砂礫に刃

 早朝にも関わらず、町の境には大勢の人が集まっていた。

 砂と盗賊の侵略を阻むため、町は高い隔壁に囲まれている。その陰で朝日を避けながら開門を待つ旅人たちは、顔つきも服装も暇つぶしの仕方までさまざまに違う。

 ぼんやりそれを眺めていたカマルは、ぽんと頭を叩かれ思わず首をすくめた。

「こぉら、日よけ布はどうした」

 ふり返ると、怖い顔のファルハが立っていた。カマルは慌てて握っていた布をかぶってみせる。顔を覆うほど長かった前髪の代わりにと、昨日ファルハが買ってくれた物だ。しかし留め輪が大きすぎて、布を抑えることができないのだ。

「どれ……ああ、本当だな」

 本来なら額で留まるはずのそれが、鼻までずり落ちてしまう。あんた、頭が小さすぎるんだなぁ。そう言うとファルハは腰に差していた小ぶりの曲刀から飾り帯を外し、カマルの額に巻きつけた。

「これでいいだろ。足も貸してみな」

「わっ、な、なんだ?」

 右足を持ち上げられ、カマルはじたばたと空を掻く。

「じっとしてろって。こんな巻き方じゃ、砂が入ってくるぞ」

 そう言ってファルハはカマルの足を自分の膝に乗せ、ズボンの足首に巻いていた細い帯を丁寧に巻き直していく。ふくらはぎの途中から靴の上まで、きっちりと。湿度より日差しを脅威とするこの地方では、皆もともと長袖の服を着ている。だが沙漠に出るときは熱砂の侵入を防ぐため、こうしてさらに服の隙間をなくすのだという。

「よし、完璧だ」

 満足げな視線につられて、カマルもあらためて自分の格好を見た。昨日から着ている麻の貫頭衣(ソブ)と、たったいま砂避けの帯で裾を絞ってもらったズボンは、元々ファルハが甥っ子のために買ったものだと聞いている。首まで隠れる襟の高い外套は、雇われた後やはりファルハから買い与えられた。枯れ木の釦(ボタン)が胸まで並んでいる以外に装飾はないが、鮮やかな青の布地が砂に映える。

「うん。やっぱりその色にしてよかったな。よく似合ってる」

「……」

 あけすけな褒め言葉には、どう答えていいかわからない。口の中でごにょごにょと言葉をこねまわしていると、いきなり背中と後頭部を小突かれた。つんのめったカマルを受け止めて、ファルハが声を上げる。

「こら、ニフにフム。悪さするんじゃない」

 ブゴフンと鼻息荒く返事をするのは、二頭のラクダである。どちらもファルハの持ちラクダらしい。新入りが気に入らないのか、朝からずっとこんな調子なのだ。主に何度たしなめられても威嚇を止めない二頭と、そのたびビクつくカマルとを交互に見て、ファルハがやれやれと苦笑する。

「お、お客さんの到着だ」 

 人の呼ぶ声に、ファルハがそう振り向いた。つられてそちらに目をやり、カマルは、思わずあとずさった。

 黒い男が三人、こちらに歩いてくる。黒い肌に黒い髪に黒いあごヒゲ、鷲鼻を中心に顔の部品のすべてが大きく、膝まで覆う外套は目の覚めるような黄一色だ。

「トゥヌの織物商会の人たちだ」

 気圧されるカマルを尻目に、ファルハは彼らの言葉で話し、ひとりひとりと親しげな抱擁を交わす。彼らは縦にも横にも幅があり、並ぶと大柄なファルハが華奢に見えるほどだ。

「カマル、どうした? お客さんがいることは昨日のうちに話しといただろ?」

「くっ、黒い肌だとは聞いていない!」

「言わなきゃならなかったか?」

 ぱちくりと瞬く隻眼にさらなる苦情を述べるより先に、トゥヌ人たちが一斉にカマルを見た。口々に挨拶らしき言葉を発しながら近づいてくる男たちに、カマルは思わず悲鳴をあげてしまう。

「おいおい、なんだよ。人見知りか?」

 ラクダの後ろを回って逃げてきたカマルに盾にされ、ファルハは驚きと呆れの混じった苦笑顔だ。慌てふためく姿が面白かったのか、トゥヌ人たちは気分を害した風もなく、ファルハの背に隠れたカマルを追ってのぞきこむ。

「な、なぜ私に寄ってくるのだっ?」

「子どもが好きなんだよ」

「ぶ、無礼な。私は子どもではないっ」

「彼らからは幼く見えるんだろ。それから、その飾り帯が気に入ったんだとさ」 

「え、あ、ああ、これか……」

 カマルは顔の横に垂れている帯に目をやる。留め輪の代わりにさっきファルハが結んでくれたものだ。少しずつ変化していく精緻な不連続模様の織物は、たしかに美しい。たくさんの色が使われているのに不思議と統一感があり、珍しいようで妙に懐かしい気分になる。

 こんな値の張りそうな物まで借りてよかったのだろうか。少し心配になったカマルが尋ねると、ファルハは明るく笑って、これは売り物じゃないと答えた。

「この人たちにも今そう言ったところさ。これは家族の証だ。値段はつけられない」

 ファルハの指先がカマルの頬を掠め、飾り帯を揺らした。独特の手法で織られたそれは、ひと家族ごとに意匠が違う。親から子へ、さらにその子へ。先祖の模様を受け継ぐとともに新しい模様も足していく。そうやって代を重ねていくため、血の織物ダムトゥーブと呼ばれているのだという。

「俺たち砂漠の民は国を作らない。行商や放牧で生計を立てることが多いから、家族だってばらばらだ。どこかの町で縁付くこともあるし、行方がわからなくなることだってある。だから一族ごとになにか血の証を伝えるものを持っているんだよ。俺たちはこの血の織物ダムトゥーブと、唄だな」

 こちらは減るものでもなし、請われれば唄うのだという。唄を受け継ぐというのがよくわからないカマルが曖昧に頷いたときだ。

 鐘の音が響いた。

「おっと開門だ。カマル、来な」

「えっ、あ、相乗りするのか?」

「だってあんた、乗れないんだろ。大きな荷物はフムに任せたから、二人座れるよ」

「あ、ああ……わかった……」

 カマルはおそるおそる、小山のような瘤の手前に跨る。ラクダは一瞬不満そうにしたが、ファルハが乗ると大人しく立ち上がった。

「うわ、わっ」

「ははは、大丈夫大丈夫」

 焦るカマルの両脇から逞しい腕が伸びて、揺れる体を支える。もう一頭のラクダが満載の荷物をものともせぬ顔つきで、隣に並んだ。

 また鐘が鳴る。

「さあ出発だ、お客人。それから皆々様! 沙漠の唄織りのサフラー・ルジュムズィカからささやかな餞別だ。

 あなたの旅に幸いがありますように《トレックサーラ ライマーヤ》!」

 鐘の音に負けぬ堂々たる口上が終わり、唄が溢れた。カマルは息を呑む。

 なんと伸びやかで、朗らかで、あけっぴろげに明るい声だろう。この聞いたこともない言葉は、なんと心地良く肌を撫でるのだろう。

 まるで朝の青空そのものだ。この後に待ちかまえる暑さや乾きをわかっていてなお、旅立ちの興奮に胸が躍る。どんな困難をも乗り越えられる力が湧いてくる。

 ああ、良い旅になりそうだ。そんな誰かの呟きが、ここにいるすべての旅人の言葉だった。背中に響く声に励まされ、カマルも顔を上げる。ゆっくりと開いた門の先に幾重にも重なる砂の波が見えても、不思議なほど不安は感じない。

 きっと、良い旅になる。

 長いこと忘れていた気持ちを胸に、カマルの旅は始まった。


 一口に砂漠といっても、細かい砂のみで構成されている場所ばかりではない。岩山と水のない谷が続く岩沙漠や、乾いた土の上を小石が覆う礫沙漠もあり、それぞれに違う特性がある。そして海沿いのわずかな土地とオアシス以外がそのどれかにあたるこの半島では、旅というのはそんな沙漠といかに要領よく渡っていくかということに終始するのだ。

 ファルハは今回、まず海沿いを南西に進んでトゥヌ人たちを彼らの故郷に送り届け、そこからさらに南下してイルマンという国の港町を目指すつもりだ。この行程だとナツメヤシやさまざまな灌木が生える、比較的歩きやすい場所を通ることになるので、旅慣れぬ者を連れていても、ひと月ほどで着くはず……なのだが。

「おい、大丈夫か?」

 本日五回目の呼びかけに、唸り声が応じる。

「……だいじょうぶだ……」

 いや、まったく大丈夫な声じゃないだろう。出立から三日、連れは今日もラクダ酔いだ。

「また吐きそうだったら言えよ?」

「……っ、だい……っ、じょうぶだ……」

 いや空嘔からえずきしながら言われても。目の前でぐらんぐらんと揺れている後頭部を見ながら、ファルハはひそかに嘆息する。ラクダはわりと揺れるので、慣れない者が酔うのはしかたがない。ひとりで乗れないと聞いた時点でそこのところは覚悟していたのだが、じっさい出発してみるとこれが意外に問題になった。

 カマルが意地っ張りなのだ。ラクダに振り回されているより上体を安定させた方が酔いがましになるから、もたれかかるように言っても頷かない。吐きそうになったら伝えろと言っても、ぎりぎりまで我慢しようとする。

 いちいち脚を止めて予定を遅らせることを案じているのかもしれないが、毛皮の上に吐かれてラクダの機嫌を損ねたり、我慢の挙げ句うっかり落馬したりする方がよほど困る。おかげでファルハはラクダが道を間違えないよう方角を確かめつつ三人のお客を退屈させないよう話しかけ、さらにカマルに気づかれない程度に身体を支えてやったり、吐き気が限界を迎える前に休憩をとれるよう気をつけてやったりと大忙しである。

「野営地までの辛抱だからなー」

「う……っ、だ、だい……」

「はいはい。大丈夫な、大丈夫」

 そうして太陽が西へと傾きはじめた頃、一行はようやく本日の野営地へとたどり着いた。ファルハの手を借りてラクダから降りたとたん、カマルはよろよろとその場に手をついた。しばらくはまだ揺れている気がしていたが、ほどなく身体の軸が安定してきた。そろそろと立ち上がっても、もうふらつかない。揺れないというのは本当にいいものだ。

 だが伸びをしようと顔を上げたカマルは、目の前に広がっている風景に気づいてギクリとした。

「……ここは……」

「ああ、知ってるんだったっけ。あんたが言ってたラブナーンって国があったところさ」

 灌木にラクダをつなぎながら、ファルハが答えた。

「このあたりには昔、ふたつの大きな国の争いに巻きこまれて滅亡した小さな国々の墓場がたくさんあるんだ」

 風が強く吹いて、煤けた建物から泥漆喰がはがれ落ちた。乾いた音が、もう住む者のない街の間をさまよって、消えていく。

灌漑かんがい技術に優れた、緑豊かな国だったそうだな。俺の親父が若い頃に訪れたとき、ここはまるでオアシスみたいに綺麗な都だったらしい」

 今は見る影もない砂色の廃墟に背を向け、ファルハはひょろりと伸びたナツメヤシに足をかけて登る。残されたのはこのたくましい木や、針のように痩せた灌木だけだ。そしてときおり旅人が、こうして影を借りに来る。

「今も残ってたら、きっと俺たちみたいな旅人にとって大事な場所になったはずなのに。見たかったよ、緑の都」

「……そうだな」

 風に乗って聞こえた返事に、ファルハは動きを止めて下を見た。鮮やかな青の外套が、半分崩れた尖塔の前で風に揺れている。

 離れたところから見下ろしているせいか、ただでさえ細い背中がさらに頼りなく見えた。

「……カーマルーッ」

 なんとはなし落ち着かない気分になって、ファルハはことさらに陽気な調子でカマルを呼んだ。こちらを振り仰いだ美貌が驚きで崩れるのを見て、少しほっとする。

「なっ、危ないっ、なにをしているっっ!」

「実を取ってるんだよ。ほい、受け取れ」

「わっ、ちょっと待てっっ」

 バラバラとナツメヤシの雨を降らせると、カマルが慌てて上着の裾を広げた。すかさずラクダが寄ってきて、受け止め損ねて落としてしまった実を食べる。

「あ、気をつけろ。そいつら野生だ。ぼーっと立ってると、たかられるぞ」

 忠告もむなしく巨大な鼻先に迫られて、カマルは悲鳴をあげて逃げていく。思わず笑うと、睨まれた。樹上を見上げる少年の、その悔しげな顔にファルハは少しほっとする。

「なあ。それ、お客さんたちに分けてきてくれ」

 ナツメヤシを指さしながら頼むと、カマルは大袈裟なほど動揺した。

「な、なぜ私がっ」

「なぜって雑用係だろ。仕事だよ、仕事」

「わ、私は……こ、言葉がわからないっ」

「それ差し出して、食べる仕草してみせりゃいいよ。とりあえず行ってきな。わからないこととか困ったことが起きたら、俺に聞いてくれりゃいいから」

 なんだかんだと理由をつけて、カマルはまだ客人たちとまともに交流していないのだ。ラクダ酔いがひどかったのもあって見逃してきたが、いつまでも甘やかすわけにはいかない。早く行けと木の上から手を振ると、カマルも渋々、上着の裾を広げたままの格好で、廃墟の影にいたトゥヌ人たちの方へ歩き出した。

 えらく緊張しているな。ぎこちない足取りで進むカマルの様子に、ファルハも樹上で思わず息をつめてしまう。だが、もちろん何も問題など起きない。少年がおっかなびっくり差し出すナツメヤシを、三人の大男がいかつい髭面をクシャクシャにして笑いながら受け取っておしまいだ。

 安心して木から下りたファルハは、逃げるように戻ってくるカマルが、耳と目を拭うのを見た。どこかで見た仕草だ。

「どうかしたのか?」

「……砂が入っただけだ」

「ふぅ…ん…?」

「それより、たくさん余ったぞ」

「ああ、後は俺たちが今食う分と保存用だ」

 沙漠の風はなんでも乾かす。目の粗い籠に実を入れて荷の端に括りつけたら、後は数日放っておくだけ干しナツメヤシの完成だ。

「売らないのか?」

「売れないよ。これから向かうイルマンの市場に出るのは、農夫がちゃんと世話した上物ばかりだからな」

 こういう野生種を混ぜて嵩を増やす悪質な輩もいるそうだが、ファルハはそういうやり方は好きではない。それに目の肥えた南の商人相手にそんな詐欺をしかけるほど、豪胆でも無謀でもないのだ。

「……イルマンというのは、そんなに豊かな国なのか?」

「南の方じゃ一番だな。大きな港をいくつも持っていて、海の向こうの国々と貿易で栄えてきた国だ。こっちの方じゃ見たこともないほど大きな船がたくさんあって、初めて見た奴はみんな顎が外れるほどびっくりするぞ」

 からかわれていると思ったのか、カマルは顔をしかめた。ばかばかしい。吐き捨てるような言葉にファルハはきょとんとしてしまう。

「なんだよ、信じてないのか? じっさい俺は大口開けて仰け反って、飛びこんできた虫をうっかり呑みこみかけたぞ?」

「疑っているわけではない。ただ南の船など汚らわしくて、見たいと思わないだけだ」

 どういう意味かわからない。重ねて尋ねると、カマルは眉間のしわを深め、口に出すのも嫌だというように早口で答えた。

「南の船は、奴隷に漕がせる船ではないか」

 これにはファルハも思わず呆れた声を上げてしまった。

「いまどきそんなもの、あるわけないだろ。そもそも奴隷なんて制度、イエラン王国の崩壊を最後に、どこの国でも禁止されてるじゃないか」

 今度はカマルが目を見開いた。

「滅びた? イエランは滅びたのか!?」

「え、ああ。そりゃ滅びてるだろ。今のイルマンが、そのイエラン領の西半分なんだから。……というかあんた、ラブナーンといい、古い国をよく知ってるな。イエランなんて、俺が生まれる前に滅んだ国だぞ?」

「あ、ああ、まあな。そうか……滅びたか」

 呟いた顔に、暗い影に落ちた。

「カマル?」

「なんでもない。他にすることはあるか?」

「ああ……じゃあ枯れ木を集めてきてくれ。大きすぎるやつは、これで切って長さを揃えるんだ」

 差し出した短刀を素直に受け取り、カマルは灌木の生えている方へ歩き出す。その後ろ姿を、ファルハは不安の眼差しで追った。

 美しい顔が陰る瞬間、カマルはたしかに小さな唇を笑みの形に歪めていた。はるか昔に遠い南の国で起きた出来事が、なぜ彼にそんな表情をさせるのかはわからない。ただひどく気になった。砂嵐の前触れがそこにあったように思えた。

 どうやら穏やかな旅とはいかないらしい。洛陽に呑みこまれていく同行者を見守りながら、ファルハは小さく溜息をついた。


 予感が的中したのは、七日後のことだった。

 ラクダを繋いでいたファルハは、突然の怒鳴り声にふり返り、青ざめた。

 カマルがトゥヌ人たちと言い争っている。その手には刃。数日前から持たせていた短刀が、落日を反射し、ぎらりと光っている。

「やめろ、なにやってんだ!」

 慌てて割って入るが、両者はファルハを間に挟んでも睨みあいをやめない。トゥヌ人の一人が口を開くと、動きに合わせて顎ヒゲから白濁した液体が滴った。そして足元には見覚えのあるカップ。つい先ほど、ラクダのミルクを入れてカマルに預けたものだ。

 最悪の展開にめまいがする。届けてくれという言葉が、投げつけてくれと聞こえるはずがないのに。

 視線を向けると、こちらがなにか尋ねるより早くカマルが声を荒げた。元々白い顔からは、完全に血の気が失せている。

「この男が触れてきたんだ! ほ、頬に……両手で私の頬にっ!」

「頬……って、それだけか? どこの深窓のお姫様だよ!?」

「それだけ!? 顔を寄せてきたんだぞ!? 汚らわしいっ!!」

 怒りのあまり甲高く割れた声が、乾いた空気を裂く。耳触りなその声に神経を逆なでされたトゥヌ人たちが足を踏み鳴らして怒り、怒りの空気に触発されたラクダまでが騒ぎだした。舞い上がる砂埃と立ちのぼる獣の臭いが両者の興奮をさらに煽り、怒声がめちゃくちゃに交錯する。

 覚悟を決めたファルハは、おもむろに右手を振り上げ――振り下ろした。

 パァン、派手な音が鳴り響いた。

「……っ!」

 カマルがよろめき、それからやっと打たれたことに気づいて頬に手をやった。トゥヌ人たちも言葉を失い、一瞬で怒りの空気が掻き消えた。

「申し訳ない。心から非礼を詫びる」

 この隙を逃さず、ファルハはトゥヌ人たちに頭を下げた。なにも言わせないようカマルを背に隠し、後ろ手にその肩を掴む。そうしておいて、客人には怒りを鎮めてくれるよう丁重に願った。

 カマルが、信じられないという顔で自分を見ていることを感じる。それでもファルハは彼に背を向けたまま、トゥヌ人たちと賠償についての交渉を続けた。

 幸いにも、話はすぐにまとまった。ファルハはもう一度丁寧に礼をして、カマルを連れてその場を離れた。細い手首から全力の抵抗を感じながら、カマルが客人たちに無礼を働けない距離まで引っ張っていく。

「……それを返してもらおうか」

 短刀を示してそう言うと、カマルは一歩下がった。敵意のこもった瞳で睨まれて、ファルハの胸にも苛立ちの火花が散る。自分がなにをしたか、わかっていないのか。それとも、ファルハがさらに暴力を振るうと思い、警戒しているのか。

「……いきなり殴ったのは、悪かったよ」

 自分の中に芽生えた気持ちをひとまず吹き消し、ファルハはまず説明することにした。

「あんたもあの人たちも、頭に血が上ってた。あのままじゃロクな結果にならないと思ったから、荒療治させてもらったんだ」

 トゥヌ人は子どもを大切にする。特に成人した男は、命の危険でもない限り子どもに手を上げることはない。ファルハはそれを逆手にとって、彼らの気を削いだのだ。

「音だけ派手に鳴るように力加減したけど、痛かったよな。それは本当に悪かったと思ってる。……けど、あんたも俺と、あの人たちに謝らなきゃならない。それは、わかるだろう?」

 問いかけてみたが、反応はない。だったらあんたは、理解しなくちゃならない。抑えた声でファルハは続ける。

「まず、思い出せ。あんたは俺に雇われてる。あの人たちは、俺のお客だ。あんたとあの人たちは対等じゃない。あんたがしでかしたことの責任は、俺が取るんだ。そして、あんたは雇い主である俺に、損をさせた」

「だから地べたに額づき謝れと。主のために奴隷のように侮辱に耐えろというか」

 唸るような声が、やっと返った。そんなことは言ってない。ファルハは素早く言い返す。

「わからないことや、困ったことがあったら俺に言えって、言っただろう? どうしていきなり攻撃に出たんだ」

「奴らが汚らわしい真似をしたからだと言っただろうが!」

「……頬を寄せるのはトゥヌ人にとって、感謝と信頼の表現だよ」

 彼らの目にも、カマルが異国の客人に怯えているのは明らかだっただろう。は毎日ぎこちなく働いている少年に、純粋な好意を伝えようとしただけなのだ。なのにカマルはそれをこばみ、あろうことか彼らにミルクを投げつけ髭を濡らした。

「あれはトゥヌの男への最大級の侮辱行為だ。あんたは人の誠意に唾を吐いたんだよ。知らなかったで済まされることじゃない」

 もちろんファルハにも落ち度がある。カマルが彼らの文化に無知であろうと予想できていたのに、前もって教えておかなかった。それはたしかに間違いだった。

 だがそれでも、食器を投げつけられて喜ぶ者がいないことくらいは想像できるはずだ。黙りこんでいるカマルに、ファルハは懸命に訴える。

「あんたが今まで、あんまり物を教えてもらえなかったのは、想像つく。それでも、自分の頭でもっと考えなきゃ。……したことは全部、自分に返ってくるんだよ」

 白い手はまだ短刀を握ったままだ。頬に触れられたことの、なにがそんなに恐ろしかったのかはわからない。だが彼はこれが己の身を守る以上に、その命を危うくする道具だということに気づいていないのだ。敵意には即、殺意。そんな連中が相手だったら、カマルなど、もう息をしていないというのに。

「……あんたのそういうところが、俺はひどく心配だ」

 カマルは俯いて答えない。あくまで頑なな態度を貫く姿が、いっそ痛々しい。叱られたら、こうして死んだ貝のように口を閉ざすことしかできないのか。

 安心させようと、ファルハは薄い肩に手を伸ばす。次の瞬間、鋭い痛みが走った。

「触るなっ!」

 驚いて飛びのいたファルハの隻眼に、取り上げそこねた短剣を構えたカマルが映る。

「私に触れるな、卑しい砂喰いハシャラ・ラムラカ」  

「……なんだって」 

 ファルハの顔からスッと血の気が引いた。切りつけられた手を抑える手が、震える。砂食い虫。それは沙漠のサフラーウィに対する、最大級の侮蔑の言葉だ。少しでも良識のある者なら、陰口でも使わない、それを、まがりなりにもこれまで共に旅してきた相手に向かって、投げつけるのか。

「……なにも知らないのは、きさまの方だ」

 呆然としているファルハを睨み、カマルは唸る。どうせ商人なんて損得以外、どうでもいいのだろうと。

「金のためにあんな連中にも尾を振るのなら、おまえなど獣以下だ。虫以下だ!」

「……あんたに優しくしようとした人たちを、あんな連中と呼ぶのか」

「優しくだと? 無礼でなれなれしい習慣を押し付けようとしただけではないか」

 紫の瞳を暗く燻らせ、カマルは吐き捨てる。野蛮人ども。粗暴で強欲で、自分たち以外を人だと思っていない者ども。連中こそ人ではなく、神が投げ捨てた汚泥でできた生き物め。だから肌が泥の色なのだ。際限なく溢れ出る侮蔑の言葉に、ファルハこそ吐き気を覚えた。

「もう黙れよ。彼らのなにを知ったところで、そんなふうに言う権利はない」

「――あるとも!!」 

 絶叫とともに刃が振り上げられる。ファルハが難なく取り押さえると、怒りは言葉となって再び彼の唇から迸った。

「私にはある! 私にだけはっ! ――きさまはなにも知らないくせにっっ!」

「だから、俺がなにを知らないっていうんだ!?」

「あいつらは女を甕に入れて運ぶのだぞ! 国同士を結ぶため、はるばる沙漠を越えて嫁ぐ高貴な姫さえ、まるで貢物のように甕に閉じ込めて! 道中ろくに声もかけず、物のように! それが野蛮でなくてなんなのだっ!」

 興奮に声を掠れさせながら、カマルは喚く。

「――行商人ごときが知りもせず、私に説教をするな!!」

 刃に反射した光が、ふたりの間を裂いた。

 沈黙が落ちる。千切れ雲がひとかけら頭上を横切って、夕間暮れの薄闇が一瞬、深まった。互いの顔に落ちた翳りを、互いに見つめて。

 それからファルハは、ゆっくりと口を開いた。

「大切な花嫁だから、甕に隠したんだ」

 父から聞いている。大甕に人を入れて運ぶのは、亡きイエラン王国の習慣だ。今もあのあたりで作られているその甕は薄くて丈夫で、熱と陽射しから中身を守ってくれる。それに砂嵐や盗賊に襲われてラクダから落ちても、丸くて丈夫な甕は壊れず、砂丘を転がっていくだけなのだ。

「だからイエランでは、貴い身分の人が沙漠を旅するときは、輿ではなく大きな甕に隠されて運ばれたんだ。俺はそう聞いているよ」

「………え?」

 カマルの表情が変わった。やや遅れて、怒りに強張っていた身体からじわじわと力が抜けていく。

 そんな様子を静かに見つめて、ファルハは言う。本当にそんな聞きかじりの知識だけで、とうの昔に滅んだ国を嫌っていたのか、と。

「いや、他にも理由はあるのかもしれないな。けどそうだとしても、それがトゥヌやイルマンの民まで一緒くたに侮辱していい理由にはならないよ。……触れた手や、その姿を映した瞳を拭うなんて、そんな汚いものみたいに扱っていいわけないんだよ」

 カマルの肩が、ぎくりと揺れた。それを見てファルハは苦い確信を噛みしめる。トゥヌ人たちと関わるたびに彼がしていた仕草はやはり、以前あの若い給仕がカマルの話をしたときにしていたものと同じ、アデラーダ教徒の汚れ払いのまじないだったのだ。

「俺とあんたのどっちが物知らずかなんて、つまらない言い合いはしたくない。けど俺は、せめて自分で見て、聞いて、話をして、人を判断したいと思ってるよ。……あんたにも、そうしてもらいたいと思ってた」

 カマルが俯く。宝石のように美しくとも、そこになにも映らないなら石ころと同じだというのに。

「……言うことは、ないか?」

 カマルが口を開く。だがその唇は、空気をんだだけだった。

「俺に言いたいことは、なにもないか?」

「……」

「返事は。カマル?」

 無言が返るたび、自分の身体からも力が抜けていくようだ。いたずらに開いては閉じるだけの唇をこれ以上見ているのも億劫で、ファルハはふっと息を吐いた。

「…なら、もういいよ」

「っ!」

 やっとで顔を上げたカマルを静かに一瞥し、ファルハは踵を返す。

 怒りはとうに失せ、乾いた虚しさが胸に広がっていった。

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