風の手紙に眠る唄

たつみや

行商人と呪われた少年

 ファルハが騒ぎに気づいたのは、最後の買い物を終えたときだった。

 果物屋の前で、男が怒鳴っている。ドラ声を浴びているのは店の親父ではなく、男の足元にうずくまっている人物だ。灰色のぼろと長い長い灰色の髪に包まれているせいで、歳も性別もわからない。たったいま手に入れたばかりのサフランのような斜陽に染まる市場スークの中で、その姿は大きな埃の塊のようだった。

 男の手が伸びて、長い髪を掴んで引き寄せる。あまりにも加減を知らない様子だったので、ファルハは思わず制止の声を投げた。

「おい、あんた。それはちょっと乱暴だろ」

 男が飛びあがらんばかりの勢いで、こちらを振り向いた。その平坦な顔いっぱいに広がる驚きの表情に、ファルハはやや呆れながら人波を掻く。たしかに自分は長身の部類に入るし、体格もいい方だ。それにターバンを斜めに巻いて左目を隠しているから、物騒な仕事をしているように見えるのかもしれない。けれどまだまだ若造だし、喧嘩腰でもないものを、そこまでおおげさに驚くことはないだろう。

 だが人の輪を抜けたとき、ファルハは思わず男を睨みつけてしまった。

 灰色の塊は、痩せた、小さな少年だったのだ。

「こ、このガキが、桃を盗もうとしたんだ」

 男が焦った様子で、灰色の髪から手を離す。だが少年を解放する気はないようで、代わりに細い手首を捕まえた。そうして己の行為は正しいものだと、先程以上に大きな声で主張した。

「このガキが、桃を盗もうとしたから、俺が捕まえて叱っていたんだ。それだけだ」

 たしかに彼らの間には桃がひとつ落ちて、潰れている。ファルハが屈みこんで「そうなのか」と問いかけても、少年は返事どころか顔も上げない。代わりに店の親父にも問いを向けたが、彼も困ったような表情を浮かべ、あらぬ方向に目を泳がせるだけだ。

 ファルハは首をひねる。桃は高価な果物だ。気安く恵んでやれるものではない。なのに店主は泥棒に腹を立てているようにも、割って入ったファルハを迷惑がっているようにも見えなかった。

 周囲の様子もどこかおかしい。ここはこの町で一番大きな市場で、ファルハのような行商人が大勢利用している。客も売り手もしたたかで、良くも悪くも活気に満ちているのが常である。

 けれど今は、口添えしようとする者もなければ、野次のひとつも飛んでこない。けれどまったくの無関心というわけでもないようで、見て見ぬふりの向こうから経緯を窺う気配だけはぷんぷん漂っているのだ。

 男はこの沈黙を、自分の行為を肯定するものと受け取ったらしい。先程よりもいくらか胸を反らし、泥棒は鞭打ちの刑だと言い放つ。少年が長い髪の下でビクリと震えると、まるで気を良くしたように唇を吊り上げた。

「鞭打ちは哀れだが、見逃せばまた盗みを働くだろう。だから俺がしつけてやるんだ。この親父も警吏けいりは呼ばないと言っている」

「え、そうなのか?」

 再びの問いにも、店主はやはり無言で目を反らすばかり。ファルハはますます顔をしかめてしまう。たしかに鞭打ちはかわいそうだが、この男に引き渡すことが、それよりましな処遇とも思えない。むしろその不穏な笑みを見ていると、もっとひどいことになるような気さえしてくるのだ。

 これで話は済んだと、男が少年の手を引っ張る。ファルハはとっさに男から少年へ、少年から店主へ、そこから地べたで無残に潰れている桃へと視線を巡らせ――そして、よしと大きく頷いた。

「この桃、俺が買おう」

 は? 同時に間抜けな声を上げる男と店主に、ファルハはにっこりと笑いかける。

「旅の人、あんたのおかげでこの店は盗みの被害を免れた。そして親父さん、あんたが警吏を呼ばないと言うから、この子は鞭打ちの刑を免れた。ふたりともすばらしい行いだ。この世のどんな神様だって手を叩いてくださる紛うことなき善行だよ」

 声を張り上げて褒めたたえると、ふたりはどこか居心地悪そうに目を泳がせた。それにかまわずファルハはさらにおおげさに言う。なのに店主は桃をひとつ駄目にして、旅の男は泥棒のしつけを引き受けることになってしまった。善行の報いに損を得るなど、そんな理不尽があっていいはずがない。だから自分がふたりの損を肩代わりしよう、と。

「そうすりゃ親父さんは桃の代金を手に入れる。そんでこれは店から盗られたものじゃなくて、俺がこの子にあげたものってことになる。泥棒はいなかったことになるから、あんたが面倒を負う必要もなくなる。俺は財布がちょっと軽くなるが、善いことをして気分がよくなる。みんながみんな、損がひとつに徳がひとつだ。それでいいだろ?」

 言うが早いかファルハは硬貨を一枚、店主に投げて渡した。そして呆気に取られている男の手首を掴む。あまり手加減せずに。

 呻き声を上げて、男が手を離した。ファルハはすかさず少年の手を取る。

「どうぞ、よき旅を《 トレックサーラ 》」

 有無を言わさぬ笑顔と旅人への決まり文句を置き土産に、ファルハは少年を連れ、市場を後にした。

 

 交易の町に数多あまたあり、旅人が試される場所といえば市場とラクダ屋、それに宿屋だ。旅慣れた者なら馴染みのひとつも作っておくのが嗜みというもので、ファルハもあちこちの町に定宿じょうやど)を持っている。基準はいつも、安さと清潔さ、それから飯の旨さだ。

 そんな気に入りの宿の食堂に腰を落ち着け、ファルハは大きく溜息をついた。

 なりゆきで連れてきてしまった少年は、宿に着くまで一言も喋らず、逃げる素振りひとつ見せなかった。風呂や着替えを勧めても、返事どころか指一本動かさない。だが、もしやそういうたちなのかと思ったファルハが、手伝ってやろうとした途端、暴れ出したのだ。

 ただでさえ部屋に据え付けられた浴室は狭く、大柄なファルハは身動きしづらい。そのうえ少年が虻に刺されたラクダのごとく大暴れしたので、ファルハは打ち身に擦り傷引っかき傷に歯型までつけられて、満身創痍の疲労困憊。腹の虫も瀕死の有様である。

 だがまあ、抵抗もしたくなるだろう。やっとありつけた黒麦酒ビールを呷りながら、ファルハは向かいの席にちんまりとおさまった少年を眺める。全身を綺麗に洗って長すぎる髪を切りそろえ、清潔な麻の古着に着替えると、彼は生まれ変わったように変身したのだ。

 まだ少し上気している頬は象牙のなめらかさ。歪みのない鼻梁をたどれば晴れやかな額が広がり、弓形ゆみなりの眉が左右対称に伸びている。濃いまつげのヴェールの下では、大きな瞳が灯りを反射して澄んだ紫水晶アメジストのように輝いている。

 そして、なによりも髪だ。灰色かと思っていたそれは、月光をったように見事な白銀だったのだ。

 ついさっきまで巨大な埃か、不器用な蜘蛛の編んだ巣かという格好だったのが、今は姫君のために作られた贅沢な宝石人形のようではないか。ホンモス豆の塩ゆでを頬張りながら、ファルハはいっそ呆れる心持ちになる。あちこちから視線が飛んできては少年に当たるのが、目に見えるようだ。料理を運んできた給仕の動きも、こころなしぎこちない。

 あんなぼろを着るような生活を続けてきたのなら、たしかにこの顔は隠すのが正しい。未熟な身体の線と相まって少女と見紛うこの美しさは、人の邪な心を簡単に引き寄せてしまうだろう。市場で会った男の不穏な笑みを思い出し、ファルハはもう一度溜息をつく。彼がどんな「しつけ」を企んでいたのか知らないが、やはり強引に連れてきてよかった。

「なにはともあれお疲れ様だな、お互いに」

 やっと料理が揃ったので、ファルハは冗談めかした嫌味とともに、模様のすりきれた取り皿を少年の前に置いた。それからミントをたっぷり入れた紅茶も。乾杯の仕草をしてみせたが相手が応じないので、あっさり諦める。それより早くかわいそうな腹の虫をなだめてやろう。スープをよく吸った羊肉に、香りよい葡萄の葉を巻いたもの。サフランを効かせた粒パスタ炒めに、脂のしたたる串焼肉ケバブ。それから皮がぱりぱりになるまで焼いた鳩の、ハーブ詰め。どれもファルハの好物だ。順に味わって、黒麦酒で流し込む。初めて頼んだ挽肉のパイも、さくさく香ばしい皮と甘い香辛料を利かせた肉の味が絶妙に旨い。

 しばらく舌鼓を打っていたファルハはしかし、途中でふと顔を上げた。なんの音も聞こえないと思ったら、少年は料理に手を出していなかった。風呂場で見せた獰猛さはどこへやら、両腕をだらりと身体の脇にたらしたまま、表情ひとつ変えないその様子はまさに人形そのものだ。

 桃を盗もうとしていたくらいだ、腹が減っていないわけではあるまい。試しに串焼肉を鼻先に差し出すと、小さく鼻孔が動いた。ではなぜ食べようとしないのか。

 オリーブとトマトのオムレツを飲み下し、ファルハは口を開いた。

「あのな、これは俺のおごりだよ?」

 象牙の頬が一瞬ぴくりと動いた。が、まだ少年は手を出さない。ありありと浮かぶ疑念の色に、確信を持つ。どうやら強請ゆすりか人買いの類だと思われているらしい。

「そうだ。自己紹介をしようか」

 つとめて明るく、ファルハは言った。

「俺はファルハ・ファルハーン。一族の言葉で『陽気な鳥』って意味だ。町から町に塩や香辛料、陶器に織物、道案内に用心棒の腕まで。なんでも売り歩いてる、根っからの砂のサフラーウィさ」

 紫水晶の瞳が少しだけ動いて、ファルハは得たりと笑う。この地方の町という町は広大な砂漠に点在しており、隣町に行くだけでも数日はかかる。生まれた町から一歩も出たことのない者も多く、ファルハのような行商人から異国の話を聞きたがるものなのだ。

「昨日まで沙漠を歩いていたから、人恋しい気分なんだよ。後でふっかけたりしないからさ、食事につきあってくれよ町のワルドゥマディ。旅の話でもさかなに、な?」

 にこやかにたたみかけると、少年の表情が揺れた。上目遣いでこちらを窺う視線に応えて、ファルハは自分の顔が優しく見えるよう最大限の努力を続ける。

 やがて、ほっそりした手がそろそろと動いた。琥珀色のグラスが卓から少し浮いたところで、ファルハはすかさず自分の杯を近づける。乾杯。チィンと響いた音に少年はほんの少し身を引いたが、それでもようやくグラスに口をつけた。

 こくりと上下した喉に、ファルハは胸を撫でおろす。まさかこんなに警戒されるとは。この道に入って十年と少し。誰とでもすぐ仲良くなれる性格と人好きする笑顔が己の武器だと思ってきたのに、その自信が今日初めてちょっと揺らいでしまった。

 一度食べはじめると、少年は黙々と手と口を動かしつづけた。美味しいのかそうじゃないのかさっぱりわからない無表情だが、少なくとも熱心に食べてはいる。タジン鍋からよく煮えた芋とインゲンを取り分けてやると、礼も言わずに受け取った。可愛げのない態度だが、人形のように無気力でいられるよりはずっとましだ。愉快な気分でファルハは酒と料理の追加を頼み、自分も魚のフライに手を伸ばす。人恋しい云々は口実だったが、食事というのはじっさい、ひとりよりふたりの方が楽しいものである。あちこちに出来た細かい傷も、もう気にならない。

 もぐもぐと口を動かしながら、少年がこちらを見た。目が合ったので笑んでやったら、ふいと反らされた。だがまたすぐに目が合う。

「なんか食べたいものでもあるか?」

 小さな頭が左右に振れる。ではなにか聞きたいことでもあるのか。そう尋ねると、少年はようやくまともにファルハを見た。

「……み」

 喉につかえた言葉をいったん呑みこみ、少年は紅茶で口と舌を湿らせた。くっと小さく喉が上下し、蓮の花弁のような淡い色の唇がもう一度、ゆっくりと開く。

 薄い玻璃の杯を、指先で弾いた音のような、澄んだ声が言葉を奏でる。

「道案内とは……どんなところにでも、連れて行けるのか」

「そうだな」

 やっと聞くことができた少年の声に内心感動しながら、ファルハは答えた。この広い沙漠地方なら、端から端まで行ったことがあると。

「まだ海を越えたことはないけどな。なんだ、どこか行きたいところがあるのか?」

 少年は頷き、沙漠に行きたいと言った。第四夏季シャアバーンの、夜の沙漠へ行きたい、と。

「私は、もうずっと長いこと『永遠の放浪者ガジャルラサン』を探しているのだ」

 意外な言葉に、ファルハは黒炭色の右目を大きく見開いた。


 沙漠を渡る旅の途中で息絶え、誰にも葬られず砂に還ると、魂は帰り路を見失う。そして風に吹き寄せられる砂のように集い、隊列を組んで月の沙漠を歩き続けるという。それが『永遠の放浪者ガジャルラサン』――伝説ともおとぎ噺ともつかないこの話は、信じる神の名や国の名に関係なく、この地方に古くから伝わっている。

『永遠の放浪者ガジャルラサン』の当てあ どもない旅を終わらせる方法はただひとつ、生者を身代りにすること。だから旅人は彼らに見つからないよう、月の明るい晩に歩くのを避けるのだ。

 それを探しに行くとは。

「豪気だなぁ」

 ファルハは串焼肉ケバブをくわえたまま、感嘆と呆れの混じった声を発した。一年でもっとも長い夏季のうちでも、もっとも乾燥し空気の澄む第四夏季シャアバーンの夜は明るい。満月ともなれば灯りなしでも遠くまで見渡せるので夜間も移動しやすく、急ぎの旅には向いている。だが逆に盗賊に遭う危険も高いので、恐ろしい亡霊の言い伝えなど信じなくても普通は避ける。

「それで、どこの沙漠のどの辺に行きたいんだ?」

 大きな瞳がぱちくりと瞬く。どこ、とは……。小さく呟くのを聞いて、ファルハは半分ほどに減った粒パスタをちょいちょいと匙で動かし、皿の上に地図を描いてみせた。

「いいか、この大きな塊ふたつに挟まれた、縦長の塊が、俺たちが今いる場所だ。大きい陸地の半分くらいだから、俺たち旅商売のもんは『半島』って呼んでる」

 この町はこの辺にあると、ファルハはその半島の上端にホンモス豆をひとつ置く。

「で、沙漠はここいら一帯だ」

 そう言ってパプリカ粉を、粒パスタの陸地に振りかける。少年が息を呑んだ。無理もない。赤く染まっているのは左の大きな塊の上半分に、右の大きな塊の下半分。それから自分たちがいるといわれた半島の、ほとんどの部分なのだから。

「ここだって沙漠の町だし、地名がわからなくても目印さえありゃ案内できなくもないけど」

 どうだと問いかけるも、呆然とした様子を見るかぎり期待はできないだろう。案の定、やっと開いた唇からこぼれたのは、なんとも曖昧な言葉だった。

「……ラグナーンを、知っているか」

「ラグナーン? 二十年ほど前に滅びたラグナーン王国か?」

「そうだ。そのラグナーンの南にある、沙漠だ。白い砂の丘が、どこまでも続く……」

「ならタブディールだ。他に、わかることはあるか?」

 銀の髪が左右に揺れて、ファルハは顔をしかめる。タブディールと呼ばれる沙漠はこの半島でもっとも広く、もっとも乾いた白砂漠だ。立ち寄ることのできる町やオアシスもない、太陽から身を隠せる木すら生えていない。そのうえ第四夏季シャアバーンか。

「別の時期じゃ駄目なのか?」

「駄目だ。第四夏季シャアバーンでなければ」

「タブディールのどの辺りが目的地かは、わからない?」

「そなたこそ道案内を商いにしていて、『永遠の放浪者ガジャルラサン』がどこにいるのか知らぬのか」

 無茶が過ぎて、高慢な物言いにも怒る気すら起きない。

「うーん、そうか……第四夏季シャアバーンのタブディールに、あてなき月夜旅か……」

「行けぬと言うか」

 返事をためらうファルハに、少年がまた言う。問いというよりやはり、詰るような調子だ。とても人に物を頼む態度ではないが、品良く澄んだこの声に、この古めかしくも高飛車な物言いは合っている。容姿とも相まって、王侯貴族とでも話をしているような気分だ。

 呑気なことを考えてる頭の反対側で、ファルハは少年の要望について一考する。串から引き抜いた羊肉をもぐもぐと咀嚼し、飲みこみ、二杯目の黒麦酒を干す間、ずっと。

 そうしてやっと、行けるよ、と答えた。少年が瞳を輝かせる。だが。

「でも、タダじゃ無理だな」

 そう付け加えた途端、紫水晶に初めて宿った光はすうっと消え失せた。

「……金か」

「ああ。俺は商人だもの。道案内は飯の種のひとつさ」

 少年から漂う蔑みを察したうえで、ファルハは笑顔で応じる。乱暴な男から助けたから、食事もおごったのだから、ついでに危険な夏の月夜の沙漠まで連れて行ってやろうだなんて思わない。飯の種のひとつと言ったが、客の命と財産を預かる沙漠超えの旅は、ファルハの扱う商品の中でもっとも比重の大きな種なのだ。

「俺はこの仕事に誇りを持っているから、ただ働きは絶対にしない。人の誇りを軽く見積もる奴とも、商売はしない。そう決めているんだよ」

 少年は言い返さなかった。不満げな表情のまま、なにかを考えているようだ。その様子に、ファルハは満足する。耳を塞いで自分の言い分だけを訴える子どもだったら、ここでおしまいにするつもりだった。

「……幾ら払えばいいのだ」

 少年がやっと口を開いた。ざっとこのくらいかな。ファルハが示した金額を聞いても、少年は高いとも安いとも言わない。相場がわからないのだろう。あんたが盗もうとした桃が半年間、毎日朝夕食べられる値段だと言って、初めて頷いてみせた。

「払えるかい?」

「私には持ち合わせがない」

「そうだろうな、うん」

 あったら盗みなど働くわけがない。わかった上で尋ねたのも、相場を説明したのも、それでも自分と商売の話をする気があるか確認したかったからだ。

 だがファルハが交渉をもちかける前に、少年は意外なことを言い出した。

「そなたのあたいはわかった。雇ってやるから、ここで待っていろ」

「へ? おい、ちょっと……」

 少年が立ち上がり、そのまま宿を出ていく。おい待てと呼びとめても振り向く気配すらなく、ファルハも慌てて席を立った。顔馴染みの給仕を見つけ、すぐ戻るからテーブルをそのままにしておいてくれと頼む。

 だが給仕の男は、やめておけとファルハを止めた。

「『呪われた物乞い《シャハトラァン》』に関わっちゃ駄目だよぅ」

「なんだ、そりゃ?」

罪人つみびとだよぅ」

 若い給仕は声をひそめて、そう言った。けがれの罪を犯して神に嫌われ、大切なものを奪われた者だと。

「穢れの罪ってなんだい?」

「色々だよぅ。肉親殺しとか姦淫とか、聖典で禁じられていることをすると、女神さまを侮辱したことになるんだよぅ」

「ふぅん。じゃあ、大切なものを奪われるっていうのは?」

「それも色々だけど、あいつはきっと若さを奪われたんだよ。ガキなのに、年寄りみたいな髪しているだろぉ?」

 関わったら神の怒りを買う。だから放っておけ。しきりと目を擦り、口元を拭いながら、若い給仕は訴えてくる。その様子は真剣そのものだ。なるほど、彼が料理を運んでくるときに妙に緊張していたのも、周囲の視線がこちらに集中していたのも、べつに少年の美貌にあてられたわけではなかったのか。

「わかった。教えてくれてありがとうな」

「ん、ああ。あんた、常連だからさ」

「けど俺は根っからの『砂のサフラーウィ』だからさ」

 町のワルドゥマディの神には膝をつかない。荒っぽく笑ってみせると、給仕は怯んだように肩をすくめた。すかさずいつもの顔に戻り、ファルハは男の手に小銭を握らせる。

「テーブル、よろしくな」


 陽はとうに落ちて、四角い建物の並ぶ町は切り絵のようだった。宵闇を吸いこんで青い泥漆喰の壁と、橙色に揺れる店の灯りの間に、行き交う人の顔が浮かんでは沈み、沈んでは浮かぶ。今日の宿に向かう者、夜店をひやかしに行く者、一日の商いを終えて家路を辿る途中の者もいるだろう。

 こうして眺めているかぎり、誰も彼もが善良そうだ。いや、きっとほとんどの人が、たしかに善良なのだろう。あの給仕だって気の良い男で、だからこそ馴染みの客に彼なりに精一杯の忠告をしてくれたのだろう。わかっていても気分は重く、ファルハは荒い足取りで人波を掻き分ける。

 沙漠は過酷だ。知恵と経験を備えた老練な旅人にも、高い塀と地下水路に守られた町の中にさえも、禍は砂のように静かに近づいてきて、風のように一瞬で幸せを奪い去る。

 その恐ろしさに人ならざる者の影を感じるのも、どうか近づいてくれるなと祈る気持ちもわかる。けれど怯えるあまり、理屈のわからないものすべてを神の怒りだ魔物の呪いだと騒いで、遠ざけようとするのは気に食わない。特に、人に関することでは。

 勢い任せに角を曲がると、肩にドンッと衝撃が来た。同時に聞こえた声にファルハは我に返る。顔を上げると、肩を擦るフードの人物がいた。

「――おいおい。どこの乱暴者かと思えば、おまえかい」

 ファルハが謝る前に、そいつはククッと笑って指先でフードを少しまくってみせた。ちらりと覗いた顔は、昔馴染みの男のものだった。

「アレックじゃないか、何年ぶりだ」

「嬉しいねぇ、覚えていてくれたかよ小鳥ちゃん」

 ニヤリと口の端だけを上げ、ファルハの名をもじって似合わない渾名をつけてからかう。変わってないなぁと笑い返し、互いの右手を叩き合せた。

「悪いな。せっかくの再会だけど、今ちょっと人を探してるんだ」

 ついでだから、銀髪の美少年を見かけなかったか聞いてみる。するとアレックは、小さく吹き出した。なにがおかしいのかさらに尋ねると、なんと彼は人伝てに、市場での出来事を知っていたのだった。

「町一番の厄介者を掴まされた、間抜けな旅人ってのはどんな顔をしてるかと思ったが」

「こんな顔だよ、とくと見ろ。――厄介者って、どういう意味だ?」

「言葉どおりさ」

 フードの下で腕を組み、壁に軽くもたれてアレックは笑みを深くした。こういう顔をした彼が語るのは、大抵が穏やかじゃない話だったはずだ。ひそかに気を引き締めるファルハに、年上の友人はさらりと例の言葉を口にする。

「あれは『呪われた物乞い《シャハトラァン》』――女神アデーラの怒りをかった罪人さ。アデラーダ教徒が大半を占めるこの町じゃ、疫病持ちみたいに忌み嫌われてる」

 ただの物乞いや罪人なら、追い払うこともできる。だが神が怒りの手で触れたものには、どんな形であれ皆、関わりたくない。だから勝手に納屋で眠られても、食べ物をひとつふたつ持っていかれても、文句も言えないのだ。

「小金持ちの連中は異教徒を雇って用心棒にしているが、普通は厄を払うといわれるエイゼルの小枝を挿しておくくらいだな」

 知らなかったのだろうと聞かれ、ファルハは素直に頷いた。この町には行商を始めた頃から何度となく訪れているし、さきほどの給仕以外にも、かの神を信じる知人は大勢いる。それにも関わらず今日まで『呪われた物乞い《シャハトラァン》』を知らなかったことが、ファルハには少なからず衝撃だ。訪れた場所の風土や文化、人々の気風を良く知ることは、行商の基本だというのに。

「気にすることじゃない。『呪われた物乞い《シャハトラァン》』は、アデラーダ教の禁忌のひとつだからな。その名や話題に触れるだけでも呪いが移るといって、仲間内でも滅多に口にしないのさ」

 しきりと目や口を拭っていた給仕の様子を思い出す。あれは汚いものを見たり不吉な話をしてしまったときにアデラーダ教徒が行う、厄払いの仕草だ。相当に勇気出して忠告してくれたのだろうに、突っぱねるような態度をとってしまったことが申し訳ない。戻ったら改めて礼を言おう。

「アレック、もっと詳しく教えてほしい」

 懐にしまってあった財布に手を伸ばす。彼はアデラーダ教徒ではない。それなのにこんなことを知っているのは、この男が情報屋だからだ。しかも禁忌や秘事にめっぽう強い。この手の相場はいかほどだったか。頭の算盤を弾きながら財布をまさぐるファルハを、旧知の友は押しとどめて笑う。

「せっかくの再会だ、野暮はよそうぜ小鳥ちゃん」

 今度の笑みには少し親しみを感じる。そういえばこいつは「仕事と娯楽は紙一重」という男だった。自分の主義とは正反対だが、それを通そうとすれば返ってなにも話してくれなくなる。

「なんでも聞きな。なにが知りたい?」

「あの子は本当に呪われていると思うか?」

 いきなり核心かよ。おおげさに驚いてみせたアレックはしかし、不敬だとは言わない。代わりに面白がるように目を細めて、聞き返してくる。

「そんなふうに尋ねるってことは、おまえの中じゃ八割方、答えは出てるんだろう?」

「……宿屋の馴染みが、あの子は若さを奪われたと言っていた。けど、どう見積もってもあの子は十五より上には見えなかった」 

 若さを奪ったというなら、しわやシミができたり腰が曲がったり、もっと身体中に老いが広がるものではないか。ファルハは風呂であの子に触れている。痩せてはいたが、肌の張りも髪の艶も、老人のものとは思えなかった。苛烈なアデーラ女神の呪いが、髪の色だけを変えて終わりというのは、あまりに不自然だ。

「それに、あんな子どもが禁忌と呼ばれるほどの罪を犯すかな」

「おいおい、十五の頃の小鳥ちゃんは、そんなにイイコだったか?」

「まぜっ返すな。――アレック、おまえが前に話してくれただろう。海の向こうの大陸の、遠い北の果てに住む人たちは、髪も瞳も薄い色をしてるって。あの子はその血を引いてるだけじゃないか?」

「そうかもな。だがそんなことは『清らかな神のナティーヤアナ』には関係ないさ」

 信じる神の言葉より尊いものも恐ろしいものも、存在しない。見たこともない北の果ての異教徒など、なんなら全員『呪われた物乞い《シャハトラァン》』だと言い出しかねない頑迷さが、連中にはあるのだ。辛辣に言い捨て、アレックはファルハの肩に手を置く。

「どうしてやりたいのか知らないが、深入りはやめとけ。下手すりゃ商売相手を山ほど失くすはめになるぞ」

 この町だけではない。アデラーダ教は、半島の北半分のほとんどの国で信仰されている。あの少年を連れて旅をすれば、それらの国で商売することが難しくなるのは明白だ。商人としては取るべき選択肢ではない。

 けれどファルハはやはり笑って礼だけを述べた。

 どこかで予想していたのだろう、アレックが肩をすくめる。

「後悔するぞ――なんて捨て台詞は吐きたくねぇな」

「ああ。おまえの美意識に反することはさせないよ」

 笑顔で再会を《ワラァクマデラーン》。拳を軽くぶつけ合い、旧友とはそこで別れた。


 彼と話が出来たおかげで、先程まで感じていた苛立ちが治まった。ファルハはすれ違う中から、明らかに異教の民とわかる人々を選んで声をかけ、銀髪の美少年を見なかったかと尋ねて歩く。

 こういうことに目が利くのは、長い行商生活の賜物だ。さっきの話ではないが、十ニの頃から父の仕事について回り、十五で後を引き継いで今日までやってきた。顔立ちも肌や目や髪の色、言葉や食べ物、信じる神の名も違う様々な人々と関わった。中には恐ろしい奴や狡い奴、今思い出しても腹が立つような奴もいた。けれど誰に出会ったことも、悔やんではいないのだ。

 ――もし二度と会いたくないような奴に出会っても、それはそれでおまえの中に、なにかしらの経験を残してくれたと思えばいい――父のその言葉が、ファルハの旅の指針だ。

 ――たとえ進んだ道の先で闇夜の砂嵐に巻かれても、幸せの星を見つけ出せるのがあなたという子――母のその言葉が、ファルハの心のよすがだ。

 昼間と違う顔を見せる市場を抜け脇道に折れると、高い塀に挟まれた間口の狭い店が並ぶ区画に辿りついた。ここには貴金属や宝飾品など、高価な品を扱う店ばかりが集まっている通りで、客の様子も市場とは少し違う。

 あまりキョロキョロしていると怪しまれるので、周囲に合わせて歩く速度を落とす。店先をひやかすふりで進んでいくと、ようやく三軒先に探していた銀色を見つけることができた。

 ファルハは思わず安堵の息を吐く。だが次の瞬間、その息をひゅっと吸い込むくらい驚くことが起きた。

 少年が、目の前に並んでいた金細工をいきなり鷲掴みにしたのだ。

「おっ、おいこらっ」

 慌てて止めに入ると、少年はひどく驚いた顔で振り返った。そのうえ、なんと店の主までもが同じ表情だ。市場での出来事を再現しているような状況に、ファルハは盛大に顔をしかめる。今しがた旧友から聞いた話を思い出して、嬉しくない納得をした。

「なぜ止める。報酬が欲しいのだろう?」

 金細工を返し、市場の近くまで連れ戻したところで少年がそう言った。

「俺は盗品を受け取る気はない」

「盗品ではない。この町で私に奪われたものを返せという者などいない。訴え出たとしても、警吏が相手にしない」

「だから盗品扱いじゃないって?」

 ファルハは急に痛くなったこめかみを、指で揉む。盗みに対する罪悪感が、少しもないではないか。一体いつからこの少年は、こんな生活をしてきたのだ。忌避されているのをいいことに――いや、まさかそれにも気づいていないのか――物を盗んで暮らして。そして運が悪いときは、昼間の男のような異教徒に捕まったり、追い払われたりして。

 これは駄目だ。本当に駄目だ。渋面のまま見つめると、少年がビクリと首をすくめた。殴られるのを覚悟するようなその反応が、ファルハの想像が正しいと証言しているようだ。

 なにもされないことに気づいた少年が、おどおどと顔を上げる。だが視線はファルハに向かない。怯えを表すまいと務めた無表情の中心で、目だけがふらふらとさまよっては、ときどき窺うようにこちらを掠めるのだ。

 口調こそ居丈高だが、これはかしづかれることに慣れた者の態度ではない。物心つく前に没落し、離散した貴族階級の子どもといったところか。

 なんにしても、このまま『呪われた物乞い《シャハトラァン》』として暮らしていては駄目だ。

「――『永遠の放浪者ガジャルラサン』を探す理由はなんだ?」

 唐突な質問に聞こえたのか、きょとんとした顔がやっとまっすぐ向けられた。

「……話せば、無償で連れていくか」

「それは聞いてみないとわからない。どうしても連れていく必要があるなと、俺に思わせる理由なら、話してみな」

「……」

 少年は一瞬こちらを睨み、それからまた視線を逸らして、答えた。

 呪いを解くためだ、と。

「『永遠の放浪者ガジャルラサン』に会えば、神に許されて呪いが解ける。私はあるべき姿になれる」

「そりゃどういう理屈だ? 『永遠の放浪者ガジャルラサン』はアデラーダ教とは、なんの関係もないだろ。なんで砂漠の亡霊を探したら、アデーラ女神が許してくれるんだ?」

「私が呪われることとなった原因が、『永遠の放浪者ガジャルラサン』にあるのだ」

 これ以上詳しい話はできない。言えば今以上に神を怒らせてしまう。呪いを解く機会も永遠に失われてしまう。少年はそう言うと、掬い上げるようにこちらを見た。用心深い目つきだ。子供らしくない表情だな、とファルハは思う。

「さあ、どうだ。私を連れていく気になったか」

「そうだな……とりあえず亡霊を探しに行きたいと言うのが、ただの酔狂じゃないことだけはわかった」

本当は盗癖のある者など、呪われた者よりもはるかに厄介だ。けれど今この子を放りだしてしまうことは、もうファルハにはできない。そんなことをしたら、もうあの店の羊肉も黒麦酒も、今後この町で口にしたなにもかもが砂の味になるだろう。

ファルハは身を屈め、真正面から少年の視線を捉えた。少年はまたビクリと震えたが、今度は目を逸らさなかった。

「金はいらない。けど、ただでは連れて行けない」

「……では」

「だから俺は、あんたを雇おうと思うんだが、どうだい?」

 ちょうどファルハは明日からまた、旅に出る予定だった。商人をふたり、彼らの故郷まで送り届ける、そこそこに長い旅だ。この町に戻ろうと思ったら、復路でちょうと第四夏季シャアバーンにあたるし、目的の沙漠を通ることもできる。

「亡霊に会えるかどうかは正直、運次第だがな。それでもいいなら、雑用係として連れてってやるよ」

 ただし、と。少年が返事をする前に鋭く付け加える。

「俺といる間、絶対に盗みをしないこと。言われた仕事はちゃんとやること。なに、難しい仕事はないし、わからないことや困ったことがあったら、なんでも教えるさ」

 どうだ、条件を飲むか。ファルハの問いに、少年が大きく頷く。

「あ、それと『そなた』って呼び方はやめてくれ。なんかこそばゆい」

「わ、わかった」

「よし、じゃあ最初の仕事だ。あんたの名前を教えてくれ」

まさか『呪われた物乞い《ガジャルラサン》』じゃないだろう。冗談めかして尋ねると、少年は少し戸惑ったような顔をした後、ゆっくりと口を開いた。

「……カマル・アルファジャル」 

「『夜明けの満月』か。良い名だな。よろしくカマル」

 少年――カマルは今度は小さく頷き、差し出された手をおずおずと握った。

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