夏色ペトリコール。
空唄 結。
第1話
雨は嫌いだ。濡れるし、濡れたら母親には怒られるし、大切な本も読めなくなるし、シャツが透けるのは凄く嫌だし、何より、あの雨が降る前の匂いが、嫌いで。生臭いような、悪い予感のような、あの匂いが。
「雨ですね」
突然降ってきた雨に舌打ちしながら、一人で静かに雨宿りができる場所を必死で探して、やっと見つけたのは何処にでもあるような古くからある小汚い煙草屋さんの軒先。
びしょ濡れになってしまったのが苛立たしくて溜め息を吐きながら、少しでもマシになるようにスカートの裾を絞ろうと握った矢先に声をかけられた。……どうして先客に気付かなかったんだろう。何軒かそうやって避けてきたのに。雨宿りするびしょ濡れの男女、なんて少女漫画に有りがちなシチュエーションだなぁと嫌悪感が募る。
「……それがどうしましたか」
自分でも驚くほど冷たい声が出てしまって、言った自分が怯んだ。
「はは、可愛いお嬢さんを警戒させてしまいましたね」
「か、かわ……!?」
しかもヤバい奴ならしい。もうこれ以上関わらないようにしないと。そっと一歩離れたら苦笑された。……何だかムッとする。
「ごめんなさい、そんなに怒らないで」
「別に。怒ってません」
「嘘だ、怒ってる」
「怒ってないってば!」
ムキになって、思わず口から馴れ馴れしい言葉が飛んでいった。居心地が悪くなり、縮こまる。
「……すみません。仮にも初対面なのに」
「いいんですよ、寧ろ有難うございます。一人で退屈していたので」
雨はまだ止みそうにない。ざぁざぁと大粒の雫が世界を埋め尽くす。人は誰もいない。車も通らない。明かりもなく、薄暗さが更に雰囲気を醸し出す。こんな天気じゃ誰も身動きが取れないんじゃないか。そう思うと、今、動いているのは、私とこの人だけのように思えた。それはまるで、
「まるで、世界にふたりぼっちのようですね?」
考えを読み取られたかのようで、思わず赤面する。
「嫌です、あなたとふたりぼっちなんて」
「ははは。すっかり嫌われてしまいました」
本当に、なんなんだ、この人は。横目で観察すると、服のことなど良く分からない私でも分かるような、上品でお洒落なスーツを纏っている。こんな薄汚れて寂れた路地裏の片隅で雨宿りするなんて、似合わない。見た感じ20代も後半そうだし、こういう人は高級な外車に乗ってバリバリ働いているに違いない。どうして、こんな所に?
「雨の音って、落ち着くと思いませんか」
唐突に質問され、思わず盗み見ていたことがバレたのかとギクシャクしたが、彼は目を閉じ、本当に雨音を楽しんでいるようだ。
「……落ち着きません」
「え?」
「私にとっては、不安を煽る音です。怖い予感、悪い予感の迫る音。これからきっと何かが起こる。そんな不安の音」
何故か私の口からは言葉が溢れていた。
「音だけじゃない。匂いもそうです。雨の降る、少し前の匂い。あれは、とても、苦手。……というか、嫌いです」
初対面の、しかも年上の男の人に、私は何を話しているんだろう。
「ペトリコール」
「……え?」
「雨の匂いの名前です。ペトリコール、といいます。何処かで最初の雨粒が落ちて、地面に当たった時、立ち上る香りのことです」
「……ペトリコール。そんなお洒落な名前があるんですね」
彼は、ふふっと笑った。なぜだろう。胸がざわついて、少し、痛い。
「どうです、名前があると愛着が湧くでしょう?」
「……どうだか」
「いえ、あなたはきっと、好きになります」
その言葉にドキッとして、思わず顔を見てしまって、目が合って、更にドキッとした。慌てて逸らす。
「何を言ってるんですか。女性をからかわないでください」
「おや。これは失礼」
そこからは互いに黙って、雨の音を聞いていた。ざぁざぁ。ぽつぽつ。とん、ととん。どくん、どくん。規則正しい音と鼓動がリンクする。ああ、いやだ。これだから雨は、嫌いなんだ。私は目を閉じる。立ったまま瞼を下ろすと、途端に心細くなってしまうのは何故なんだろう。何も無いのに、体が揺れて揺れて、そのうち地面が抜けて落ちていってしまうような。
「……そろそろ行かなくては」
「え、でもまだ降って……」
「もうすぐ止みます」
「……え?」
「それでは。可愛らしいお嬢さん。楽しい時間を有難うございました。また雨の日に、ペトリコールに導かれて」
「ちょっと、何を言って」
私の呼び掛けには何も答えずに、雨の中を濡れるのも厭わずに歩いていってしまった。
「……なん、なのよ……」
宣言通り、雨は上がる。雲の隙間から差した光が、空中を美しく彩る。
「ペトリコールに……導かれて……」
雨垂れはまだ、止まらない。
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