10年前

名浦 真那志

 

 完全に、迷った。


 倫子はため息をついた。

 中天には、初夏の太陽がまばゆいほどに輝いている。

 私鉄に乗り換えた時、車窓から見える丘の緑が鮮やかで、空の青は深く深くて。こんないい天気なのに、薄暗い講義室で詰まらない話を聞くのはもったいない、と 降りるべき駅をわざと、乗り過ごした。

 今の出席日数なら、確実に単位はもらえるし、今日休んだところで問題はないよね。 閉まるドアを見ながら自分に言い聞かせた倫子は、次の駅で快速急行に乗り換えた。

 しかしながら、突発的に決断を下したため、ガイドブックはおろか、地図さえも持っていなかった。 適当に電車に乗り続け、適当に降りてしまった。「海岸」という駅の表示を見、何となく海に近いと思って降りた駅の外は少し寂れた商店街で、人気がなく静かだった。海なんてかけらも見えなかった。 ただ、日差しだけが人のいない町に降り注いでいた。

 看板に偽りなし、というのは偽り。 辞書をそう書き換えたくなった。

 ていうか、道を聞こうにも、聞く人すらいないじゃない! もう一回、電車に乗ろうかなあ。 引き返して買い物でもしようかなあ。 肩を落とした倫子の目の端を、人影がよぎった。


 「海?すぐそこだよ?」 少年は訝しげに眉をひそめ、そう言った。

 そんなことも知らないの?と続けそうな口ぶりだった。 「ごめんね、私ここ初めてなの」 生意気そうなガキだなあ、と思いつつもやっと掴めた藁を離すわけにはいかない、と彼女は精一杯の笑顔を作って言った。

 「連れてってくれたら、お礼するよ」

 「お礼…んー」 と言いながら少年は駅横にある交番の方をちらりと見やってから、 「いいよ」 と頷いて見せ、歩き出した。 本当に生意気な奴!と倫子は少年の後を憮然としながら追いかけた。

 倫子は少年と共に商店街を歩いた。

 「そういえば君、学校は?」

 「もう夏休みだよ。」 そういえば今日は海の日だった。まったく、大学の祝日開講は日本人としてのアイデンティティをないがしろにしているよな、と彼女は思った。

 「今日はお出かけしてたの?」

 「いや…」 と言いかけた少年は足をとめて横を向いた。倫子もつられてその方向を見ると、一軒の本屋があった。

 「本、買いに来た。けど、お金が足りなかった」

 「いくら?」 そう聞くと少年は恥ずかしそうにうつむきながら、 「10円」 と小さな声で言った。

 1000円もしない文庫本だったので、倫子は「お礼の意味も込めて」全額払うといったが、少年は固辞した。しばらく押し問答をした末、足りない分の10円を彼女が払うことで決着した。

 「ありがとう…ございます」

 「気にしないでいいの。そんなことより早く海に連れてってよ」

 「あ、うん」 少年は書店の紙袋を大事そうに胸の前に抱え「こっち」と言って再び歩き出した。


  商店街を抜けると閑静な住宅街へ入った。と思うとすぐに視界が開け、大きな道路が横たわっていた。

 「わ!海だ!」道路の向こうに目当てのものをみつけた倫子は声を上げた。

 「早く行こう!ね、どこから渡れる?」

 「向こうの歩道橋だよ」 少年はすこし先にある白い歩道橋を指差した。

 「あれ?え、すごーいなんか海の町っぽい歩道橋!おしゃれ!行こう行こう!」

 「え?」 走り出した倫子のあとを、少年は一瞬躊躇したものの、小走りで追いかけた。

  砂浜の手前のボードウォークに立ち、倫子は大きく息を吸い込んだ。

 「んー、海の香り!いいわあ」 そのまま体を反転させる。

 「って、もう読むの?!」 少年は傍のベンチに腰をおろし、本を開いていた。

 「おーい」

 すでに物語に没頭しているようだった。答えはなく、時たまページをめくる音がする。 仕方が無いので、1人で波打ち際まで来た。細かい泡に縁取られた波が、足元をさらって、遠ざかって行く。 思い切って、靴と靴下を脱ぎ、足を海水に漬けてみる。ひんやりしていて、泳ぐには寒すぎるようだが、足を浸す分には充分快い。

 「せっかくの海なのに、もったいないなー」と少年の方を振り返って倫子は呟く。 少年は相変わらず本に夢中である。

 「でもそっか、地元なら毎日見られるのか。」


  しばらく裸足のまま波打ち際を散策したり、貝を集めたりしていたら、 「水から上がったら、砂を足にまぶすと、早く乾くよ」 と少年が近くまで言いに来ていた。

 「本、読み終わったの?」

 「ううん。お姉さん1人にさせちゃったのに気づかなくて、あとで読むことにした。いつも母さんに怒られるんだ。本ばかり読まないで、やることやりなさいって」

 私に対応する事が「やること」なんかいな、と突っ込みたかったが、彼なりに気を遣ってくれたのだと思い、倫子は「大丈夫、ありがとう。」と言った。

 「なんか拾ったの」

 「うん、貝殻とか」 手を開いて見せると、その一つをつまみ上げ、 「これは魚屋にもあるよ」 と言って傍にぽいと投げた。倫子が何か言おうとする前に、少年は足元にしゃがみ込み、緑色のものを拾い上げ彼女の手のひらに載せた。

 「あ、これ綺麗ね。何これ?」

 「ビーチグラス。瓶の欠片が波で削れてこうなるんだよ」 倫子はビーチグラスを日にかざして見た。くすんだ緑を通して見た空は、まるで彼女が足を浸す海のような色をしていた。


 「ありがとう。お礼するどころかお土産までもらっちゃった」

 「ビーチグラスは拾いもんだから」と少年は少しはにかんで答えた。「あと、次来る電車は急行だから、途中で降りなくても新宿まで行くよ」

 「わかった。じゃあ気を付けて帰るんだよ」 そう言って倫子は改札を通った。振り返ると少年は微笑んでちょっと手を振ってから、背中を向けて歩き出した。 その姿を見送ってから、ホームへと歩を進めた。 電車に乗り込み、席に落ち着いたところで彼女はあることに気がついた。

 「あ、名前聞くの忘れた」



 「あ、ビーチグラス」

 声に反応して顔を上げると、アルバイトのただしがデスクの上に置かれた緑色の欠片を指差していた。

 「なおちゃん知ってるの?ビーチグラス」

 「まあ、子供の頃家の近くの海で拾ってましたから。最近海行ったんですか?」

 「いや、結構前だけど…」と、当時の話をしようとしたが、次の仕事の時間が差し迫っていたのと、道に迷って地元の子供に泣きついたことを暴露するのが気恥ずかしく感じられたため、「あんまし覚えてないや」とごまかした。

 「さっ、なおちゃん下行って準備しよっか!」 さっそうとデスクから立ち、歩き出した。「だからその呼び名どうにかしてくれませんかね…」直は少し困ったような顔をしたが、微笑むと小走りで追いかけた。

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10年前 名浦 真那志 @aria_hums

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