終わりと始まりの日替わりランチ

神田 るふ

終わりと始まりの日替わりランチ

 日常的に目にしながら、なかなか利用することもないし、滅多に行くこともない場所というものがどんな人間にもある。

 俺にとっては、高速バスのバスターミナルがそれだった。

 生まれてこの方、小中高、さらには大学までこの地方都市で過ごし、そのまま地元の企業に就職した俺は県外生活の経験が無い。外の町に出たのは旅行ぐらいだが、移動手段は電車や飛行機で行ったためバスなど使ったことも無かった。

 使ったことがないから、通りがかったことはあっても、行ったことは無い。

 だが、俺は利用しなくても、俺に所縁のある人物は利用するのだ。

 その相手のために、俺は初めてバスターミナル構内の椅子に座り、彼女の到着を……春日野が来るのを待っていた。

 今日は十二月二十四日。クリスマスイブ。

 椅子に座ってスマホをいじる俺の前を、何組ものカップルが行き来している。

 春日野は、高校時代の俺の彼女である。

 高校一年生の時、同じ文芸サークルに入っていた彼女に学祭の後夜祭の時に告白し、OKをもらえたので付き合い始めた。

 俺はそれほど優秀な学生ではなかったが、就職活動はとんとん拍子に進み、就職先も滞りなく決まった。

 就職後は春日野と結婚を前提にした付き合いを始めようかと思っていた1月下旬のある日、ファミレスで一緒に日替わりランチを食べていた春日野が突然切り出した。

「わたし、声優になりたいから東京の専門学校に行く」

 何も言葉が出なかった。

 春日野が時折声優について熱心に周囲に語っていたことは知っていた。だが、まさか本気で声優になろうとしていたなんて夢にも思っていなかった。

 卒業後もお互い付き合い続け、いずれは結婚するだろうと俺は思い込んでいた。

「それ、東京じゃないとダメなのか」

 ようやくそれだけ喉の奥から絞り出せたが、彼女はぶんぶんと強く首を横に振った。

「こんな田舎街じゃまともにレッスンなんて受けられないもの。どうせ街を出るならいちばんいい所に行きたい。だから東京に行くの」

 迷いのない、夢に向かって真っすぐ顔を向けた春日野のきらきらとした笑顔を見た俺は、逆に腹が立った。

 文芸サークルに入っていた以上、いずれは俺も小説家や脚本家、シナリオライターになりたいという夢が当然あった。野球少年が甲子園を目指すのと同じ流れだ。

 だが、何時しかその夢も胸とパソコンのハードディスクの奥にしまいこんでしまった。

 夢を諦め、この町で普通に会社員として生きることを選んだ俺には、夢を選んだ春日野の選択と未来はあまりに眩く、そして、妬ましく思えたのだ。

 間違いなく、若気の至りだった。

 春日野が町を出ても、遠距離恋愛という選択肢もあったはずだ。

 だが、当時の俺にはそんな余裕はなかった。

「勝手にしろ。じゃあな」

 蹴り倒さんばかりの勢いで椅子から立ち上がると、千円札を二枚テーブルの上に投げ捨て、俺は店を出て行った。後ろで春日野が何か叫んでいたが耳に入らなかった。いや、いれようとしなかった。

 後から何度も春日野からの電話やメールが携帯電話に届いていたが、俺は全部無視した。

 三日を過ぎると、春日野からの着信は途絶えがちになり、一週間後には全く無くなった。

 何故か、俺はほっとした。

 三年生は三月の卒業式まで長い休暇期間だったので、その後は春日野と顔を合わせることも無かった。

 卒業式当日は意識して春日野を避けた。春日野も俺に近づくことはなかった。


 そして、あれから十年が経った。


 十二月十六日、金曜日。

 会社の忘年会の三次会から帰宅し、酒と疲労でベッドに倒れ伏した俺のスマホが着信音を鳴らした。てっきり会社の同僚からの電話だと思い、番号も確認せずにスマホを取った。

 電話は、春日野からだった。

「来週土曜日に久しぶりにそっちに帰るの。どう?時間、ある?」

「……ああ。ある」

 自然と、了解の言葉が出てきた。

 

 一週間後の十二月二十四日、土曜日。

 俺はバスターミナルで春日野の帰省を待っている。

 時期が時期だけに飛行機は埋まっており、新幹線から在来線に乗り換えながら帰ると文字通り日が暮れる。

 結局、バスしか規制手段がなかったようだ。

 バスが到着するまで、まだ三十分以上ある。

 俺はスマホを取り出して検索ワードに文字を入力した。

 はるひのさくら。

 春日野の芸名だ。

 声優のデータを集めたサイトが最上段に現れたので中を開いて確認する。

 出演作は今年の四月以降更新されていなかった。最後に出演した役柄は“レジの店員”。

 その上を辿っていっても“女子高生”、“OL”、“園児の母親”、といった役しかない。

 続いて、別の検索ワードを入力する。

 秋芝かえで。

 先ほどのデータサイトを開くと、こちらはずらりと出演作が並んでいる。

 どれも主要キャラばかりだ。

 だが、出演作のタイトルにはどれも“成人指定”の表記がしてあった。

 秋芝かえで。

 それははるひのさくらの別名、つまり、春日野のもう一つの芸名だった。


 別れて三年後、遅まきながら失恋の心の傷を癒した俺は春日野の出演作品を探すようになった。高校時代の文芸部の友人から芸名を聞き出して検索をかけていったが、ようやく名前がヒットしたのは探し始めて一年後のことだった。その後も検索は続けたが、春日野の名前が見つかるたびに、安堵のような歯がゆいような、変な気持に襲われた。

 春日野の名前を何時ものように検索していたある日、とあるまとめサイトを俺は発見した。それは表舞台で活躍している声優が別名義でアダルト向けのアニメやゲームに出演している情報をまとめたサイトだった。

 まさかと思いながら俺は軽い気持ちではるひのさくらの名前を追ってみた。

 名前はすぐに見つかった。

 秋芝かえでという別名も、その時、知った。

 半信半疑のまま、秋芝かえでが出演しているアダルトゲームのサイトに行き、サンプルボイスを再生してみた。

 春日野の声と言われればそうだし、違うと言われれば違うような感じの声だった。

 甘ったるい声で嬌声を上げる春日野らしき声にいたたまれなくなり、俺はすぐにサイトを閉じた。その後、春日野の名前も秋芝の名前も検索することはなかった。

 

 そして、今日。

 久しぶりに春日野の形跡を確認した後、俺はスマホをポケットにしまった。

 ちょうどいいタイミングで目の端に高速バスがロータリーに入ってきたのが見えたので、椅子から立ち上がり待合室からバス乗り場の方に向かう。十二月の凍てつくような冷気が俺の身体の隅々に突き刺さった。

 停車したバスの窓の奥に春日野の姿が薄く映ったのを見て、さすがに少々鼓動が早くなる。

 俺に気づいた春日野は軽く手を振って応え、バックを小脇に抱えていそいそと降車してきた。

「お久しぶり。あんまり変わってないね」

 そういう春日野は俺の記憶の彼女と比べてずいぶん女性らしく成長していた。

 メイクもファッションも年齢相応になっていて、改めて十年という月日の長さを俺は感じた。

「腹減ってるだろ。何か食うか?クリスマスイブだし、俺が奢るよ」

「サンキュ。でもさあ。会うなりご飯の話だなんてひどくない?ちょっとは感動しなさいよ」

「したさ。ほんの十秒ぐらいだけな」

「相変わらず、かわいくないやつ」

 そう言ってケラケラと春日野は笑顔を見せた。

 ちょっとハスキーが入った春日野の笑い声。

 十年ぶりに聞いたその声に、思わず胸が熱くなる。

「口元がにやけてんぞ?メシの後にやらしいことでもしようかと思ってるんじゃないでしょうね?今日はクリスマスイブだし」

「なにバカなこと言ってやがる。何処でもいいから店を言えよ」

 一方の春日野はニヤケ顔を隠そうともせず、おどけた様子で肩をすくめた。

「はいはい。これ以上オオカミさんを怒らせてご飯にありつけなくなったらイヤだしね。そうだなあ。喫茶店とかいいかも。ほら、よく二人で行ってたスマトラ、あそこに行きましょうよ。バスの中で高校生ぐらいのカップルがいてね。とてもいい香りの紅茶を二人で美味しそうに飲んでいたの。私も飲みたくなっちゃった」

「スマトラ、店を閉めたぞ」

「え、そうなの?」

「マスターも結構な歳だったからな。二年前に腰痛をこじらせて、そのまま引退した」

 春日野が、先程すくめた肩をがっくりと落とす。

「そうだったのね。じゃあ、煉瓦亭にしようよ。あそこならまだ店長も現役でしょ?人気もあったし、まさかつぶれてないよね?」

「煉瓦亭はつぶれていない。だが、隣の市に移転した。人気が出すぎて手狭になったんだ」

「残念。え~と、それじゃあ……」

 それから春日野は何店かリクエストを出したが、どれも店を閉めたり移転したりでもうこの町には残っていなかった。流石に十年という月日は長すぎる。駅周辺の店をいくつか覗いてみたが、お昼時、しかも、クリスマスイブとあって全て満席だった。

「で、結局、この店になるわけね」

 苦笑いしながら、春日野が窓際の席に体を埋める。

 午後二時近くになってようやく俺たちが腰を下ろすことができたのは、十年前、二人で喧嘩別れしたあのファミレスだった。

 全国津々浦々、何処の町にもあって、何処の店でも同じ料理を出している何の変哲もないファミレスだ。

「こーいう所で奢られても有難味がないよなあ」

「そう言うなよ。奢るって言ったこっちの方が気恥ずかしい」

「冗談だよ、冗談」

 春日野は笑いながら呼び出しボタンを押し、本日の日替わりメニュー、生姜焼きプレートを注文した。

 俺も同じものを注文する。

「もっと高いやつにしてもよかったのに」

「気にしないで。奢ってもらえるだけでラッキーだから。それに、今となってはあの日替わりランチも懐かしいし」

 にんまり笑う春日野を席に残し、俺はドリンクサービスのコーナーで自分にはコーヒーを、春日野にはダージリンを用意した。席に戻って、二人でささやかな乾杯をする。

 俺も春日野も、香りと温かさで思わず気持ちが和らいだ。

「仕事、どう?」

「うん。まあまあ。春日野は?」

「こっちも、まあまあかな」

 春日野が窓の向こうへ遠く視線を投げかける。

「声の仕事、楽しいか?」

 思わず、声をかけていた。

「どうだろうね。楽しいと言えば楽しいけど、仕事は仕事だから」

 顔をガラスの向こうに向けたまま、春日野は視線を空へと移した。いつの間にか、空には薄く雲が広がり、冬の午後をほの暗くさせている。

 言葉が、詰まった。

 二人とも何も声を発しないまま、十分ほどが経過した時、店員さんが日替わりメニューを持ってきた。

「食べよ。いただきます」

 春日野の言葉に促されて、俺は生姜焼きに箸を伸ばした。

 空腹という最高のスパイスがあった所為もあって生姜焼きはなかなか美味しく感じられた。だが、何処がどう美味しいかと聞かれると返答に困る平凡な美味しさだった。

「わかっていたけど、やっぱり普通の味だね。私の家の近くにある店舗とほとんど同じ味」

「だから、もっと高いやつにしろって言っただろ」

「いいの。私には……平凡な私にはこれで十分」

 春日野の表情の陰が深くなった。

 空の雲の厚さが増したからだけではないはずだ。

「平凡……て。声優なんてそんな平凡な仕事じゃないだろ」

「仕事じゃないの。私そのものが平凡ってこと。特にかわいいわけでもないし、声で私だとわかる人も殆どいない。日替わりランチと同じ。食べたいからという理由ではなくて、単にその日がそのメニューだからという理由で選ばれてるだけ。そのキャラの声が私である理由はない。私がいなければ、他の誰かが声を当てるだけだから」

 寂しげな、だが、何処か達観したような笑顔を浮かべながら、春日野がうつむいた。

「ねえ。あなたはひょっとしたら知ってるかもしれないけど、今、私ね……」

「他の誰かじゃなくて、お前じゃなきゃダメだっていうやつもいるだろう?お前の声を楽しみにしてるやつもいるはずだ。お前のことが特別な人間もいるんだよ」

 敢えて、さえぎった。

 このままだと春日野が崩れてしまう。

 そんな気がしたからだ。

「それに、勘違いしてるぞ、春日野」

「え?」

「日替わりランチだって立派なメニューだ。それが好きで頼む人だっているんだ。日替わりランチ、確かに平凡だよ。俺だってそう思った。だがな、メニューや味は平凡でも、ランチという時間は特別なんだ。特別な相手と一緒に食べるランチは、それだけで特別な時間なんだよ」

「それって……」

 言ってしまった。勢いに乗って、言葉が流れ出てしまった。

 ここまで来たら、言うしかない。

「なあ、春日野。お前、今、フリーか?」

「イブの日に一人でぶらぶらしてる状況で察しなさいよ」

「ならよかった。俺も今の所、一人だ。なあ、よかったらもう一度付き合わないか?」

 春日野が固まった。

 昼時の喧騒は俺の耳から消え去り、春日野の次の言葉だけを待っている。

 一瞬の沈黙の後、春日野が小さくため息をついて微笑んだ。

「ありがと。……前向きに考えとく」

 ほっとしたような、肩透かしを食らったような微妙な気持だ。

 目に見えて脱力した俺を見て、春日野が微笑みを苦笑に変えた。

「あのさ。こっちは十年以上も待たされたのよ。あなたも少しくらい待ちなさい。……ほんとね。日替わりランチも捨てたものじゃないかも」

 春日野の瞳と声が少し潤んでいることに、俺は気が付いていた。


 それから一時間後、俺と春日野はバスターミナルの待合室に並んで座っていた。

 灰色の空はいっそう色と重さを増しており、既に小雪が舞い始めていた。

「どうしても今日帰るのか?」

「ええ。明日の午後、大きな作品のオーディションがあるの。また、近いうちに遊びに来るから」

「ああ。今度は俺の方からもそっちに行くよ。そうそう、これを渡しとく」

 俺はカバンの中から印刷されたA4の紙の束を春日野に手渡した。

「今度、俺のシナリオで同人ゲーム作るんだ。絵や音楽の担当も探してきている。後は声だけなんだが……ヒロインの声、やってくれないか?」

 春日野の顔が、ほころんだ。

「まだ、書いてたのね」

「平凡なラブストーリーだけどな」

「平凡……でも、きっと今日のランチみたいにきっと誰かにとって特別なお話になるよね。いいよ、私、受ける」

 春日野の返事と同時に、バスがターミナルに入ってきた。

「帰りのバスの中でシナリオを読み込むわね。それじゃ、また」

「ああ。またな」

 春日野を乗せたバスがゆっくりとターミナルを離れ、本降りとなった雪の彼方に消えていく。

 バスの姿が見えなくなった後も、俺は白銀の世界をぼんやり眺めていた。

 ふと、スマホの着信音が鳴った。

 春日野からだ。

 電話を取ると、春日野の声が流れてきた。

「時間も場所も、ずっと離れたままだった。あの時の最後の言葉は届いていなかったかもしれないけれど、気持ちは届いていたのね。……ありがとう。私もあなたのことが大好きよ」

 俺がさっき渡したシナリオの一節だ。

「このシーン、リストランテからファミレスに変えた方がいいかな?」

「それ、私も賛成」

 降り続ける雪の中に、俺と春日野の笑い声が舞い踊った。

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