留まる水

 弟と一緒に、叔父に市民プールに連れて行って貰った。いわゆる「流れるプール」で、落花生らっかせいのような形をしたプールを1方向にぐるぐる回る方式だった。夏休みだけあって沢山の人でごった返しており、泳ぐのはとても無理で、水に浸かりながらぴょんぴょんと跳ねまわるだけであったが、楽しかった。


 私は泳ぐのが好きで、25メートル位であれば普通に泳げた。だが、弟は顔を水に浸けるのを怖がり、まったく泳げなかった。その日も、なんとか叔父に良いところを見せようと頑張っていたが、結局、仰向けになって浮き、叔父に背中を下から支えて貰って背泳ぎの真似事のような事をするのが精一杯だった。


湊人みなとは、運動神経はいいんだから、顔を浸けるの怖がらなければすぐに泳げそうなもんだけどな」


 プールサイドの売店で、アメリカンドッグを買ってくれながら、叔父は言った。弟は、そう言われて、まんざらでもなさそうであった。が、しかし、ビーチチェアにふんぞり返るように座って足をぶらぶらさせながらアメリカンドッグをひとかじりすると、何故か誇らしげに「まだ怖いわ」と宣言していた。


 その日の夜、湯船で叔父と弟が見つめる中、私はシャンプーの実演をしていた。水に慣れるにはどうすればいい? と聞いてきた弟に対し、叔父が、ひとりシャンプーができるように慣らしてみるのが良いんじゃないの、お父さん達も助かるだろうし、と答えたので、見本として頭を洗う事になったのだ。

 風呂桶の中のお湯を頭から被り、シャンプーの泡を立てる。たまにシャンプーが垂れてきて目に入るが、すぐにそれをお湯で洗い流す。その様子を見た弟は、あれが嫌やねん、と怖がったが、叔父が、大智たいちみたいにすぐに流せばええやろ、と、ぎこちない関西弁で答えていた。


「さすが大智はもう、ひとりで洗えるな。湊人もああいう風にやってみたらいいよ。お前は初めての事に対して臆病なところがあるけど、大体のもんはやってみたらできるもんだ。やってもみないのに無理っていうのは、損だぞ」


 そうかなあ、でも怖いねん、という弟に、叔父は、怖いのはけど、やらないのはで、とリズムだけで丸めこもうとすると、弟は、そやなあ、やってみるわ。今度な。と渋々と言った様子で返事をしていた。


「大丈夫。顔に水かけるくらいならすぐできるよ。まあ、それで変な自信付けて、水なんて楽勝と思って、舐めてかかられると困るんだけどな。大智も気を付けてな」


 叔父が話を向けてきたので、「例えば?」と尋ねてみた。すると叔父は、こんなことを話してくれた。


「俺も小学生の時、泳ぐのも飛び込むのも凄い好きで、よく水場で遊んでたんだ。でも、ある日、『波の出るプール』ってとこに遊びに行ってな……」


 そのプールは、ビーチを模したプールで、一定時間ごとに機械で人工的な波を起こす仕組みだったそうだ。水底も遠浅の海岸のようになっており、幼児でも足が着くような高さから、奥に行くほど徐々に深くなり、一番奥は浮き輪やゴムボートでも無いと無理な作りになっていた。

 そこで叔父は、「いったいどこまで行けるのか」を試してみたくなり、奥へ奥へと歩いて行ったそうだ。足が付かなくなれば、泳いで引き返せばいいだけだ。そう思って顔ギリギリくらいまでの所に行った。ちょうど、背伸びすれば足が着くが、波が来ると離れてしまうくらいの所に行ったとき、なぜか泳ぐという選択肢が突然。叔父は、溺れないために、その場でピョンピョンと飛んでいるような状態になったそうだ。


「不思議だったぞ。頑張れば足が着くっていう微妙な深さがまずかったのかな。とにかくピョンピョンやってるうちに、波が来て水を飲んでしまったりしてな。そうなるとパニックになって、ますます同じ事しかできなくなるんだ」


 そうこうしているうちに、叔父の動きを不思議がった見知らぬお姉さんに声をかけられて我に返り、「大丈夫です!」と叫んで泳いで帰って来たそうだ。弟も私も、それは油断しすぎじゃないのと笑うと、叔父はもうひとつの話をしてくれた。


「プールだけじゃなくてな、風呂場だって危ないんだぞ。例えばも。高校生だった頃の話だけどな……」


 湯船にゆっくりと浸かった叔父は、浴槽から立ち上がって洗い場へと出たそうだ。静岡の風呂場は、浴槽が半分ほど埋まっているようなタイプであり、洗い場に立つと、ちょうど膝下あたりが浴槽のになる。そのまま浴室を出ようとしたところ、ぐいと後ろに引っ張られるような感覚があり、気を失ったという。


「気が付いたらな、目の前が緑がかっていて、息ができないんだ。どうやら倒れているらしいと判断して、とにかく何かを掴もうとしたんだけどな、手を振り回しても、何もない。足も宙に浮いている感じで、わけがわからない。唯一腰の辺りに何かが当たっている感覚がしてな、そこに手をやると、やっと掴めるものがある。必死でそれを掴んで体を起こしてみると、当たり前だけど、風呂場だったんだ。まあ、だ。そのまま何も考えられなくて、とりあえず風呂を出て、扇風機の前に座ったんだ」


 叔父が、あれは何だったのだろうと考えて出した結論は、湯船を出た瞬間に貧血になり、後ろ向きに倒れ、浴槽のへりに腰をぶつけ、そのままブリッジするように上半身はバスボムで緑色に染められた湯船の中に浸かっていたのだというものだった。


「つまりな、俺は危うく裸でブリッジしたまま溺死する所だったんだ。お前らも気を付けろよ。水、特に流れていないでとどまっている水というのは、隙あらば引き込もうとしする不思議な力があるみたいだからな。特にうちは、昔から、"清水しみずの家"って屋号で呼ばれている程の、水には妙な縁がある家なんだ。お前らもその血を引いてるんだから、水回りは特に気を付けろよ。引き込まれて死んでしまうにしても、裸にブリッジじゃあ、見つけた方も困るだろうからな」


 弟は大笑いして、"フルチンでブリッジやんか!"と叫んで、叔父にお湯を浴びせかけた。私も一緒に笑おうとしたが、少し乗り遅れてしまった。仕方が無いので、大騒ぎしている2人を尻目に、シャワーでシャンプーを洗い流しにかかった。目をつぶって頭をもしゃもしゃとゆすいでいると、誰かがそれを手伝ってくれる気配がする。一人でできるから、と、振り払って振り返ると、そこには誰もいなかった。


 湯船を見ると、叔父と弟は何事もなかったかのように、わあわあとお湯の掛け合いを続けている。私は目を開けたまま素早く頭を濯ぎ、お先にとひと声かけて、そそくさと風呂場を出た。

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