七章 県下最強の変人集団

「帰ってなかったんだ」

 スタンドからアリーナを見下ろしながら、五十鈴は目当ての人物の隣に並ぶ。

「まあね。ウチを倒したとこがどこまで行くのか、見届けないとさー」

「って、朝工の奴らもう帰ってんじゃん」

「うわははははは! あたしが大会に出たいがために無理矢理入ってもらったから、士気は低いのだ!」

「相変わらずだな御影ちゃん」

 すでにスタンドに人はまばらだ。負けた学校は、大抵がすぐに撤収する。大会を最後まで見ていくのは、余程の暇人だ。何故なら、次回に繋げるために他校を分析するような真剣な学校は、まずベスト4に残るからだった。

 瀬名高校は久しぶりのベスト8どまりで、発奮した部員達は最後まで試合を見ていくことにしたが、一箇所に固まる道理はない。スタンドでは自由な位置で各々が試合を見ている。

「強くなったな。砌」

 御影の言葉に、五十鈴はけっとそっぽを向く。

「ああ、そういえば五十鈴、中学では砌に負け越してたんだっけ」

「ふん。そうだよ」

 完成されてしまった砌と試合をして、五十鈴が勝つことは少なかった。いつもいいところまではいくのだが、気付くと負けている。五十鈴が試合に真剣に打ち込めば打ち込むだけ、実力差となって返ってくる。

 勝つ方法は簡単だ。全部高い球を上げて、まともな試合を放棄すればいい。練習試合でやったように。

 だが、今の砌にはもうその手は通用しないだろう。有効だったとしても、五十鈴は試合を放棄することはなかったが。

「クソめんどくさいよなー五十鈴は。自分で砌の心を折っといて、その日の内にあたしになんとかしてくれって連絡入れるんだもん」

「それ、あいつに言ったら殺すから」

「言わない言わない。あたしの口は堅い上に軽量化にも成功してるからねー」

 練習試合で砌を散々いたぶった五十鈴は、全く溜飲を下げることができなかった。それどころか胸の内から焼けるような苛立ちが湧き上がり、その日はずっと最悪の気分だった。それは多分、完全に絶望して体育館の隅で固まっていた砌が何度も目に入ったからだろう。

 気付くと五十鈴は御影に電話して、泣き付いていた。五十鈴ではどうにもできない。だが御影なら、砌を救うことができるはずだ。

 そう信じて御影に頼み込んだのだが、翌日入った連絡は、「聖に任せた」だった。

 放りっぱなしで帰ってきた御影に五十鈴は文句を言いたいところだったが、自分がそんな立場にないことは重々承知だった。

 御影が任せたのなら大丈夫だろうと思いつつ、ずっと気が気でなかったが、今日スターアリーナで砌の姿を見た時に全てを悟った。

 もう、五十鈴が出る幕はない。

「お、勝ったね。これで2勝かー。碧彩と決勝戦ってわけだな」

 朝代北高校は決勝リーグで2校に勝ち、碧彩高校もまた2勝を上げている。次の朝代北と碧彩の試合が、文字通りの決勝戦になる。

 勝ったほうが全国。文句なしの一発勝負。


 試合前、一人ロビーで立っている司に、身を切るような冷たい声がかけられた。

「三つだ」

 体育館にはおよそ不釣り合いなタイトなスーツに身を包んだその女性は、司を突き放すように指を三本立てる。

「先生――」

 賀茂かも保子やすこ――優勝請負人の異名を取る、司の恩師。誰よりも憧れ、どうしても勝ちたいと願い続けた相手。その時は、あと一歩まで迫っている。

 司は保子が何を言わんとしているのか、瞬時に察した。課題や問題点を伝える時、こうしてまずその数を告げるのが彼女のやり方だった。

「部の運営方法。勝ちたいがために退部者を続出させるような練習を課すような部は、部とは呼ばない。大会に出られないまでに部員が減っていたらどうするつもりだった」

 司は無言で保子を見つめ返す。反論は全てを聞き終えてから。そういう決まりだ。

「自身の練習の質の低下。結局自分の選手としての実力を伸ばすことができずに、更屋敷に負けるほどまでに劣化した」

 最後の一つ。

「鵜野森砌の指導方法。お前は、あれだけの逸材をむざむざ殺している」

「砌は――あれしかないんです」

 司の反論に、保子はほんの少し眉を上げる。三つの問題点の内、反論がそこから始まるのは予想外だった。

「瀬名高校の関口。あれをさらに発展させた戦型にできたはずだ」

「砌のプレースタイルを変えることは、やってはいけない。指導者が踏み込んでいい領域を超えています」

「イップスを治すのに心理療法は必要だ。だが、まずやってみるという行為を何故放棄した」

「無理矢理矯正するなんてことは――私にはできません」

「甘ったれるな。それでどちらが本当に苦しむのか。試みようともせずに知ったような口を利くな」

 なおも食い下がろうとする司だったが、自分を呼ぶ声が聞こえて思わず振り返る。

「安倍さん。オーダー決まったんですか?」

 砌は次の試合のオーダーシートと鉛筆を手に、司を捜し回っていたようだった。

「――ああ。今行く」

 保子に一礼してから、砌と並んでアリーナの中へと向かう。

「砌」

 聞いていたのかと訊くべきか迷ったが、砌のことだから聞いていたとしてもおくびにも出さないだろう。

「勝つぞ」

「はい」

 台を挟み、朝代北高校6人、碧彩高校4人が並び立つ。

「これより朝代北高校対碧彩高校の団体戦を始めます。

 シングルス1、安倍司――汀真夜。

 シングルス2、伊織紫――四谷よつや潤子じゅんこ

 ダブルス3、柊潮、勅使河原桜――更屋敷藍、四谷潤子。

 シングルス4、進藤聖――田淵たぶち牡丹ぼたん

 シングルス5、鵜野森砌――更屋敷藍。

 両校、礼!」

 お願いします――一礼して、互いのベンチへと下がる。

「安倍さん、真夜は――強いです」

 聖が準備を終えた司にそう告げる。

「だろうな。一年で碧彩のレギュラー。だけど、それを言うなら碧彩は全員強いぞ」

 司はにっと笑い、台へと向かう。

 サーブ権を取った司が構えると、真夜は大きく上半身を沈ませた独特の構えを取った。

 ピン球を投げ上げ、最後にラケットを手前に引くカモフラージュを混ぜたサーブを出す。

 下回転、右横回転、上回転、無回転。司はこのモーションから実に4種もの異なるサーブを放つ。砌との最初の試合では簡単に返されたが、本来はこれ一つで強力な武器となる。

 初めて試合をする者同士の最初の一球サーブは、レシーブ側は狙い打ちに行けないが、サーブ側も相手のレシーブの様子見も兼ねる。そのため、容易には強打できない、強い下回転のかかったものを基本に組み立てる者が多い。

 下回転が切れていると相手に認識させることができれば、同じモーションから放つ全てのサーブが威力を増す。容易に強打できない下回転を印象付けるということは、それだけで大きな強みになる。

 だが、司はそれ以上に、自分のモーションに自信を持っていた。同じモーションから放たれる4種のサーブ。その一球目でまず相手を及び腰にさせる。そのためならば――リスクだろうと喜んで冒す。

 クロスへのショートサービス。打ちにいくには無理が必要。そして一球目。真夜は安全策のツッツキで返す。

 だが、その打球は大きく浮いた。

 司が出したのは、無回転サーブ。下回転と迷ってツッツキに行けば、打球を浮き上がらせる。

 浮いた打球を、司は思い切りスマッシュする。

 理想の三球目攻撃。だが、打球の先には、真夜の姿があった。

 カウンタードライブ。司の強烈なスマッシュに物怖じすることなく、攻め返す。

 だがこのプレーで真夜は大きくフォア側に傾いた。司は瞬時に一歩下がり、寸の間の余裕を作って真夜のバック側にドライブを打ち返す。

 真夜のラケットはすでに伸びていた。

 バックハンドドライブでの、カウンター。鋭く研ぎ澄まされたその一撃は、司に反応を許さない。

 0‐1。

「真夜は、カットマンの打球を全部ドライブに置き換えたみたいな選手だ」

 司のドライブをカウンタードライブで返し続ける真夜を見て、聖が若干の興奮を隠し切れずに呟く。

 妙なたとえだとは思ったが、これが実際的を得ている。

 真夜は相手のどんな打球にも追い付き、それをドライブで打ち返す。必殺の一打だろうとお構いなしに返してくる。しかもそのどれもが十二分に強力な攻撃なのだ。

 カットマンは後陣でカットするという打法で、打球のテンポを緩めている。そうすることで相手の攻撃を受け切る。

 だが真夜は、相手の攻撃を攻撃手段であるドライブで返す。そうなれば打球のテンポは凄まじい勢いで速くなっていく。

 真夜は、そのテンポについていくだけの常軌を逸した反射神経とフットワークを持っていた。

(これは――砌以上かもな)

 加速度的に高まっていくテンポに、司は徐々についていけなくなっていく。そこを狙い、真夜のドライブがテンポの埒外から襲いかかり、点差を離されていく。

 1セット目を落とした司は、ベンチで無言で汗を拭き、すぐに台に戻っていった。

 最初の真夜のサーブを、司はもう完全に見切っていた。1セット目で何度も見た、切れた下回転。

 司は中国式ペンホルダーのラケットを捻じり上げ、強引に打球の下からラバーで掬い上げる。

「裏面打法の――」

 限界まで捻った手首が解き放たれることで、凄まじい回転が加わる。

 大きく横に曲がった打球が真夜のバック側を襲う。

「チキータ!」

 真夜のラケットはそれに追い付き、バックハンドドライブで打ち返す。

(ギアを、上げさせてもらう)

 バック側にきた打球に対し、回り込む。

 回り込みはバックハンドで打つところをフォアハンドで打つというよりむしろ、身体の角度とスペースを確保するという面が大きい。

 台のエンドラインに拘束されずに大きく身体を使うことができ、台の内にいてはできない体勢を取ることもできる。

 台から離れ、大きくラケット引く。

 こうしなければ、打てない。

 こうしなければ、御し切れない。

 それほどの一撃。司の強靭な肉体全体を使って放つ、渾身のパワードライブ。

 甲高い金属音を上げ、鋭い角度で突き刺さる。

 回り込むことによって、真夜のバック側に鋭角で打ち込むことができた。

 だが、真夜はその打球にすら食らいつく。強引にドライブでカウンターしようとするが、その腕は――振り抜けない。

 あまりに重い打球。それを打ち返すだけのパワーは、真夜にはなかった。

 当てにいくだけならば、まだ返せただろう。だが、真夜には相手の攻撃をカウンターするということが念頭にあった。

 それをぶち抜くだけの圧倒的なパワー。それが司の卓球。

 司はそれ以降、ドライブの応酬の間隙を縫い、回り込む、台から離れるなどでパワードライブの寸の間の余裕を作り、凄まじいまでの力技で真夜を蹂躙していく。

 2セット目を取った司は、荒い呼吸で汗を拭う。

「先生が私のドライブの対処法を考えないはずがない。こっからは、スタミナ勝負だな」

 司の言葉通り、3セット目から真夜は司のパワードライブを、カウンターで狙うことをしなくなった。

 ラケットに当て、勢いを抑えて処理する。その返球は砌のような洗練されたものとはほど遠く、打ちにいくには絶好の球だ。

 だが、真夜はその次の打球を本命に据えていた。

 司の渾身のパワードライブは処理するにとどめ、次に放たれるスマッシュを確実にカウンターする。

 そういう意味では、真夜の返球は実に具合がいい。

 司の全力をなんとか返すだけでは、どうしても打球は浮いてしまう。高く浮いた球をドライブで打ち抜くのは、スマッシュするよりはるかに難しい。

 それに加え、司が真夜のカウンターを吹き飛ばすだけの威力のドライブを放てるのは、ドライブの応酬で打球の勢いが加速度的に高まっていくという状況というお膳立てがあるからでもあった。強い球を打てば、より強い球になるという当然の理屈である。

 そこを当てるだけで返し、自らリズムをローに落とす。無論、スマッシュを打つには絶好球であることに変わりはない。だが真夜の場合、そのスマッシュに追い付いてしまうのだ。

 自らの強みを活かし、司の強みを殺すことで、3セット目は真夜が取った。

「安倍さん――」

「いや、このままでいい。賭けにはなるけど」

 卓球では試合中、互いの得点の合計が6の倍数になる時にタオルの使用が認められる。タイムアウトがほとんど用いられない県大会では、この時間が重要な切り替えの時間になる。

 5‐7。タオリングの時間は先程よりも長くなっていた。互いに止めどなく溢れる汗を拭い、タオルは水の中に落としたかのように濡れている。

 司が先にタオルを台の下にかけ、構えを見せると真夜は慌ててそれにならう。

(もう、相当きついだろ?)

 打ち合いが続くことで、司も真夜も、著しく体力を消耗していた。それでもなお続く打ち合い。スタミナはあっという間になくなっていく。

 司が言ったスタミナ勝負――今まさに、その様相を呈してきていた。

 真夜のフットワークと反射神経は砌に勝るとも劣らないが、スタミナは砌ほど常識破りではない。

 こんな状況を想定し、司は部の練習メニューに長距離のランニングを組み込んだ。小手先の技術が通用しないレベルまで到達すれば、最終的に物を言うのは体力量になる。

 だが――司が積極的に攻めていくという今の状況では、消耗していくのは司のほうが早い。

 司は徹底したドライブマンである。攻める以外の選択肢は卓球を始めた時に捨て去った。

 それを見越しての体力作りだったが、今はもう賭けの段階に入っている。

 体力が尽きるのが、司が先か、真夜が先か。

 6‐10。真夜のマッチポイントまで追い詰められても、司の目の光は消えない。

 真夜は身体を震わすように息をしていた。すでに体力は風前の灯。司ももうすぐに底を尽きそうな状態だったが、この機を逃すわけにはいかない。5セット目まで持ち込めば、こちらが圧倒的に有利になる。

 真夜は司のドライブに追い付けなくなっていく。面白いようにドライブが決まり、一気に3連続で得点する。

 9‐10。あと1点でデュース。

 レシーブの構えをなかなか取れないでいる真夜はもう限界なのが目に見えて明らかだった。ラケットは台の下に下がり、頭は意識が朦朧としているのか完全に下を向いている。先程のタオリングで司が早々に構え、真夜を急かしたのも効いている。

 司がサーブの構えを取ると、真夜もなんとかレシーブの態勢を取る。最初のプレーと同じカモフラージュされた無回転サーブを出すと、真夜はツッツキで返し、打球が浮き上がる。司は容赦なく三球目攻撃を叩き込む。

(あ――れ?)

 腕を振り抜いている途中で、まるで自分の腕ではないかのような奇妙な感覚が広がる。

 力が――入らない。あと一瞬でもその事実を認識するのが遅れれば、ラケットが明後日の方向に飛んでいっただろう。

 司の打球は勢いなく、ふわりと浮いて真夜のコートでバウンドした。

 真夜はそれで、最後の力を振り絞る。

 全力を込めて、スマッシュ。

 司はそれを打ち返そうとするが、足ももうまともに言うことを聞かなかった。

 9‐11。セットカウント1‐3。

 まずは碧彩高校の1勝。

 ベンチに下がった司は、監督席に倒れ込むように座った。

「――悪い。読み誤った」

 自分の体力のほうが尽きていた――司自身も一人の選手であるというのに、そんなことも見抜けないで、何が監督か――保子に言われるまでもなく、己の未熟さを痛感する。

「司。あんたは間違ってない」

 司の肩にそっと手を置き、紫が司を、そして己を鼓舞するように言う。

「何故って、こうして私達がついてきてる。だから、みんなで証明してやろうじゃない。司が正しかったって」

「はい!」

 聖が叫ぶのを筆頭に、皆が頷く。

 司の目標。それは憧れの相手の率いるチームを自分が率いるチームで超え、全国へと進むこと。

 だから、司の負けは関係ない。チームで勝てば、それが勝ちなのだから。

 2試合目。紫の相手は四谷潤子。碧彩高校で藍に次ぐ実力者だ。

「潤子の戦型はオールラウンド型じゃない」

 試合前に紫に潤子の特徴を伝えた司は、改めてそのプレーを見ながら呟く。

 紫のカットを丁寧にドライブで打ち続ける潤子。回転量重視のループドライブに近い。

 恐ろしくミスをしないプレイヤーだということがひしひしと伝わってきた。紫にとどめを刺しにいくような強烈な一打こそないものの、紫のカットでミスを誘うことができない。

 セットカウント1‐2。一見単調なドライブとカットのせめぎ合いが続き、ずるずると試合は長引いていく。

「潤子先輩、このあとダブルスもあるのに、大丈夫なんでしょうか……」

 碧彩高校のベンチで、ようやく呼吸を整え終わった真夜がおずおずと訊くと、藍が穏やかに笑う。

「大丈夫。あとのことなんか気にせず、この試合さえ取れればいいの。司が負けちゃった時点で、向こうはもう終わりだから」

 藍はぐっと力を込め、真夜の頭を鷲掴みにする。

「司に勝っちゃったんだもんね、真夜が。えらいえらい」

 ぎりぎりと掴む力を強める藍に、真夜は確かに恐怖が混じった困惑の声を上げる。

「藍先輩、ステイです」

 田淵牡丹が他人事のように注意すると、藍は貼り付いたような笑顔で真夜を解放し、ぽんと優しく頭を叩く。

「牡丹先輩ぃ……ありがとうございます……」

「下手に関わり合うから付け込まれる。藍先輩は特に」

「牡丹はもう少し心を開いたほうがいいと思うけど」

 いつの間にかベンチに戻ってきていた潤子が苦笑しながら言う。

 試合は1‐3で潤子が取っていた。

「じゃあ藍」

「うん。さっさと決めちゃおうね」

 立ち上がった藍は、凍えるような目を細めながら朝代北高校のベンチを見遣った。

「潮ちゃん――」

 ラケットを握った右手をぎゅっと固め、桜は左手で潮のユニフォームの端を握る。

「怖いか?」

 頷く桜。

 潮は楽しげに笑う。

「上等だ。怖いってことは、諦めてねえんだろうが。敷島さんと見城さんに負けっ放しのいいとこなしだったんだ。なら、最後に一発かましてやんねえと気がすまねえだろ」

「うん――うん!」

 本当は、潮は半分諦めかけていた。それでも、桜に問いかけることで、己を無理矢理奮い立たせる。桜もそれに呼応して恐怖を振り払い、二人の決意は重なった。

「潮、桜」

 司が紫と一緒に二人を見上げる。

「負けた私達が――いや、負けた私達だから言う。勝ってこい!」

「はい!」

 相手は碧彩高校のシングルス上位二人のペア。単純な力の足し算では県内で敵なしと言っていいだろう。

 だが、瀬名高校との練習試合で、司と聖で組んだダブルスが時雨と青葉のダブルスに負けている。ダブルスの練習量の差もあるだろうが、強い者同士を掛け合わせようとも、それよりも強い組み合わせは存在するという証左を確かに目にしている。

 潮のサーブから始まることになった。レシーブは左利きの藍が台の右側に回り込んで構えている。

 ダブルスでの左利きと右利きの組み合わせは有利と言われている。台の中心付近の打球に対するニュートラルなフォアハンドでの打球体勢が互いを阻害せず、フットワークも斜めに入れ替わるだけでスペースを作ることができる。

 そして何より脅威なのが、左利きのサーブレシーブの優位さである。

 ダブルスでは台の右側からクロスにしかサーブが出せない。これは左利きの選手からすると、常に回り込んでフォアハンドで打ちにいける状態にあるということである。

 潮もそれはよくわかっていた――というよりは、藍を目の前にして厭でも実感する。どこにサーブを出そうと打ってやるという強烈なプレッシャーを笑顔で放つ藍を前に、潮の額をプレー前だというのに汗が伝う。

 だが、臆さない。台の右端から相手のネット際の右端を抉るような角度のついたサーブを放つ。回転は控えめ、速度を上げた奇襲。打ちにいくことに意識がいっていれば、不意を突かれることは必至――。

 藍の姿がネットの横まで迫っていた。そのまま倒れ込むように強引にフォアハンドドライブで狙い打つ。

 殆ど真横に飛ぶような打球だった。サーブと同じ角度で放たれたドライブは、到底追い付けるものではない。

 0‐1。

(そんなの――ありかよ)

 まるで後先を全く考えないかのような無茶苦茶な打ち方だ。普通ならばバックハンドで処理する打球を、回り込んでいたところからさらに回り込んでフォアで打ちにいく。しかもそのサーブは潮からすれば奇襲のつもりだったのにも関わらずだ。

 潮は武器になるほどのサーブは持っていない。しかも打つ場所が限られるダブルスならなおさらである。

「潮ちゃん」

 桜の声にはっとする。

 これはダブルス。潮の次に打つのは桜だ。

 打たれるのならばそれはもう仕方がない。だが、次の桜が打ち返すことのできる打球に誘導することは絶対に必要だ。

 桜は潮がそうなるようなサーブを出すと信じ、潮は桜が藍の打球を打ち返すと信じる。

 至極簡単なことだ。そうしなければ、ダブルスは立ち行かないのだから。

 潮はセンターライン付近に短い下回転サーブを出す。

 藍は、まるで飛ぶように腕を伸ばすと、手首から先だけの力でそれをフリックする。

 しかもコースはフォア側。潮があと少しでも後ろに下がるのが遅れていれば、桜は追い付けなかった。

 桜は表ソフトを張ったフォアハンドで、角度を合わせてスマッシュを打ち込む。

 高速の打球を、後陣に下がっていた潤子がカットする。

 突如として行われたプレーに困惑することなく、潮はツッツキでコースを狙う。

 藍は即座に飛びつき、ドライブをバック側目掛けて放つ。桜はバックハンドドライブでストレートを射抜く。

 そこを中陣へと出ていた潤子がカウンタードライブを決める。潮は追い付けず、碧彩高校の得点。

 0‐2。

(わかってても、やんにくいな……)

 潤子の特異な戦型は、司から聞かされていた。

 潤子は試合中に、戦型を変える。オールラウンド型ではない。ドライブマンとカットマンの戦型を、両方扱えるのだ。

 先程の試合、紫が攻撃に出た途端、潤子がカットで防御に転じた。その対応の切り替えをどうやっても崩すことができず、ゆっくりと、だが確実に紫は負けに向かっていった。

 戦型を定めることがまず第一にある卓球では、一つの戦型――自分のスタイルを獲得することが強くなる前提にある。ところが潤子はドライブとカットという両極端にある戦型を、等しく自分のものにしている。

 これが優位に働くかどうかは、正直微妙な場合のほうが多い。戦型を両立させることが特別強みになるようなら、皆がやっているという話である。

 だが、潤子が保子の指導の下でこの戦型を維持しているということは、潤子の場合はこの二刀流が武器になっているという証拠でもある。

 保子は多様性は認めるが、弱いことは許さない。そうした指導方針で、様々な個性的な選手を育ててきた。その保子が砌について口を出したということは――司はぐっと拳を握る。

 1セット目は碧彩高校が取り、ベンチに戻った潮と桜はしきりに何かを呟いていた。

「もう少し――」

「もう少し――」

 二人の間で意思疎通は行っていない。それでも同じことを考えているのだとわかった。司は余計なことを言って集中力を削がないよう、二人を送り出す。

 藍のサーブを潮が受ける。司と同様のカモフラージュされたサーブ――しかも左利きなので普段と同じ構えで打てる。

 潮は粒高の特性を活かし、相手の回転の影響をいくらか無視してツッツキを放つ。

 もう少し――それは決して技術面だけのことではなかった。潮と桜はダブルスのレギュラーとして、朝代北内で様々な組み合わせを相手に練習を重ねてきた。連携は阿吽の呼吸の域にまで達している。

 たとえば、潮がコースを狙ってツッツキを放つ。

 たとえば、桜がその返球をスマッシュで打ち抜く。

 潮は桜がスマッシュを、桜は潮がツッツキを、打つということが何故かすとんと腑に落ちる。

 潤子のサーブを、桜がバックハンドで回り込んでチキータを見舞う。藍が飛びついて返球すると、ボールの落下地点に潮が待ち構えている。

 裏ソフトで思い切りスマッシュ。潤子は追い付けず、朝代北高校の得点。

 13‐11。

 デュースにもつれ込んだものの、1セットをもぎ取った。

「潮、最後――反転してなかったな?」

 司はベンチでそう問いただす。

 潮は桜がレシーブに構えた時からずっと、反転式ラケットの表を粒高ではなく裏ソフトで構えていた。そのまま、藍の返球をスマッシュするまで裏ソフト。

「わかったんです。桜がチキータでコースを突いて、更屋敷さんを崩すのが」

「やっぱり、潮ちゃんも?」

 桜が不思議そうに、だが確信を持って声を上げる。

「私も、潮ちゃんがどこに打つか――打ちたいかがわかるんです。だからこっちに打ったほうがいいな、って」

「同じだ。っていうか、確認するまでもねえな。さっきのセットで、もうわかった」

 潮と桜が、互いへの最適解をわかり、出し続ける。単純だが、実際に行うには果てしなく難解なプレーだ。多くのダブルスが追い求め、辿り着けずに終わる境地に、今この二人はいる。

 わかる――わかるのだ。互いのプレーが、フットワークが、ツッツキが、プッシュが、ドライブが、スマッシュが、完全に噛み合っていく。

 潮がネット際センターラインにツッツキを短く落とせば、前に出てきた藍の身体が邪魔になる位置に桜がツッツキを差し込む。

 桜がラケットの裏表を入れ替え、バックハンドを表ソフトにしてのプッシュで攻めれば、意表を突かれた潤子のレシーブを潮が裏面打法で狙い打つ。

 それら全てを、何も口に出さず、サインすら出さずに流れるように行っていく。

 セットカウント3‐1。

 極致へと至った潮と桜は、途中から完全に藍と潤子を圧倒した。

「っしゃあ!」

 負ければ終わり。相手は県内最強。ここまで追い詰められ、二人は完全に覚醒した。

「潮ちゃん先輩、てっしー先輩、すごいです! マジですごいです!」

 興奮してまくし立てる聖を、潮は強めに小突く。

「その呼び方やめろ。っていうか、わかってんだろうな」

「もっちろんですよ! 次あたしが勝って、砌が勝てば全国! 準備しとけよ砌ぃ! 絶対繋げてみせるからな!」

「うん。待ってる」

 貼り付いたような笑みのまま、藍はベンチに座り込んだ。

「ありゃ無理だ。向こうと比べたらあたし達なんて突貫もいいとこだな」

 苦笑しながら藍の横に座る潤子は、2試合続けての出場が流石にこたえたのかしきりに汗を拭う。

「あの……藍先輩、大丈夫ですか……?」

 真夜が恐る恐る訊ねると、藍は真夜の頭を思い切り上から掴んだ。

「なにが?」

 込められる力がどんどん増していく。

「藍先輩、ステイです」

 ラケットを取り出した牡丹が言うと、藍は穏やかな笑みのまま真夜から手を放した。

「次、藍先輩に回ってきた時のために準備しといてくださいよ」

「おいおい、負ける前提か? 牡丹」

 潤子が笑いながら言うと、牡丹は至極真面目に頷いた。

「相手は進藤聖。私には分が悪いです。まあ、負けるつもりは毛頭ありませんが」

 真剣な面持ちのまま、牡丹はコートに向かう。

 サーブ権を取った牡丹が構えると、聖もレシーブの構えを取る。

 牡丹はまず聖のバック前――ストレートのショートによく切れた下回転サーブを出す。

 聖は打ちにはいかず、ツッツキでフォア側に送る。牡丹はそれに飛びつき、ドライブで打ちにいく。

 すぐさまカウンターで打ち返す聖に対し、牡丹はブロックで落ち着いて対処する。

 だが次の一打で打ち抜かれ、聖の得点になる。

 試合は聖のペースで続き、そのまま1セット目は聖が取った。

「隙がないですね」

 保子の前に立って牡丹はそう口にする。

「作れ」

「はい」

 一年間保子の指導を受けてきた牡丹は全て承知の上で短く返し、コートに戻っていく。

 聖のサーブ。フォア前――クロスに左横回転。牡丹から大きく逃げるような軌道になる。

 牡丹は大きく腕を伸ばし、腕の力だけで払う。

 牡丹がフォア側に大きく傾いたところを見計らい、聖はバック側にドライブを打ち込む。

 1‐0。このセットも聖の得点で幕を開けた。

 牡丹は別段動揺を見せず、同じように構える。

 聖は同じコースに、今度は下回転のサーブを出す。

 ストレートにツッツキ。飛び込んだ聖はすかさずドライブで攻める。

 それをドライブで打ち返しながら、牡丹は中陣へと下がる。聖はバック側にきた打球をバックハンドドライブで返球し、すぐさま体勢を整える。

 1セット目でも見られたドライブの打ち合い。こうなればもう聖の独擅場である。

 だがラリーの途中で、牡丹は聖のドライブをブロックで止めた。

 そんなことは関係ないとばかりに、聖はそれまで牡丹が陣取っていたフォア側と逆方向に打ち込む。高速のラリー中の突然の打ち分け。聖の真骨頂だ。

 牡丹は、それに追い付いていた。強打ではなく、相手の打球の勢いをそのまま返すカウンターブロック。コースは聖の逆方向。

 聖は逆方向へ打ち分ける際に、無理矢理な打球を安定させるために体勢を崩す。本来ならば相手の返球が遅れることで充分カバー可能な隙だが、牡丹は聖の打球のバウンド直後にブロックを決めていた。

 聖のラケットが空を切り、牡丹の得点になる。

「読んでるな――」

 司が牡丹のプレーを冷静に観察しながら呟く。

 ドライブの打ち合いから、聖のコースへの打ち分け。それに牡丹が追い付きカウンターブロックで得点。この流れが暫く続いていた。

「打つ前に、動いてますね」

 砌も司に同意する。

 牡丹は聖がコースを狙ってくる前に、すでにそのコースに先回りしている。単なるフットワークでは、聖の常軌を逸した打球には反応できない。

 聖がどのタイミングでコースを狙ってくるか、完全に読んでいる。

「分析プラス直感。はまった時の牡丹は手がつけられないからなぁ」

 潤子が藍に目をやりながら苦笑する。牡丹が特にはまる相手が藍なのだ。そのせいか牡丹の一声で藍はすぐにおとなしくなる。

 相手のプレーを分析し、どの打球をどのコースに打ってくるかを予測し、それを実現させるために誘導する。とはいえそれだけでは確実な勝ち筋にはならない。

 牡丹の驚異的な点は、最後の一押しを己の直感に頼るところだった。確実に決められる急所。そこを未来予知じみた直感で見抜き、一歩先に動くことで確実に突く。

 無論、所詮は直感。外れることも当然あるが、その的中率を分析力で劇的に高めている。

 8‐11。2セット目は牡丹が取った。

 司と聖の意見は同じだった。聖もまた牡丹にプレーを読まれているということを厭というほど感じていた。司は打開策をいくつか提示し、聖は冷静にそれらを吟味する。

「いつまでもガキ呼ばわりはごめんだろ?」

 司はそう言って聖の肩を叩く。

「ここらで、一皮剥けてこい!」

「はい!」

 牡丹のサーブを、聖はいきなりフリックで打ちにいく。

 司が考えた打開策の一つが、打ち合いに持ち込まないことだった。だがこれは聖の強みを捨てることになる。攻撃型の聖が攻撃を捨てるのは、リスクが大きすぎる。

 よって、聖は攻める。

 牡丹がブロックで止めた打球を、ドライブで打ち抜く。

 次の一つが、プレーのリズムを変えるというものだった。先程まで打たなかったところで打つ。打つところで打たない。聖はまず、これを実践する。

 序盤はこれが有効に働き、点差を広げることができた。だが中盤から牡丹が聖の新しいリズムに照準を合わせ、点差を詰められていく。

 司の最後の提案は、コースを狙わず、真正面からの打ち合いに徹すること。聖の力量ならばそれでも十二分に戦える。だが相手は碧彩のレギュラー。地力では拮抗している。

 ならば――聖は司の策を無視し、打ち合いの中でコースを狙おうとする。

 独特の動き――コースを強引に変えるために体勢を崩す聖はその途中で、牡丹の動きが目に入った。

 普段ならばありえないことである。聖は目の前のボールと狙うコースを見据え、他のことにまで目がいかない。

 だが今は、聖の打球を先読みしてフォア側に移動する牡丹の姿を確かに捉えていた。

 体勢を、立て直す。

 一度傾いて、揺り戻す勢いを利用して、聖は打球をバック側に打ち込む。

 逆を突かれた形になった牡丹は追い付けず、聖は無理な動きをしたせいでその場に尻餅をついた。

 11‐9。3セット目を取ったのは聖。

「あいつ――」

 司が驚愕に言葉を失う。

「打つ途中で、コースを――変えた?」

 紫が信じられないとばかりに司に確認する。

 一度打球のイメージを固め、ラケットを引いた時点で、その打球はほとんど決まったと言っていい。というよりその間の時間は、人間の反射神経の限界に近い。先程の聖と牡丹の打ち合いは、その限界のスピードと言ってよかった。

 だが聖は、その刹那に牡丹の動きを察知し、固まった打球のコースを捻じ曲げた。

「見えました」

「マジか――」

 ベンチで先程のプレーを振り返る聖に、司はまたも言葉を失う。

「でも多分、そう何度も見えないと思います。さっきのはたまたまっていうか――」

 極限の緊張感の中で一瞬だけ見出した絶技というわけだ。

「精度を上げろって言ったら、できるか……?」

「やります!」

 笑顔で言って、コートに戻っていく。

 11‐4。セットカウント3‐1。

 聖は言葉通り、限界のその先の反射神経をものにした。

「『神童』なんてもんじゃないな――これはもう――『怪物』だ」

 司が小さく呟く。

「砌ぃ! ちゃんと繋げたからな!」

「うん。すごかった」

 聖が倒れ込むと、砌はゆっくりと立ち上がった。

「砌」

 司が、そして全員が砌に視線を送る。

「迷惑は、かけません」

「いや、負けたとしても迷惑だなんて、誰も思わねえよ」

 潮がやれやれといった様子で笑う。

「うん。砌ちゃんが全力で勝ちにいくことはみんなわかってる」

 桜は柔らかく笑いながら潮に続く。

「砌は間違いなく、このチームの勝ちに必要なメンバーだよ」

 紫の言葉を後押しするように、司が砌の背中を押す。

「いってこい!」

 頷き、一度聖と目を合わせ、互いに頷き合う。

「変態さん、変態さん」

 鼻歌混じりにそう言いながら、藍は試合球をラケットではね上げていた。

「鵜野森です。練習お願いします」

 構えると、藍は球を出してラリーを開始する。

 3回ラリーを終えると、審判の前――台の横に移動してラケットを交換する。藍のラケットはシェイクハンドに攻撃的なラバーが張られていた。

 じゃんけんをして、サーブ権は藍が取った。

 うねるような動きでラケットを動かし、一見して何の回転がかかっているかわからない――だが確実に悪辣な回転がかかっているとわかるサーブ。砌はそれを瞬時に見抜き、適切なツッツキで処理する。

 藍は身体全体を使うように大きく腕を引くと、身体ごと前に打ち出す。

(速っ――)

 考えるより早く、ラケットが伸びていた。藍のドライブはとにかく速度を極めた、スピードドライブ。一瞬でも反応が遅れれば打ち抜かれる。

 砌はラケットに打球を当てると、いつものようにその勢いを完全に殺して返球する。

 身体ごと前に飛び出した藍は前のめりになりながら、台上の打球をバックハンドで振り抜く。その反動で今度は後ろに跳んだ。

 砌が同じように打球を止めると、藍は中陣から前陣に飛び込むように打ち込む。

 前に迫る藍の気迫に圧され、その打球が手首を捻ることによって広角に打ち分けられていることに気付くのが一拍遅れる。

 藍のスピードドライブを前に、その一拍は致命的。

 全く追い付けず、藍が先制する。

(気圧されたら、負け)

 砌は静かに息を吐いて構える。

 中学の時、「吹き溜め」でスマッシュを砌に浴びせ続けた連中は、ただ恫喝と短絡的な暴力で威圧してきた。

 だが藍の場合はそんな生温いものではない。純粋な選手としての実力と、それに裏打ちされたプレーで砌を圧し潰そうとしている。

 藍のプレーは一見、飛んだり跳ねたりの騒がしいものと勘違いされやすい。前に出ながら打つ。前に出すぎた次の打球では後ろに跳びながら打つ。普通ならば考えられないところを回り込んで打ちにいく。

 だがその本質は、圧倒的なスピードドライブを確実に決めることだけを考えた即物的なプレーだ。

 スピードドライブを決めにいく時に、前に出る。そしてその動きとは別に、打球方向を手首の柔らかさで打ち分ける。相手は迫ってくる藍に気を取られ、狡猾にコースを狙う打球への反応が遅れる。

 ルール改正が行われる前、卓球ではサービスエースが多く見られた。

 それは身体を使って投げ上げたピン球を隠し、さらに小さく投げ上げることで不意打ちのような形でサーブを放つことができたからだった。

 現在はピン球を投げ上げるのは垂直に16センチメートル以上。その途中でピン球の軌道を隠すブラインド行為は行ってはならないというルールになっている。

 藍の突拍子もない攻撃は、いわばドライブ版ブラインドだった。

 実際に打球の軌道を隠すわけではない。相手の注意を身体の動きに引き付け、インパクトに意識を向けさせない。精神的ブラインド。

 砌はプレーの中でそれを理解していた。

 5‐11。1セット目は藍が危なげなく取った。

「次から、止められると思います」

 司にそれだけ言ってコートに戻っていく砌には、確かな自信があった。

 言葉通り、砌は藍のドライブに反応できるようになっていった。藍のプレッシャーに惑わされず、打球だけを追い続ける。一度感覚を掴んでしまえば、砌の常軌を逸した身体能力で食らいつける。

 7‐5。タオルを使う砌は、自分がぐっしょりと汗をかいていることに若干驚いた。スタミナが無尽蔵の人間はいない――自分にスタミナ切れはありえないと思っていた砌は、そんな当たり前の事実に思い至った。

 藍のコースを突くスピードドライブを止めにいくには、普段以上の運動量が必要になる。藍のドライブはなにより速い。それがコースを狙ってくるということは、フットワークを限界まで速めなければ対応できない。

 ここまでの試合は1回戦の御影、ベスト8での五十鈴。どちらもいつもと同じプレーができていた。まだ疲弊するような時分ではない。

 タオルを台の下にかけて、サーブの構えを取る。砌のサーブには、もはや意味はなかった。元々多彩ではないし、下回転でも砌程度の回転量では藍はどこに出そうと打ってくる。

 だから、藍の攻撃をどう限定させるかだけを考えればいい。どこにでも打ち分けられるような打球を出せば、いくら砌でも追い付けない。

 センターライン上、ネット際に下回転。ここならば強引なフリックでしか打てない。

 狙い通り、藍は台の右サイドに回り込みながらフリックで払いにきた。前に出すぎたことをカバーするように後ろに跳んでいる藍を見逃さないようにしながらそれを落ち着いて返球し、次の攻撃を待ち構える。

 藍は中陣でぐっと踏み込むと、いつもの前に出ながらのドライブで攻めてきた。

 砌は惑わされない。打球をしっかりと追い、確実に返球する。

 決定打を奪われた藍はずるずると点差を離され、2セット目は11‐8で砌が取った。

「藍のあれは、虚仮脅しだ。それは本人もわかってる」

 司は砌がセットカウントで追い付いたことに喜ぶことなく、淡々とそう告げる。

「だから、それが通用しないとわかれば、やり方を変えてくる。ダブルスの時みたいに」

 確かに、ダブルスで出場した時の藍は今のような騒がしいプレーをしていなかった。それでも後先を考えない大胆なプレーは多かったが、それは次に打つのが潤子だからという状況ゆえだろう。

「こっからが正念場だぞ」

「はい」

 司の言った通り、藍のプレーは明らかに変わってきた。

 表面上は、以前と同じに見える。だが、大げさなプレーが減り、隙が確実に少なくなっていた。

 前に出ながら打つスピードドライブも、身体全体を使ったものではなく、次の返球に備えるための余裕を作るものに変わっていた。向かい合うプレッシャーは減ったが、ドライブが速いことに変わりはない。

 追い付けるが、確実に次がくる。しかもそのどれもが本来なら一撃必殺のスピード。砌はじりじりと追い詰められていった。

「砌が、あれに気付けば――」

 司は簡単な打開策を思い付きながら、それを砌に伝えられないでいた。保子には甘ったれと罵られるに違いない。だが、今の砌のプレーを変えるような一言をかけることで、砌のアイデンティティーを崩すのではないかと気が気でなかった。

 だから、司は言わない。

 砌が自分で気付き、行動に移すのを待つしかない。

 6‐11。セットカウント1‐2。藍が、そして碧彩高校が王手をかけた。

「あの、安倍さん――」

 ベンチに戻ってくるとなにやら気恥ずかしそうに目を伏せながら、砌は小さく声を発する。

「私、勝ちたいです」

 司は少なからぬ衝撃を受けて一瞬言葉を失う。

 砌は勝ち負けへの拘泥がない。目の前の試合には常に全力で挑むが、それはむしろ義務感のようなもので、勝つことへの執着や負けることへの恐怖で動くわけではない。

 団体戦でもそれは同じ。チームのためという義務感から全力を発揮するものの、自身の勝利への渇望というものがすっぽりと抜け落ちている。

 その砌が、勝ちたいと言った。極度の義務感に苛まれたわけではない。司にはそれがわかった。砌は、一人の選手として藍に勝ちたいと願っている。

 司は、喉まで出かかった言葉を飲み込む。

「入部した最初の日に、私が言ったこと、覚えてるか?」

「はい。考えて打つように、ですよね。すみません……忘れてたわけじゃないんですが、実行するのが難しくて」

「ああ。今から実行に移すのは難しいだろうからやめといたほうがいい。それでも、どうしても勝ちたいという気持ちがあるなら――」

 砌は小さく、だが力強く頷く。

「もう少し、私の言葉を思い出してくれ」

 今ここで答えを言うのは簡単だ。だが、ふとした一言で、砌が瓦解するのだけは避けたかった。

 砌は暫しその場で黙考した後、全てを理解したように頷いた。

「やってみます。これは間違いなく、私の意思です」

 司は思わず苦笑する。砌は司の迂遠な言葉回しから、司の心労を察していたらしい。

「安倍さん」

 コートに向かうために司に背を向けた砌は、そのまま続ける。

「私、証明してみせます。私の指導をしてくれたのが安倍さんで正しかったって。私は、私のまま強くなったんだって」

 全く――司は完全に降参した。保子との会話を聞かれていた。それでも平然とした顔で今まで過ごしていたのだから、本当に見上げた奴だ。

 砌は緊張の中、それでも微笑を浮かべてコートに向かう。

 全ての球を返せば、絶対に負けない。

 御影の言葉を救いに、目標に、砌は卓球をしてきた。

 それは至極当然で、至極困難なことだった。

 それでも、砌はその言葉に縋った。体現してみせるとばかりに、変態型と呼ばれる戦型を身につけた。

 それがかえって自分を苦しめているのか――砌にはわからない。卓球は好きだ。何が好きかと聞かれると返答に窮してしまうのだけれど、卓球をやっていることが好きなのは間違いない。多分、今のまま、自分の思うままにプレーができているからなのだと思う。

 ひょっとしたら、今の自分を捨て去って、スマッシュを打ったりできるようになれば、卓球をもっと楽しめるのかもしれない。でも、そうなった時の好きと、今の砌が思う好きは、全く別のものに違いない。

 砌が砌のまま、好きでいられること。

 それを認めてくれた人達が、今そこにいる。

 その思いに、応えたい。

 砌を強いと言ってくれた、それを証明するために。

 そして、今までどうしても自分で得ることができなかった、自分が強いのだという確証を得るために。

 ――勝ちたい。

(ここ!)

 藍のスピードドライブ。それを確実に受けることができる態勢に持ち込み、その打球を、ラケットに当てる。

 打球音が、今までと全く違う。

 砌のラケットに触れた打球は、藍のドライブの勢いそのままに、逆側を貫いた。

「カウンターブロック……!」

 司は言おうとして言えなかったその技術の名を、噛み締めるように呟く。

 打球を止めるブロックの技術をカウンターへと転用する。相手の打球の勢いを利用し、最小限の動きと最大限の速度でコースを突く、超攻撃的防御術。

 砌の力量であれば、充分に実現可能な技術だった。だが砌はずっと、相手の打球の勢いを殺し、無害化して返球することにこだわっていた。それは今までそうだったからと、身体に染み付いた特性。そして砌の闘争心のなさの表れ。

 しかし初めて芽生えた、砌の勝ちたいという願い。それが砌に、カウンターという答えを提示した。

 11‐9。4セット目を手にしたのは砌。試合は5セット目――フルセットまでもつれ込んだ。

 もはや誰も、かける言葉を持ち合わせない。砌はベンチで汗を拭き、それぞれと目と目で頷き合うと、すぐにコートへと戻っていった。

 カウンターブロックをものにしようと、藍は当然それだけで打ち崩せるような選手ではなかった。最初の内こそ対応が遅れたものの、すぐに慣れてドライブの連打を浴びせてくる。

 砌自身、カウンターブロックを必殺の一打だと思ってはいない。基本はあくまで砌のまま――相手の打球を全て完璧に返球するスタイルだ。

 試合は拮抗する。

 4‐5。フルセットではどちらかの選手が5点に達した時点で、コートチェンジを行う。また、この時にもタオルの使用が認められている。

 タオルがほとんど汗を吸わないほど濡れているのを確かめ、砌は自分が息を乱していることが事実なのだと再認識した。まだ余裕はあるが、スタミナが尽きることが現実的になってきた。

 なにより危険なのは、底なしのスタミナを持つ砌が、体力的に苦しくなった状況でのプレーに慣れていないことだった。言うことを聞かなくなっていく身体に鞭打つ術を知らずともやってこれた砌にとって、これは初めて直面する危機だった。

 対する藍も、相当息が上がっている。ドライブを打つ藍のほうが砌よりもスタミナの消費が激しいのは自明の理だが、それでも打球の勢いが落ちないのは驚異的だった。

 スタミナで優位に立つ砌か、自分の身体の扱い方を熟知した藍か。

 藍のスピードドライブ。砌のカウンターブロック。それに即座に追い付いて藍の追撃。砌はまたカウンター。

 この打ち合いは、とうに互いの限界を超えていた。それまでは砌が勢いを殺して返球することで、打球のテンポが落ちていたが、今は砌が藍の打球の勢いを利用してカウンターを放っている。打球の速度は高まり続け、ラリーは熾烈を極めた。

 先にその速さについてこれなくなったのは、藍だった。

 スタミナは完全に底を突き、気力だけで身体を動かしている状態。だが、それもそう長くは持たない。足はもつれ、腕は上がらなくなっていく。

 対する砌も、息が苦しくなっていくというほとんど初めての体験に、プレーが乱れ始めていた。こんな状態でなおもドライブを打ってくる藍の底力に、ここにきて大いにおののいた。

 だが、優位に立ったのは砌。

 10‐9。あと一点で勝利というマッチポイントまで藍を追い詰めた。

 乱れる呼吸を無理に整えようとするのはもうやめた。プレーを続けていればどんどん息が荒くなっていくという当たり前のことを砌はやっと理解していた。

 スリースターの入った白い試合球を台上で数度バウンドさせ、平らに広げた掌の中央に乗せる。

 もう何度となく繰り返したサーブの構え。それがこれほどまでに緊張するのはいつ以来だろうか。

 中学最後の団体戦を思い出した。あの時のスマッシュミスで、全てが変わった。言い方は変だが、歯車が噛み合ったような確かな変化があった。

 でも、あの時を思い出して臆することはもうない。そんな境地に、今の砌はいた。

 だからだろうか。砌は、あの時と同じサーブを出していた。

 ストレートへの速いだけのロングサービス。あの時と違い、藍は左利き。回り込み、ドライブで攻めてくる。

 それを――待っていた。

 砌はフォア側にきた打球を、勢いそのままにストレートに打ち出す。

 回り込んだことで、藍の次の動きが一拍遅れる。しかもカウンターが飛んできたのは逆側。

 だが、これを返せなければ終わり――その現実が藍に限界を超えさせる。倒れ込むように飛びついた藍は、なんとかラケットの先に当てて返球した。

 打球は、勢いなく浮かび上がった。

 バウンドすれば、絶好のチャンスボールとなる。

 スマッシュを打てば、確実に勝ち。

「そうじゃない。そうじゃないだろ? 砌」

(うん。そうじゃない)

 迷いは――ない。

 バウンドの瞬間、砌のラケットに当たった打球は、勢いも高さも完全になくし、ネット際に落ちた。

 超ライジングストップ。

 それを待ち構えたかのように、藍が一気に前に出ながら打ってくる。

 10‐10。

 試合はとうとうデュースに持ち込まれた。

「いや、これでいい。こうじゃなきゃ駄目だった」

 打てないスマッシュでミスをして点を失うことと、磨き上げた自分の技術に対応されて点を失うこと。結果は同じだが、その意味するところは全く違う。

 スマッシュを打てないということを認めた上で、砌は砌のまま強くなった。その砌がこの状況でスマッシュを打つことは、今までの過程を全て無視することに他ならない。スマッシュを打てるようになったのだとしても、それを証明するのは今ではない。

 だから今、砌の目は死んでいない。

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