17

 翌朝耕輔は遅めに起きて仏壇に手を合わせた後、母親の朝飯を食べてからゆっくり家を出た。本当は朝一番に東京へ向けて発ちたかったのだが、酒を飲み過ぎたうえに秋里のことがあった所為でいつまでも頭がぼうっとして起き上がれなかった。朝飯の味も何もわからなかった。

 昨晩、耕輔が秋里と家に戻った時、ふたりの兄は居間ですでに大鼾をかいていた。次兄の嫂の頼子は子供たちを連れてとっとと自宅へ戻っており、拓朗はそのままひとりで実家に泊まった。

 聞けばふたりの兄たちも今朝は相当なありさまだったというが、耕輔が起きる前にふらふらになりつつも仕事に出かけていった、とは母の寿美子の言である。

 秋里のほうはどうだろうかと考えて、夜の公園で最後に起きた信じがたい出来事を思い出し、動悸が異常なほど高まるのを、喘ぐような深呼吸で抑えつけた。

 耕輔は秋里の思いを拒絶したのだ。秋里には早和が好きだと明言した。詰め寄られて秋里には人としての好意はあるが恋愛対象としては石ころ同様何もないということを認めた。

 ――なのに、どうしてあんなことを。

 考えても仕方のないことをあれこれと考えてしまうのは耕輔の病気のようなものだ。考えまいとしても考えてしまうのだからもうこれは放っておくしかない。たとえ裂かれるような苦しみにあえぐことになっても、そのまま引きずり続けるしかないのだ。

 もうその性格とはさんざん付き合ってきたはずだ。嫌だろうが何だろうが自分はこれ以上変わりようがない。

 今となってはもう、早和に告白をして、なるようになってしまうしかない。

 そして耕輔はやっと重たい腰を上げた。


 途中、たがみの店舗に立ち寄って冷凍にしてもらっていた早和への土産の干物を今度は東京の自分の家に配送してもらうように手続きした。

 むろん、秋里と顔を合わせる度胸などあるはずのない耕輔は、携帯電話で予め店に電話して、秋里が配達に行っているというのを確認したうえでのことである。

 航が言うには、秋里はいつもと同じように出勤して、いつもと同じように振る舞っていたという。

「さっき、昨日のことを謝ったら、思い切り足を踏まれた。あの子がそんなことををするなんてな」

 と苦笑しながら、昨晩は秋里と何を話したのかを気にして聞いてきたが、兄も仕事中でもあるので手短に、秋里は心配ない、大丈夫だとだけ言った。そして、社員にする気があるのならそうしてやってくれ、秋里も喜ぶだろう、と伝えた。航もわかったと頷いた。詳しいことはまたいずれということにして、何かから逃げるように駅へと向かい、電車に飛び乗った。


 小田急で新宿までは二時間弱。そこから自宅までが約三十分。耕輔はやっと自宅の最寄り駅に降り立った。

 東京の匂いは懐かしかった。しかしこの懐かしさは自分がかつて属していた場所であるという意味における懐かしさとはかけ離れていた。耕輔がいかにあろうと東京の佇まいは東京そのものであって、耕輔がその一部になどなれるはずはなかった。ここまで人を拒絶する町もないだろう。耕輔はただ東京という町を俯瞰するにあたって、かつて感じたことのある他人行儀な空気を単に懐かしんだだけであった。


 路地の階段に足を踏み入れると、長い旅を終えて戻ってきたような不思議な感慨を覚えた。やがて見えてくる奥まった二軒の家は、棲まう者の気配もなく、ただしんとしてそこに在るだけだった。


 耕輔は湧き上がる得体の知れない感情を振り払うようにして、自宅の鍵をすばやく開けて中に入ると、取るものもとりあえず、秋里に言われたとおり早速大家に電話を掛けた。高校生の息子が出て親は留守だと言う。ちょうど昨日からヨーロッパ旅行に行っており戻りが二週間も後だそうである。急ぎの用なら旅先から何かしら連絡があるだろうからその時に伝えるが、と大家の息子は高校生にしてはしっかりと気を回して応対してくれたが、旅先では早和の連絡先など分かるまいし、迷惑であろうと思い、諦めた。

 耕輔はこのことを秋里に報告すべきかどうかについても一応は迷ってみた。いずれにしたところでその度胸が耕輔にないのは判りきっていたがそこが耕輔の耕輔たる所以である。どうしたって通過しなければおさまらない。

 早和に連絡がつかない以上、秋里の望んでいる事態の進展は見込めないわけで、秋里もそんなことでいちいち報告を期待してはいないだろうと、理由づけだけして結局何もしなかった。そしてそんな自分に対していつものようにどんよりと落ち込んだだけであった。


 翌日、自分が小田原の店から送った干物が届いた。間抜けなことに自宅の小さな冷凍庫には少ししか入らないことに気づいて、干物ならまた兄に送ってもらえばいいと余った魚を晩のおかずに食べてしまった。


 それから数日、耕輔は枯れかかっていた蕪井家の縁先の朝顔に水をやりながら、仕事もせずに悶々と自堕落な生活を続けた。秋里が何か言ってくるかとも思ったが、今のところはそんな様子もない。


 東京から戻って十日あまりが過ぎようとしていた。あと数日もすれば大家が海外旅行から戻るだろう。どうせそれまでは何もできはしないのだと耕輔は悟ったように無為な日々を送っていた。


 数日後。

 暑気もほんの少し和らいできたような気がして、ふとうたた寝をしていると、向かいの家から物音が聞こえてくるような気がする。飛び起きて出ていくと、善次郎がまさに玄関の戸を開けて家に入って行くところだった。


「善くん!」


 耕輔は下駄をつっかけるのももどかしく掃き出しから踊り出て善次郎を呼び止めた。

 人影は間違いなく、蕪井善次郎その人のものだった。

「ああ、耕輔さん」

 善次郎の声は妙に懐かしく、安堵が膨れ上がった。周囲の景色が一気に色を取り戻したような気がした。

「どうしていたんです? 何かあったんですか?」

「すいません、長い間留守にしちゃって」

 振り向いた善次郎の顔は窶れて無精髭が伸びていた。


 善次郎がそのままふらりと自宅に入っていこうとするのを耕輔は呼び止めた。

「ぜ、善くん! 飯を食いましょう!」

「飯?」

「そうです。何があったかは知りませんが何かがあったことは解ります。どうせ君のところには何もないでしょう。僕の所で一緒に食いませんか」

「それは……有り難いですね」

 若干表情をゆるめた善次郎の顔を見て耕輔はホッと一息をついた。

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