地図屋わたる川 船頭わたす川

織部健太郎

地図屋わたる川 船頭わたす川

 麻の背負い袋をおろすと、青年は大きな川を前に足を止めた。

「聞いていたとおり大きな川だ。しかし、どうしよう? 向こうに渡りたいのに」

 草鞋を履きなおし、荷物から水筒を出すと唇をぬらす程度に口にする。

 水筒を荷物に戻した時、彼に向けられた声がひらりと届いた。

「のってくかい?」

 ふと見ると、水面に一艘の渡し舟、その上に船頭がひとりいた。

「御願いできますか?」

「ああ。さ、のりな」

 船頭が舟を出す。青年は見えない対岸を一目だけ望み、船頭に向かって座りなおした。

「大きな荷物だね。にいさんの御仕事は?」

「私は地図屋です。街道、山や川、森や里を細かく描き記すのが仕事です」

「そうかい、にいさんは地図を描いているのかい。いろいろな所へ行きなすったのだねぇ」

 青年は荷物の中から幾つか手頃な巻物を出し、

「関所をくぐってここへ来るまでにも、これだけを記しました。でも、旅の途中でどうしてもこの川を渡らなくてはならなくなり、困っていたのです。渡していただけてとても助かります」

 広く緩やかな流れの中を、すーっと音もなく舟は進む。老練な櫂捌きが残すものは小さな波紋だけだ。

「うん、わしもこれが仕事だからねぇ。たくさんの人を渡したよ。大きい人も小さい人も、女の人も男の人も、若い人も老いた人もね」

 はい、と青年が小さく頷くと、

「そうだ、にいさん。御願いがあるのだけれど聞いてくれるかい?」

「どのようなことでしょう? 今の私にもできることなら」

 キョトンとする青年に船頭は続ける。

「わしはたくさんの人たちを渡したよ。けれども、向こうの事はよく知らない。向こうへ渡っても地図を描いてはくれないだろうか。こんな風に森や川があるのか、海岸を歩くとここに里があるのか、おや、こちらにも、と楽しめるから」

「えぇ、もちろん描きます。地図屋ですから。もうこの川を渡ることはありませんが、新しい地図ができましたら必ずお届けします」

「うんうん、そうかい、ありがとう。楽しみにしているよ」

 船頭が満足そうに頷くとちょうど舟も岸へ乗りつけた。こん、ことんかたん、石に擦れた船底が軽い音を響かせる。

「さて、ついた。忘れ物の無いように」

「はい、ありがとうございます」

 青年は麻の袋をよっせと背負い柔らかな風吹く岸へと降り立った。足元は白い玉砂利で、とても美しいところだった。

「いい旅を」

「船頭さんも御身体に気を付けて」

 あちらの岸へ遙かに霞む舟を見送り、渡ってきた三途の河を、二度と見えない対岸へ深くお辞儀すると、青年は歩き始めた。


 了



2005/11/09-

2017/07/05 改

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地図屋わたる川 船頭わたす川 織部健太郎 @kemu64

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