第4話

 強制的な自主休業が三週間も続くと、流石に学校の方から連絡が入ったらしく、母親は心底嫌な顔をしながら学校に行くよう言い放った。やっと解放された。その喜びは半減、……いや、正直に言うとちっとも嬉しくなかった。私がこんなところでグズグズしている間に、梅雨はあっという間に去ってしまったのだから。

 天気予報はずっと晴れ。週間予報も、せいぜい曇りのマークがある程度。突然のにわか雨か何かに期待するしかない。でもそれだって望み薄だ。

 この間までは、それこそ連日の雨と再会で勢いがあった。また会えるだろうという予感もあった。今は、分からない。……私が、行けなかったから。今更どんな顔して、行けばいい?考えれば考えるほど分からなくなっていく。

 それでも私はあの匂いを心待ちにしているらしく、そんな自分は本当にどうしようもなくて。このまま雨なんか降らなければいいとさえ思った。


 久しぶりの学校は相変わらず埃っぽくて、すぐに嫌気が差した。ここ最近ほとんど食事は摂らず、眠ることもあまり出来なかったからか、私は授業中に酷い眩暈を覚え、そして、夢を見た。



***


 それは幸せな夢だった。彼が待っているあの煙草屋さんへ、心を踊らせて走っていく夢。いつも早いですねって私が笑って、あなたが遅いだけですよって彼が笑ってくれて、ブランクもなかったみたいに、雨の音と匂いに包まれて、私達は和やかに会話をする。それだけの夢。私が今一番欲しい、幸福な優しい時間の幻。それこそ世界には私と彼しかいない。だってこれは夢だから。私の夢の中には、二人しかいない。他の人なんて要らない。いなくても成り立つ、有り得ない世界。

 そんなものを見てしまったから、叶わない願望を夢見てしまったから、私は、目覚めた時に泣きたくて泣きたくて堪らなくなっていた。と、同時にそれが夢で良かったとも思ったのだ。だって、そこまで溺れてしまったら私、ここから先をどうやって歩いて行けば良いのか分からなくなってしまうじゃないか。


***


 ようやく登校を許されたというのに、疲労と貧血だろうということで帰されることになってしまった。と言っても家に帰りたい気分でもない。私は時間を潰す為に普段寄り付くことのないショッピングモールをブラついてみることにする。何処を見ても何かしらの店舗があって、家族連れやカップルで賑わう空間は、制服で一人の私の来る場所ではなかったと痛感させられて、何故だか逆に笑えてきてしまった。

 調子に乗って入った有名なコーヒーショップではタジタジになりながら、どうにか流行りのフラフープだかフロマージュだかを買ってみた。美味しいけれど、二度と一人では来ないことを誓うくらいに緊張した。

 服には無頓着で、適当な安物しか買ったことがなかったけれど、こういうところで見ると何だかワクワクしてしまって、更には男性物を眺めては、柄にもなく彼に似合うんじゃないかなんて考えてしまった辺り、本当に重症化していると思う。

 どうしてこんなに浮かれているのか。人混みのせいか、彼へのあれやこれやが爆発しているのか、不慣れな場所にいるせいか。


 ふ、と。足が止まる。なんだろう。やけに胸がざわざわとして、私は外に行かなきゃいけない気持ちになっている。

 人を避け、早歩きで出口を目指す。早く、もっと早く、と私に急かされる。


 つん、と香った。

 これは間違いなく、ペトリコールだ。


「そっか、最近雨が降っていなかったから」


 きっと一段と香っている。誘っているように、強烈に。気付かない人は気付かないけれど、それでも私は確かに感じている。何処かではもう既に雨の雫が油と出会って、エッセンスになったのだ。

 私は?

 私は、どうする?


 保証はない。確証もない。それでも私は走り出す。たった一滴が齎すこの甘いいざないを無視するなんて、出来ない。

 会えなくても良かった。

 私はまだ、あの場所を大切にしている自分を、失いたくはなかったんだ。

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