暗い夜の告白

 湯気の立ったカップが差し出された。受け取るとすぐに顔を背けられ、カマルは今日も話しかけるきっかけを攫めなかった。

 言いそこねた礼を、カップの中身とともに呑みこむ。ラクダのミルクに干し肉と香草を入れて、岩塩で味付けしただけのスープだ。数日前までは素朴な旨味を感じていたはずなのに、今はなんの味もしない。そして、互いがスープをすする音以外、聞こえるものもなにもない。

 トゥヌ人たちを故郷に送り届けてから、ファルハはまともに話しかけてこなくなった。必要なことだけは伝えてくれるが、しごく簡潔な言葉を硬い表情で投げた後、こちらの返事を受け取ることなくさっきのように顔をそむけられてしまう。

 仕事も言いつけられなくなった。それまで頼まれていたラクダの餌やりや糞の回収はもちろん、かまどを作るための石や枯れ枝を集めるという簡単な仕事さえ、ファルハが自分でやってしまう。前はかまどの作り方なども教えてくれたのに、これでは雑用係どころかただのお客さんだ。

 いや、ファルハは客を相手にむっつりと黙りこんだりはしない。では今の自分はなんだろう。彼にくっついて回る、羽虫のようなものか。

「……」

 心の中でとはいえ、自分を虫に喩えたことでカマルはひどく嫌な気分になった。そうして思い出す。砂喰い虫などと呼んでしまったことを。そう呼ばれたときの、ファルハの表情を。

 潅木の葉でカップを拭って片付ける。ファルハはラクダに寄りかかり、硬い枝でかまどをいじっている。小さくした火に虫避け草をかぶせて、おきを作っているのだ。朝までこうしておくと、サソリなどの毒虫が近づいてこないという。

 そういう仕事こそ自分がやるべきだと思う。だが一度申し出てあっさり断られてしまって以来、もう勇気がなくなってしまった。だからカマルは図々しくも先に横になり、毛布をかぶる。だがすぐに眠りにつくことはできず、今夜も燻る赤に照らされたファルハの顔を盗み見るのだ。

 こうして眺めているだけになってみると、ファルハの手際の良さがよくわかる。物慣れないカマルが手伝いっていたときより、むしろ何をやるにも彼ひとりの方が早いくらいだ。

 つまり旅のはじめに彼が言った、雑用係を探していたという言葉自体がそもそも、カマルを連れて来てくれる口実だったということだろう。そしてこんな風になってしまった今も、ファルハは決してカマルを邪険に扱いはしないのだ。ラクダの上で姿勢を崩せば支え、補給に寄った町で道を外れそうになると腕を引いてくれる。水も食べ物も、必ず自分より先にカマルに渡してくれる。

 放り出されてもおかしくないことをしたという自覚はあるので、彼のそんな態度はありがたいものであるはずだった。だがカマルは辛い。これまでなにげなく与えられてきた思いやりに満ちた軽口が恋しい。あの明るい笑顔と唄を失ってしまったことが、ひどく身に堪える。

 乾いた砂に体温を奪われて、カマルは身震いした。灼熱の昼から一転、沙漠の夜は寒いのだ。厚手の毛布を巻きつけ、身を縮める。そんな一挙一動で沈黙を乱してしまうことが嫌で、息を殺す。

 衣擦れの音や息づかいこんなに気になるのは、静かすぎるからだ。ファルハの唄が聞こえない。ほんの少し前までは、いつだってここにあったのに。昼はラクダを操りながらたわいない端唄はうたを口ずさみ、夜は客に請われて珍談奇談、ほほえましい佳話など紡いでみせた。周りに他の旅人がいれば、彼らもその唄声に引き寄せられ、一行は焚火を囲んで眠る前のひとときを楽しんでいたものだ。さすが唄織りのルジュムズィカとやんやの喝采を受け、誇らしげに笑う顔は月のない夜でも眩しかった。

 けれどカマルと一緒にいる間に、ファルハが唄うことはもうないだろう。

 木の爆ぜる音が鼓膜を打った。天には切り傷のように細い月しかなく、とろとろとした熾き火に引き立てられた闇がいっそう重い。ぎゅっと目をつむり首をすくめて、カマルは毛布に顔を埋める。

 ――唄が聞こえる。

 ファルハのものではない。耳の奥、記憶の奥底からやってくる唄だ。懐かしいその唄は、愛しさとともに呵責の念を蘇らせる。哀しい旋律に苛まれ、カマルはさらに身を硬くする。

 ――、と。

 叫びそうになったところで、名を呼ばれた。

「カマル!」

 我に返ると、ファルハがこちらを覗きこんでいた。

「どうした、寒いのか?」

「……え?」

「震えてるだろう?」

 大きな手が伸びてきて、一瞬怯む。だが額に触れる仕草はとても優しくて、かえってカマルを動揺させた。

「熱はないみたいだな」

 そう呟いて、ファルハは自分の毛布をこちらに寄越す。

「これでも寒いようなら、こっちに来てラクダの側で寝るといい」

「……私の心配を、しているのか……?」

 そうとしか思えず尋ねると、しかめっ面が返った。

「連れの具合が悪そうだったら普通、心配するだろ。たとえ喧嘩中でもな」

「け、喧嘩……?」

 戸惑うカマルを怪訝そうに見て、ファルハは渋い顔のまま「喧嘩したじゃないか」と言う。

「なかったことになんかしないぞ。あんたはまだ俺に、弁解すらしていないんだから」

 彼はなんの話をしているのだろう。いよいよ動揺を深めたカマルは、焚火の向こうへ戻ろうとするファルハの服の裾を、とっさに掴んでしまった。

「べ、弁解、を……」

 振り払われたらどうしよう。焦りで舌がもつれる。

「弁解を……したら、どう、なるのだ……?」

 やっとのことで、そこまで言う。あれだけ怒らせてしまった後では、なにを言っても無意味ではないのか。

「……あんたが弁解をしたら、俺は考えるよ」

 眉間のしわを消して、ファルハが言う。

「考えて、あんたが怒った理由に納得がいったら……俺の考えを伝えて、お互いの悪かったところを反省し合って、仲直りができる」

 そんなことが、できるのか。信じられない思いで見上げるカマルに、手が差し伸べられる。

「なにか俺に、言いたいことがあるか?」

「――っっ」

 必死で頷き、縋りつくように手を取った。強い力が身を起こすのを助けてくれて、そのまま二人で焚火を回り込む。

 ラクダにもたれて座ったら、背中越しにその体温が伝わってきた。少しだけ緊張がとける。そうして窒息しそうなほど苦しかった喉から、吐息とともに言葉がぽろりとこぼれた。

「……知らなかったんだ」

 それは本当にいまさらの言葉。けれどあの日、ファルハに返し損ねてからずっと喉につかえていた言葉だった。

「お、おまえの言ったことが、正しい。私は……私の受けた教育はとても、古いもので……聖典だけが唯一正しく、異教徒は皆、悪だと。……特に、黒い肌の民は、神をも畏れぬ野蛮で恐ろしい者たちだと……」

「……あんたはそれほど熱心に、アデーラ女神を信じているのかい?」

 自分に呪いをかけた神なのに。そんな言葉がこめられた問いに、カマルは少し迷ってから頷き、その後で「わからない」と呟いた。

「信じている、というのは……違うかもしれない。ただ、そう教えられて、疑ったことはなかった……」

「……それも、信仰っていうのかもな」

 難しそうな顔で呟き、ファルハは襟足を掻いた。そして言いにくそうに言葉を続ける。

「そういうことをあんたに教えたのは、親父さんかい?」

「いや、父が雇った神官だ」

 顔は覚えていないが、ひどく年を取った男だった。その男に教えられたことだけが、カマルの知識だった。

「神官を教師に雇えるなんて、やっぱり裕福な家の出だったんだな」

「……そうだな。だが、もうない」

 ファルハの顔が曇る。行方を聞かれて、カマルは首を横に振った。

「父と、大勢いた腹違いの兄弟姉妹は、どうなったかわからない。一緒にいた母は私が十の年に………妹も、十五の歳に亡くしてしまった……」

「それからずっとひとりだったのか?」

 問いかけるファルハの声には、どうして誰もこの少年に手を差し伸べなかったのかという疑問が滲んでいる。彼には本当に不思議でしかたがないのだろう。神に嫌われた者になど誰も近づかないと言えば、自分が傷つけられたような顔をする。そんな反応に、カマルは心地良いような苦しいような気持ちになる。

 まるで息絶える寸前まで乾ききっていた小さな虫になり、突然の恵みの雨を受け止めきれずに溺れてかけているような感覚だ。そしてそれは、彼と出会ってから何度も感じてきたものだった。

 ずっと、ひとりだった。懸命に息を整えながら、カマルは答える。

「母と妹がいなくなってから、誰もいなかった。不吉だと避ける者と、罵声を投げる者と………暴力を、振るう者ばかりだった」

 ファルハがはっと目を瞠り、カマルはすぐに言わなくてもいいことを口にしてしまったことに気づく。もともと彼はカマルが人に触られることに過剰な反応をすることを、気にしていた。今の言葉で、きっとカマルの受けてきた扱いを察してしまったのだろう。

 嫌悪に歪んだ顔を見て、激しい後悔が浮かぶ。だがすでにこぼれてしまった言葉を拾い集めることはできない。焦って視線をうろつかせてみても、夜を吸った砂は冷たくそっぽを向くばかり。この場にふさわしい言葉など、どこにも落ちてはいない。

 うろたえるカマルを助けてくれたのは、今度もやはりファルハだった。

「ごめんな」

 驚いて顔を上げると、視線がぶつかった。

「俺は、あんたの話を、もっとちゃんと聞くべきだった」

 ファルハがなにを言っているのかわからず、カマルはぽかんと彼を見つめた。熾の火が揺れる右目が、温かく潤んでいる。

 ごめん。もう一度ファルハは言う。

「自分の言ったことを、全部間違っていたとは思わない。でも、あんたがトゥヌの人たちに怯えた理由を、もっとちゃんと尋ねていればよかったよ。俺は根が単純だから、一緒に旅をしていたら、そのうち打ち解けられるだろうなんて考えてしまったんだ」

 自分の物差しだけで計ってはいけないことがある。そんなことは、よくわかっていたはずなのに。出会ったときのカマルがどんな様子だったのかも忘れて、すっかり姪や甥に接するような気持ちになっていた。

「……俺もまだまだ未熟だ」

 そう呟いてファルハは頭を掻いた。そうして、いよいよなにを言っているのかわからないカマルの頬に、そっと手を伸ばす。

「俺が思うより、もっと痛くて、怖かったんだな」

 あたたかさに包まれて、息が止まりそうになった。

「……どうして」

 カマルは首を振る。ファルハは悪くない。なにも悪くないのに、なぜ謝るのだ。

「……そんなことを、言わせたくて、は、話をしたわけではないのだ」

 さっきよりずっと焦り、カマルは必死で言葉を探す。たしかに弁解をしようとした。だけどそれは、自分は悪くないと主張したかったからではない。ファルハが罪悪感にかられるなんて、思ってもみなかった。

「わ、私は、ただ……おまえの唄が……」

「うん?」

「――いや、おまえに……おまえと、前のように……いいや、そうではなくて」

 紡ぎかけた言葉を、カマルは何度も途切れさせる。本当に言いたいことはきっと、そういうことを全部含んでいて、それ以上に大事な意味を持っている言葉なのだ。

 けれどそれを上手く見つけることができない。なんとか絞りだそうと身を捩るカマルを見つめ、ファルハはもう一度「うん」と頷いた。そしてさっき頬を撫でた手を、小さな頭に移動させる。くしゃくしゃと、小さな子どもにするようにカマルの髪をかき混ぜて。

「大丈夫。わかったよ」

 そう言って、笑った。

「あんた、言葉の下手な人だなぁ」

「…っ」

 一瞬、夜の沙漠に陽が昇ったのかと思った。眩しい笑みに目が潰れそうで、カマルは息をつめる。またあの不思議な感覚だ。胸が苦しくて、痛くて、それが怖いけれど同時に心地良くもあるようで、どうしていいのかわからずに身体が小さく震える。

 そういえば、初めてだ。誰かに気持ちをわかってもらいたいと思ったのも、そのために言葉を探したのも、その拙い努力を認めてもらったのも。だって母と妹にはわかってもらえるのが当然で、ふたりがいなくなった後は誰もいなかったから。

 そんなカマルの気持ちを読んだのか、ファルハが言った。

「なあ、お母さんと妹さんのことを聞いてもいいか?」

 せっかくだからお互いのことをもっと知り合いたい。そんな申し出に、少し戸惑う。するとファルハはそれを察して、すぐに「無理にとは言わない」と付け加えた。

 だがその言葉がむしろ、カマルの背中を押した。

「私も……聞いてほしい」

 ファルハになら、いいや、ファルハがいい。今まで誰にも話すことのできなかった母と妹の話、カマルの抱えてきた遠い思い出話を、彼に知ってほしい。

「わ、私の、母は……奴隷だったのだ」

 深呼吸の後に吐き出した言葉は、覚悟とは裏腹に震えてしまった。

 ファルハが目をむいて、カマルは思わず俯いた。けれどここで話をやめれば、さっきと同じで徒に彼を同情させただけになってしまう。怖じる自分を叱咤して、もう一度大きく息を吸った。

「元は、どこか遠い国の姫だったらしい。戦に負けて奴隷になって、私の父に買われた。唄や踊りを見せるのが仕事だったが、そのうち父の手がついて、たくさんいる妃のひとりになったのだ」

 今もそんなことがあるのか。ファルハが小さく唸るのが聞こえたが、カマルはあえてなにも言わず、話を続ける。

「他の国ではどうか知らないが、私の国では子を成せば少しは身分が上がるものだった。だが母は私を生んだことでかえって立場をなくし、離宮へと追いやられてしまったのだ」

 元が奴隷では高い身分は望めないが、カマルがこんな髪で生まれてこなければもっと長い間、寵妃として暮らしていられただろう。記憶に残る母は、とても美しい人だったから。

「ってことは、あんたの髪の色は生まれつきなんだな。なにかのきっかけで変色したわけじゃなく?」

「ああ。だから母は呪われた子を産んだ女として、私ともども幽閉同然の暮らしをするはめになったのだ」

 それを聞いて、ファルハは難しい顔をした。

「母さんの生まれは西の大陸だろう」

「そうだ。よくわかるな」

「だてに旅ばかりしてないさ。あんた顔立ちはこっちの人のものだけど、そもそも髪だけじゃなく、肌も瞳も色が薄すぎるんだよ」

 自分の経験や親たちから聞いた話をすべてさらってみても、これは沙漠周辺の国では珍しいのだとファルハは言う。

「あんた、母さんの髪や瞳は何色だった? 妹さんは? 故郷のことや母さんの身内のことで、他に聞いていることはないか?」

「あ、ああ。ふたりとも瞳は私と同じ色だ。妹は黒髪だったが、母は薄い金の髪で……そうだな、雪の朝の日差しはこんな色だと言っていたな」

 太陽の光というのは常に強くて眩しいものだと思っていたカマルは、それをそんなにも淡く弱めてしまう『雪』とはなんと強いのだと驚いたものだ。この国とは真逆に、一年のうちで冬季がもっとも長く夏が短いというその国の話を、まるでおとぎ話の世界のように聞いていたのを覚えている。

 なにかに挑むような顔をしていたファルハは、それを聞いて大きく頷いた。

「やっぱり、その髪は呪いなんかじゃない。それは母方の血の証だよ」

 最初からその可能性を考えていたのだと、彼は言う。子どもが父母以外の血縁に似るのは、ままあることだ。そして人の外見というのは、地の気候や地形によって長い年月かけて作られるものなのだという。

「物知りの友だちが言ってたんだ。代々強い日差しにさらされてきた俺たちやトゥヌの人が濃い色の肌や髪をしてるように、寒い国に住む人はあんたみたいに淡い色をまとっているのが普通だって」

 そこでなら白銀の髪を気にする者もいないだろう。カマルの不幸は生まれた土地と、そこに根付く信仰から彼の外見が浮いてしまったことによるものなのだ。

「あんたは呪われてなんかいないよ」

 まっすぐに断言されて、カマルはくしゃりと顔を歪めた。ここで話を終えてしまいたい。

 けれどそれでは、知りたいと言ってくれたファルハに嘘をつくことになる。そうでなくても、どうしても言えないことがひとつあるというのに……。

 瞬きをひとつふたつする間に、カマルは気持ちを固めた。

 そして、ファルハのくれた言葉を否定する。

「いいや。私は呪われている」

「いや、だからそれは」

のだよ。十五のときに」

 だからファルハの言うことも、間違っているわけではない。それでもカマルは呪いというものが存在することを、それが己を侵していることを知っているのだ。

「……」

 ファルハの厚い唇が、開きかけてまた閉じる。彼は敏い。きっとこれまで何度も違和感を覚えていたのだろう。それらをずっと呑みこんでくれていたことに感謝しながら、カマルは彼の右目を見つめ返す。

「妹の話を、まだしていないな」

 ゆっくりと、カマルは唇を動かす。

「黒髪だった。私たちは顔こそ驚くほど似た双子だったが、あの子の髪は夜を幾重にも重ねたような深い黒だった。そしてその美しさから『美しい千のアルフライラ・ジャミーラ』と名付けられた。………アルフライラ・ジャミーラ=アッサーラ・アラーティバティ=ラブナーンアルアーイラ、と」

「……なんだって?」

 問いかけは、聞きとれなかったという意味合いではなかった。だからカマルはそのまま言う。私の名にも続きがあると。

「カマル・アルファジャル=ルカビール・スジャーア=ラブナーンアルアーイラ。……この名が持つ意味は、わかるだろう?」

 名前の長さは身分の重さだ。貴い身分になればなるほど、その名は賛美の言葉で仰々しく飾り立てられ、最後に必ず素性を表わす言葉が入る。無垢なるアッサーラ・アラーティバティと勇敢なルカビール・スジャーアがそれにあたる。そして最後の名はたいてい出自を表しており……国の名が入るのは、その国の統べる一族だけだ。

 ラブナーンの血族ラブナーンアルアーイラ

 唐突に吹いた風が廃墟を撫でる風の音を、痩せこけた土の匂いを蘇らせる。瞬いたファルハの右目の奥に、朽ちかけた塔の幻を見た気がした。

「ラブナーン王家の……末裔?」

「いいや、違う。生き残りだ」

 驚きに強張ったファルハの顔をひたと見つめて、カマルは告げる。

 私は、おまえが生まれる前に滅びた国で、生まれ育った者だ――と。

「私は十五のときから今日まで、歳をとっていないのだ」

 これが、カマルが母や妹の思い出とともに、何十年も抱えてきた秘密だった。


 それは大国が侵略の舌を蠢かせ、小国が生き残りのために奔走していた時代。武力に乏しいラブナーンがとったのは、政略結婚で他国との関係を強める策だった。身分の高い姫君は当然、政治的に重要な大国へ送られる。

 そして奴隷の母と呪われた兄を持つ、もっとも身分の低い姫アルフライラは南の果て、イエラン王国に嫁ぐことになった。

 信仰も肌の色も違う者たちが治める、いくつもの沙漠で隔てられた遠い国。いざ有事というときに協力を望めるかも怪しい国への輿入れは、保険というより厄介払いだったのだろう。多くない貢物の中には、使者の名目でカマルも入っていたのだから。

「大きな甕にひとりずつ入れられて、数少ない従者たちに連れられて、私と妹は沙漠越えの旅をした。……おまえが言うならきっと、イエラン側は丁重に扱ってくれていたのだろう。だが父は捨てたつもりだったと思う」

 信仰を同じくする同盟国を気にしたのだろうと、寂しそうに言ったのは妹姫だ。離宮に押し込められ、かろうじて行儀作法だけしか学んでいないカマルより、後宮で他の姫や妃たちに囲まれ、あれこれと見聞きすることの多い妹の方が何事にも詳しかった。

 その頃にはもう母はなく、身の回りの世話をしてくれる奴隷や教育係の神官は、銀の髪のカマルを呪われた者と恐れていた。人目を盗んで遊びに来てくれる彼女の存在だけが、支えだった。

 だからこの先にどんな暮らしが待っていようとも、妹さえいれば耐えられる。誰にも顧みられることもない母国にひとり留まるより、蛮族への貢物として扱われても、彼女と一緒の方がいい。そう思っていた。

 けれどそんな望みさえ叶わなかった。

「……私たちの一行は、盗賊に襲われた」

 満月の夜だった。カマルだけが助かった。月光が白々と明るい沙漠で、なぜ盗賊たちが砂丘を転げ落ちていく大きな甕に気づかなかったのか、それだけが今も不思議だ。

「私は……夜の沙漠を逃げて逃げて逃げつづけて、どこかの商隊キャラバンに助けられ命を拾った。国に帰るわけにもいかず、あちこちを放浪して……気づいたときには本物の『呪われた物乞い《シャハトラァン》』になっていた」

 まず気づいたのは、眠気を感じなくなったことだ。次いで空腹を覚えることもなくなった。物を口に含めば唾液は出るし、消化も排泄もできる。だが腹が減ったと感じなくなった。味覚も鈍くなり、熱いものと冷たいものの区別くらいしかできない。味がわからないから、よけい食べたいと思わなくなった。髪や爪の伸びはひどく遅くなり、何十回昼夜が巡っても少年のまま、身体が育たなくなった。

「最初は、不死になったのかと思った。けれど怪我をすれば痛いし、病を得れば苦しい。自覚がないだけで疲れもたまるから、長く寝食を忘れていると、唐突に動けなくなる」

 死を感じるのは、人並みに恐怖だった。死ぬのが怖くて、死なないためだけに、盗んだ果物や干し肉を口にしていた。石を投げられたり、いたぶられたりするのが怖いから、いつでも逃げられるよう埃まみれの路地に蹲って短い睡眠を貪った。次第に感情も麻痺していった。獣のように生きてきた。ファルハと会うまで、言葉らしい言葉を発する機会もなかった。

「私が奪われたのは時ではなく、人間らしさなのだろう。……命惜しさに妹を見捨てて逃げた人でなしは、卑しく命を乞うだけのモノになれ。……神はそう命じておられるのだ」

 だからきっと、あれ以来どんなに痛くても苦しくても、一滴の涙も出ないのだろう。

「……」

 ファルハは呆然としている。さすがの沙漠の民も、こんな話は信じられないのだろう。それとも信じて……カマルを気味悪く思っているのだろうか。

 今にも「嘘だ」と叫んでしまいそうな唇を噛み、反応を待つ。せめて正直になりたいと思ったのではないのか。すでに一度その信頼を裏切っているというのに、ここでまた我が身可愛さに誤魔化しを口にしてどうするのだ。

 首切り台に上るような気持ちで待っていたカマルに、ようやくかけられた言葉は、意外なものだった。

「じゃあ、あんたが探してる亡霊は、妹さんなのか」

「……ああ、そうだ」

 戸惑いながら頷くと、ファルハも頷いた。

「そうか。妹さんのことで神様に嫌われたから、今度は彼女を探して謝るかなにかすることで許してもらおうって話だったんだな」

「……まあな。……信じてくれるのか?」

「え、嘘なのか?」

 きょとんとされて、こちらもまたきょとんとしてしまう。そんな反応が面白かったのか、ファルハは不意に吹き出した。ぱっと周囲が明るくなったようだ。

 信じるよ。短い笑声の後で、きっぱりと彼は言った。

「行商で鍛えた俺の目を見くびってもらっちゃ困る。本気で言ってるかどうかくらい、わかるさ」

 その言葉に、肩からふっと力が抜けた。いつのまにか強く握りしめていた毛布を離したとたん、咳が出た。

「ああ、いっぺんに話して喉と口が疲れたんだな。今日の分の水はもうないから、これを舐めてな」

 そう言ってファルハは干したナツメヤシの実をひとつ出すと、短刀で半分に分けてこちらに寄越した。残る片方を口に入れるとき、わずかに目を伏せたのは、それがラブナーンだった場所に生えていたものだと覚えていたからだろうか。

 ファルハがそんな風だから、カマルも自然に故郷を悼むことができた。これまであまり思い出すこともなく、都の残骸を前にしたときでさえ淡々と実感しただけだったから、こうして失くした国に思いを馳せるのはこれが初めてのことだった。

 乾いた木の実のかけらを飴代わりにしながら、ファルハを眺める。同じものを同じように口の中で転がしながら、彼はいつのまにか小さく鼻唄を口ずさんでいた。もっとちゃんと聞きたくて見つめつづけていたら、さすがに気づかれた。なんだと首を傾げられて、カマルは妙に焦ってしまう。

「あ、いや、その……それは、なんの唄なのかと……」

「えっ。ああ、唄ってたか、俺」

 なんだか決まり悪そうに頭を掻きながら、ファルハは答える。これは仲直りの唄なのだ、と。

「母さんが、いつも唄ってたんだよ。『喧嘩の後は半分こ。仲直りの半分こ』ってね。だから癖でつい出ちゃったんだな」

「半分こ……とは、これのことか?」

 頬を指して尋ねると、肯定が返る。

「うちの母さんは、町から来た人でね。この『半分こ』ってのもきっと、母さんが自分の家で覚えた約束だったんだろうよ」

「外から花嫁を迎えてもいいのか?」

「血ではなく、沙漠と生きる者を沙漠のサフラーウィと呼ぶのさ」

 あっさりと言い放つ姿に、カマルは驚きながら納得する。そういう一族の中で、こんな唄を聞いて育ったから、今のファルハがあるのだろう。

 しんみりとした気持ちが表に出たようで、顔を覗きこまれた。なんでもないと首を振り、カマルはほんの少し唇を弛める。

「喧嘩はしなかったが、私とライラ……妹も、よく物を分けあっていた」

 物に不自由する暮らしではなかったが、妹はそうすることが好きだった。菓子の類だけでなく、部屋に活けてあった花や玩具、きれいな色の貝殻など。侍女や教育係の目を盗んで持ち出してきては得意顔をしていたものだ。

「けっこう、いたずら好きだったんだな」

「ああ。いつも笑っている子だった」

 答えながら、カマルは不思議な気持ちになる。故国のこととは逆に、妹のことは悲しみとともにいつも心の中心にあった。なのに何十年ぶりかでその思い出を口にしてみると、慕わしさが勝る。

「沙漠に生きていると、さ」

 物思いを噛みしめるカマルに、ファルハが静かに言う。沙漠では病気や災害にあっけなく家族をさらわれることは、少なくない。自分の母も十歳のとき逝ってしまったし、叔父や従姉妹、姪もひとり亡くしている、と。

「けど、めいっぱい泣いて別れた後は、たくさん思い出を語ることにしてるんだ。その方が心の中だけで大事にするより、大好きだったことをちゃんと思い出せる気がするから」

 だから自分も今こんな気持ちなのだなと、カマルは頷く。だから、とファルハは続ける。

「今日はもう遅いけど、これからはあんたが家族の話をしたくなったら、俺が聞くよ」

「……ああ」

 そうしてほしい。こんな冷えた心に留めておくより、ファルハの記憶の片隅に置いてもらえる方が、きっといい。

「さて。じゃあもう寝な。仲直りしたんだ、明日からまた働いてもらうぞ?」

 ぱっと雰囲気を切り替えて、ファルハがそう言った。しんみりしていた空気を払うような声に頷きかけ、慌ててカマルは口を開く。

「あの、その……今からでも……火の番……いつもおまえが、起きているから……」

 断られたときのことを思い出すと、どうしても緊張してしまう。しどろもどろの申し出を、ファルハは今度もやはり退けた。だがその声は、前よりも柔らかい。

「俺だって寝ずの番ってわけじゃない。ほら、熾はこのくらいになったら放っておいても朝まで燻りつづけるから、そうしたら寝る。虫や獣以外になにかが近づいてきたときは、こいつらが教えてくれるんだ」

 首を撫でられたラクダの片割れが、どうだ頼りになるだろうと鼻を鳴らした。背中を預けて寝るのは、彼らの反応をじかに知るためらしい。

「あんたじゃ無理だろ。いいから寝な。できることだけ、やってもらえりゃいいんだよ」

「……わかった」

 ならば、できることを増やそう。残りの旅の間、少しでも役に立つように。せめてもの償いになるように。

「あ、カマル」

 言われたとおり寝ようとしていたのに、なぜか呼び止められてカマルは首をかしげる。

「寒いんだろ。このまま寝たらどうだ?」

 今立ち上がったばかりの場所をぽんぽんと、大きな手が叩く。

 震えていたのは寒さのせいではないけれど、隣を許してもらえることに、甘えたくなった。素直に座り直し、もう一度ラクダの体によりかかる。いつもは良好といえない関係だが、彼らも今夜は甘やかしてくれるらしい。

 毛布にくるまり、いい具合に身を落ち着けたところで、頭を撫でられた。喧嘩の前までと変わらない気軽さで伸びてきた手は、しかしなぜか不自然に撫でるのを止め、離れた。

「カマル」

 形容しがたい表情で自分の手を見つめた後、ファルハはおもむろに言った。

「俺はおかしな気持ちであんたに触ったことなんて、一度もないからな」

 あらたまったその態度に、カマルは目をしばたいた。ややあって、頬がふるふると緩みだす。

「そんなこと、わかっている」

 唇も、緩む。顔中の筋肉が柔らかくなっていくのを止められない。

 まともに人と関わること自体が久しぶりで、怖かった。けれど本当は、あの市場で助けてくれたときからわかっていたのだ。この大きな手は、ただあたたかいだけなのだと。

「私の見る目だって、それなりに捨てたものでもないのだぞ」

 そう言ってカマルは笑った。……初めて彼の前で、笑ってみせた。

 よほど意外だったのか、隻眼がはっと見開かれる。それがなんだか愉快で、カマルはさらに笑みを深めて、これもまた初めて自分から就寝の挨拶を口にした。

「おやすみ、ファルハ」

「あ、ああ。おやすみ」

 顎先まで毛布に埋めて目を閉じる。熾火の熱よりも密着している獣の体温よりも、触れるか触れないかの距離に座る存在が一番あたたかく感じられて、カマルの意識はいつになく自然に溶けていった。


 ひとり眠りそこねたファルハは、安らかに上下しはじめた少年の背中をひたと見つめる。初めての彼の微笑みは、ほろりと花弁がほどけるように美しかった。そして……。

「まさか、な」

 小さな呟きはあっというまに眠りに落ちた少年には届かず、虫燻むしいぶしの白煙に乗って夜の闇に消えていった。

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