第6話

***


 その日の私はとても幸せでした。世界で一番幸せだと思っていたくらいです。父が、私の為に休みを取ってくれて、あまり仕事の休めない父だったので、本当に久しぶりに遊べることになったんです。丸一日ですよ。子供にとっては大事件です。滅多に会えない父と一日を過ごせるなんて。

 母もね、凄く優しく見守ってくれて。私と父はその日をどう過ごそうかって、あれはどうだろう、これはどうかな、って作戦会議をしました。……でもふと匂いがしたんです。そう、雨の匂い。私は言いました。お父さん、今日は雨が降るよ。でも父も母も信じてくれなかった。何を言ってるんだ、こんなに良い天気じゃないか、雨なんて降る訳がないわ、って。そりゃそうですよね。天気予報だって晴れなんです。子供の言葉なんて信じる訳、ないですよね。

 そんな訳で、まず私は父と公園に行きました。近所にそこそこ大きな公園があったんです。滑り台、ブランコ、シーソー、ジャングルジム。一人で遊ぶのはハードルが高くて、私はあまり好きじゃなかったんですが、その日は別です。だって父がいるんですもの。

 全部の遊具を制覇するつもりでした。それぞれを建物や障害物に見立てて、父と戦闘ごっこみたいなことをしながら走って飛んで、登って下りて、沢山たくさん笑いました。

 そんな中、携帯電話が鳴りました。父の携帯です。嫌な予感がしたのと同時に、雨の匂いも強くなりました。私はそれを振り切りたくて、ジャングルジムに登って。

 案の定でした。父は職場から緊急の呼び出しを受けたんです。今すぐ帰って仕事に行かないといけない、と、父はとても悲しそうな顔でいいました。優しい声でした。でも私は嫌だった。ジャングルジムの天辺から叫びました。嘘つき、と。父さんなんて嫌い、と。……死んじゃえ、と。

 雨の匂いは、現実になりました。雨が降り出す中、父は私の説得を諦めて、帰ることにしたんです。きっと自分が動けばついてくると思ったんでしょうね。振り返りながら遠ざかる父の背中を見ながら、私は動きませんでした。公園の出口から父が私の名前を呼んで、そして、手を振って。


 それが、父の最期の姿です。


 父は車に跳ねられました。私はそれを呆然と眺めていました。ジャングルジムからどう下りたのかも覚えていません。


 気が付いた時には、父はもう、お骨になっていました。母が鬼の形相で私を睨み付けて言いました。お前のせいだと。お前が父さんを死なせたのだと。

 その通りだと思いました。だって私は言ってしまったんです。あの日、あの悲しそうな父に向かって。死んじゃえって。だから父は死んでしまった。私の言葉の通りになってしまった。

 謝りたくても父は、もう。

 母とはろくに話もしていません。嫌われたままです。

 言葉の重みを知ってからは、誰かと関わるのが恐ろしくて、友達だって避けてきました。

 本当は今だって、あなたと話すのは恐ろしい。また何かやってしまうのではないかと怯えているんです。


***


「……気持ちは嬉しいです。私も初めて、こんな気持ちになれたんです。……でもそれ以上に、私は、あなたに触れたくない。触れられたくないんです。怖い。また何かを失うのは、耐えられない」

「……それが、雨のことも嫌いな理由なんだね?」

「……はい。雨は嫌なものしか連れてきませんでした」

「俺は?」


 ハッと気付く。


「俺は、嫌なもの、だった?」

「あ……いえ、そうじゃ、」

「分かってる。怒ってるんじゃなくてさ。……今すぐには無理だと思う、けど。でも、少しずつでいいから好きになってみないか。雨のことも、……自分のことも」


 驚いた。自分のことを好きになってもいいという言葉に。


「……好きに、なれるでしょうか」

「なれるさ。君は俺に希望を見せたんだから」

「希望、だなんて大袈裟な。でも……有難うございます。私、あなたに出会えて良かった」

「うわ、何その殺し文句」

「えっ、その、そんなつもりじゃ……!」

「天然か……天然なのか……」

「だからそんなんじゃあ……!!」


 雨はいつの間にか止んでいて、辺りには光が戻っている。


「行こうか」

「……はい」


 私にはまだ、この15cmを縮める勇気はないけれど、いつか、もう少しずつでも近付いて、そうやって何かが芽生えていけばいいなんて、思ってしまう。

 幸福はいつ失ってしまうか分からないからこそ、幸福なのかもしれない。幼い私は怯えたまま、静かに「私」を呪っているけれど、私はもう大丈夫な気がする。だって、こんなにも雨上がりの匂いが澄んでいるんだもの。


「そういえば自己紹介がまだだね」

「そうでしたね。こんなに沢山話しているのに、不思議」

「俺は大地。矢内やない大地だいち

「私は雫です。夏木なつきしずく

「ていうか、いつの間にか敬語止めてるし俺。……俺って言ってるし。なんかごめんね」

「いえ……!自然な感じで、とてもホッとします」

「……雫ちゃん、君ってほんと、無自覚天然天使すぎない?」

「何ですかそれ!」


 心の蓋は今はまだ閉じていたい。でもいつかちゃんと向き合おう。向き合えたら、話をしなきゃいけない人が、いるから。

 そしていつか。


「君がもう少し大人になったら、お母さんに会わせてくれる?」

「……気が早い……!」

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夏色ペトリコール。 空唄 結。 @kara_uta_musubi

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