さくら、舞う。ふわり
あおい 千隼
~ひと重~ ふわり、ほころぶ。
今年も桜の季節がやってきた。
あの日から変わらない、とても艶やかで美しい景色。
いつまでも色あせる事のない、ふたりだけの想い出がつまった場所―――
毎年この時期が訪れると、由衣(ゆい)は心が浮き立ってしまう。
なぜなら彼と逢えるから。彼が由衣のために、心づくしの花見弁当を用意して、ふたりだけの秘密の場所へやってくるのだ。
由衣が彼と初めて出逢ったのは、今を盛りと咲き誇る桜の美しい、四月三日は黄昏の桜並木での出来事。
その日の授業を終えた由衣は、帰り支度をととのえ学園を後にした。その道すがら、ふと桜の香りが鼻につく。無論ほんとうに香った訳ではない、そんな気がしただけだ。
けれども好奇心旺盛な十七歳の由衣にとって、踵を返すには充分すぎる理由となる。
自宅とは逆の道を、心が示すまま歩いてゆく。当てがある訳ではないけれど、不思議なことに進む方向に迷いはなかった。
時間にして三十分は歩いただろうか、程なくすると緑ゆたかな公園が見えてきた。自宅とは同じ区域ではあるが、学区が違うため彼女がこの地へ訪れるのは初めて。
こんな場所に公園なんてあったんだ。
今日はとてもいい天気で、肌を撫でる春風が心地いい。こんな日に真っすぐ家に帰るなんて、そんな勿体ないことできるはずがない。
あまり遅くならなければいいよね。父も母もともに仕事人間で、家に帰ったところで居るのはハウスキーパーだけ。いつもひとりで食事をとり、誰とも会話することなく一日が終わる。
両親にとっての私は、品行方正で手のかからない、よくできた娘ってポジション。けどそれは狙ってふるまっているだけで、実際の私はそんないい子なんかじゃない。
勉強なんて嫌いだし、学校へ行くのだって
けど私の現実には、そんなもの夢のまた夢。だって私は長女だから、堅実に生きてゆかなければいけない。ひとつ年下の妹は世渡り上手で、親の目を盗んではうまく遊んでるみたい。
けどたまに、それが無性に嫌になる。押し潰されてしまいそうな重責に、何もかも投げ出して逃げてしまいたくなるの。
でも実際にそれができるかっていうと、答えはノー。そんな勇気なんてない。だからこうして、学校帰りに道草なんかして自分に言いきかせる、私は大丈夫って。
石畳で舗装された緑道を、当てもなく思い耽りながら歩く。
黄昏時の公園はやけに閑散としていて、今この時に生きているのは自分だけじゃないかと、やるせない気持ちを昇華させるように、由衣はひたすら理想の世界に思いを馳せた。
しばらく歩いていると、目のまえ一面を淡紅色の情景がすがたを現す。
「……すごい」
思わず口を衝いて出た言葉は単純ではあるが、けれどもこの上なく的を射たものだ。
艶やかに華やかに、まるで競い合うかのように咲き乱れる、それは見事な桜並木が由衣の意識を奪う。風に舞う薄紅の花弁が、季節外れのぼたん雪のように、淑やかに地を染めていた。
これは道草をして正解だったなと、由衣は佇み桜花の銀世界をしばし静観する。
燃ゆる陽も役目を終え、地へとすがたを隠す時分。未だ我を忘れ佇む由衣に、ひとりの少年が声をかける。
「あっと、その。俺べつに怪しいやつじゃないんで、先に断わっとくっすね。つかもう遅いんで、こんな場所で女の子がひとりでいたら、ヤバいっつか帰った方がいいっつか……」
どうやら夕刻を大幅に過ぎ、それでも帰る気配のない由衣を案じ、堪りかねて声をかけたようだ。
少年は由衣から一定の距離を取り、まだ「って、なに言ってんだ俺」などと、訥々とこぼすようなお人よしな性格らしい。頭に手をまわし、小首をかしげるすがたに、由衣は思わず噴き出した。
「おあっ、ひでえ。俺めちゃマジで心配してんのに、笑うとか地味に傷つくんすけど」
「ぷふっ……ふふ、ご、ごめんなさ……う、ふふ……っ」
絶妙な距離感を保ちながら、ぶつぶつと言い訳をする変なひと。私が彼に抱いた第一印象はまさにそれで、とどめに頭をかきながら首をかしげる絵面に、とんでもない変化球を食らってしまう。
いつ以来だろうか、こんなにも腹の底から笑ったのは。懐旧できるほどの想い出もないので何とも言えないけど、久しく笑うなんてことを忘れていたのは確か。
「落ち着いた?」
彼が持参したレジャーシートに座り、その後も少しのあいだ、笑いのツボから抜け出せずにいた。やっとのことで這い上がった私に、彼が半ば呆れたように声をかけてくる。
「うん。ごめんね、いきなり笑ったりなんてして。心配してくれたのに、私それが可笑しくって」
「つかもう笑うのなしっすよ? 俺マジでへこむから」
そう話す彼の表情がまた何とも言えず、鳴りをひそめた笑いの発作が再燃しかける。それをうつむき息を止め必死で堪えると、小さく「うん」と返事をした。
「それで、さっきは何をしてたんすか?」
うつむき顔を隠しているせいか、笑いを堪えていることはバレなかったみたい。彼はなぜ私があの場に立っていたのか、その訳が知りたくて仕方がないらしい。
『説明できるほど大そうな理由はない』――そう由衣は思ったものの、となりで期待に目を輝かす少年を見ては、何かしら解き明かさねば申し訳ないと言葉を探す。
「うーんと、どう言ったらいいかな。ただ桜が綺麗だったから、かな。それか涙が出そうだったから、かも知れない」
「なんだソレ。よく分かんねえけど、要するに桜に感動したってことすか? だったらその気持ち、よく分かるかな。けどさ、ともあれ夕方以降この公園てヤバいから、ひとりでいちゃダメっすよ」
「それどういう意味?」
意味深長なる少年の忠告に、由衣は訝しみそう訊き返した。
彼の話によると、公園自体は夕方以降もひとのすがたを見かけるが、桜の美しいこの場所は公園から少し離れていて、陽が沈むと近隣のひとは立ち入らないという。
その理由はふたつある。まずは暗くなると、限られた者たちのたまり場となるそうだ。
それを指し示す者とは、桜花も恥じらう恋人のこと。まるで桜でできた森のような場所は、恋人たちが愛を育む聖地と化しているらしい。
教育上それは好ましくないと、近隣の住民がクリーン運動に乗り出したそうだが、桜並木を含む公園を管理する市の対応は、今のところ芳しくないという。
そして残るもうひとつの理由、それは―――
「幽霊!?」
「ちょ、声でけえって。どっかに潜んでるバカップルが、今ごろビビりまくってんぞ」
「ご、ごめん。でも幽霊だなんて、そんなこと聞いたらふつう出るでしょ、大声」
「いや、出ねえっすよ」
彼の話を聞いて、よくよく辺りを見渡してみると、なるほど愛を育むには最適な環境かもって、変に納得してしまった。
それに今のご時世、市も恋人も財政難で、削ったしわ寄せがここへ集まるのかも。けどそれは生きた人間の話であって、もうひとつの理由には当てはまらない。
超常現象に対し批判的って訳ではないけど、それでも今いる場所が幽霊のたまり場だなんて聞かされて、はいそうですかと納得できるはずもない。
未だすっきりしない私は、彼にもう少しつっ込んだ質問をする。
「その幽霊って、この場所で誰か死んだひと? 近くに霊園とかないよね。でもそんな噂、私聞いたことないよ。だって私、学区は違うけど同じ地区に住んでるし――……って、そういや名前」
出逢いからインパクトがあり過ぎて、まだ自己紹介をしてないことに気づく。
私が笑ってるあいだ、彼はトートバッグからレジャーシートを取り出し、それをひくと私を座らせてくれた。初対面なのに甲斐甲斐しい彼に、知らず積年の友的な態度を取っていた。
なんて無神経な子だって、内心呆れられてるかも知れない。急ぎ居住いを正すと、今更ながらに私は自己紹介を始める。
「ごめんなさい、ひとりで喋ってて。すっかり忘れてたけど、私は
「
互いに自己紹介を終えたふたりは、これから距離がぐんと縮まることになる。けれども今は綾人の放った地雷により、由衣はひと言「ひどい」とつぶやき、へそを曲げ帰ると立ち上がる。
「待てって。だから女ひとりだと、危ねえつってんじゃん。悪かったって、機嫌直せよ。俺が後で送ってってやるからさ、もう少し座んねえ? つかこの角度、パンツ丸見えだぞ」
「きゃあッ!」
日が暮れ、電灯が桜花を
「痛ってえ。つかナチュラルに殴んなよ、暴力女。別に減るモンじゃねえだろ」
「減るわよ、なんか色々と!」
大きなプリーツの入った、丈の短いブランド制服のスカートを手で押えると、綾人に
「それで話のつづきは? 座ったんだから、はやく教えなさいよ」
「へいへい。つか初対面でさ、あり得ねーぐれえ命令してくんのな。どんだけ気の強え女なんだ? まあいいけどよ。そんじゃさ、飯食いながら話してやるよ」
「飯って……今からどこかに行くの?」
「違げえって。弁当があんの、花見弁当が」
花見弁当っていったい……。
綾人の顔を見てみると、やたら自慢げな容貌をしていて、今から何が始まるのか不安で仕方がない。
かたわらのトートバッグから、彼は小ぶりの風呂敷包みを取りだす。それを解くと、なかから可愛い、三段重ねの重箱がすがたを現した。
「もしかして、それって……」
「そ。味は完璧、ガチ保証する。今日はボッチ花見の予定だったけどよ、まさか女の子と飯食えるとは思わなかったぜ。まあ暴力女だけどな」
たらたらと喋りながらも、綾人はレジャーシートのうえに重箱をひろげてゆく。それから水筒を取りだすと、カップへそれを注ぎ私に差し出す。
いちいち失礼なもの言いだけど、一応私は飛び入り参加ということになる。癪ではあるけど、お礼を言わない訳にもいかない。
「ありがとう。その、お邪魔します……」
「おう」
綾人はカップを掲げてにかりと笑う。
それから「乾杯」と音頭を取ると、人懐っこそうに目を細めた。くすぐったい綾人の笑顔に、急速に鼓動が高鳴る。それを知られたくなくて、視線を落としカップに口をつけた。
ほのかに甘い桜の香り。カップに注がれたものは、春らしい桜の紅茶だった。
「――でな、この桜並木に集まる幽霊ってのは、ひと言でいうと『エロ幽霊』だ」
清々しく言い切る綾人の表情は、若干悪ぶれたような笑みが浮かんでおり、それが由衣の心情を大いに揺さぶる。
「もう……それって冗談でしょ? 私を怖がらせて揶揄(からか)ってるんだ、きっと」
しかもただの幽霊ではなく、手前にエロとつくのだ。胡散臭くて仕方がない。
「違げえって。マジな話、ここいらは幽霊が集まるって噂だ。現に何人も目撃者はいるし、俺の友達も学校の帰りにこの道を通って、木のそばに立つ幽霊を見たってビビリまくってたぞ」
「やだ。それが本当なら、名倉くんはどうして、こんな怖い場所で花見なんか……」
『しかもぼっち花見なんて』――そうつづけようとして、それではまるで友達がいないと言ってるようなもの。由衣は慌てて呑み込み、口をつぐむ。
「俺さ、この先にあるフレンチレストランでバイトしてんだ。そんでオーナーの時間があるときに、簡単な料理を教わってんだ。
俺ン家な、お袋が早くに亡くなって、親父とふたりで暮らしてんだけど、親父のやつ料理だけはからっきしなんだ。でさ、ガキん頃から俺が料理担当してて、気がつきゃシェフんなるのが夢になってた」
そう夢を語る綾人の瞳は輝いていて、思わず私は見惚れ、吸い込まれてしまいそうになった。
彼の父親は商社勤めで、家を空けることもしょっちゅうらしい。だから料理の腕は上がることはなく、反対に綾人の腕はぐんぐん上達する。
将来の夢を語ると、父親はそれを応援し、レストランでのバイトも快諾してくれたんだって。
「じゃあこの重箱に詰められてる料理って」
「そう、俺がつくったやつ。余った材料つかって教わってるから、料理に統一性はないけどな」
そう楽しげに話す綾人は、だけどもすごく嬉しそう。きっと教えてくれるオーナーさんのことを、とても尊敬していて同時にすごく好きなんだって、彼の表情から見て取れた。
「ううん。とっても綺麗だよ。まるで箱のなかに、春をとじ込めたみたい」
「マジで? おっしゃ! 今日の弁当ってさ、由衣が言ったように春がコンセプトなんだ。それ分かってくれてめちゃ嬉しい」
由衣って、さらりと私の名を呼ばれ、心臓が飛び跳ねる。たんに人懐こいだけなのか、いまいちよく分からない綾人に、この時はただ
けどふたたび口をひらいた綾人によって、生まれて初めて私の人生に色がついた。
「ここに集まる幽霊はさ、いちゃつくカップルのエロオーラに惹かれて、集まってくるんだ。だからエロ幽霊ってわけ、納得した? つー訳でよ、もう一体エロ幽霊ひき寄せようぜ」
『俺らつき合おう』――まるで空気のように、違和感のない綾人の告白に、気づくと私は首をたてにふっていた。
綾人のつくった料理のひとつを箸に取ると、ふわり桜の花びらが舞いおり薄紅色に染めた。
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