~八重~ ふわり、散りぬべき。


 由衣と綾人が出逢って、もう十年の歳月が経つ。


 あれから綾人はフランスへと旅立ち、現今ではプロヴァンスの地で店を構えている。


 すべては時の流れとともに、花ひらき実をむすび、そして最後に変遷へんせんをみせた。


 これはひとそれぞれ捉え方は違うが、十年という烏兎うとは決して永くはない。したいことをやり、夢を追いかけ、ただがむしゃらに走っていると、あっという間に区切りへ立っている。


 けれども由衣にとっての十年とは、とても永いまるで時の牢獄とでも言うべきか。そんな気の遠くなる日々を過ごし、やっと待ちに待った四月三日が訪れた。




『お帰りなさい。綾人くん、また少し大人っぽくなったね』


「ただいま……由衣。今年もこの場所は、相変わらず綺麗だな。由衣と出逢ってから、もう十年も経ったってのに、ここだけは時が止まったままだ」


 綾人はそらを仰ぐと、一年ぶりに逢うふたりを祝福するかのように咲き競う、桜花を眺めてそう話す。


 その瞳は確かに、淡紅色した花を捉えている。けれども綾人は桜を通して、由衣のすがたを見ていた。


 連綿とつづく桜の許に立ちすくむ、もの悲しげな十七歳の少女。あの日、あの時、綾人が由衣に声をかけた本当の理由は、声をかけなければ彼女が消えてしまうと思ったからだ。



『ほんとうにね。この場所はあの時のまま、時が止まっているのよ。今の私には、それがよく分かる。初めて逢った日、綾人くん私に教えてくれたでしょう。この場所には幽霊がいるって。


けど綾人くんたら、その幽霊たちを「エロ幽霊」だなんて言うんだもの。怖いと思ったけど、そのひと言で恐怖よりも笑いの方が大きくなっちゃって。……懐かしいなあ』


「あの頃に戻りたいな。そしたらもう一度、俺たち初めからやり直せるのに」


『そうだね……ううん、それは無理だよ。一度失ったものは、決して元には戻らない』


 綾人は一度も由衣のおもてに目をやらず、ふわりふわりとほころび散る、桜花をただひたすら眺めていた。



 一年に一度だけ咲き誇る、桜の花みたいな私たち。出逢い笑って睦み合い、それから喧嘩して浮気もされた。


 でもね綾人くん、あの日私のあとを追いかけてくれたこと、今でも嬉しくてしかたがないんだよ。その後にすぐ、綾人くんは私から逃げるようにして、フランスへ行ってしまったけど。


 高校ぐらい卒業して旅立てばいいのに、半ばで辞めて日本からすがたを消した。



「ごめんな由衣、俺……おまえを残してフランスに行ったこと、今でもすげえ後悔してる。本当はもっとそばにて、由衣が淋しくねえように、俺が支えてやらなきゃいけなかったんだ。


けど俺さ、怖かったんだ。現実を受け入れるのが嫌で、何もかも捨てて逃げ出したんだよ。あんなことしなきゃよかった。


魔が差した……って言うと虫が良すぎるかも知んねえけど、俺は由衣が嫌で浮気なんかしたんじゃない。ただ苦しかったんだ。一番に理解して欲しいやつに受け入れてもらえなくて」


 そう話すと綾人くんは、今度はうつむき、まぶたをとじて痛みに耐える。


『もういいよ。十年もまえのことを、いつまでも引きづらないで。それよりも私は、綾人くんにまえを向いて歩いて欲しい。過去にとらわれないで、しがらみなんて今ここで捨てて欲しい』


 もう毎年のように、十年以上にもわたって、私は彼に同じ言葉を伝えている。確かに初めは苦しかったけど、それもすでに過去のこと。悲しみと一緒に、あの日に置いてきた。


「ほんと情けないよな。もう俺、今年で二十七になるんだぜ。けどちっとも変わってねえ。歳ばかり食って、中身はてんでガキのままなんだ」


 自嘲を含む科白を吐くと、ひとつため息を落として、綾人はまたそらを仰ぎ見た。


 毎年この日が近づくと、綾人は店をスタッフに任せ帰国する。


 以前住んでいた家は、父と子、互いに日本を留守にするとあって、すでに手放してしまった。


 だから綾人は日本へ帰ってくると、学生の時にバイトをしていたオーナーを頼り、ひと時の宿を提供してもらっている。


 そこで数日のあいだ店を手伝い、四月三日になると花見弁当をつくり、この地へ訪れるのだ。


「今年も由衣の好きなもの、沢山つくって詰めてきたぞ」


『わあ綺麗。毎年綾人くんは、料理の腕があがってゆくのね。ほんとうに、とっても綺麗。まるで春をつめ込んだみたいだね』


「はは。今年は俺と由衣が出逢って、十年目の記念日だからな。コンセプトはあの時と同じ、春だよ。由衣は初めて俺のつくった弁当を見て、春をつめ込んだって言ったろ。


今朝この弁当をつくって思ったんだ、きっと由衣ならあの日と同じことを言うって。俺のつくったものを、俺が思ったとおりに感じ取ってくれるのは、由衣以外にはいないんだ」


 嬉しそうに語る綾人の顔は、とても誇らしげに見える。彼は今でも心から、由衣のことが好きなのだとうかがえた。



 由衣が食べたいであろうものを取り皿に分けてやり、それから自分も箸を進めながらフランスでのことを話す。


「俺の店はプロヴァンスでも、指に数えられるほどになった。それもこれも、由衣おまえのおかげだ。あの日、俺の誕生日にケーキつくってくれただろ。


あとで気づいてさ、箱をあけてすげえ感動した。俺のために由衣がつくってくれたんだって、泣きながら俺ケーキ食ったよ」


 そう話す綾人は、その時のことを思い出しているのか、うっすらと双眸に光のつぶが浮かぶ。


『綾人くん……そうだったんだ』


「でさ、食ってて気づいたんだ。餡子あんこはねえだろ。普通さ、スポンジのあいだには、クリームと果物だろ。それがフォークですくってっとさ、どんどん黒い物体が出てくんだ。


マジでビビったぜ。あいつ何を入れたんだって怖くなってさ、掘り返してみたら餡子だろ? 笑うしかなかったもんな。けどそんな抜けたところも、すげえ好きなんだから相当やべえよな。


でもその餡子がヒントになって、俺の店はフランスで大うけでよ。フレンチに日本料理を取り入れただけで、斬新だってメディアに取り上げられてさ。最後まで由衣には世話になった」



 一年に一度、今日という日。


 綾人くんが話してくれる、近況報告に耳を傾けるのが、唯一私の楽しみとなった。


 私に流れる時間は、あの日綾人くんの許を走り去った時のまま、止まってしまった。それは決して動きだすことのない、永遠に失われた命という時間。


『ねえ綾人くん。毎年こうして私に逢いに来てくれて、とても嬉しいわ。でも、もう終わりにしましょう。きっと綾人くんだって、解ってるんでしょう? いくらこの場所に来たって、私が存在しないって。


この桜並木には幽霊が出る。それはほんとうのことだった。でも私は存在しない。あなたのまえに、すがたを現すことなんてできないの。だからもう私のことは忘れて、まえに進んで欲しいの』


 いくら私が話しかけても、決して綾人くんの耳には届かない。どれだけ私の好物を詰め、目のまえにひろげて見せても、私はそれを食べることはできない。


 それでも毎年、四月三日になると、綾人くんは花見弁当をつくり、私に逢いに来てくれる。


 初めはそれが当然だと思った。私が死んでしまったのは、綾人くんととなりで眠るあの女のせいだって、自分が死んだと気づいたあとも、恨まない日はなかった。



 それも毎年、毎月毎週毎日、一分一秒だって、私の時は進まない。


 それが分かってしまった時から、もう憎しみの心はなくなった。いくら悲しんでみても、失ったものは二度と元には戻らない。


 そうすると気づいたことも。それは綾人くんの心。私がこの世を去り、誰よりも苦しんだのは綾人くん、あなただった。


 目のまえで恋人が車に轢かれたんだもの、その光景は寝ても覚めても、決して消えてくれない悪夢なはず。それは死んだ私よりも、辛い現実だと思う。


 だからもう、そんな苦しみから、心を解き放ってあげて。自由に生きていって欲しい。


 だからね、私は今日ちょっとしたサプライズを用意したの。十年まえに渡せなかった、プレゼントを綾人くんにあげる。


 どうか気づいて欲しい。そしてどうか、思いのままに生きて。私の分まで――


「十年か……あっという間だな。由衣がいなくなって、俺に残されたものといったら、もうシェフになる夢だけだった。きっと立派んなって、由衣に誉めてもらいたかったんだ。


がむしゃらに生きてきて、自分の店が持てるまでになったぞ、俺を誉めてくれるか?」


『もちろんだよ。とても誇らしいと思ってる。でもそろそろ、ひとりで走るのはやめにして、少し立ち止まってもいい頃よ? これからはゆっくり歩いて、そばには一緒に歩いてくれるひとも必要』



 由衣にはふたつ下の妹がいる。彼女は色恋ごとには敏感で、日に日に変わってゆく姉をみて、綾人の存在を見抜いた。


 もちろん問い詰められた結果、吐かされたといった方が正しいが、それでも姉の初めてできた恋人を、妹は我がことのように喜んでくれた。


 由衣はそれまで、姉妹のあいだはもっと殺伐としたものだと思っていただけに、初めて聞く妹の本音にそれは驚いた。自分の殻にこもるあまり、彼女のことが見えていなかったのだ。


 それからもうひとつ、妹を見ていて気づいたことがある。綾人の存在を知られてからは、幾度となく彼のバイト先に顔を出し、いつしか妹の、綾人を見る目に気づいたのだ。


 けれども由衣はそれから目を逸らし、敢えて気づかないふりをしていた。


 今でも妹は、綾人のことを想っている。でも由衣に気をつかい、想いを心の奥深くにとじ込めている。それを今日は偶然をよそおい、由衣にとって最後の邂逅かいこうにしようと決めたのだ。


『もう直ぐここへ、妹が通りかかるわ。あの子は私とよく似てるから、きっと綾人くんの心を癒してくれる。そうしたらもう、私はこの場所から旅立つことができる』


 ふわりと散りぬべき桜花を眺める、綾人の耳もとでそっとささやく――『さようなら』と。



 時はめぐりし十年のみぎりを経て、ようやく由衣は自由を手に入れた。


「由衣……俺は今でも、おまえのことを愛してる。この想い、どうしたらいい?」


『大丈夫。きっと綾人くんは、もう一度あの頃のように、笑い合っていけるから』


 綾人の耳もとから顔を離すと、今度は正面へとまわり、由衣はそっと口唇を重ねる。最後の口づけは、冷たくて死の味がしたけれど、それでも由衣の心は満たされた。




 いっそう大きな風が吹くと、桜とともに重箱を包む風呂敷が舞い、遊歩道へと飛んでゆく。綾人は立ち上がると、風呂敷を求め由衣の許を去る。


 由衣はその後ろすがたを心に刻み、そして微笑むと、そらに舞う淡紅色した桜花へと消えた。




「ったく、どこまで飛んでくんだよ。もしかして、由衣がイタズラでもしてんのか?」


「あの、もしかしてあなた――」




 ふわり、ふわり。


 ほころび花ひらき、そして儚く散る。


 淡紅色の銀世界で、今年も桜の雪が舞う――――――



 さくら、舞う。ふわり / 了

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さくら、舞う。ふわり あおい 千隼 @thihaya

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