19
雨足が弱まり、空には明るみがさしてきた。耕輔は冷めてしまった茶を入れ替え、雨戸を少しだけ開けて様子をうかがうと、すうっと気持のよい風が室内に吹き込んだ。思い切って雨戸を開けると細かい雨が降り続けてはいたが、先刻までの熱気が嘘のように引いて、涼しくなっていた。
「でもさすがに今回は意地なんか張ってはいられない。田舎から知らせがあって、僕と姉貴が見舞いに駆けつけてみると、病床の親父は窶れ果て、見る影もありませんでした。姉貴は驚いてベッドに駆け寄り、ずっと親父の手をとっていました。あれほど親父を嫌っていた僕でさえ、管をあちこちにつけられて力なく横たわっている姿に、こみ上げてくるものがありました。親父、と呼べる存在が間もなく僕にはなくなるんだと思うと、涙が溢れました」
善次郎は少しの間を置いた後で、
「あの親父がですよ、震える自分の手で娘の手を取って、俺の死んだ後はお前がしっかりとやっていくんだぞとか言うわけです。姉貴はそれだけでもう絆されてしまったみたいで」
「そうですか……」
「前に言ったでしょう。姉貴はファーザー・コンプレックスだって」
「あれは……きみの冗談じゃなかったんですか」
「本当のことです。でも姉貴のはちょっと違うんです。父親ラブのほうじゃなくて、なんというか……もっとこじれた重度なやつで。僕から見たら精神的な病なんじゃないかと思えるくらい、父を畏怖するんです。なんて言うんでしょう。とことん反抗すると同時に、父に甘えたい、認められたいとずっと思っているみたいな二律背反的なところがあって。いろんな気持ちが複合的に、こんがらがっているんです」
耕輔はその早和の気持を理解できないでもなかった。なぜなら耕輔も、父親に対してそういう気持ちになった覚えがあるからだ。父が偉大なほど、認めているからこそ、それに添いたいという気持ちと、抗いたいという気持ちがより大きくなる。
「姉貴は親父にはどうしたって逆らえないように思うんです。姉貴はもしかしたら親父が生きているうちに、結婚をさせられるかもしれません。ひとりの候補がいて、先方からも結婚を迫られているんですよ。地元の、名士の次男坊です。姉も、その男と結婚して蕪井の家を継いで、親父を安心させてやりたいと思いはじめているようです」
耕輔の奥底で血液がどくんと脈を打つ。
「ほ、本当ですか……」
「耕輔さん」
「はい」
「僕は姉貴が本当は耕輔さんを好きなんじゃないかと思っています。本人ですらハッキリとは意識していないのかもしれませんが、きっとそうに違いないんです。ほら、寝言の件、あったでしょう」
言われて早和が自分の名を呼んだあの出来事を思いだし、耕輔の顔色は思わず上気した。
「実を言いますとね、当初あれは怒りの夢だったんです。誰かにむかって文句を言っているような、喧嘩をしているような口調の寝言は、たぶん親父のほうの康助に向けられたものだったのだと思います。それがね、日を追うごとに段々と甘やかになってくるんですよ。僕は耕輔さん、父と同じ名のあなたの存在が姉貴の心を、姉の父親コンプレックスを侵食して、もっと大きなもので包み込みつつあるのかと思ったんです。もしそうなら僕もどうにかして姉貴の思いを遂げさせてやりたい。耕輔さんは姉貴のことをどう思ってるんです。僕ぁ耕輔さんもそうなんじゃないかと思っていましたが、違いますか」
耕輔は返答に窮した。
そして思い当たってしまったのだ。
自分の早和への気持はこの期に及んで、返答に窮する程度のものだったということに。
秋里に背中を押されて早和に告白をする決意はした。大家に電話をかけて早和の連絡先を確かめようともした。だが、それは秋里に対する義務を果たすだけのものであって、早和を含めたすべての事情に対する覚悟ではとうていなかったのだ。
いま善次郎から状況を聞いて、蕪井早和という女性の背後にある生い立ちや環境といったものの難しさを知った。田舎の名家の厳格な父親やその周囲をとりまく人たちを相手にしてなお早和と一緒になりたいのかというと、自分にそんな真似ができるわけがないと思った。
それはまさに、耕輔が中途半端に早和のことを思っている証拠に他ならない。その程度の稚拙な覚悟をもって早和とどうにかなりたいなどと、勘違いも甚だしい。
善次郎もまた狡い。
こんなにも重たい実情をとつぜん露わしておいて、耕輔の気持ちを確かめるようなことを聞くなど、覚悟のほどを迫るのと同様である。
そう思っていると、
「許してください。耕輔さん」
ふと善次郎が頭を下げた。
「こんな重苦しい話の後に聞くべきじゃないのは解っています。でも――もしも耕輔さんも、姉貴のことを好いてくれているのなら、姉貴が妙な覚悟をする前に、そのことだけでも、伝えてやるのが僕の役目なんじゃないかと……」
善次郎は善次郎で、切羽詰まった純粋なまなざしで耕輔を見る。
あれほど激しかった土砂降りはすでに止んで、空には青い部分さえ見えていた。
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