少女の幸福なる昨日と明日

蓑火子

少女の幸福なる昨日と明日

 冬、叔父が訪ねてきた。


「やあ、お菊。相変わらず元気そうだね。日に日に凛々しいお母上にも似てきたようだ。もう十四歳になるのだったから当然かな。それで、氏男との生活はどうだい。困ったことは無いかね」


 相変わらずの陽気な気遣いに対し、菊は伏し目がちにお辞儀をし、日々の平穏を叔父に感謝した。


「あれも堅苦しいやつだからな。どうせ城にはあまり戻らないのだろう。私の弟とは思えないくらいだよ、真面目すぎて」


 侍女がやってきた。


「これは氏続様。お勤めご苦労なことで御座います。千代松君もご一緒ですか」

「あれは兄上が相手をしてくれている。私は、久々の城内をぶらっとしているだけだよ。もう御座も終わったのだが、なにやらまだ客をもてなす趣向があるらしくてね」


 別の侍女がやってきた。


「まあ、まだお楽しみがあるのですか。いったいどのようなものなのでしょう」

「私も知らされてはおらん。とはいえ、耳聡いそなたらの事だし、本当は知っているのだろう。なあ、こっそり教えてくれよ、私にだけ」


 おどけ耳を寄せる氏続へ、侍女たちは微笑みを返しながらも知らされていない、と話した。


 明るく饒舌な氏続は城の女たちに好かれていたから、彼が現れると女たちは必ず足を留めた。それだけで、静かな城中の一画が華やかになる。彼は登城の際、いつも子の千代松も連れてくる。この愛らしい男の子もまた、女たちに可愛がられていた。


 菊も、身分高くとも、間に壁をまるで感じさせないこの叔父の来訪を、周囲を明るくさせるものとして好ましく感じている。


―今日は佳い形になりそう。


 氏続の言う趣向について、菊は既に氏男から話を聞いていた。どうやら夫は言葉に偽りなく、菊にだけ詳細を話していたようであった。



「明日、鯨魚が城に届く」


―いさな、とは確かくじらの古い呼び方だった。


 輿入れ後まだ間もないせいか、それとも生来の気質のせいか、氏男は未だ姿勢を正し凛として、菊に向かい座る。


「周防の国主様が我ら宗像家のため、名うての鯨魚取りにご指示を下されたのだ。そなたも判るだろうが、これは大変名誉な事なのだ」


 背美良くとも、いつになく興奮気味に話す氏男は、かねてより周防山口のため粉骨西に東に働いている。その労苦が実った、と言いたいのだろう。


「鯨魚は今が旬と云う。明日の御座の後に、余興として客に振る舞うつもりだ。大宮司としてこれほど面目を施せる事は、そうはあるまい。お菊、この話、奥の者ではあなたしか知らない事だ。新鮮な鯨魚の到着を国主様が約束してくれたとはいえ、何があるかわからん。到着が遅れたり、鯨魚取りの具合が悪かったりとね。余興では、あなたの父上だけでなく、母上や侍女の者どもにも振る舞う予定だが、これは余興だから、内緒にしておいたほうが愉快でもある。よって、秘して漏らさぬように。よろしいかな」


 笑顔で承知した菊は、常々朴訥としている夫の別の一面を見たような気がしてすでに愉快であった。と同時に、夫の気遣いをありがたくも思う。


「ところで、これまでに鯨魚を口にした機会はあったかな」


 玄界灘、響灘に近い宗像の名門に生まれ、この地を離れたことのない菊だが、鯨のように位の高い魚を見たことは無かった。氏男はにっこりと笑って曰く、


「では、明日を楽しみにすることだ。最高の美味を堪能できる」




「方々、大広間にお集まりです」

「御家来衆の御歴々が欠くことなくお集まりになっている、と御隠居様が随分感心されていらっしゃいましたよ」

「守護代殿の代理の方もいらしているとか。なにやら御座より活況の呈ではありませんか」

「氏続様がおっしゃられた余興とはなんでございましょうね。御台様は御存じなのでしょうか」


 侍女たちは最も気が置けると同時に多少信頼できない存在でもある。菊は夫との約束を尊重し、知らぬ振りを続け、広間に呼ばれるのを静かに待つことにした。


 母がやってきた。


「お菊、大内家の位高き方もご列席されるという事です。失礼のないようにな」


 はい、と答えた菊に、母はやや落ち着きなく、


「ところで、氏男殿が用意されている余興があるらしいが、そなたは何か知りませんか」


 と尋ねた。ふと菊は、母の表情にほのかな明るさが浮かんでいることに気が付いた。きっと、母は叔父の氏続から余興について質問されたに違いないと思った菊は、仔細は知らないが周防の国主様からお褒めの御言葉があったのかもしれないと、夫との約束を守りつつ嘘のない言い方で交わした。


 周防の国主から、と聞いた母の顔がやや陰った。菊は、叔父の氏続が周防山口の大内家よりも豊後府内の大友家に親しい、という侍女の話を思い出した。


「御母堂様、御一門の方々はもうみなお揃いですか。そろそろお呼び声あるでしょうか。誠に誠に楽しみです」


 生じたほんの小さな沈黙を、侍女が明るい声で払った。



 広間へ向かう最中、菊は自分がまだ幼いことを知っており、その心づもりでの振る舞いを続けていたが、先の母の表情からもそればかりではならないのだろう、とぼんやりと考えた。未熟だが既に自分は夫のある身で、その意味では、母と変わりはないのだから。菊の母は物静かで険の少ない奥の鑑、完璧な主婦であり、その評判を聞くと娘として自慢である。その母は叔父の前でも非の打ちどころなく振る舞い、氏続もそれに相応しい礼節を返す人物だが、ふとした時、それこそ在るか無いかの刹那、二人の視線が交叉し外れる事がある。政治的には不遇な氏続に対して、母は同情と好意をともに抱いているのだろう。


 豊かな筑前国は宗像大社の大宮司ともなれば、周防の大内家と良好な関係を構築する事が必須である。神職にあるとは言え、今の時代の大宮司はそのために大内家の戦争に付き従う必要があった。氏続とてそれを怠ったわけではないが、どういうわけか良好な関係を維持する事に失敗し、大宮司を辞した経緯がある。この事は宗像家中で知らぬ者はいない。


 母にとって氏続はただの義弟ではなく、夫が戦争で不在の間、わざわざ登城して気を遣い続けてくれた信頼のおける従弟でもある。それゆえ、今となっても力になってあげたいと思うのだろう。


 また、正氏、氏続、氏男の宗像三兄弟。長男正氏の子である菊には共に育った男兄弟がいないから、もしも菊が氏男との間に男子を為さねば、家督は氏続の嫡子千代松に移るだろう。母も氏続も、場合によってはきっとそれを望むのだろう。


 広間に入ると既にいた叔父が座を正し、挨拶をしてきた。


「御台様、ご機嫌うるわしゅうございます」


 それは主従の道から申し分のないものであり、菊はおもわず背筋が伸びるのを感じた。緊張のあまり、相変わらず可愛らしい千代松に話しかけるのも忘れてしまった。



 菊に幼少より仕える者の中で特にのんびりした侍女が、輿入れ前の菊に言った言葉がある。


「一族内で婚姻を繰り返している宗像家は、家督の継承に執着をしているという事です。執着とはすなわち執念でしょう。ですから姫様も十分に、お気を付けください」


 戦の多いこの時代は武士の時代、男達の時代でもある。か弱い女の身では気を付けようがないのでは、と言い返してやりたくもなったが、所詮口さがない侍女の中で最もしたたかな女の言う事、と聞き流していた。しかし、そう言ってもいられないのかもしれないのだ。


 恐らく、氏男が用意した余興も、そういった家中の機微を安定へ向けるものなのだろう。それを思えば、家のためにも自分のためにも、菊は一層、夫に力を尽くす気になる。一番気の利く侍女が言った事も思い出した。


「家中の問題なんて、大小高低問わず、きっとどの家にもあるはずですよ」


 宗像三兄弟の中で、氏男は最も誠実で清潔の士であり、女房として尽くし甲斐もあるはずだ、と菊は確信してもいた。秘密も明かして特別扱いしてくれている。さらに美食が付くのだ、文句のつけようがない夫だった。




 菊は、未だ少女でしかない年齢だがそれでも並み居る武士を見渡して、男の顔は地位や仕事で決まる、と思った。


 この広間に、人目を惹く特に高い地位にある人物が四人いる。


 その中で、最も高位にある者は、一同に大内家の信頼と宗像の繁栄がいかに不即不離か熱意を持って説く夫、氏男。


 次いで、その話を一々もっともその通り、と頷いている前大宮司の父正氏。


 そして一度大宮司の地位にありながらもその座を譲らざるを得なかった叔父氏続、こちらは聞いているのか聞いていないのか判然としない表情で、柔らかい笑みをこぼし続けている。


 最後に、守護代の代理として花尾城から来ている人物、ぴくりとも笑わず周囲を睥睨している。


 氏男は宗像家を担うその責任を、万全に果たしているようだった。家臣たちも、そんな主君の言をいかにも誇らしげに頷いている。叔父の指摘の通り、あまり菊の元へ帰らない夫ではあったが、家臣たちから尊敬を浴びる夫が、やはり正妻としても同じ一族の者としても誇らしく、将来への幸福の約束を信じさせるものがあった。


―やはり私の夫は凛々しさでは頭一つ抜きんでている。


 すでに楽隠居している父正氏も、自分の政策を継承し見事責務を果たしている後継者を見て、満足しているようだ。年齢に比べて年老いて見える父の表情から、幸福で穏やかな老後が母と共に待っているのだろう、と菊は思う。この父の傍らにいる母も、同じような笑みを浮かべている。


 だが、母の視線の行く先を、菊は見ない。だからその先に叔父がいるのかはわからない。氏続を見ると、今、氏男が座る場所から一度降りたこの叔父は、氏男の家臣らより上座に居るとはいえこのような席で小さく微笑み続けているだけだ。恐らく、周囲からの好奇に満ちた視線をひしと感じながら。


 彼の心中を思うと、それは菊の考える幸福と相いれるものではない気もした。きっと氏続の妻は、心穏やかならぬ日々を送っているのだろうとも。


 氏男の合図で、場に大きな包みが運ばれてきた。見れば芦色の布地には金色の紐が掛けてある。


「これにあるは響灘の鯨魚である。無論、玄界灘にも鯨魚取りは多いが、これは名声日本に満ちる大内家に、代々仕える者が取った見事な鯨魚だ。この度、国主様の格別なるお計らいで、頂いたものである」


 座は歓声に満ちた。一同驚きの中、氏男は菊をみて微笑んだ。続けて曰く、


「全く新鮮なこの鯨魚、本日これより皆に振る舞う。この場で鯨魚取りの名手により刺身にされる。存分に楽しめ」


 これには菊も驚いたが、列席者は誰もが興味津々であった。静かに現れた老人が包みを解くと、恐らくはその部位なのだろう、大きな赤い塊が現れた。生まれたときより鯨魚を追いかけているというその老人は、包丁を手に音も無く捌き始める。


 薄く捌かれた鯨魚が皿に並ぶたびに、無数の溜息がこぼれる。


「鯛や鯉の刺身なら知っているが、塩抜きもしない、鯨魚の刺身とは」

「なんと見事な包丁術。良い国主には優れた民が集まるとは良く言ったものです」

「しかし、さすがは大都会山口からの御趣向です。博多でもこう豪著にはいきますまい」


 一同の前に皿が運ばれた。色彩豊かな赤身にはすでに酢醤油のようなものがかけられ、生姜が添えられている。


「一味同心、これよりは無礼講であるが、国主様の御厚意をしかとその胸に刻み置くように」


 皆が恐る恐る箸を繰り、鯨魚を口へ運んでいく。菊も期待を胸に、箸を取った。その味は徹頭徹尾、甘美だった。歯ごたえ、口どけ、喉を通る様もまるで未知の感覚で、それはひたすら洗練されていた。美食によって、誰もが国主に感謝し、またこのように立派な計らいをする国主が住まう山口の町に、誰もが思いを馳せた。


 隠居の正氏は頬を紅潮させ、鯨魚の味を讃え続けている。この時ばかりは氏男への気遣いではなく、素直な心の発露であるように、菊には見えた。


 調理人の老人は、広間を満たす嬌声に一抹の侮りを示しているようだが、守護代の代理は相変わらず傲慢さを隠そうともしないようだった。海辺の人々は時にこのような物を口にして舌を肥えさせていると思うと実に羨ましいものだと誰もが口々に述べる中、海辺にいるだけでなく技術が無ければ不可能だと言わんばかりである。だがそんな態度もごもっとも、と素直に言えるほど、新鮮な鯨魚は味わい深いものだった。


 場を感動が包み込む中、菊はふと叔父を見た。隣の小さな千代松は美味しそうにしているが、氏続は相変わらず微笑みをこぼすだけであった。


―叔父は既にこの美味を知っていたのか。


 が、喜びを隠さない一同を見る氏続の視線には、守護代々のそれに近い感情があった。


 菊は、叔父は夫を歓迎していない、とこの時に確信した。これまでは菊だって、氏続を憧れの気持ちで見ていた。この叔父は気遣い豊富な、優しい年上の男であった。


―しかし。


 これからはそれだけの気持ちでは、夫に良く仕えることにはならない。母が叔父に持ちつづけている憧憬は、捨て去らねばならないのだろう。菊は、おぼろげにそう思いながら、いつの間にか皿を平らげてしまっていた。



 御座も無事に終わり、余興も上手くいった氏男はすっかり上機嫌で、夜も更けて菊と二人だけになると、今日あったという出来事を興奮冷めやらぬ様子で話し続けた。


 次いで余興について意見を求められた菊は、守護代々という武士の態度についても、叔父についてのことも、それを指摘する行為がそぐわない程に鯨魚は美味であったし、自分が気づいている程度の現れを、この夫が知らぬはずがないとも思ったため、大内家御愛顧のありがたみと氏男の働きを讃えて感想を結んだ。氏男はそれで、満足気であったし、夫のその表情を見て、菊もまた、心配を全て忘れる事が出来た。


 以後、戦国の動乱の渦中で。宗像家もついにもがき苦しむ時が来るまで、菊はこのことを全く思い出さなかった。



 余興とは言えこの振る舞いこそが、筑前国最高の名門の総帥として、同時に西国に並ぶ者なき富強を誇る大内家の家臣として、そして国主の寵臣として多忙を極める夫の日々の労苦が実った証であることを、菊は完璧に理解していた。また他家からの評価も高い夫を、特に誇らしく感じ、我が事の如く誇れるこの喜びは格別なものでもあり、これは輿入れ前には感じたことのない高揚だった。


 優しい父母、働き者で世評も高く優しい夫、暖かな親族に、時に笑い時にかしずく侍女たちに囲まれ菊は幸せだった。その内、子が産まれれば、みな大いに喜んでくれることだろう。


「春になれば、遅くとも初夏には、改めて周防山口へ赴く。礼状とはまた別に、鯨魚の礼をするのだが、その時はあなたを伴にするだろう。大都会山口を見れるぞ。楽しみにしていることだ」


 今日の幸福は昨日と同じく、そして明日もまた。永遠に続くだろう安寧に包まれる我が身に思いをはせ、菊は心から幸福だった。


(了)

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