にこんな不思議なことが起きた。そう言って笑うファルハの顔が揺れた。視界が揺れた。カマルの眩暈は治まらない。

「け、けれど、ライラは、あの子の髪は」

「うん。だから、それも失ったもののひとつだったんだな」

 記憶と言葉と、髪の色。妹まで『呪われた物乞い《シャハトラァン》』になっていたのかと、絶望を覚えるカマルをファルハは否定する。

「そんな言葉を使わないでくれ。あの人の、なにが罪だっていうんだ。昔どんな辛いことがあったとしても、母さんはよく笑う人だった。あんな風に笑う人を呪う神様なんか、俺はいらない。あの人が幸せじゃなかったはずがない」

 カマルは砂の上に手をついた。なぜだろう、力強い言葉を聞けば聞くほど胸の中に絶望が広がっていく。

 気持ちを持てあましてうろうろと視線を彷徨わせると、はるか砂丘の向こう、消え入ろうとする亡霊たちの隊列が見えた。

 夜に溶けこんでいく銀色が、ひどく儚い。

「……行きたくないって思ったんだろ?」

 囁きが、背を撫でた。

「そう思ってくれて、よかった」

「……そんなこと…っ」

 激しくかぶりを振り、両の手を握り締める。砂は指の間からさらさらと逃げていくばかりで残らない。残らない。

「……じゃあどうしたらいいんだ」

 途方に暮れた呟きがこぼれる。妹の代わりに『永遠の放浪者ガジャルラサン』になれば許されると、この呪いから解放されると思っていた。なのにこれからもまだ続くのか。

「やっと終わりにできると思ったのに」

「それじゃなんの救いにもならないだろ」

 少しばかり呆れたような溜息が降ってきた。

「あのなカマル、やっぱり呪いなんかないよ。そこにあんたを捕えているのは、あんた自身だろう?」

 そう言ってファルハはカマルの頬を両手で包み、上を向かせた。黒と紫。妹の瞳と、妹を幸せにした男の瞳が、同時にこちらを覗きこんでくる。

「あの唄の最後はこうだよ。

 『風よ いつかこの手紙

  月夜の迷子に届けておくれ

  哀しい唄を眠らせて

  夜明けの光に微笑んで』

 ……これは、あんたに向けた唄だったんだ」

 はっとするカマルに、ファルハは微笑みながら言う。母の記憶がいつからか戻っていたのか、それとも思いついたまま唄っただけで、本人にもよくわからなかったのか。それを知る術はもうない。それでもこれは、カマルに向けた手紙だ、と。

「なあ、本当に神様がいて、おまえの罪を許すと言っても、きっとあんたは救われないよ。自分のしたことは、生きてるかぎりずっと付いて回る。何度も思い出して、苦しむことになる。……だけどこの唄は、あんたの生きるよすがにならないかな」

 少し硬い指先が、頬の砂粒を払う。

「こんな俺の言葉も、届かないかな」

「……ファルハ…ッ」

「うん。『ファルハ』。風に乗って、あんたに手紙を届けに来た鳥だよ。……小さな俺の、叔父上殿」

 縋るように手を伸ばした手を、頬を払ってくれた手が握ってくれた。

「なあ、どうしたらいいかなんてさ、そのうちわかると思うよ、俺は」

「……そのうち?」

「そう。辛くてもしんどくても、生きていれば、そのうち。だから、ほら」

 ぐいと手を引かれて、カマルは前のめりになる。慌てて片足を立てると、思いのほか強い力がそこに宿った。

 砂を踏みしめて立ちあがる。顔を上げればそこに、ファルハの笑顔が待っていた。

「行こうよ」

 こみ上げるなにかで視界がぼやける。瞬きするとそれは揺れてこぼれて、光の粒になって頬を流れ落ちていった。


 ふらふらになってラクダたちの待つ野営地に戻り、明け方まで少し眠った。そして、いつもどおりの時間に叩き起こされた。

「ほら動くぞ。立った立った」

 急かされるままに支度をする。突然なにかで視界が翳って、見上げると昨晩落としてしまった日よけ布をファルハがかぶせていた。飾り帯を結び直す、相変わらずの器用な手をカマルはぼんやりと眺める。少し寝たせいで、夢を見ていたような気がしている。自分に都合の良い、不思議な夜の夢を。

 そんな思考を読んだかのように、これさ、とファルハが結んだ紐の先を、カマルの目の前に持ってくる。

「母さんが編んだんだよ。全部で十本」

 兄弟八人と父親の分。残り一本は母本人が持っていて、今は父親のところにある。

「それ、貰いに行こうな」

「え?」

「一番上の兄貴の山羊たちが、西の秋営地に来る頃だ。親父も一緒に来るから」

「ま、待て」

 カマルは慌ててファルハを遮る。

「その、父上殿のところにあるのは……妹の形見なわけだろう? も、貰う、とは」

「いや。あれはあんたの分だよ」

 さも当然のように、ファルハは言う。

「母さん、一度もあれを結んだり縛ったりに使わなかった。大事にしまってた」

 だからそれもきっと、カマルのためのものだ。あの唄を届けたかった相手が、そうだったように。

「……そう、か…」

「まあ今までは、もう一人作る予定だったんじゃないかと思ってたわけなんだがな」

「そ、そうか……」

「でも今はわかるよ、あんたのだ」

 きっぱりと告げる声。現実だ、夢じゃない。ようやく確信が持てたそのとき。

 ぐぅお。

 奇妙な音がした。カマルの、腹から。

「……え」

 恐る恐る見下ろした腹部からまた、ぐぅお。不機嫌なラクダが唸っているような音に、カマルはぱちくりしながら腹に手をやる。なんだろう、なんだか苦しいような心もとないような感じがする。

 思わずファルハを振り仰ぐと、目があった瞬間、彼は思いきり吹き出した。

「ぶっは!」

 長い身体を折り曲げ肩を揺らし、涙まで浮かべて大爆笑だ。なにがそんなに面白いのか。

「あっはっは、あんた、自分の腹の、虫に、そんな…っ、びっくり顔……はははっ!」

「……は、腹の、虫……?」

「久しぶりの出番で、はりきりすぎたんだろ。ははっ、いい音だったな!」

 笑うだけ笑ったファルハは、あらためて自分の腹をさすっているカマルに、干し肉とサボテンの実を投げてよこした。ラクダの上で食べなと言う。

「日が高くなる前に動こう。町に着いたらすぐ荷卸しをして、それから宿屋で乾杯だ。俺は黒麦酒ビールで、あんたはミントのたっぷり入った紅茶で」

 今度の食事は前よりもっと美味いはずだ。存分に腹を満たしたら、その後で帰ろう、家族の元へ。

「あんたを早く皆に会わせたい。親父はまだまだ元気でのろけ話も健在だよ。上の兄姉はもういい歳で、姪甥たちはときどき生意気ですごく可愛いんだ」

 母さんの育てた山羊の孫の孫も見せたい。母さんの編んだ祭りの衣装や、今は甥が着ているファルハの子どものころの服、母さんの好きだった景色も見せたい。母さんの作った唄も、もっと聞かせたい。

 それこそ唄のような言葉に、カマルの瞳にまた水の膜が張る。

「おっと、だけどこれからは今までより厳しくいくぞ。まずは荷の積み方とラクダの乳搾りを完璧に覚えてもらわなきゃな」

「……難しそうだ」

「なに、そのうちできるようになるさ」

 ファルハが安請け合いをする。そうだなと、濡れた目尻を瞬きで乾かし、カマルは頷く。ゆっくり覚えていこう。荷の積み方に乳搾り、いつかは仕入れの仕方まで。町の食堂で乾杯をして、沙漠の夜は火を囲んで、何度も朝を迎えよう。

 そうやって、生きていこう。たくさんの唄を紡いでいこう。

「さあ、出発だ」

 ファルハの肩越しに太陽が昇り、少しずつ夜が払拭されていく。

 ラクダに跨り、カマルはふり返った。風紋鮮やかな砂の海に残る、ふたつの足跡をしばし眺める。

 風が吹き、波模様ごとそれをさらっていった。なにもなくなった白海原は光を吸いこみ、ほのかな薔薇色へ、それからゆっくりと金色に変わっていく。

 先を行くファルハが名前を呼んだ。カマルはラクダを促し、彼を追いかける。夜の名残の消えうせた砂丘に、背を向けて。

 微笑みを浮かべるその顔は、朝の光を浴びて輝いていた。


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風の手紙に眠る唄 たつみや @tatumiyan

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