20

 虫の音を聞きながらただ寝ていると、自分が無機物か何かになったような気がして、傷だらけの柱やら剥げかかった壁やらすり減った畳が自分と同列のいとしい友であるかのような錯覚を覚える。


 高く青い風景の中に鱗雲が浮かんでいた。九月になってから急に冷え始めた朝晩の外気は、耕輔の心にも空虚さをうつしていくようで、このからっぽの心でなら、終日飽くことなく空だって眺めて居られるなと思った。


 それまでの耕輔ならば、こんなことではいけないと、何かに急かされるように立ち上がって、それでも為すこと無くただオロオロとそこら中を歩き回って、疲れて、ぐだぐだになって、ひどく落ち込んで――と繰り返すのだが、今回に関してはそんなことすらできはしなかった。


 寝床でただぼうっとして、たったの一度しか使われずに台所の床の片隅に置かれたかき氷機を眺めては、心に刺す棘をいじくり回して、そして深く息をする。


 何度も、何度も――。


 思い知ったのは、耕輔には自分が自分以外の何かに成れることなどないということだった。耕輔は本能的に恐れた。あの場で自分が踏み出すことで、何か大事なものが崩れ去ってしまうような気がしたのだ。それもまた都合のいい間に合わせの解釈かもしれないが、あの場でハイと言えるような自分なら、もう今ごろはとっくに破綻してしまって、守りたいものが早和なのか自分なのか、はたまた善次郎なのか、全く判らなくなっていたことだろう。


 善次郎は悟ったように微笑んで、すいません、ともう一度頭を下げた。その寂しそうな姿が、未だに耕輔の目に焼き付いている。



「――ねえ耕輔さん」


「何です」

「耕輔さんは空なんですよ」

「僕が、空?」

「自由な大空。僕らが東京へ出てきて、唯一つながりを持てた人があなたなんです。耕輔さんは僕たちふたりにとって、空みたいな存在だった。自由に生きているあなたは、憧れだったのかも」

「憧れだなんて……」

「いや、耕輔さんには耕輔さんの抱えている悩みや、しがらみがあるんでしょう。それでも僕らには遠い憧れでしかない、まっすぐなあなたの自由さの中で楽しい時を過ごさせてもらった、そんな気がしますよ」


 最後に会ったとき、善次郎がそんなことを言った。

 すべての片付けを終えて何も無くなった隣家を見て、善次郎は、


「自由になった気がしていたこの家……」

「この家がどうか?」

「僕の檻はこの家だったのかも」

「檻……」

「ずっとね、僕はあの蕪井という家からこの家に逃げ出して来られたのかと思ってました。僕はここへ来て、自由になったんだと思っていた。でも本当は違ったのじゃないかってことです」

「それはどういう意味でしょう」

「さあね……」


 早和は結局、地元の有力者の次男坊からの縁談を断ったという。


 さいごに、

「これを引き取って貰えませんかね。捨てちまうのもしのびなくて」

 と、耕輔は善次郎からまだぽつぽつと花を残す、早和の朝顔の鉢を預かった。


「ありがとう、耕輔さん」

「こんな形でお別れというのは心に残りますが、早和さんによろしく。陰ながら幸せを願っています」

「耕輔さん」

「はい」

「またいつか、一緒に酒を飲んでくれますか」

「ええ、かならず、いつか」


――そして、善次郎は岩手に帰っていった。



 茉凜が物珍しそうに、

「何これ、何これ」

 とばかり訊くので説明にもほとほと飽きて、うんうんと適当に受け流していると、家の中から拓朗が、

「おい、これはどうすんだ?」

 と、壊れたカラーボックスを持ってきた。

「それは廃棄」

「了解」

「ねえねえおじちゃん。これなあに」

「こら茉凜、あんまり邪魔するんじゃないぞ」

 九つになる娘の頭をぽんぽんと叩く。拓朗の父親らしい姿を見たのはもちろんこれが初めてではないが、なかなか微笑ましい父親像である。見ているとあの兄が、と少々可笑しかったりもする。


 路地には車が入ってこられないため、私道を脇道へ抜けたところの大家の駐車場を一時的に借り受けて『引越作業中』の貼り紙をして駐車させて貰い、そこまで手運びで積み込まねばならない。軽トラックは今日のために拓朗が地元小田原のレンタカー屋から借りてきてくれたものだ。


「なあ拓ちゃん。茉凜、そろそろお腹が空くんじゃないかな」

 耕輔は時計が一時を回っているのを見てはじめて気づき、そう言うと

「そうだな、そういえば俺もハラ減った」


「わたし、そこの先でさっきファミレス見つけちゃったんだけど」

 と、駐車場のほうから戻ってきた秋里がいう。

「じゃあ、皆で行こうか」

 耕輔が言うと、茉凜がさんせーいと手を挙げた。

 それを受けて拓朗が、

「耕輔の奢りでな!」

「えっ?」

「おごりでな!」

 茉凜が真似をして繰り返す。

「引越しの手伝いには昔から飯を出す。それが決まりだろう?」

 と当然のごとく拓朗が言う。

「さんせーい!」

 と、秋里も茉凜の口調を真似て手を挙げた。


 むろん言うほうも言われるほうも、最初からそのつもりではある。

 だからそれらはみな、お約束の会話に過ぎない。


「私プリンのやつがいい!」

 皆でファミリーレストランへ歩いて行く道すがら、茉凜が言うのを拓朗はたしなめて、

「ごはんをちゃんと食べないと、甘いやつはだめだぞ」

「えー。そしたらお腹いっぱいになっちゃう」

「なら、おとうさんが半分食ってやるよ」

「だめー」

「ハハハ」


 茉凜は秋里と手をつないで耕輔と拓朗の前を歩いている。

 そこへ後ろから拓朗が囁いた。


「秋里、ずいぶん変わったな」

「そ、そうかな?」

「うん。明るくなった、というか軽やかになったな。兄貴とかに対しても憎まれ口をぽんぽん叩くんだぜ。前はそんなこと無かったのにな」

「へえ。そうなの」


 路地の入り口の石段を昇ったところでふと振り向いて後ろを見る。路地の風景は、去りゆく者をすでに諦めたかのように、よそよそしく耕輔の目には映るのだった。


 その視線の先に、もう夏の面影はなかった。


(完)

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夏の檻 相楽二裕 @saga2

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