第4話

 短い夏を迎えようと草花は青々と茂り、陽の光を遮るように木漏れ日をつくる。

 心地の良い気候と天候に恵まれ、ハニエルたちはぐんぐんと山を登り進めた。

 ロゼとグランツが背丈を伸ばした草を払えば、隠れていた虫たちが飛び立ち一行の目の前を横切っていく。大きな蝶が目に入ったときには、少年のようにハニエルがはしゃいで場を和ませた。


 クツァル族の集落はグローリア山脈の中腹にある。

 地図も案内人もいない無謀な山登りであったが、ハニエルには集落を探し当てる手段があった。


「……野鳥に案内してもらうなど、そんな芸当ハニエル様にしかできませんよ」


 小柄な鴉が一羽、付かず離れずの距離でハニエルたちを先導している。ハニエルが魔術で使役したものだ。


「僕としては相手を気遣わないといけない治癒魔術より、相手を押さえつける服属魔術のが楽なんだよね」


 それを聞いたロゼは気まずく返事をすることしかできなかった。

 服属魔術とは魔力を用いた脅迫、洗脳である。治癒魔術同様に高度な魔術とされており、多くは魔術と併用して言葉巧みに相手を意のままに従わせるものだった。高級娼婦や詐欺師などがよく使用する魔術でもある。

 本人の気性と相性がいいのかハニエルはこの術を得意としており、人間のみならずこうして鳥やほかの動物たちも従わせることができた。相手を魅了し、時に威圧する彼にはうってつけの魔術と言えよう。

 上空で鴉がひと鳴きするとハニエルが気さくに応える。

 意思の疎通ができているのかいないのか。その真偽は謎に包まれている。


「それより、王子はどこからクツァルの魔術とオリアスの魔術が似ているという情報を得たのです?」


 軽く後ろを振り返り、ロゼが尋ねた。


「王宮にクツァル出身の者がいてね、話す機会があったからその際にそれとなく聞いてみたんだ。僕もクツァル族には思い当たる節があったしさ」


「王宮勤めのクツァル族出身者……」


 怪訝そうな顔をしてロゼは唸る。

 なにか思うことがあるのだろうか。あいにく、ハニエルには彼女が表情を曇らせた原因に心当たりはなかった。


「少しお休みになりますか。ちょうどいい場所に出ましたし」


 一際明るい場所に出た。体力にまだ余裕はあるが、疲れていないといえば微妙なところだった。

 燦々と降り注ぐ光にハニエルは目を細める。

 太陽は真上にあった。


「グランツの言う通り、ちょっとここで——」


 ばさばさと羽音を立てて、先導していた鴉が喚き散らして飛び去っていく。

 なにかが迫っていた。

 異変に気がついた一同は身を硬くして構える。

 いち早く行動に移ったのはハニエルだった。


「〝我は汝に魔を鬻ぐ。我求めるは盾——〟」


 三人を覆うように結界が張られていく。ハニエルの突然の行動にロゼとグランツはより一層体を強張らせると周囲を睨めつける。二人の両手は、しっかりと剣の柄を握り込んでいた。

 先手を打つべきか……

 そう考えたロゼの足が大地を強く踏み締める。だが、ハニエルはそれを制し、ゆっくりと言った。


「とりあえず動かないで。多分、大きいから」


 ハニエルの声にはいくらかの緊張が含まれていた。ロゼが黙って命令に従う。

 そんな中、グランツは冷静に辺りの様子を観察していた。

 今居る場所は見通しこそいいが、倒木が目立つうえに大きな岩があちらこちらに散見され、お世辞にも歩きやすいとは言えなかった。恐らく数年前に土砂崩れでも起こったのだろう。朽ちた倒木には新しい命が緑色に芽吹いていた。


「——来るよ」


 ハニエルが静かに告げると同時に、周囲の空気が変わった。


〝ウワァァァァーッ!〟


 男性の悲鳴が響き渡る。ロゼとグランツの体が咄嗟に動いた。

〝助けに行かなければ〟と、人間として持ち合わせた当然の良心が彼らに囁きかける。その甘い囁きは彼らを容易く動かした。


「行くんじゃない! 喰われるぞ!」


 しかしそれを止めたのはハニエルだった。「えっ……」と短い声を漏らし、ロゼが目を丸く見開く。

 するとそのとき、がっさがっさと荒々しく草木を掻き分ける音が聞こえてきた。


〝ワアァァァァァ!〟


 倒木を押しのけ、落石を投げ飛ばしながらそれはハニエルたちの前に姿を現した。結界に小石が当たって弾かれる。

 彼らの前に姿を現したのは、黒々とした毛を持つ巨大な猪だった。


「やはり魔獣か……」


 その猪の目は紫色で、濁った瞳をこちらに向けていた。

 一見するとただ巨大なだけの猪に思えたが、よく見ると口には小さな牙が細かく生え揃っているのが見えた。恐らくそれで引き千切るのだろう。人の肉を、その牙で。

 魔獣が吠える。その咆哮は人間の男が助けを求める絶叫に酷似していた。

 ハニエルは顔をしかめながら魔獣を見据えると、様子がおかしいことに気がつく。

 魔獣の口から飛び出したのは、男の絶叫に似た鳴き声だけではなかった。魔獣の血とも言える黒い飛沫が滴り落ちていたのだ。

 びちゃびちゃと粘り気を含んだ黒い色の液体が周囲に飛び散る。

 視線を動かせば黒い巨体には無数の矢が刺さっており、深い裂傷も確認できた。


(いったい誰が)


 魔獣をここまで追い詰めるなど、並の人間にはできない。特にこの大きさの魔獣ともなれば、熟練の兵や魔術師が数人がかりでようやく倒せる代物だ。


「ハニエル様!」


 ロゼの呼び掛けでハニエルの意識がもう一度魔獣に集中する。

 魔獣はハニエルたちを見ていた。息も絶え絶えに、巨大な蹄が大地を踏み締める。どうやらこちらを攻撃するつもりのようだ。

 ハニエルは怖気付くことなく魔獣を睨み付ける。

 わずかに魔獣が怯んだ気がした。


「——動くな。俺が仕留める」


 聞き覚えのない声がした。

 白い影がハニエルの真横を通り過ぎる。


〝ウワアアァァーッ!〟


 その直後、魔獣の絶叫が辺りに響き渡った。

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ハニエル王子と左目の魔王 清水カズシゲ @zuka_sousa9

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