結
事件 後
懐から短くて太い、一つの機械棒を取り出す。それを見た私は思わず「あ」と声を出した。それは、ボイスレコーダーだったのだ。昨日パソコンで見た。
雅美はそれを取り出すと、再生ボタンを押した。録音場所は、ここだ。しかも、時刻は今さっきだった。
「ねえ? 髪切ってあげる?」
「嫌よ」
「切ってあげるわよ」
「嫌だったら。ちょっと! 放しなさいよ!」
「うるっせえんだよ! おとなしくしろ!」
「きゃあ! いや! 何するの!」
その後、啜り泣く声が聞こえて私が突入し、次には吠えていた。さらには、その後の三河らによる脅迫までが含まれている。形勢は、一気に振り出しに戻った。
「な、盗聴? 盗聴よ! この犯罪者!」
三河は、しかし挫けなかった。私と娘を術中に嵌めたと思い込んでいたのだ。私も娘のボイスレコーダーには驚いたが、三河はその驚きを超えることだろう。狼狽に次ぐ狼狽を起こした三河は、我々に対して罵詈雑言を浴びせた。バカ、アホ、マヌケ。他諸々だ。そして、散々言った次の言葉が、自身のトドメを呼んだ。
「こ、この犯罪者親子!」
「三河さん」
三河の暴言に続くように、私の真後ろからそう声がした。静かだが温かみのある、極めて人間的な、それも若い男の声だった。私は後ろ振り向き、誰であるかを一応確認した。
やはり、男は勉だ。比較的低い身長に、顔は小さく、しかしかけた丸眼鏡はそれに反して大きい。昭和のお坊ちゃんとでもいうか、そういう出で立ちの男子学生だ。彼は名探偵の如く全てを知ったように登場するや、私の横に並んで三河に指を指しながら言葉を続ける。
「あなたも犯罪者です。そのカッターで髪を切ったんですよね。雅美さんの」
「し、し、知らないわ。たった今拾っただけよ」
諦めが悪い性格のようだ。三河は今、手に持っていた鋏を投げ捨ててそう宣う。無防備だ。しかし勉による口撃は続いた。
「じゃあ、こびりついてる毛髪とそれからあなたが持っているカッターに付着した指紋を警察に採取してもらいましょう。あなたがやったことは暴行罪です」
「し、指紋なんかないわよ。手袋してるもの」
ほら。まだ両手をこちらに掲げられる気力はある。そう言いたげに、彼女は手を前に出した。なるほど、無色透明のビニール手袋だ。これでは指紋は付かない。恐らく鋏も、本人以外のものだ。次の手は? 私が聞く間もなく、賢い頭はペラリとそれを口に出す。
「じゃあ、雅美さんが持っているボイスレコーダーであなたの声を確認すればいい話です。物証は出てこなかろうと、あなたはその現場にいて、楽しんでいたことは確実だ。罪には問われないかもしれませんが、このことがもし世間にバレたら……」
「放送されたらー。配信されたらー……」
冷静な口調とは対照的に、興奮気味な声が私の後ろから聞こえる。女性的な、比較的呑気な、間延びした声だ。後ろを振り向くと、
「斉藤先生……」
だった。彼女は「はい!」と元気に答え、そのまま私に耳打ちをした。
「実はですねー。勉君に昨日の放課後、先生と娘さんの関係を教えたら今度は僕が助ける番だと息巻きまして」
あら、そう。おや? では、朝にいなくなったのは何故? そう聞き返すと、頰を染めながら「おトイレでした」舌を出して言う。私が入る間のない一方的な口撃の間、私と斉藤女史はそんな下らない話をしていた。
と、目の前の攻防はもう終わり告げているようだ。三河は崩れ落ち、床に膝を着く。
「うわ。三河、マジ」
「ないわー」
取り巻きの二人はそう言い、あろうことかスマホでパシャだ。何と酷いことか。私は漸く口を開こうと思ったが、勉が先んじて言い放った。
「あなたたちも同類ですよ」
その言葉は二人を貫いた。スマホをポケットに仕舞い、手持ち無沙汰に指を弄る。その指と、また口をとんがらせていることから、まだ罪の意識は低いらしい。もっとも、取り巻きなどは得てしてそんなものだが。と、その二人に向けて斉藤女史は気楽に言った。
「ちなみに勉君のお父さんは県議会議員だよー。うふふ、その息子が父親に訴えればどうなるか……。海の底か山の中か……」
冗談交じりに言うが、彼女の目は真を捉えていた。二人は「う」と漏らして、次には「ごめんなさい」だ。誰に対して謝っているのか。私はその軽薄さを疎んじた。
「僕、及び父はそんなことしません」
私は初耳だった。勉君の親はそんな重要なポジションにいたのか。勉はそう弁明すると、斉藤女史はすぐに彼に絡んだ。
「えー? 使えるものは使ってなんぼだよ? 消したいなら消さなきゃ」
「しません」
「勿体無い」
勉はもう一度、はっきりと「しません」だ。斉藤女史は上を向きながら言った。
「つまんないなー。あ、でも私も彼の父親と仲がいいから、お口添えくらいはできるよ。高校生の小さいオツムでもこの意味くらいは理解できるでしょう?」
追い討ちの一撃だった。というか、初耳が多かった。斉藤女史は急に体を二人に向けて、言うと項垂れる二人にそう尋ねて二人の心に分銅を取り付ける。
二人がもう一度、今度はちゃんと雅美に対して謝ったところで、トイレの後ろからヒョコッと数学教師が現れる。三田教諭だ。彼はこちらに近づくなり、迅速に指示を出す。
「もう警察を呼んだよ。すぐに来る。君ら三人とそれから雅美さんに勉君はここにいてね。動かないように。高田先生。娘さんを……」
その指示は的確だ。警察が来る。ということは、というか誰が見ても刑事事件だろう。だったら、現場を荒らさないのは当たり前だった。
「ああ、そうですね」
私はそれに頷き、落ちた髪の毛を踏まないように顔を伏せる雅美に近づいた。しゃがんで目線を同じくすると、その顔が少し上がる。私はそのタイミングで彼女に手を伸ばした。するとだ。
「あ、雅美。大丈……」
「……お父さん。今は、黙ってて……」
視線を上げた雅美は髪を振り乱したまま、切られた自身の髪の毛を持ってそう静かに呟く。私にはその呟きに含まれた感情が、考えすぎかもしれないが、ある簡単な言葉に変換されて聞こえたような気がした。私が彼女を助けに行ったのに、私は助けるどころか、何の見せ場も作れなかった。そんな後ろめたさが、如実に現れたのだ。
役立たず。そう言われているような気がして私は伸ばした手を止めた。まるで小さな子供が親に命令されたように、うん、と言ってしまう。と、私の代わりに彼が前に出た。
「大丈夫? 高田さん」
冴えない眼鏡が輝いて見えた。勉はそう言うと雅美を片腕で抱き寄せ、立ち上がらせる。そのまま保健室へと移動していった。トイレには私と、それから雅美の無残な髪の毛が残され、私は呆然と中腰のままでそこにいた。
「よかったですね! 高田先生!」
「うん……」
「これにて、一件落着です!」
「うん……。ありがとう……」
後から私の後ろに来た斎藤女史は、上機嫌にそう言ったと思うと、スキップで去っていった。あとは警察の仕事だから自分にもう用はないのだそうだ。
その十分後、警察が到着し、ことは迅速に運ばれていく。証拠写真が撮られ、実況見分ときて、加害者と被害者、それから被害者の彼氏兼英雄と教頭が警察署に同行していった。私はというと、授業を継続すべしと教頭に言われ、大人しくその命令に従った。
全ては急速に私が噛むところなく進行していった。私といえば、無残に髪を切られた娘を見て、狼狽え、逆上した。首を絞め殺してやろうかと思った。だが、実際のところ、私は彼女らの術中に嵌り、また狼狽え結局は私と関連することなく全ては過ぎ去った。
私は役立たずか。
この思いは私の真ん中に止まったままで、授業を全て行い、学校を出た。学校では心優しい生徒に心配の言葉、森田からはどこで覚えたやら「胸中、お察しします」と涙目で言われ、また帰る道中では妻からことの詳細を問う電話が来た。私は全てを話した。すると、家に帰るまでずっと妻に怒鳴られ続けた。終いには玄関先で、役立たず、だ。私は心に刺された五寸釘を抜いて、もう一度刺されたような気分になった。
そんな砕けた心のまま、自室に教師を投げ捨て、冷蔵庫からおつまみと発泡酒を出し気晴らしにする。しかし、開けた発泡酒は美味しくないし、つまみには味が感じられなかった。やがて、雅美がパトカーに乗せられて帰ってくる。勉も一緒だった。勉に乾いた声でありがとうと告げると、かなり礼儀正しいことを言われた記憶がある。
雅美は視線を俯け、頭には勉からだろうか、野球帽を被っていた。私は優しく迎えようとしたがその前に妻が優しく肩に手を添え、そのまま風呂場へと向かう。散髪用の鋏を用意していたから、髪を整えるつもりだろう。私はもう一度、彼と警察にお礼を言い事の顛末を聞き遂げた後、リビングに戻りソファに座るや否や顔を俯けた。手には発泡酒が入った缶を持ったままだが、もはや一滴も飲む気には慣れない。
その状態が時間を飛んで続き、そして風呂場を出た音がしてからだった。
「お父さん」
思わず背筋が伸びた。その張りがある声は雅美のものだ。だが、いつものクソやバカが付いた親父ではない。敬称たる「お父さん」だ。その違和感もさることながら、彼女に対して何もできなかったという罪悪感が胸にこみ上げ、それを下に下げようと背を伸ばしていた。
何を言われるのだろう。足音を聞く限り、妻は同伴ではない。きっと髪を切った後片付けだ。私は張り詰めた緊張に身を凍らせた。
だが、次に聞こえた言葉は意外なものだった。
「その、怒ってくれてありがとう」
私はそれを聞き、ピクリと動きを止め、自分の耳を疑った。そのまま目を丸くして娘を見る。と、今度は口を開けたままに、そこから動きを一切止めてしまった。
思った通り、娘の髪は短く切り揃えられ美容室に行った後のような綺麗なショートボブになっていた。だが、見るべきはそこじゃない。娘の顔は、どこの赤野菜よりも真っ赤だったのだ。娘はその顔でそう告げると、私のあまりに間抜けな表情を目にして仰天してしまったのか。踵を返すと、ささっとその場からいなくなってしまった。
私はその去り際まで見ていたが彼女が見えなくなると、首を元の位置に戻して深く考えた。私に感謝を告げた。そう思ったら今度は引っ込んでしまった。私は、私がやったことは無駄だったと考えていた。だが。
私は頭をポリポリと掻いて、薄く(多分、気味が悪い)笑みを浮かべた。浮かべざるをえなかった。その気持ちは照れるようで心を擽り、恥ずかしいが、とても誇らしい。
「へへへ……。まいったね」
ぽっと心から出た感情に促され、私はこう、呟きながら発泡酒をグビリと飲んだ。美味い。
娘は十五歳。かなりおセンチなお年頃だ。
15のセンチ 雑駒 波鸞 @yokosimaojisan
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