第2話

 その日からは連日雨が降り、とうとう梅雨入りが発表された。私は母が毎日玄関先に置いてくれる折り畳みの傘を無視している。


 雨の匂いを感じると、すぐにあの煙草屋さんを目指して走った。学校を早退することに罪悪感はあったけれど、それでもペトリコールのいざないには勝てない。

 どれほど急いでも彼はいつも私より先に雨宿りしていて、私はやはりそれなりに濡れてしまうことが多くて、それを見兼ねたのか彼は雨宿りする場所の変更を申し出てくれたけれど、私はやんわりと断った。初めて出会ったこの場所で繰り返し出会うことで、私にとってはもう他の場所とは比べ物にならないくらい「特別な場所」になってしまったから。もう他の場所になんて、変えられなかった。


「学校は?」

「また後から行くかもしれません」

「いいんですか、途中なんでしょう?」

「いいんです、途中だけど」

「いいのかなぁ」

「いいんです」


 あなたはどうなんですか、と訊いてみたかったのだけれど、その一言は喉でつっかえた。だってこれは、とてつもなく贅沢な逢瀬なのかもしれないのだ。蜃気楼の如く、いつ立ち消えてしまっても可笑しくないお伽噺。


「そういえば」

「え?」

「あれからどうですか?」

「何のことです?」

「ペトリコール。雨の匂いですよ。少しくらいは好きになってもらえましたか?」

「うーん、……いえ、まだ」

「そうですか、まだですか」


 少し影が差すような笑い方に心がちくりと痛む。罪悪感が滲んでくる。けれどもここで「はい」と答える訳にはいかなかった。好きになれたのなら良かった、はいサヨナラ、なんて言われたら私、どうしたらいい?


「油のせいなんです」

「油?」

「そう。土の中にある植物の油」

「……?」

「雨と雨の間に地中に蓄積されて、一滴の雨と鉄分が反応しておこるんですよ」

「ペトリコールが?」

「そう。まるで天然のアロマみたいじゃないですか?」

「……ロマンティストなんですね」

「そうかな?」

「チャラそう」

「心外だなぁ」


 そんなふにゃっとした顔で笑わないで欲しい。また一つ惹かれてしまう。


「アロマという例えは僕のせいじゃないよ」

「ふぅん?」

「ペトリコールという言葉が元々、石のエッセンス、という意味があるんです」

「英語ですか?」

「いや、ギリシア語」

「じゃあギリシア人はチャラいんですね」

「語弊がありますね」


 二人でくすくすと笑い合う。雨の優しい音がそれを包む。まるで水のベールで世界から隠されているような秘密の空間。誰も私と彼のことを知らない世界。こんな風に他人との時間を愛しく大切に思う自分がいるなんて。

 これはなんなんだろう。……恋?

 まさかね。

 博識な年上の優しい人と会話するのが楽しいだけ。きっとまだ、ただそれだけ。


「自分で言っても説得力なんてないのかもしれないけれど」

「はい?」

「僕はロマンティストでもないし、チャラくもないよ」

「ふふ、説得力ないです」

「やっぱり?」

「ええ」

「それはとても残念です」

「ちっとも残念そうじゃありませんよ」

「そんなことないです、すっごく残念ですよ」

「怪しい、すっごく怪しい」

「どうしてそんなに疑われてるのか分かりませんね」


 雨が少しずつその量を減らしていくのが分かる。音も軽くなっていく。辺りが光を取り戻し、熱を帯びていく。日常に、戻っていく。この時間の終わりが見えてくる。私はそれが、いつも少し、寂しい。


「あ、もうすぐ止みますね」

「私も最近、雨の終わりが分かるようになってきました」

「おや。どういう感じだと?」

「光の具合とか、風の吹き方とか。でもやっぱり、匂い、かな。雨の始まり、……ペトリコールとは違う、柔らかいような、包まれるような、何だかそういう香りがする気がするんです」

「……君は、本当に感性が鋭い子だな」

「え?」

「じゃあ次の雨で会えたら、その話をしましょうか」

「あ、」


 彼は振り向きもしない。これは毎度のこと。私が馬鹿みたいにその後ろ姿を見詰めているなんて、知らないのだろう。さようなら、また今度、なんて約束はない。互いの名前も連絡先も知らない。顔だって実のところ、あまり覚えてなんかいない。残っているのは、声と、柔らかそうな髪質、がっちりとした手の甲の白さ、後ろ姿、そして、ペトリコール。

 雨の始まりに名前があるのなら、終わりにも名前があるんだろうか。それはまたどういうものなんだろう。彼の口から紡がれたのならきっと、私の中で甘ったるい熱を持って蓄積されてるんだろう。たった一つの雫を待って、香り立つまで眠る怠惰な油みたいに。

 屋根の下から日常へ。雨垂れが煌めく世界はもう、さっきまでのあの時間とは無縁だ。私と彼の線が交わらないことを恨んだりなんてしない。ただひたすら待っている。雨が運んでくる幸福の香りを。

 でも私は気付いていなかった。雨がいつまでも降る訳はないのに。降れば降るほど近付いてくる、太陽の季節のことなんて、すっかり頭の中からすっぽ抜けてしまうくらい、舞い上がっていたことを、私は思い知らされてしまうのだ。

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