六章 救われた者、救えない者
インターハイ県予選。団体戦の当日。
女子は32校が出場し、ベスト4まではトーナメント方式。ベスト4からは総当たりのリーグ戦を行う。勝ち抜いた一校が、全国への切符を手にする。
スターアリーナという大層な名前の付いた県営体育館まで最寄り駅から徒歩十分。その間は別段気負うことなく、誰もが和やかに歩いていく。
「砌ぃ!」
「車道にはみ出さない」
砌は落ち着いて、はしゃいでいる聖を自分の方に引っ張る。それを見て二年生と三年生の顔が綻ぶ。
何事もないような顔で部活にやってきて、昨日は頭痛で休んでいたと淡々と説明した砌はしかし、明らかに何か決意を固めた顔をしていた。
聖は相変わらずの調子で砌に絡んでいくし、砌が迷惑そうなのは以前と変わらないが、以前と違い、歯車が噛み合ったようなやり取りに変わっていた。それは結局、聖の暴走を砌が冷静にフォローするという形に他ならないのだが。
「組み合わせ、どうなるかな」
紫が呟くと、司が笑う。
「どうせ一番にならなけりゃ全国には行けない。なんなら一回戦で先生のところと当たってもいいくらいだ」
「あの……安倍さん、ですよね……?」
背後から声をかけられ、司は思わず飛び退いた。
司が驚いたことに逆に驚いたようで、その女子は前に歩きながら後ずさるという高度な技を見せた。
朝代北の少し後ろに、揃いの緑色のジャージの集団。以前は散々ダサいと言われてきたこのジャージだが、今は威圧感すら感じさせるのだから不思議だ。
「
優勝を約束されたチーム――優勝請負人が三年前から顧問についた高校が、碧彩高校だった。
「は、はい。碧彩高校一年の
びくびくと怯えながら、真夜は何度も後ろの部員達を振り返る。
「それはウチを警戒してると判断してもいいのかな?」
司の言葉は真夜だけではなく、碧彩高校全体に向けられたものだった。
「うん、そうだよ」
穏やかに笑いながら真夜の隣に立つ相手の顔を見て、司の表情が強張る。
「そいつは光栄だな。
「藍先輩――」
びくりと身体を震わせ、真夜はおずおずと藍を見上げる。
藍は手を置いた真夜の頭をぐいと後ろにのけると、その勢いで司の腕に掴まった。
「相変わらずだな――」
やれやれといった様子で、司はいつもそうしているように藍の身体を自分のほうに引き寄せた。
「先生、怒ってた」
「それは怖いな。こんなことしてたらまた怒られるぞ」
「ここはまだ緩衝地帯でしょ? それに、私は司に負けないから」
更屋敷藍――シングルスで県のトップに立つプレイヤーを、当然知らない者はいなかった。司も個人戦の決勝リーグでは藍に負けている。そして、その選手をエースに擁するのが碧彩高校なのだ。
「確かに、私はもうお前には勝てないかもしれない。でも、ウチにはお前に勝てる選手がいる」
「『神童』?」
「あたしはもうガキじゃないでーす!」
「それとも――変態さん?」
藍の目が砌と合う。
「鵜野森です」
礼儀正しく会釈する。
司はなおも身体を寄せてくる藍に、若干の焦燥を気取られないように声をかける。
「砌を知ってるのか?」
「うん。先生がね、それで司に怒ってたから」
県営体育館の敷地内に入ると、藍は名残惜しそうに司から離れた。
「じゃあ、充分に警戒してるから、油断に付け入ろうなんて思わないでね」
呆れたような笑みを漏らす碧彩高校の部員達の中に戻り、藍は笑顔で去っていった。
「安倍さん――」
砌が訊きにくそうにしているのを見て、司は磊落に笑う。
「中学が同じだったんだよ。三年間ずっとあの調子だったから、もう慣れた。さて、弓削先生を捜さないとな。迷ってないといいけど」
車でやってきていた鏡子と合流し、スタンドに荷物を置いて練習に向かう。
開会式が終わるとトーナメント表が全校に配られる。
「門番は瀬名高か」
トーナメント表の4隅は去年のベスト4校が占める。朝代北高校が決勝リーグに進むには、絶対にその内の一校を倒さなければならない。今回、その勝たなくてはならない相手が瀬名高校だった。
「っていうか、一回戦の相手が朝工じゃない」
紫が朝代北の隣に載った朝代工業を指差して言う。
「うわははははは! まさか一回戦でぶつかるとはね! 決勝で会おうって盛大にフラグ立てたのに!」
調子の吹っ飛んだ快活な声。
「御影ちゃん!」
聖が思わず頭を下げる。
「この前はありがとうござました!」
「敬語!」
「サンキュー!」
砌はじっと御影を見つめる。
「御影さん――」
「話しかけんな馬鹿!」
御影はぎろりと砌を睨む。
「あたし、お前、嫌い。オーケー?」
当然、朝代北のメンバーはこの発言に困惑する。御影は砌の危機を救いに朝代北までやってきた――少なくとも皆の認識はそうだ。ならば特別親しい関係が築かれているはずだと思うのが自然。だというのに御影は砌を嫌いと切って捨てた。
「だってこいつ何回言ってもあたしに敬語使うんだもん! もうホント無理!」
そんなことでと気が抜けるが、御影にとっては重大な点らしい。
その時、朝代北高校と朝代工業高校がコールされた。1回戦が始まる。
「そんじゃ、楽しい試合にしようね」
アリーナへと下りオーダーシートを書く段階になって、砌がすっと手を挙げた。
「私、御影さんと当たりたいです」
司は冷静に問いかける。
「はっきり言う。朝工は全く眼中にない。だからさっさと3勝して消耗なく2回戦に進みたい。それに、砌はまだ使う気はない。砌の使い方は前に話した通りだ。これは朝工相手には全く意味をなさない。それどころか、最悪試合を一つ落とす可能性も出てくる。それでも――」
「御影さんと、試合がしたいです」
司は口の中で笑う。瀬名高校との練習試合の前、団体戦に出さないでくれと懇願していた面影はもうない。
「よしわかった。言っとくけど当たるかどうかは運のほうが大きいからな。誰が相手でも勝て」
「はい」
オーダーの結果、1試合目に砌と御影がぶつかることになった。読みが冴えていると司は笑う。
「御影さん」
「なに」
「全力できてください」
ラケットの交換とじゃんけんを終え、サーブ権を取った砌が構える。
御影が構えたの見て、砌はバック側にショートサービスを出す。
台上で二度バウンドするその球を、御影は思い切りはね上げた。
「いきなりロビング!」
聖との試合でもそうだったように、御影が普段、試合の序盤でロビングを上げないのは、無論体力の温存という目的もあるが、そのほとんどは相手の力量を見極めてからプレースタイルを決めるからだった。
御影はドライブマンとしてだけでも、それなりの実力を持っている。トーナメントの1回戦などでは、
だが、今の相手は中学で同じだった砌。その実力はよく把握している。それに加えて試合前にあんなことを言われては、応えないわけにはいかない。
(さあて、どうする?)
弧を描いて砌の台の上に到達した球は、大きくバウンド――しない。
バウンドの瞬間、砌のラケットがそれを待ち構え、はね上がる前に勢いを完全に殺して打ち返す。
御影の台上で三度バウンドし、台を転がって床に落ちる。
1‐0。
「決まった!」
聖が砌の分もとばかりにガッツポーズをする。
瀬名高校との練習試合のあとから始めたのが、このロビング対策だった。
砌はスマッシュが打てない。ならばそれはどうあっても諦めるしかない。その上で高く上がった球をどう対処するのか。聖が御影との試合の中で思いついたのが、この技術だった。
「名付けて超ライジングストップ!」
「砌、その技名聞いて死ぬほど厭そうな顔してたな……」
バウンド直後に打球するライジング打法の技術は、主に前陣速攻型が得意とする。打球のテンポが速くなり、高速の打ち合いを可能にする。
対してストップは、砌のこれまでの打球がほとんどこれに当てはまる。打球の勢いを殺し、相手のテンポを狂わせる。本来は打ち合いの中で織り交ぜるものだが、砌はその全てがこのストップであったため、通常よりも有効には働かない。
この二つを組み合わせたのが今の打法――聖が命名するところの超ライジングストップである。
高い球をライジングで止める――確かに明朗かつ単純な対策ではある。だが、その難易度は極めて高い。
高く浮いた球の落下地点を正確に見極め、本来ならば大きくバウンドする軌道に無理矢理割って入る。精緻な選球眼と、尋常ならざる集中力が要求される。
これを思いついた聖を含め、部の誰もがこの打法を安定して扱うことはできなかった。
唯一、砌を除いて。
(こりゃ、きっついわ)
御影が打ち上げた球を、砌は全て大きなバウンドを許さずに止めてしまう。その返球をまた打ち上げようとはするのだが、それすらも砌は全て完璧に返球する。
自然と御影のほうにミスは増え、点差が開いていく。
11‐5。1セット目は砌が取った。
2セット目、御影は最初から勢いのあるロングサービスを放ち、それを砌が止めると、ロビングではなくドライブで攻めてきた。
だが、砌にはわかっていた。全力の御影は徹底してロビングマン。つまりこれは次の一打への布石。
若干長くなった砌の返球を、御影は台の下から思い切り打ち上げる。
砌の台のエンドライン上に落ちた球をバウンド直後に帰そうとすると、凄まじい勢いで打球がはね上がる。その浮いた球を御影はスマッシュで打ち抜く。
御影は全身を使って今の打球に強力な前進回転をかけていた。回転を重視し、相手の返球を浮かせる技術――ループドライブを、ロビングという形に落とし込んだ一打。
砌は打ち方から前進回転がかかっていることを見抜き、ラケットの面を下に傾けて対応しようとしたのだが、予想を上回る回転量に抑え切ることができなかった。
次のサーブも御影は長いものを出した。今度はむざむざと打たせまいと短く返すと、御影はそれをフリックで強引に払う。
慌ててラケットを伸ばしてなんとか返すが、その返球はまた長い。
同じ構えで放たれたロビングを、砌は先程よりも強く抑え込むつもりで待ち構える。
バウンド直後の打球感が、さっきと違う。そう気付いた時には砌の打球は台から外れていた。
「砌が返球ミス!?」
「いや、今のは相手のエースだ。しかしループだけじゃなく、カーブまでとはな――」
カーブドライブ。ドライブに横回転をかけ、打球を曲げる打法。本来ならばコースを変え、相手の体勢を傾ける技術だが、御影の場合、それをロビングというスケールの大きな打法で行うことで、桁違いの回転量を実現させる。
凄まじい横回転で、相手の返球すら捻じ曲げる――そんな必殺の一打へとロビングを進化させている。
しかも御影はそれをほとんど同じモーションでやってみせた。
卓球のサーブはその回転と、モーションによるカモフラージュで戦略上非常に重要な位置を占める。御影の場合は、それをロビングに置き換えている。凄まじい回転量、一見してどんな回転をかけたのか悟らせないモーション。
ふざけているようで、その実確かな技術と実力に裏打ちされた選手。それが秋鹿御影。
砌はそれをよく知っている。それに加えて高校に入ってからも腕に磨きをかけてきたのだということを実感している。フリックなどは中学の時には会得していなかった技術であるし、ロビングの回転量もさらに跳ね上がり、回転をかける際も以前はもっとあからさまなモーションだった。
砌は、ただひたすらに感謝した。
こんな自分に、どうしようもなく弱い自分に、本気で向かってきてくれて――こんなに嬉しいことはない。
だから、砌は負けるわけにはいかない。この感謝を伝えるには、あの御影さんに、絶対に勝てなかった御影さんに、自分を救ってくれた御影さんに、勝たなくてはならない。
セットカウント3‐1。
試合は、砌の勝利。
「御影さん」
砌は深々と一礼する。
「また、試合してください」
「敬語やめたら考えてやる。――まあ、今のは楽しかった」
笑顔でベンチに戻っていく御影。
「よくやった!」
ベンチに戻ると司が笑顔で迎え入れてくれた。
「決まったな! 超ライジングストップ!」
「その技名やめて」
死ぬほど厭そうな顔をして、砌は立ち上がった聖を座らせる。
2試合目は司が、3試合目は潮と桜のダブルスが危なげなく取り、朝代北高校は2回戦に進んだ。
「よう」
スタンドに戻ると、酷薄な笑みを浮かべた五十鈴が、挨拶のつもりだろうがどう見ても威嚇するように片手を挙げていた。
「お前っ――」
聖が前に出ようとするのを、砌が押しとどめる。
「すげーじゃん。御影ちゃんに勝ったのかよ」
「うん」
「じゃあ、あたしにもリベンジしてみせろや」
相手を威圧する笑顔を浮かべ、五十鈴は去っていく。
「同じところで待ってる」
去り際、五十鈴は砌の耳元でそう告げた。
2回戦は1試合目の司、2試合目の聖、3試合目のダブルスでストレートで勝ち、ベスト8に進む。
3回戦。これに勝てば決勝リーグに進むことができる。
オーダーを決める段階で、司は頭を悩ませていた。
瀬名高校とは練習試合をした間柄だ。2回の団体戦だけでなく、自由に相手を選んでの試合形式の練習もしている。互いに手の内はほぼ出し尽くしている。
練習試合2回目の団体戦の組み合わせと結果はこうだった。
シングルス1、進藤聖――敷島時雨。2‐3。
シングルス2、伊織紫――飯島五十鈴。1‐3
ダブルス3、安倍司、進藤聖――敷島時雨、見城青葉。1‐3。
シングルス4、柊潮――三枝未絵。2‐3。
シングルス5、安倍司――見城青葉。3‐0。
セットカウントにして1‐4。公式戦ならばダブルスが終わった時点でストレート負けが確定していた。ダブルスで司と聖が組むという荒業を使ったにも関わらずこれだ。
まず、聖を時雨と当ててはならない。練習試合でも県予選の個人戦決勝リーグでも惜敗だったが、恐らくは今の聖では勝ちを取るのは難しい。
ベストなのは司が時雨と当たり、聖と合わせて2勝すること。その上でどこかで1勝できれば、朝代北の勝利になる。
それ故、オーダー選出はかつてない重要な意味を持つ。はっきり言って、勝敗の何割かはオーダーの時点で決する。
「安倍さん」
必死に頭を絞っている司に、砌は物怖じすることなく声をかける。
「私を、5試合目に出してください」
司は思わず目を剥いた。
「なにか――あるのか?」
「はい。すごく、個人的なことです」
「今回は5試合目まで回る可能性が高い」
それはつまり、自分にチームの勝敗がのしかかるということ。砌は小さく頷く。
「勝ちます」
ならばこれ以上訊くのは野暮だ。司は黙って砌の名前をシングルス5に記入した。
「整列!」
両校が台を挟み、向かい合って並ぶ。
「これより朝代北高校対瀬名高校の団体戦を始めます。
シングルス1、進藤聖――
シングルス2、安倍司――三枝未絵。
ダブルス3、柊潮、勅使河原桜――敷島時雨、見城青葉。
シングルス4、伊織紫――敷島時雨。
シングルス5、鵜野森砌――飯島五十鈴。
両校、礼!」
お願いします――礼をし、互いのベンチに戻る。
「関口瑞穂――聞いたことあるか?」
司に訊かれ、聖は首を傾げる。
聖を時雨とぶつけないという目論見は成功したが、聞いた覚えのない選手が一番手。厭な予感が大いにする。
「一年生っぽいですね。砌は知ってる?」
「いや。そもそも私は中学の時、伊作市内の大会しか出てないから」
「そっかー。でも見覚えないな……どんな選手だろ」
台に向かい、練習のラリーを始める。当然だが基礎は完璧で、1試合目を捨てるという作戦ではなさそうだ。
ラケットの交換。シェイクハンドに両面攻撃型のテンション系ラバーが張られている。
じゃんけんをして、サーブ権は瑞穂が取った。
ラリーの時にも思ったが、瑞穂は左利きだった。互いにクロスに構え、瑞穂がサーブを出す。
台から出る長さ。聖はすかさずドライブで急襲する。
瑞穂は、それを止めた。
カウンターでもカットでもない。ただ、ラケットに当て、そのまま返す。絶妙なコースへの返球を、聖は体勢を崩しながらドライブで打ち返す。
それも、止める。
打てども打てども、瑞穂は当てるだけの返球で返し続ける。
「おいおい――こいつまるで――」
潮が呆然と呟く。
「うん。砌ちゃんみたい……」
桜の言葉に、司がいやと否定する。
「多分、砌とは全く違う」
ドライブを打ち続ける聖が、打球に追い付けずに甘い球を返す。
それを待っていたとばかりに、それまで当てるだけでほとんどラケット振ってこなかった瑞穂が、大きくラケットを引く。
渾身のパワードライブ。それまで溜めに溜め、身体中に漲らせてきた力を一気に解き放つように、凄まじいスピードとパワーの打球が聖のコートを貫いた。
砌は黙って試合を見ている。
試合は聖が攻め続けるが、瑞穂が返し続け、聖に一瞬でも隙が生じれば凶暴な一撃が飛んでくるという展開が続いていた。
セットカウント1‐2。次のセットを落とせば相手の勝利という状況で、すでに聖の息は上がっていた。
瑞穂のえげつないところは、相手に打たせ続け、自分が攻撃に出るのは確実に決める一打だけという戦法だった。体力の消耗は当然聖のほうが激しい。
「進藤――」
ベンチで汗を拭く聖に、砌は思わず声をかける。
「強いな――強い。でも、砌のほうがもっと強い」
にっと笑い、聖はコートに戻っていく。
4セット目。相も変わらず同じ展開で試合は続く。
「本当に楽しそうに試合をするよね、瑞穂ちゃん」
時雨が溶けたような笑顔のまま呟く。
「すげー悪趣味っすけどね」
未絵の言葉に青葉が苦笑する。こちらのベンチからは今、瑞穂の表情がきちんと確認できる。
瑞穂は笑っていた。にやにやと、嗜虐の悦びに浸るように、口角を吊り上げている。
瑞穂は元々、他県の選手だった。特に目立つ選手ではなかったし、大会で結果も残していなかったが、瀬名高校の監督、市来恵美によって引き抜かれた。
中学最後の市民大会で、瑞穂は第一シードの選手に勝っていた。そのあとすぐに負けているが、たまたまその試合を見ていた恵美は大きな可能性を感じた。
その才能を磨き上げ、対碧彩高校の秘密兵器として準備を始めていた。
そして今、その前に倒さなければならない相手――朝代北高校に、ついに実戦投入を果たした。
瑞穂はすこぶる団体戦向きの選手だ。大物食い、大金星、ジャイアントキリングを果たすためだけに練習を課してきた。
にんまりと口の端を吊り上げる瑞穂は、待ちに待った試合への参戦に昂っていた。
そしてなにより、強い相手を手玉に取り、変則的な自分のプレースタイルに戸惑いながらどんどん点を取られていく様を眺めるという行為に酔っていた。
攻撃をいなし、受け止め、突っ返し、どうしようもなくなった相手に最悪の一打を見舞う。
こんなに楽しいことはない。
最高の愉悦に笑いが止まらないまま、瑞穂は聖を蹂躙する。
セットカウント1‐3。まずは瀬名高校の1勝。
「クソっ!」
ベンチに戻ってきた聖は大きく肩を落とした。
普段なら自分を負かした相手がどれだけ強いかを熱っぽく語るところを、聖は全身に悔しさを滲ませている。
「団体戦での負けって、こんなにきついんですね――」
中学では自分が勝っても残り全てが負け、常に自分の勝利とチームの敗北しか知らなかった。聖はここで初めて、団体戦というものを理解した。
「そうだ。だから団体戦は面白い」
2試合目、司が未絵にストレートで勝ち、3試合目のダブルスを2‐3で落とし、1勝2敗で紫の試合に回ってきた。
聖が負けた時点で、朝代北高校の勝ち筋の定石が崩れている。聖と司で確実に2勝を取り、残り一つをどこかで取るというのが最も確かな勝ち筋だ。逆に言えば、聖と司、どちらかが負ければ、一気に勝ち目は薄くなってしまう。
砌の認識はそうだった。だが司は慌てる様子はない。
司が目指したのは、自分の指導をもってチームを全国に導くことだった。最初からほぼ完成された聖のような選手は、いわば想定外の入部者であり、その力を勝ち筋に入れることは端から考えていない。
(そうだろ? 紫)
紫と時雨の試合は、徹底したツッツキ合いの様相を呈していた。
異質前陣攻守の時雨とカットマンの紫。お互いに守備型の選手同士の試合は、必然的に決定打のないままずるずると長くなる。
セットカウント1‐1。8‐9となったラリーのあと、恵美が手を挙げ、審判が両者に確認を取る。
「10分経ったのか――」
「あ! 促進ルール!」
卓球の公式戦では、1セットが10分以内に終了しない場合、促進ルールが適用される。
守備型同士の試合は必然的に長くなるため、それを早めようとするルールである。
サーブは2本交代から1本交代に変わり、サーブを受ける側の選手は、13回レシーブに成功すれば得点になる。
はっきり言って、県予選レベルではほとんど適用されることはない。審判は選手が兼任するし、そこまでの厳格なルールを求められることもないからだ。
だが、卓球に精通した監督の鶴の一声があれば、従う他ない。
時雨のサーブ。レシーブ側に圧倒的に有利となるこのルールの中でも、時雨は動揺を見せない、普段と同じ通り一辺倒のサーブを出す。
今に限れば、紫は無理に攻める必要はない。相手の打球を返し続ければそれで得点となる。
10――11――レシーブを数えながら、時雨がいつ攻撃に出るかを見極める。
時雨がラケットを大きく傾けて、ツッツキの構えを見せる。
潮と練習をしている紫は、それが鋭くコースを突いてくる必殺のツッツキだと瞬時に判断する。
バック側のネット際に、鋭角に逃げるようなツッツキが打ち込まれる。
紫は大きく踏み込み、腕を思い切り伸ばしてそれを拾う。
時雨はすでに、ラケットを反転させていた。
大きく体勢を崩した紫のフォア側に、情け容赦のないドライブが迫る。
今のツッツキは、確かに必殺の一打だった。だが時雨が潮のはるか上をいくのは、それすらもこのドライブの布石であること。まさしく、必殺の二段構え。
紫は、後ろに跳んだ。
踏み込んだことで、体勢は大きく傾いていた。だが、その踏み込んだ左足を今度は即座に軸足に切り替え、反対方向に大きく跳ぶ。
後先など全く考えない、捨て身の特攻。だが、それでいい。これが13回目。これさえ返せば、その時点で紫の得点。
ラケットの先に当たった球を、無理矢理打ち上げる。不格好に浮いた打球が、時雨のコート上でバウンドした。
9‐9。
時雨は参ったと笑う。
一見地味なツッツキ合いも、互いに一瞬の隙も生じさせない鍔迫り合いだ。13回目に到達する前に決めようと機会を窺っていたにも関わらず、確実に決められると踏んだのが11回目のレシーブの打球だった。
だが紫はそれをしゃにむに返してみせた。こうなってはもう脱帽する他ない。
(でも、次は私の番)
紫のサーブ――すなわち時雨がレシーブ側。同じように13回返せばいいだけのこと。
だが紫は時雨のレシーブをツッツキで返す構えを見せない。ラケットを大きく引き、思い切り擦り上げる。
(速っ――!)
時雨のラケットが伸びるより早く、紫の打球は防球フェンスにぶつかった。
10‐9。
「ゆかりん先輩のドライブ!」
どうだとばかりに聖がガッツポーズをする。
紫のドライブは、司が直々に教えた強力な武器だった。だが練習で打つことはあっても、試合ではほとんど使ったことがない。
以前、砌が何故なのかと訊ねると、紫はえへんと胸を張った。
「私、カットマンだから」
紫は入部してからの司との練習の中、ドライブを確実に自分のものにしていったが、それでは司に及ばないことを悟った。
比べる相手が悪すぎたのも当然だが、紫にとっては司に追い付くことこそが一番の目標だった。
ドライブでは司には絶対に追い付けない。そこで紫は戦型をカットマンと決め、司のドライブを受け続けた。
全国クラスのドライブを連日受け続け、紫はカットマンとして大きく成長していった。
だが、司は紫にドライブの練習はやめさせなかった。
仮令司に通用しなくとも、紫のドライブは十二分に武器になる。紫もその意味は理解していた。
それでも、紫は頑なに試合でドライブを打とうとしなかった。
紫は、あくまでカットマンとして強くなろうとしていた。ドライブはあくまで副産物。自分の武器は徹底してカットである。
「だから、本当に必要な時まで取っておくの」
(今なんだな、紫)
司は解き放たれた紫のドライブを見て、思わず身体が熱くなっていた。
時雨のサーブの時はレシーブに徹し、自分のサーブの時には凄まじい猛攻に転じる。
互いに守備型。促進ルールの適用下。この状況によって、紫はとうとう己の枷を外した。
(ラケット交換の時に、気付くべきだったね……)
紫のラケットの表には、テンション系のラバーが張られていた。
テンション系ラバーとは、ラバーを構成するゴムを常に引っ張ったような状態にすることで、高い弾性とスピードを実現させるラバーだ。
その性質上、守備にはあまり向かない。攻撃と守備を両立させることが出来る製品もあるが、紫のラバーはとにかく攻撃を重視したものが張られていた。
時雨は妙だとは思ったが、テンション系を張る守備型がいないわけでは当然ないので、あまり気に留めなかった。
それが、この苛烈なドライブを最大限に活かすためのものだったとは、予想だにしなかった。
促進ルールは以降のセットでも適用される。紫はその力と特殊なルールを存分に活用し、時雨を圧倒していった。
セットカウント3‐1。
「やった! ゆかりん先輩!」
ベンチに戻ってきた紫を、皆が嬉々として迎え入れる。
「紫――」
司がすっと腕を上げる。
紫はその掌を、思い切り叩いた。
「司の作ったこのチームは強い」
「はい。だから、私が決めます」
静かに立ち上がった砌は、穏やかに笑っていた。
「私が、私のまま強くなれたのは、安倍さんの、進藤の、みんなのおかげです」
「ああ、みんなわかってる」
司が胸を張った。
「砌は強い」
全員が、力強く頷いた。
「――ありがとうございます」
一瞬、花が咲いたような満面の笑みを見せ、砌はすぐに真顔に戻ってコートに向かう。
五十鈴は、無言だった。
以前のような嘲弄も罵倒もない。ただ静かに砌を見据え、じゃんけんで勝つとサーブ権を取って向かい合う。
五十鈴は、小学6年生から卓球を始めた。
始めた、と言っても、小学校の体育館で週2回行われていた、レクリエーション感覚の地域の卓球練習に祖母に連れられて参加していただけだ。
それでもその少なく短い練習でも、基礎は完璧に身につけられた。
五十鈴はそのことを、小学校の帰り道でいつも砌に話していた。
どんどん思うように球を打てるようになっていく自分を自慢したかっただけなのかもしれない。それでも砌は本当に楽しそうに五十鈴の話に食いついた。平日に夜まで家に両親がいない砌は、放課後行われるこの卓球練習に参加することを許されなかった。だからなのか五十鈴の話を聞いているだけで目を輝かせ、中学に上がったら一緒に卓球部に入ろうと約束した。
砂州中学では、生徒は全員部活動に所属しなければならない決まりがあった。
その中には当然、部活動を真面目にやる気など端からなく、ただ暇を潰すためだけに入部するような者達が一定数いる。
砂州中学の場合、そんな連中が集まるのが卓球部だった。
五十鈴の入学した時点での三年生は、ほとんど全員がやる気を持ち合わせていなかった。
二年生も半分がそんな手合いだったが、残りの半分は真剣に練習を行っていた。
そこで二年生の練習をしたい者達が考え出したシステムが、部を二つに分けるというものだった。
砂州中学には校舎の各階に、学年の集会を行う広いホールが設けられている。女子卓球部はその2階と3階のホールを使って練習を行っていた。男子卓球部は1階と、2階のホールの3分の2を使っている。
きちんとした練習をしたいと思う二年生の一部が考えたのは、部内のランク戦上位8名が2階の使用できる4台で練習し、それ以下の部員は3階の台をどうぞご自由に、という方式だった。
2階と3階を完全に分ける。2階では大会に向けての練習。3階では暇を潰すための球遊び。そうすることで互いの利害を一致させた。
一年生は入部して暫くは顧問の教師に基礎を習い、最初の校内ランク戦のあと、3階に放たれる。
五十鈴は入部して最初の校内ランク戦で、8位に入った。
五十鈴が入部した当初の2階の「真面目組」は、前回のランク戦で8位以内に入った部員が一人、自ら3階に戻っていったので、7人で活動していた。そのため五十鈴は別段周囲の悪感情もなく、2階の練習に参加することになった。
五十鈴は砌と一緒に練習できないことを少し気にしながらも、自分がレギュラーを狙える位置にいることに興奮し、ひたすらに練習に打ち込んだ。2階と3階の風景は物理的にも精神的にも隔絶されており、五十鈴が砌を気に留めることも減っていった。「真面目組」の二年生の先輩に気に入られて、下校ももっぱらそのメンバーで帰った。
砌とは家の方向が違うので、登校時に一緒になることもなかった。クラスも別だったし、部活になれば2階と3階に分かれる。
二年生に上がり、三年生に上がると、砌はランク戦で8位以内に入った。
砌は、変わっていた。
感情がないかのように、常に無表情で淡々と打ち続ける。
五十鈴の話を楽しそうに聞いていた、あの頃の砌の面影は消えていた。
そしてなにより目を疑ったのは、そのプレースタイルだった。
「あー、砌はねー、『吹き溜め』のいいおもちゃにされてたんだよ」
校内ランキングで8位以内に入り続けながら、自ら3階――通称「吹き溜め」に残り続けた先輩、秋鹿御影とたまたま会った時、そう教えられた。
卓球において、最も簡単で、最も爽快で、最も憂さ晴らしになるのが、スマッシュだ。
砌は「吹き溜め」で、そのスマッシュを打たれ続けた。
上級生達が練習と称し、その実単なる遊びとして、下級生達にスマッシュを浴びせ続ける。そんな行為が横行しているのが「吹き溜め」だった。
その格好の標的にされたのが、砌だった。
元からおとなしく、あまり感情を面に出さない砌は、絶好のターゲットだった。
砌はスマッシュに手頃な球を上げさせられ、スマッシュを打ち込まれ続けた。
それが意味のある多球練習ならば納得のしようもあっただろう。だが、スマッシュを打つ彼女達にとっては、それは単なる遊び以外の何物でもなかった。
全くの無意味な時間。高笑いを上げながら砌のコートにスマッシュを打ち続けるのを、間近で見ているだけ。砌にとっては何の益もない――はずだった。
「だからさーあたし言ったの。卓球は、全ての球を返せば、絶対に負けない――って。そしたらあいつ、本当に全部返しだしたんだよね」
砌にとって、「吹き溜め」にいながらランク戦で上位に入り、いつだって自分の好きなように卓球をする御影は憧れの存在だった。御影も敬語を使う砌を口では嫌いだと言いつつ、何かにつけて砌を気にかけていた。
砌は御影の言葉を信じ、相手のスマッシュを返した。強打すれば反抗的と取られかねない。なにより砌はその頃にはもう、スマッシュを打つ気概を失っていた。
そうしてお遊びのスマッシュを返し続けることで、上級生達は砌に飽きていく。せっかく気持ちよくスマッシュを打ったのに、平然と返されては気分が悪い。一時期は台に入れることも無視し、砌の身体に直接ぶつけるように変化したが、それも砌がラケットに当てて無力化するようになると、完全に相手にしなくなった。
砌はそうして、常軌を逸した返球技術を身につけた。それはつまり、もはやまともな戦型となることは不可能になる段階まで進んでしまったということでもある。
砌にとっていつの間にかスマッシュは、理不尽な暴力と結びついていた。そして砌の度し難いところは、それを振るわれることには何の感慨も示さないのに、自分がそれを振るうことに怯えてしまうことだった。
五十鈴は激しく悔やんだ。レギュラーになることばかりに気を取られ、砌のことを何も考えていなかった。御影のように「吹き溜め」に出入りして、砌の練習相手になっていれば、それでなくとも砌と話して、少しでも救いになっていれば。
結局砌にとっての救いは、御影の言葉だけだった。それすらも砌の人格を捻じ曲げてしまうことと同じ、呪いのような救いだった。砌が救われているのならそれでいいと思いつつ、砌の試合を見ていると、どうしようもない虚無感と、わけのわからない苛立ちに襲われる。
いつの間にか、五十鈴が砌にかける言葉は全て、罵倒へと変わっていた。それは同時に、自分への罵倒でもあった。
中学最後の団体戦、砌のスマッシュミスで幕を閉じた時、五十鈴は泣いた。
それは単に自分の三年間が終わったという感慨の涙だったのだが、それを見た砌には違って見えていた。
砌は高校で部活に入らないと宣言した。それを聞いた五十鈴は、自分の涙の責任を痛感する。
あれ以来、砌は全くスマッシュが打てない。
五十鈴が泣いたせいで、砌が自分を責めている。蓋をして押し潰した自分の上に、またもう一つ蓋をして粉々に砕いている。
違うと叫びたかった。だが弁明にはあまりに遅かった。そして無意味だった。
五十鈴にできるのは、自分のせいで卓球をやめる決意をした砌を、罵倒することだけだった。
そして推薦で瀬名高校に入った五十鈴は、インターハイ地区予選で砌と再会した。
試合は一見伯仲していた。五十鈴がドライブで攻め立て、砌がそれを返し続ける。
だが点差は、徐々に離れていく。
(なんでだ――)
五十鈴のドライブがネットにひっかかる。
10‐7。セットカウント2‐1。砌のマッチポイント。
(なんで――)
臆することなく攻め続ける。隙はいくらでも見せることのでき相手だが、それは自分で許せない。
(なんで、あたしと一緒に、来なかった――)
11‐7。セットカウント3‐1。3勝2敗――朝代北高校の勝利。
「いよっしゃあああ!」
聖がこらえ切れずにベンチから砌に飛びかかる。
「やったな! 砌!」
「うん」
(そいつが、今のお前の救いか)
五十鈴は、砌の変貌を目にした時から、進路選択で自分と同じ高校に進むように言うつもりだった。高校の卓球部で、中学での失われた時間を取り戻そうと、今度は自分が砌の救いになろうと、そう思い続けてきた。
だがタイミングを逸し続け、砌は高校では部活に入らないと宣言してしまった。
部活に入らないのなら仕方ない。そう言い聞かせ、五十鈴は砌と縁を切った。
だが、砌はのうのうと大会に出ていた。
許せなかった。嬉しかった。
「泣くな、飯島」
青葉がそう言って五十鈴の背中を叩く。
どういう理由で涙が流れているのか、五十鈴にはわからなかった。ただ、この涙が砌を傷つけないようにと、願うだけだった。
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