第3話

 次の雨に、というあの約束はなかなかやって来なかった。


 雨自体は降っていた。寧ろ止んでいる時間の方が短かったくらいに。流石、梅雨。きっとそのせいだ。雨がずっと降っていたから。だから土の中の油も溜まらないし、ペトリコールもしないし、だから、私はこうして雨に濡れる窓を眺めているしかないんだ。


***


「ちょっと話がある」


 いつも通りの朝だったはずなのに、母から話しかけられた。思わず顔が歪んでいくのが自分でも分かる。早々に切り上げようと背を向ける。


「私はないから」

「サボってるんだって?」


 投げられた言葉に全身が固まった。でも、ここで弱ったら、負けだ。


「……だから、なに」

「自宅でちょっとお話してみては、だってよ」

「話すことなんてない」

「こっちだってないわよ」


 盛大な溜め息が追い打ちをかける。


「ほんと、面倒なことばかりするのね」

「別に。私は何も頼んでない」

「あんたどうこうじゃないの。あんたがあんたである限り、母親なの私は」


 だから。だから。そういうのが、頼んだ訳じゃない、って言ってるんじゃないか……!


「とにかく」


 新聞紙を畳み始める。話は一方的に投げつけられて終わるのが常だ。


「あんた、自宅謹慎よ」

「……は?」

「そういうことなんでしょ」

「ちょっと待ってよ、何も聞いてない」

「何か問題がないのか聞いてほしいって感じだったけど、あたし、忙しいから自宅謹慎でいいでしょ」

「何それ……意味分かんない……!」

「しっかり反省しなさい」


 ちょっと待ってよ、と呼び止める声を無視して玄関に進んでいく母は本当に血縁なのかと疑うほどに冷たい。


「待ってったら!」

「男?」

「なっ、」

「男関連の問題なら家を出てから一人でやって」


 私とあの人の間の温度が一度、また一度と下がっていく。


「なに、を言って」

「もし」


 ハイヒールに足を収めた母は、美しい立ち姿で睨み付けながら、言う。それは死刑宣告にも似た残忍さで、私を縛り付ける。


「あたしが許してもないのに家から出ようものなら、男絡みだってことでその相手、徹底的に調べ上げて訴えてやるから。事実の有無なんて関係ないわ。嫁入り前の十代の少女を誑かしたって言えば、大体は男側が悪として裁かれる。あんたの気持ちとか、そんなもの関係ないの。全てはあんたが招いたことなんだから。恨むなら愚かな自分を恨みなさい。学校から注意を受けるような青二才は、黙って家にいればいい。分かった?」


 言葉が、出なかった。理不尽だと叫んだって、この人は動かない。動かせられない。私程度の存在、この人の前では蟻一匹ほどの価値もないのだと、今までの経験から分かっている。


「返事がないけど、まぁ分かっていようがいまいが、関係ないものね。言いつけさえ守ってくれていれば、いいわ」


 じゃあね、と微笑んで母は扉の向こうへ消えた。途端、体からは力が抜け、私はその場にへたへたと座り込んだ。


「なによ、それ……」


 私の声をかき消すように雨は降り続いている。いつもの場所にあるはずの折り畳み傘は、何処にも見当たらない。こうなることが分かっていたから用意しなかったのか、いつも無視していたからいつの間にか片付けられていたのか。分かったのは、しばらくの間私には自由なんてないも同然だということ。彼を悪者にしたくないということ。私は相変わらずバカだということ。あの人も相変わらずあの人だということ。それから。


「そっかぁ、これは、」


 これは、恋、なんだってこと。なんてことだろう。会えないと分かってから気付くなんて。急に姿を見せなくなったら、心配されるかな。それとも既に飽きてたから丁度よかった、なんて胸を撫で下ろすだろうか。はたまた、新しく一緒に雨宿りする人を見つけて、ペトリコールの話なんかをするのだろうか。

 想像すればするほど、悪い方向へ向かってしまう。今日の私予報。降水確率、100%でしょう。明日も明後日も明明後日も、ずっとずっと100%のままでしょう。


「……だから雨なんか、嫌いなのよ」


 少しだけ好きになっていた雨が、音が、匂いが、全部ぜんぶ、彼に繋がっていく。土砂降りで前に向けなくなった心を抱えた体は、異様に重くて、私は必死に歩かなければ部屋まで辿り着くことすら出来ない。その間もずっと雨がついてくる。離れない。離れてくれない。こんなことなら、認めたくなかった。焦がれる自分に、孤独な自分に突き刺さるこんな気持ち、味わいたくなかった。

 応急処置で頼みの綱のイヤホンを手に取る。耳に痛いほど押し込んで、とにかく何でもいい、普段なら嫌う馬鹿みたいに明るい陽気な曲でもいいから、早く、早く。願い通り、いつも聞かない曲が流れてくる。安っぽい言葉を並べただけのありふれたメロディーと下手糞で陳腐なラップ、べたべたしているセロハンテープやノリがはみ出ているままの飾り付けみたいな、原色ばかり使った幼稚園児の制作物のような、そんな、派手なだけの、それでもきっと誰かにとっては何かを齎すんだろう音楽の洪水に飲み込まれる。私の目から大量に水が溢れているのは、きっとこの音楽が死ぬほどつまらないせいだと思い込ませる。

 音量をどれほど上げても、最大にしても、雨の音は消えてくれそうになかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る