18

 空が俄にかき曇り、遠雷がきこえた。まだ日の入り前のはずが、夜のように真っ暗になった。やがてぽつりぽつりと大粒の雨滴が乾いた地面に落ち、すぐに激しい土砂降りへと変わった。

 耕輔は家の中に雨が降り込まないよう雨戸を閉ざしてから、手早く夕飯の支度をすませると、善次郎を自宅に招いた。

「酷い降りになりましたね……」

 善次郎は玄関先で傘を振るった。傘立てがないので玄関戸の脇に立てかけるようにして置く。

「さあどうぞ。大したものはありませんが」

「すみません。じゃ遠慮なく」

 善次郎は靴を脱いで部屋に上がった。卓袱台にあり合わせの食材が並べてある。スーパーで買ってきた惣菜を暖めなおしたもの、辛うじて冷凍室に残っていた実家の干物、葱と豆腐の味噌汁とお新香に白飯といった程度のものしか無かったが、

「いただきます」

 茶碗に白飯をよそって出すと、善次郎は受け取って無心に口へ運びはじめる。耕輔も自分の茶碗に飯を入れ、一緒に食べた。

「うまいです……このところ何日も冷たいおにぎりや菓子パンばかりだったもんですから……」

 決して贅沢な献立ではなかったが、善次郎はうまそうに、ほとんどの皿を平らげてしまった。

「ご馳走様でした」

 善次郎はそう言うと、箸を置いた。


 耕輔の想像通り、蕪井姉弟は実家に戻っていたらしい。

「田舎の父が倒れましてね。早くて数ヶ月、もってあと半年だそうで」

「それは……お気の毒に……」

 張りつめてはいるが、疲れきった表情。この独特の緊張感は耕輔にも覚えがあった。

 父の時雄のときがそうであった。医者から病名を聞かされ、家族みなの時が止まった。あのときのことを耕輔は未だに忘れない。それと同じ緊張が善次郎には漲っている。いま善次郎の時間は凍りついたまま、動いていないのだと耕輔は思った。

「姉貴はずっと親父に付き添っています。僕ぁ夏休みプラス休暇をもらって実家のほうへ行ってたんですが、それも限りがあるもんですからいったん帰ってきました」

「そうですか。早和さんは……大丈夫ですか」

「姉貴は僕なんかよりもっと憔悴しきって疲れてます」

 善次郎は居住まいを正して耕輔を正面から見た。

「ずっと前から、耕輔さんにはきちんと話さないといけないと思っていました。ちょっと長い話になりますが、聞いてくれますか」

「伺いましょう」

 急須から茶を注ぎつつ、耕輔も思わず姿勢を正した。

 善次郎は大きくひとつ深呼吸をすると、

「実は、蕪井の家は僕でなく姉貴が継ぐことになってまして」

 その一言にただならぬ予感をおぼえて、耕輔は思わず身を固くした。


「僕は、妾腹の生まれなんです」

「しょうふく?」

「めかけの子ってことですよ」

「ああ……えっ、そうなんですか!?」

「この前は姉貴とは二卵性の双子だと言いましたが、あれは嘘です」

 さらりとした口調で言ってのける善次郎には、どこか諦観が漂っていた。

「小学生のとき、母が病気で亡くなって、それではじめて、僕の父があの蕪井康助だと知ったんです。親父は市議会議員で、地元では有名人だったんですよ。身寄りもなく、途方に暮れていた僕の前にスーツを着た秘書とかいう男がいきなり現れて、僕を引き取るとか言って」

「それは……驚いたでしょう」

「もうビックリ仰天ですよ。幼いときから、父親は死んだと聞かされて育ったんですからね。母は大人しくて、物静かな人でした。あの父とどこでどういう接点があったのか、僕にゃ全く解りません……」


 善次郎は懐かしむように視線を伏せた。花火の晩、善次郎は自分がマザー・コンプレックスであることを茶化すように告白して早和に窘められていたが、あのときの言葉の裏には亡き母への思慕があったのだろうか。


「蕪井家というのは地元――岩手の小さな町ですけどね、そこでは代々名士でしてね。父も人々の尊敬を集めているし、市議を退いてからも先生とか呼ばれて、未だ各方面への影響力は大きい。でも同時に二人の女性にそんなことをしているような親父ですからね。尊敬なんかできますか。引き取られた先で僕は同い年の姉貴に会って、二度ビックリです。開いた口が塞がらないってのはこのことです」


 善次郎は皮肉っぽく笑い、そこでいったん話を区切り、茶を一口含んだ。

 雨足は相変わらず、弱まる気配は一向にない。

 締め切った雨戸越しに、軒を打つ激しい音がしていた。


「他聞にもれず地方の権力者のめかけ腹の倅なんてのは、ろくな扱いを受けるもんじゃありません。とくに祖母が……そりゃ厳しい人で、僕なんかずいぶんと折檻されたりしたもんです」

「それは酷い」

「僕くらいしか当たりどころが無かったんでしょうね。まあ、今となっては少しだけ気持ちもわからないでもないですが」

 それにしても子供に当たるなど、理不尽な話だ。

「まあでもそんな中でもね、子供は生きていくんだなあ。たとえそこがどんな所であっても、路頭に迷うよりは、雨風しのげる家があって、飯が食えて、学校に行かせて貰えるんなら、ありがたいことです。高校を卒業するころには、周囲に対してそつなく振る舞えるようにもなりましたしね」


 そうは言うが、善次郎がその境地に至るまでに数々の苦い思いをしただろうことは想像に難くない。


「親父からは学校へ通わせるのは高校まで、と言われてましたから、僕は高校を卒業したらてっきり家を追い出されるものだと思って、その覚悟はしていました。でも祖母の思惑は違ったようで」

「どういうことです?」

「祖母は僕を一生、あの家に縛り付けておきたかったみたいなんです。いずれ当主になる姉貴の従僕としてね。だから卒業間近になって、僕が自分から家を出るという話しをしたら血相を変えて怒りだして。ここまで育てて貰った恩を忘れたかと罵られ、傍にあった物差しで思い切り打擲されました」


「ほら、ここ。見て下さい」

 と、善次郎が指差すので見れば、左目の真下にざっくりと割ったような古傷の痕がある。

「切れて血が吹き出ましてね。体ごと横っ飛びに吹っ飛びました。僕も悔しいもんだから、起き上がろうとしてわざとよろけたフリをして居間にあった何百万もする骨董品のツボを盛大に割ってやりました。ハハハ」

「ハハハって善くん」

「イヤもう笑うしかないでしょう。そうでもないとこんな話し続けられませんよ」

 耕輔は困ったような顔で善次郎を見た。

「そしたら、祖母が続けて僕を打とうとするところへ、姉貴が割って入ってくれたんです。このまま僕を連れて警察に行く、そしたら蕪井の家に傷がつくかもしれないがそれでもいいのか、と庇ってくれて。そこで祖母も我を取り戻しましてね。その場はなんとかおさまったんですが」


「でもね、姉貴が、おさまらなかったんですよ」

「はあ」

「こんどは自分が東京へ行くと言い出しました」

「えっ」

「その時点でほぼ決まっていた地元の大学へ進学するのを蹴って、東京の大学へ行くって」

「そんなこと、認めてもらえたんですか」

「いいや。最初はやっぱり大反対ですよ。だって僕のことを庇って言っているのが見え見えじゃないですか」

「どうしてですか」

「年頃の娘が一人、東京で暮らすとなれば何かと不安じゃないですか。僕も一緒に東京へ連れて行くと言えば祖母も反対はできません。もともと僕をそういうふうに使おうとしていたわけですし」

「ああ、なるほど」

「そして、姉貴は状況をひっくり返してくれました」

「というと?」

「東京にある難関の私大になんと合格しちまったんですよ。当初行くことになってた地元の三流大学と比べたら、ネームバリューに天と地ほども差があります。これには親父も、さすがの祖母も悩んだ」

「でしょうね」

「結局親父も祖母も、娘を有名私大に通わせるほうを取ったわけです。それで、お前もついて行けとなる」

「なるほど」

「僕に取っちゃ降って湧いたような幸運です。僕も只姉貴の目付役をやってるだけでなく、きちんと勉強もしろということで、専門学校でしたが、あきらめていた上の学校に通わせて貰えることになりました」


 いつも明るくふるまう蕪井姉弟にそのような込み入った事情があるなど、耕輔は微塵も思っていなかった。飄々として一見捉えどころのない弟と、奔放であるがいわく繊細ナイーヴな姉。耕輔にはふたりがごく普通の家庭で幸福に育った姉弟にしか見えていなかった。つい最近、人とは傍で見ているほど単純ではないことを痛感したばかりの耕輔である。そしてこの姉弟もそうなのだと思った。


「よかったじゃあないですか」

「すべて姉貴のお陰です。だから僕ぁ姉貴に頭が上がらないんですよ」


 善次郎の話を聞いて、耕輔は長い間疑問だったことにやっと納得がいった。耕輔には、善次郎が時折見せる早和への接し方がとても謙っているように思えていた。そのために早和が善次郎よりかなり年上であると無意識のうちに判断していたのだ。そのことから、早和があるいは自分よりも二、三歳上ではないのかと勘繰っていたのである。耕輔の目にそう見えたのは実は二人がそんな関係だったからなのだ。


「そして東京に出て二年が経とうとしていた冬でした。僕も姉貴も成人して、僕は二年制の専門学校を卒業しようとしていました。その矢先に、祖母が亡くなってしまったんです。突然、本当にあっけなく逝ってしまいました。一応血がつながっていながらも、僕をもっとも忌み嫌い、ことあるごとにさまざまな苦悩を与えてきた人ですからね。僕の気持ちはそりゃ複雑でしたよ。考えてみたら祖母もかなりの高齢だったんで、不自然でも何でもありません。でも僕にとって祖母という障壁が無くなるなんて、想像もできやしなかったんです。人間、何が起こるかわかりゃしない。全く、塞翁が馬ってやつです」

「それで……どうなりましたか」

「姉貴は四大ですからね。親父にお伺いを立てると、親父は姉貴が卒業するまでお前もそのまま東京にいろということでした。親父はもともと僕の事なんかこれっぽっちも興味なくて、自分が生ませた子供を単なる義務で育てていただけです。死んだ祖母がああだこうだ言うのをただ黙認してただけなんです。親父が興味あるのは跡取りである姉貴のことだけなんですよ。お前は勝手にしろという感じでした。だから祖母の葬儀を終えると僕も東京に引き返して、姉貴の薦めに従って今の会社に就職したわけです」


「早和さんのお母さんという人は……」

「ああ、苳子ふきこさん。綺麗だし優しい人ですよ。いまだに食料やなんかを色々と田舎から送ってくれたりします。ほら、耕輔さんも食ったでしょ。素麺とか」

「あ、ああ……」

 善次郎は柱のあたりの何もない空間を見て、

「あの家に特別な感情を持っていなければ、僕も好きになれたかもしれません」

「……というと」

「あの人も、きつい姑のお陰であの人なりに苦しんだのかもしれませんが、僕ぁどうしても同情できないんですよ。僕が祖母に叩かれたりしても、ただ黙って見てるだけの人でした。僕と二人のときは顔を合わせないようにして逃げてばかりで。ばつが悪かったのか、心の底では亭主の浮気相手の子供が憎くもあったのか……」


 そして耕輔には最後の疑問が残った。早和の卒業後のことである。そういった流れでいくと早和は卒業したら田舎に戻って蕪井家の跡を継ぐという話になりそうであるが、そうはなっていない。


「親父は姉貴がまだ大学に在学中のときから、勝手に結婚相手の候補を決め、いずれ婿を取らせて蕪井家を相続させようとしたんです。地元の有力者の馬鹿息子どもを次々と見つくろっては見合いをさせたがるようになりました。祖母が亡くなって、自分も心細くなったのじゃないですかね。名家の令嬢で学歴も申し分ない、それにあの美人とあれば地元のぼんくらどもは我先に、ですよ。そういうのを姉貴は毛嫌いしましてね。姉貴が強情を張って田舎に帰らないので、親父も怒って仕送りを止めたりしてね。呆れたもんです。子供の喧嘩ですよ。あの人も娘に対しては不器用この上ない男ですから、そのままズルズルという具合です」

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