~ふた重~ ふわり、花ひらく。
桜花の香りに誘われて、由衣が訪ねた
それからの由衣はというと、とても快活な性格となった。ひとづきあいの下手な由衣は、しかしひとりふたりと友ができ、今を生きることに歓びさえ見出した。
今日は綾人の十八回目の誕生日だ。
それは去年の今日、奇しくも桜の地で
無論のこと、逢ったばかりの由衣が知るはずもなく、のちに教わり驚くことになる。
なぜ教えてくれなかったと訊ねると、返ってきた言葉は『恥ずかしいから』だった。殊に女子は誕生日を祝ってもらうのは嬉しいものだが、逆に男子はそれを口にするのは照れくさい。
ともあれ去年は知らずじまいで終わったが、今年こそ心を込めてただひと言『おめでとう』と、最愛の彼に贈りたいと願うのは、乙女として至極当然のこと。
ふたりがつき合うことになった記念日と、綾人の誕生日が同日とあって、由衣はまえ以ってサプライズ的なことをしようと考えていた。
けれども一度として、他人を祝うなどといった行為は、生まれてこのかた思えがない。
そういったイベント事に精通する、妹に教授を乞うという手もあるが、いかんせん家族に恋人ができたなどと報告していない。
それはなぜかというと、恥かしいという一文に他ならない。
悩みに悩んだすえ、由衣は最近できた友達に相談した。
彼女のだした提案はとてもシンプルで、『ケーキでも焼いてふたりで祝うのはどうか』というもの。
けれども一度とてケーキなど焼いたことのない由衣にとって、それは見上げるほどに高いハードルといえよう。それでもサプライズとしては、申し分のない提案でもあった。
それからというもの、由衣は友達の家で特訓に明け暮れた。無論のことそれは、完璧なケーキがつくれるようになるための、血のにじむような努力に他ならない。
月のお小遣いも材料費と消えてゆき、最後に残ったなけなしの資金で、綾人のためのケーキ材料、それからキッチン雑貨店で見つけた、フランス製のたて型ピーラーを購入する。
本場フランスのフレンチシェフは、すべてを包丁で賄わず、シーンにあわせて道具をつかい分けるらしい。そう雑貨店の店員に聞き、手ごろ価格も相まって、サブプレゼントとした。
特訓の成果もあって、今日のケーキは最高の仕上がり。これなら料理上手な綾人に見せても、恥かしくのないレベルだと思う。
ラッピングも可愛くできたし、私自身の支度もととのえた。今の時刻は午前六時二十分。まだ綾人はベッドで夢のなかに違いない。
今日は学校もバイトもお休みだから、綾人は昼まで寝ると言っていた。合鍵は預かってるし、こっそり伺って驚かせよう。
由衣はテーブルに置いたケーキを眺めながら、今まで言えなかった気持ちを伝えて、笑顔のまま彼を祝福してあげようと、そう心に誓うのであった。
昨夜のうちから、両親や妹には友達の誕生日だと偽り、従って早朝よりキッチンで作業をしても、怪しまれずに事を為し終えることができた。
ペーパーバッグに収めたケーキを取ると、由衣は一路綾人の許へ向かうのであった。
○ ● ○
高等部も三年になると、皆それぞれ進路を決め始める。
由衣はまだ自身の行く末が定まらず、それなら大学で決めればいいと、両親によって進む大学を決められてしまう。
そして綾人はというと、出逢った頃に教えてもらった、フレンチ・シェフの夢に向かって、今も猛勉強をしている。
シェフになるためには、料理の腕をみがくだけでは、まだ足りないらしい。それはセンスを、それから豊富な知識を、繊細な味を見極める舌に至るまで、努力を惜しむ訳にはいかないのだ。
日々を努力と惜しむことのない彼を応援し、いつしか由衣も綾人の店を手伝いたい、そう秘かに思い始めたある日のこと。
いつものように、由衣が綾人の部屋にお邪魔していると、彼から思わぬ話を聞かされた。
『俺さ、高校卒業したらフランスにいく』
初めなにを言っているのか理解できず、由衣は必死にフランスという単語を脳裡で
それがようやく呑み込めるまで、優に数十分もの時間を要した。
瞠目したまま固まる由衣と、ただひたすら神の許しを乞う信者のように、綾人は彼女が納得してくれるのを待ちつづけた。
そして由衣からでた言葉は、『フランスなんていかないで』というもの。
当然のこと、綾人も直ぐに納得してもらえるとは、初めから思ってなどいない。それでも話し合って、ふたりの未来のために最後は快諾してくれると、そう信じていた。
けれども由衣は決して首をたてにふりはしない。
今回のフランス修業は、バイト先のオーナーにより、知り合いの店を紹介してやれると、そう打診を受けたのだ。
それは綾人の腕を買ってのことで、シェフを志す者としてこの上ない名誉なこと。
それにフランスでの修業は、帰国後の就職に大いに有利だ。ゆく行くは自分の店を構え、そこへ由衣がいてくれたらと、そんな淡い夢も描いていた。
けれどもいくら説得しようと、由衣はかたくなに認めはしない。
フランスに行くのなら、早めに返事が欲しいと、オーナーには言われている。いつしかそれは、焦りから苛立ちに変わり、ついには爆発してしまう。
怒りに任せて、由衣と大喧嘩した。それ以降、互いに冷却期間を設けようと、一度も会ったり連絡を取ることもしていない。
どうしよう。綾人はもう怒ってはいないかな。
自宅から綾人の家までを歩く道のりで、私は色々なことを考えた。どうして笑顔でいいよと、いってらっしゃいと言えなかったのか。
初めて出逢った日に、彼から夢の話を聞いていたのに、それなのに私は綾人から夢を奪うような、彼女として最低なことを言ってしまった。
何度ベッドへうずくまり、泣き明かしたか知れない。散々まぶたを腫らし、妹にはブスだと貶され、まさに踏んだり蹴ったりな日々を過ごした。
けれどもその期間、綾人と逢う時間が空いた結果、ケーキを焼く腕だけは上達した。七転び八起き、転んでもただでは起きないスキルを身につけた、そう信じて
「よし……勇気を出せば何とかなる」
ひとり言いうほど追いつめられてるなんて、最高に緊張しまくってるじゃない。
バッグから鍵を取り出し施錠を解きながら、今にも飛び出そうな心臓をなだめるために、ひとり心のなかでつっ込みを入れる。
「……お邪魔しまーす」
綾人に聴こえないくらい小さな声で、私は入室の挨拶を口にすると、
リビングのテーブルにケーキを置くと、その足で今度は綾人の部屋に向かう。
彼の父親は、もう長らく海外で仕事をしていて、実質この家は綾人がひとりで住んでいる。勝手知ったる彼氏の家と、薄暗い室内を私は迷うことなく進む。
どうせならそっと忍び込み、ベッドにもぐって驚かせてやろう。その時の私は、びっくりする綾人の顔を想像して、とてもわくわくした気持ちだった。
けれども実際は、逆に私が驚かされる結果となる。
部屋に入り、綾人が眠るベッドのそばまできて、そして愕然とする。なぜかってそれは、彼が眠るそのとなりに、知らない女性が眠っていたから。
頭部へ見えないハンマーが下ろされたような、全身に駆けめぐるほどの酷い衝撃が走る。
その場から逃げ出したくて、けれども足がいうことを利かない。茫然と立ちすくんでいると、私の気配を感じたのか、ゆっくりと綾人のまぶたが持ち上がる。
「……由衣?」
「……」
なぜ何ごともないように、私の名を呼ぶのだろう。そう思ってすぐ、綾人は朝に弱いことに気づく。きっとこのひとは寝惚けていて、となりで寝ている女の存在など忘れてるんだ。
ショック過ぎる出来事が起こると、人間の思考はストップしてしまうんだって、私は今初めてそれを知った。
少しばかりの時を要し、ゆっくりと綾人の思考がクリアとなる。
「うそ、だろ……おい」
「ん……どうしたのお?……綾くん、誰としゃべって……」
綾人のつぶやきに、となりで寝ていた
「最低……」
そうひと言だけ吐き捨てると、踵を返して部屋をあとにしようとした。けれども一瞬はやく、綾人が由衣の腕を掴む。
「待ってくれ。ごめん、俺――」
「やだ、離してよ!」
その声で女の名を呼び、その手をつかい自分以外の者を抱いたのだ。由衣の背筋をおぞましいほどの悪寒が走り、触れられた先から嫌悪の
腕をふり綾人の手を払うと、部屋を飛び出し玄関へ急ぐ。一秒たりと、彼の空間になどいたくない。同じ空気を吸うだけで、吐き気すら催しそうになる。
靴を履くとドアをあけ放ち、家を後にしようとして気づく。三和土のかたわらに、見知らぬヒールがそろえられていることに。
来た当初は緊張していて、しかも部屋は薄暗くて、その存在に気がつかなかったのだ。これに気づいてさえいれば、あんな光景見なくて済んだのにと、ここにきて初めて涙が溢れてきた。
綾人の家を後にして、ひとり涙しながら来た道を戻る。
なんてみじめなんだろう。彼の誕生日に、ふたりの記念日に、関係が潰えることになるなんて。綾人に喜んでもらおうと、これまで慣れないケーキづくりに励んだのに、
ひと言謝って、それからいってらっしゃいと言うつもりだった。
けどそれも、もうどうでもいい。すべては終わってしまった。彼が終わらせたのか、それともフランスに行くことを快諾しなかった、私に非があり終わったのか。
それも今となっては、もうどうでもいいこと。はやく家に帰って、気が済むまで泣き明かしたい。
「由衣!」
歩道から十字路を横断しようとした直前、うしろから私の名を呼ぶ綾人の声が聴こえた。
ふり返ってみると、どうにか脱いだシャツを羽織っただけの、スウェットすがたの綾人が走ってくる。足許を見てみると、よほど慌てたのか素足のまま。
「来ないで!」
彼の顔を見るだけで、また酷い吐き気に襲われる。私は大声でそう叫ぶと、一気に十字路に飛び出した。
「由衣―――ッ!!」
後から考えてみると、なりふり構わずに追いかけて来てくれた、綾人をなぜ待っていられなかったのか、後悔しない日なんてない。
後悔は先に立たない……なんて皮肉な言葉なんだろう。
来る日も、来る日も。私はその言の葉に捕らえられている――――――
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