第5話
雨が降り出す前に着いておきたくて、必死になって走った。動悸も眩暈も無視して、とにかく急いで。その甲斐もあってか、私は初めて無人のままのこの場所に辿り着くことが出来た。着くのとほぼ同時ともいえる絶妙なタイミングで雲は我慢するのを止めたのか、天候は一気に崩れた。慌てて走る人の足音や、車の行き交う音がまだ煩く響いている。私の周りだけが静まり返り、もう既に隔離されたようだった。
雨は嫌いだ。濡れるのも、音も、匂いも。孤独を煽り、不安を増幅させるだけの雨が、私は嫌いだ。
それでも、少しだけでも好きになれたのは、彼の話を聞くことが出来て、彼がいてくれたからなのに。いないのならそれは、元通りになるだけ。私は雨が嫌いなまま。
こんなにも染まってしまった自分は、痛いほど愚かで、憎らしい。何一つ知らない相手を想うなんて馬鹿なこと、ある訳がないと思っていたのに。何処かで聞いたフレーズを思い出す。恋はするものじゃない、落ちるものだ。今なら馬鹿になんてしない。本当にその通りだと思うから。自分ではどうにも出来ない想いに振り回されて、私は、自分がどんどん制御不能になっていく。無力さに悩まされている。
いつの間にか、雨は強さを増していた。彼は、来ない。私はズルズルと座り込み、膝に顔を押し付けて、丸くなる。体育座りの一歩手前、お尻だけは浮かせている体勢で耳だけを研ぎ澄ませ、思考の海に飲み込まれるがままになる。
雨は嫌な記憶ばかり引き摺り出してくる。かくれんぼをしていたのにいつの間にか誰もいなくなっていた放課後とか、大切に育てていたサボテンが飛ばされた台風一過の朝とか、失くしたプリントを見つけるまで許してもらえなかった日のこととか、こっそり餌をあげていた仔犬が消えていた夕方とか。それらは全部雨が付き纏う記憶。
それから、と考えていたところで、足音に気付いた。それはとてもゆったりとしていて、微かな音。雨音に簡単に消えていきそうなほどに小さな音。けれど、分かる。これは、あの人に違いない。去っていく時しか聞いたことがないけれど、きっとそうだと思う。
顔を上げて確かめたい。けれど、今動いたら消えてしまうのではないかと思うくらいに頼りない。雨の音が煩くて、それ以上に私の心臓が、煩い。もう少しだけ静かにしてよ。
アスファルトと革靴がぶつかる。コツン、コツン。雨の中、それはそれはあまりにもゆっくりとしているから、きっと雨宿りしに来たのではないと思う。コツ、と私の前で音は止まった。ザァザァ、と、どくんどくん、が時間を支配しているみたいに、永遠に思えた。
「初めて」
声が、雨に乗って、降ってくる。
「負けましたね」
そろりそろりと顔を上げていく。見慣れた革靴に、仕立ての良いスラックスに少し雨が跳ねていて、上品なスーツと見飽きることなんてなさそうな指先と、それが持つ傘の柄と。
「ずっと……遅刻してしまったので、今日は、……今日こそは、遅れる訳にはいかなかったんです」
顔を見ることが出来ない。今見たら、泣いてしまう。
「素敵な心掛けですね」
くるっと背中を向けられ、思わず息を飲んだ。が、傘を畳む為だったようで、ぱちん、という音と一緒に彼は私の横に座り込んで雨宿りする。その距離、たった、15cm。手を伸ばさなくても、触れてしまえる距離。いつになく近くて、私の心臓は壊れてしまいそうだ。
「忘れられてしまったかと」
「そんなこと……!」
思わず叫んで、思いっきり目が合う。
怯む私を逃さないように、彼は更にじぃっと見つめてくる。
「ちょっと事情があって、来れなくて、その間ずっと、気にしてました。寧ろ、私の方が忘れられてしまったのではないかと思って、……怖くて、今日も迷って」
彼の瞳が揺らぐ。
「ごめん、追い詰めようと思った訳じゃないんだ」
指が伸ばされ、体が反射的に拒絶する。
「あ……その、」
私の反応に彼は指先を遊ばせた後、自分の膝に戻した。
「ごめん、あの、泣かないでって、涙を拭ってあげたくて」
そう言われて初めて自分が泣いてしまっていることに気付く。慌てて拭う。ごめんなさい、は余りにも小さくて雨音に消える。
「私、ずっと会いたかったんです、ごめんなさい、私、嬉しいのに、可笑しいな、何で泣いてるんだろう、嫌だったんじゃないんです、ごめんなさい、って、何言ってるんですかね、私」
「謝らなくていいよ」
その優しい声に余計に涙が止まらなくなってしまう。
「以前、約束したこと、覚えてる?」
「……え?」
「雨の後の匂い」
「ああ、勿論です。覚えてます」
彼は微笑んだ。良かった、約束を覚えていてくれんだね、ありがとう。
そんな風にお礼を言わなくちゃいけないのは、私の方なのに。
「ジオスミン、といってね。これはペトリコールほど良く分かってはいないらしい。地中の細菌が出す物質ということだけ。この物質そのものなのか、何かと反応するのか。兎にも角にも、ジオスミンは大地の匂い。だからあの日君のことを、センスがいい、と言ったんですよ」
「何故です?」
「まず一つは、そもそも雨の匂いを気にする人ってあまりいないような気がするから」
美しい横顔と、程よく響くテノール。雨音とも相まって、子守唄のように心地好くて、私は耳を傾けずにいられない。
「柔らかいような、包まれるような、そういう香りがする、って言ったから」
「……私、そんなこと言いました……?」
「言った。素敵な子だと思った」
心臓がまた跳ねる。
「……僕はね、君に初めて会ったあの日、人生を諦めようと思ってたんだ」
「えっ……」
「仕事で大きな失敗をして、それまで積み上げたものを全部失くして。もう自分には何もないって思った」
突然の告白に、さっきまでとは違う意味で心臓が痛いほどに震えだす。
「どうにでもなれ、なんていう投げやりな気持ちで、知らない道を歩いて、たまたまここで雨宿りをして。そうして君が飛び込んできた。君に出会ったんだ」
「ごめんなさい、私、何も知らなくて」
「違うんだ、そうじゃなくて。僕は君が羨ましくなったんだ」
「……私が?」
「雨を憎んでるみたいな君は、それでも何も諦めていない目をしていたから。気が付いたら、思わず声をかけてしまっていて。話せば話すほど分かった。君は」
とても優しい目が潤んでいるのを、見た。
「君はとても弱くて、強い子だって、そう思った。君のことを知りたいと思った。それに、君は僕の話を興味深そうに聴いてくれて、僕はまだ何か出来るんじゃないか、って思わせてもらった」
ありがとうと泣き笑うその顔は、今まで感じたことのないほど不器用で、それでいて今まで一番優しくて綺麗だった。可愛いとさえ思った。きっとこれがこの人の素の表情なのだろうと思ったら、私はまた泣けてしまった。
「僕は多分、君のことが好きなんだと思う。……君は?」
「でも、私、」
「今すぐどうこうなりたい訳ではないんだ。ただ、次の約束をする理由が欲しい。君とまた会えるっていう確証が欲しいんだ」
今すぐにでも頷きたかった。
でも。
「……嬉しい、です。凄く。私も多分、あなたのことが……。でも……だめです。私、約束出来ない」
「どうしてかだけ、訊いてもいい?」
私は、自分の心の奥の奥にしまっていた箱を開けなければいけない。そうしないと、進めない。
「……私、雨が嫌いなんです。とても……辛いことが、あったから」
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