事件 前


「あ、高田先生、いいところに。あのですねー……」


 その翌日に、とうとう、恐れていたことは起こった。私が教室に行く廊下を歩く中、そう声をかけられ、斎藤女史と向き合った。朗らかに笑う彼女は可愛いが、その笑みには何を含んでいるのだろう。常に貼り付けた笑顔というものは人の不信感を増長させる。

 そんなことを考えながら、彼女の話に聞き入ろうと耳を傾けたとき、それは起こった。


「きゃあ! いや! 何するの!」


 女生徒の悲鳴が辺りに木霊した。それも男子が女子を蹴ったというようなものじゃない。悲鳴は連続して、続いたかと思えば、途中でパッタリと止んでしまう。

 教師たる私は、その絶叫とも言える声に次には足を動かしていた。悲鳴が聞こえた方向に走り、人の山を見れば聞く、件の場所には直ぐに着いた。なんのことはない。場所は担当学年のトイレだった。それも女子側だ。またできた人の山を退かし、押し入ってそこを見た。トイレは中を覗かれないように入り組んでいて正面からは見えない作りになっている。非常事態だ。私は躊躇なく、女子トイレに入っていった。入って、そして、足を二、三歩後ずらせた。


「あ、来た来た、先生。ねえ髪切りたいって雅美が言うから、切ってあげたのよ。ほら」


「いいじゃん。三河っちセンスあるわぁ。似合ってるよ」


「本当。ボロボロのお人形みたい」


 キャハハ。


 女子トイレの奥、窓のすぐ近くだった。腐ったような笑い声が縦横無尽に響き、私は眩暈すら覚えた。

 三人の女子生徒が、笑っている。彼女らはそこらの百均で売っているような安物の鋏をショキショキと鳴らし、如何にも優越を得たような醜い笑いをそこらに轟かせていた。それは、きっと何らかの事情があることだろうと思えば、何てことはない。だが、明らかにその何かが間違っていた場合だ。人は、取り分け親近者は、どういった言動をとるべきなのか。


「ふ」


「ふ?」


 私は胸の奥から沸々と湧き始めた溶岩を口に出した。しかし、溶岩はそれだけではない。すぐに次が沸いてきた。今度は、ガス抜き程度では済まされない。


「ふっざけんな! このクソガキども! 何をしてくれてるんだ! お前たちがやったのか! 俺の娘に! 殺されたいのか!」


 このクソガキども! 最後にもう一度言う。大噴火だった。三人の足元にはもう一人の女子がいた。泣き崩れ、しゃくりを上げるその少女は私に背を向けているが、間違いない。あの、例え短くなっていようとも艶やかな髪質を見間違えるわけはない。雅美だった。雅美は女生徒たちに鋏で髪の毛を切られたのだ。その証拠にトイレの床には髪が無造作に散らばり、雅美の髪はといえば。


「こんなことしやがって……」


 切られた雅美の髪を掴んで、そう漏らした。雅美は、その髪は、乱雑で、めちゃめちゃだった。どこかを切り揃えたということもなければ、丸刈りにされたということでもない。むしろ丸刈りの方がマシだとさえ思えた。そこらを普通の鋏で無理やりに切ったらしい。切られた髪はところどころボサボサに変わり、切られた箇所もかなり雑だった。その髪型を形容する言葉などはない。言い表すとすれば、たったの一言だ。無残。

 私は怒りに打ち震えた。しかし、その怒りの矛先たちはまるで余裕というように、こちらを見下しているではないか。私がそちらに詰め寄ると、彼女たちのボス、三河は余裕綽々と、私の目を見て言った。


「あー言った言った。教育委員会に言ってやろ」


 今の録音した? したでしょ? おっけー。言って他三人と話し合う。一つのスマーフォンを私の前に翳した。その大きな黒い画面に私が映っている。と、彼女はそれを一旦引っ込め、何事かを操作してから再び私の前に翳した。と、また私が映ったと思ったら、それは現在の私ではない。ちょっと前の私だった。怒り狂っていた私は画面に向かってこう怒鳴った。


「ふっざけんな! このクソガキども! 何をしてくれてるんだ! お前たちがやったのか! 俺の娘に! 殺されたいのか!」


 しまった。私は目を剥いた。三河はその内の、「殺されたいのか!」の部分をクローズアップし何度も再生した。怒鳴った声は真に迫る。私は生徒に暴言を吐いたのである。私に事実を確認させた三河は、相変わらずのネットリとした声で言った。


「これをどっかに流せば、あんたの味方なんかいなくなるわよ。あんたはクビね」


 私は下唇を噛んだ。勝ち誇った三河は続ける。


「どうせそのあと引っ越すでしょ? 娘もさようなら。こういうのなんていうんだっけ? 一石二鳥?」


 キャハハ! 三人は笑い合う。私はまた怒鳴り散らしたい衝動に駆られたが、しかし、もう何らかの言葉を吐くと録音という面倒が待っている。その先あるものは何であれ、人を不幸にするだろう。私はその最悪に醜い笑い声に屈するしかなかった。


「やってみなさいよ……」 


 ところがだ。凛と声がして、そこに視線が集まった。見ると、雅美だ。泣きじゃくりながらも、娘は三人に対し小さくそう言った。三人は「はあ?」だ。雅美は、今度は大きく言った。


「やってみなさいよ! ただし、こっちにはこれがあるけどね!」

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