エピローグ 最初のひとこと

「お前は間違った」

 すでにほとんどの選手が去ったスターアリーナのホールで、司と保子は向き合っていた。

「それは覆せない事実。まずはそれを認めろ」

 司は俯いたまま、頷く。

 保子は俯いたまま立ち尽くす司の許に歩み寄り、その身体を優しく包み込んだ。

「よくやった。お前は私の誇りだ。おめでとう」

「先生――先生ぇ……!」

 司は保子の胸の中で泣きじゃくった。

 目標にして、超えたいと願った。それでも本当は単に、保子に認めてほしかっただけなのかもしれない。

 結局、司はいつまでも保子を超えられない。それは、司が手にした結果の前でも同じことだった。

「顔出さないのか? 珍しいな、藍」

 潤子に言われて、陰から二人のやり取りを覗いていた藍は唇を尖らせる。

「敗者は何も言わずに去るのみ。明日からの先生はもっと怖いよ」

 名残惜しそうにその場を離れた藍は、スタンドで放心したように座る真夜の頭の上に手を置いた。

「負けちゃいましたね――」

 ぐっと力を込める。

「ち、違います! 藍先輩のせいだとか言うつもりは全くなくて!」

 さらに締め上げる。

「でも、ただ――」

 少しだけ、力を緩める。

「藍先輩達と一緒に、全国行きたかったです」

「可愛くない」

 全力で握り潰す。

「痛たたたたた! 牡丹先輩! 助けてくださいよう!」

 スマートフォンの画面から目を逸らすことなく、牡丹は他人事の体で言い放つ。

「今回は藍先輩に同意する」

「なんでですか!?」

「ははは、一人だけ負けなかったからなあ真夜は。私もダブルスで負けてるし。でもそのへんにしとけよー、藍」

 そのやり取りを離れたスタンドから眺め、青葉は苦笑した。

「もう少ししおらしくなるかと思えば、相変わらずだな、碧彩も」

「オバちゃん性格悪いんだから。それを言うなら私達もしおらしくしないと」

 時雨はそう言って未絵と瑞穂を見て、溶けたような笑顔を浮かべた。

「未絵先輩。今ならバレません。打っていきましょう」

「だーかーらー! 試合終わったあとに台使ったら注意されるに決まってんだろうが! そもそもなんであたしがお前の相手しなきゃならねえんだよ」

「不完全燃焼なので。もっと相手の苦しむ顔が見たかったんです」

「駄目だこいつ!」

 そこで時雨は、決勝リーグを観戦する時に、一人別の場所にいた五十鈴の姿が見えないことに気付く。

「砌ぃ! おーいどこだー?」

「進藤! 大声上げんなみっともない!」

「そういう潮ちゃんも大声出さないの」

 砌を捜しながらスタンドを歩いている朝代北の面々を見て、時雨はそういうことかと微笑む。

「うわははははは! 安心しろ諸君! 砌は無事だ!」

 今日一番の大声を上げて、聖達の前に御影が姿を現す。

「秋鹿……砌は?」

 紫が訊ねると、御影は大きく腕を広げて行く手を塞いだ。

「残念ながら諸君を先に進ませることはできないのだ! 大丈夫。すぐに戻ってくるからさ」

 どういうことだと怪訝な顔をする一同を見て高笑いをし、御影はスタンドの外の廊下で向き合っている二人を思って、また笑った。

 沈黙が続いていた。

 重苦しい、というのとは違う。気まずい、というのともまた違う。

 何も言わずとも、互いに全てを理解している。そんな安心感がどこかにあった。それでも、何かを切り出すには遠い。そんな距離感。

「全国か」

 五十鈴が、ひとりごちるようにそう呟いた。

「うん」

 砌が、自分の中で確認を取るように頷く。

「お前は――強いよ」

「うん」

「否定しない――か」

 本当に強くなったのだということが、厭でもわかる。

 砌は変わった。確かに強くなった。けれどそれは、歪んでしまった砌のまま、強くなっただけ。あの頃の砌は消えて、歪められた砌ができて、それがそのまま育ってしまった。

 砌にとってはそれは確かに自分なのかもしれない。それでもあの頃ともにいた五十鈴からすれば、砌はやはり変わってしまったままだ。

「ありがとう」

「――なんの礼だよ。言っとくがあたしはお前に負ける気でいたわけじゃ――」

「わかってる。けど、言っておかないと駄目な気がして」

 じゃあ、それだけ――そう言って背を向ける相手を、呼び止める言葉を五十鈴は知らない。

「またね、すずちゃん」

 最後にそう言って、砌はスタンドへ戻っていった。

 聖がどこに行っていたのかと心配する声を上げるのが聞こえる。御影が高笑いで煙に巻くのもわかった。

 五十鈴は、声を上げないようにむせび泣いていた。

 一体いつからその呼び方をされなくなっていたのだろう。もう思い出すことすら困難だった――それでも忘れることのできなかった、あの頃の二人の間の呼称。

「ああ。そうだな。みぃ」

 五十鈴は、自分もやっと昔のように呼ぶことができたことに気付き、しゃくり上げながら小さく笑うことが――今の砌を認めることができた。

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